竹中半兵衛

戦国時代の天才軍師として名高い竹中半兵衛。本名、重治。

36歳という短い人生を駆け抜けた彼は、並々ならぬ智謀、そして女性のように麗しい容姿にそぐわぬ武力の腕前と豪胆さで激動の時代を生きました。

彼の才能は、天下統一の野望に燃えた、烈火のごとき武将・織田信長をも心酔させたほど。頭脳明晰、常に冷静沈着でありながらも情に厚い、そんな魅力に溢れた人物・竹中半兵衛についてご紹介します。

プロフィール

竹中半兵衛
読み方 たけなか はんべえ
本名 竹中重治(たけなか しげはる)
別名・
あだ名
両兵衛(りょうべえ)
今孔明(いまこうめい)
生年月日 1544年(天文13年)9月11日
身長 (不明) 血液型 (不明)

家紋

九枚笹

竹中家の定紋は、「九枚笹(くまいざさ)」です。

比較的ポピュラーな家紋ですが、美濃地方では高貴な印であり、力強く上へ上へと成長する竹や笹は、その地方出身の武士たちに好んで使われ家紋でした。

もちろん、美濃斎藤氏に仕えていた竹中家も美濃国(岐阜県南部)にルーツを発する家柄です。

石餅

また、餅をモチーフにした「黒紋(石持)」も竹中半兵衛の家紋として用いられました。

餅はめでたいものとして、さらには、「餅紋」の一種である「黒餅」が「コクモチ(石持)」とも読めるため、出世して武士の所領である石高が増えることを願う縁起かつぎとして、家紋として使用されていました。

竹中半兵衛がこの家紋を用いるようになったのは、出世のための縁起かつぎの意味もありましたが、戦で餅に命を救われたことがあったからです。

二十三夜の月を待つ行事に使った鏡餅を懐に入れて出陣した竹中半兵衛は、敵の矢を胸に受けますが、その矢は見事に懐の中の鏡餅に当たって事なきを得ました。

その後半兵衛は、定紋に加えて「餅紋」の家紋を好んで使うようになったそうです。戦中になぜ餅を懐に入れていたのかとても気になりますが、案外「戦に勝ったら後でゆっくり焼いて食べよう」などと思っていたのかもしれません。

半兵衛の強運を印象付けると共に、彼のマイペースで食いしん坊な一面を垣間見ることができるエピソードなのではないでしょうか。

実はこの「餅紋」の家紋は「両兵衛」として共に秀吉に仕えた、黒田官兵衛の率いる黒田氏に譲られることになります。

信長に人質として捉えられていた黒田官兵衛の長男・松寿丸(後の黒田長政)が11歳のとき、具足始の儀が長浜城で執り行われました。その際に、竹中半兵衛が「乱星」の付いた羽織りを贈ったとされています。しかし、松寿丸は「乱星」を「餅紋」として家の家紋にしたと言われています。

松寿丸は、後にとある事件で竹中半兵衛に命を救われることになります。その後、黒田氏は竹中半兵衛に恩義を示すために、「餅紋」を用いました。

天下分け目の関ケ原の合戦では、幼馴じみでもあり命の恩人の子でもある半兵衛の息子・竹中重門と、半兵衛の「餅紋」のもと共に戦いました。

竹中半兵衛の愛刀は、「虎御前の太刀(とらごぜのたち)」です。浅井氏が滅亡するきっかけになった小谷城の戦いの際、小谷城に間近い虎御前山で手柄を立てた竹中半兵衛は、秀吉からこの刀を拝領します。

虎御前山は小さな山ですが、ここを攻め落としたことにより、信長側の本陣を敷くことができました。

細身でスラリとしたこちらの刀は、争いを好まない半兵衛の本質を表しているかのようです。もちろん、素晴らしい刀工によって鍛えられた刀ですから、切れ味や使い勝手は良かったはずです。

しかし実際には、愛刀「虎御前の太刀」を後生大切にしたものの、実戦で使用したことはあまりなかったようです。半兵衛の亡き後は、山内一豊に譲られています。

「虎御前の太刀」を作った刀工は、「太閤記」に元重と記されていますが、実際には関兼常(せきかねつね)の作とみられています。

寛政~文明にかけて存在した兼常は、美濃一の刀工として知られており、その刀の切れ味は抜群でした。現在では、京都の井伊美術館に収められています。

戦国武将の正装とも呼ぶべき鎧姿、特に肝心要の頭部を守る「兜」にこだわりを持つ武将も多かったようです。

竹中半兵衛の兜として有名なのは、「一の谷の兜」と「鱗鎧の兜」(正式名称は、「魚鱗礼二枚胴具足(ぎょりんざねにまいどうぐそく)の兜)でしょう。

一の谷の兜」は、黒田長政が関ケ原の戦いでかぶっていた、非常に独特でかなり目立つ兜です。実はこの兜、竹中半兵衛の遺品として福島正則が譲り受けたものを、兜の交換によって黒田長政が手に入れたという経緯があります。

首の筋肉を鍛えるため、わざと風の抵抗をモロに受けやすい兜にしたのかと思いましたが、源義経の一の谷での活躍をヒントに、戦勝祈願の兜として半兵衛自らが考案したものです。

戦術に長け、繊細で美青年のイメージのある義経に自らの姿を重ねていたかもしれない半兵衛は、軍師にありがちな現実主義者かと思いましたが、意外にもロマンチストで夢見がちな人物だったのかもしれません。

魚鱗の兜」は、「九枚笹」の家紋が大袖に施されており、冠のモチーフを頭部にかたどられています。

しかし、正面からよく見ると、池からピョーンと飛び上がってきた魚がガブリと頭部に噛みついたかのような、なかなかユーモラスな形をしており、竹中半兵衛の「食えない男」という側面があらわになっているのではないでしょうか。

死因と病気

三木城攻め、平井山秀吉本陣跡

戦国武将の中でも「智将」として高く評価された竹中半兵衛の最期は、結核と思われる肺病による病死でした。

死因が戦死ではなく病気だったことは、当時の食料事情や不衛生な環境なども関係していたと思いますが、彼が生まれつき体が強かったわけではないことも関係していたのかもしれません。

竹中半兵衛は、播磨三木城(現在の兵庫県三木市)に立てこもった別所氏を包囲中、病に倒れます。

播磨一帯を平定できるかどうかの大切な戦局の中倒れてしまった彼を、直属の主君である羽柴(豊臣)秀吉は心から心配し、戦中にもかかわらず京都での療養を命じます。

ところが、彼の武士としての誇りがそれを許しませんでした。いったんは命令に従って京都に赴きますが、夜半にカゴに乗って本陣に舞い戻ります。

主君はもちろん、これまで苦楽を共にした戦友たちを残して戦場を去ることは、情に厚い竹中半兵衛には到底できることではありませんでした。

実はこのとき、竹中半兵衛はすでに自分の死期を悟っていたと思われます。

自らの死を覚悟した竹中半兵衛は「なぜ帰ってきた」と問う秀吉に対し、「武士なら、武士らしく戦場で最期を迎えたい」と願い出ます。

結局この戦は、秀吉の兵糧攻めという戦略で信長軍に勝利の軍配が上がります。しかし、竹中半兵衛はそれを見ることなく病気が原因となり、この世を去りました。

武士としての誇り、軍師としての誇りを何よりも大切にした彼は、見かけこそまるで「女性」のようだったとされていますが、「いかに死ぬか」という「武士(もののふ)の生き様」を体現した人物だと言えるのではないでしょうか。

竹中半兵衛の墓

半兵衛が亡くなった際、摂津を攻略中だった秀吉は周囲を顧みることなく大泣きしました。

それほど、竹中半兵衛という人物は、秀吉にとってかけがえのない臣下だったのでしょう。現在の彼の墓は最期を迎えた土地のぶどう畑の中にあり、そこから、現在の世を見守っています。

竹中半兵衛の墓(平井公民館の近く)
住所 〒673-0421
兵庫県三木市平井

家系と家系図

半兵衛の父母・兄弟
竹中重元 妙海大姉
竹中重行
竹中重矩、竹中重広、竹中彦八郎
半兵衛の妻・子
正室 得月院(斎藤家重臣「安藤守就」の次女)
子(男子) 重門(嫡男、参勤交代可能な幕府旗本6,000石)

弟「竹中 重矩 (たけなか しげのり)」

竹中半兵衛の二歳違いの弟。兄の半兵衛がその名を世間に知らしめることとなった「稲葉山城の乗っ取り」の際には、兄の手助けをするために命を危険にさらして稲葉山に人質として入城します。

その際、病気をうまく装った重矩のおかげで、見舞いを口実に半兵衛たちが城に攻め入るチャンスを与えます。

その後、兄・半兵衛と共に織田信長軍に属するようになり、半兵衛の亡き後は秀吉の与力になります。本能寺の変で信長が亡くなった後に起こった一揆が戦にまで発展したことにより、討死し37歳でこの世を去りました。

子孫、末裔

名武将として評判の高かった竹中半兵衛の子孫や末裔は、半兵衛亡き後どうなったのでしょうか?

竹中半兵衛亡き後、嫡男であった重門は関ケ原の合戦で手柄をあげ、徳川家康手書きの礼状などの褒美をもらいます。しかし、竹中家の後継者だった重門は若すぎたことや、最初は西軍に付いたことから、大名に取り上げられることなく旗本として家を存続させることになりました。

その後の竹中家に目立った動きはなく、戦国時代の天才軍師として誉れ高かった竹中半兵衛ほどの活躍をする人物は現れることはありませんでした。

ほかの武士たち同様、半兵衛の末裔たちも、明治維新の後に武家から平民の地位になりました。ちょっと寂しいですね。

竹中半兵衛重治について

「太閤記」の中で記されている竹中半兵衛は、稀代の天才軍師です。

戦における軍師の役割は、主君へ作戦や戦い方を助言し、最善の判断がくだせるようにサポートします。そのため竹中半兵衛には、冷静さと先を見通す能力が求められました。

しかし、落ち着いた雰囲気を纏っている竹中半兵衛の中には、武士としての熱い魂と礼節が宿っており、クールな見た目以上に「熱い男」だったようです。

ここでは、竹中半兵衛重治の人となりについて、数々の逸話と共にご紹介していきます。

今孔明と言われる天才軍師

三国志に登場する超有名な軍師・諸葛亮孔明。竹中半兵衛の子・竹中重門により編纂された「豊鑑」の中では、竹中半兵衛が孔明になぞらえてあり、半兵衛を「今孔明」と呼ぶのは的を射たことだと言えるでしょう。

秀吉配下の軍師は半兵衛だけではなかったにもかかわらず、なぜ竹中半兵衛が「今孔明」と呼ばれるのにふさわしいか、興味をそそるエピソードがあります。

例えば、当時難攻不落の城として有名だった稲葉山城の出来事があります。

向かうところ敵なしの織田信長でさえも陥落させることができなかった稲葉城を、たったの16人で制圧してしまった半兵衛。天下統一という夢に邁進していた信長に取り入る絶好のチャンスだったにもかかわらず、信長の勧誘を断ってしまいます。

せっかく制圧した城も元の城主である斎藤氏に返還し、自身は隠遁生活を送るために栗原山にこもった半兵衛ですが、智略とその欲の無さは、「今孔明」と言われるのにふさわしいでしょう。

さらに、斎藤氏に仕えていたときも、秀吉に仕えていたときも、竹中半兵衛が采配を振るう戦では、負け知らずだったそうです。子どもの頃から物静かで、荒々しいことよりも読書を好んでいた半兵衛は、軍記ものを読むことで軍師としての才能を開花させたのかもしれません。

織田信長が臣下にしたいと望み、秀吉が心から信頼した竹中半兵衛は、やはり稀代の天才軍師だと言えます。

三顧の礼の逸話

竹中半兵衛の陣屋跡

竹中家の次男として生まれた半兵衛は、長男・重行が家督を継げなくなると、次の家督相続者になります。

しかし、女性のように色白で華奢な容姿と物静かな佇まいのため、家の者たちからも軽く見られていました。ですが、彼の軍師としての才能を垣間見ることのできた稲葉山城の出来事により、周りの見る目はみるみる変わっていきました。

その中の一人として、織田信長がいます。自分が攻め落とせなかった城を少ない手勢で、しかもたったの1日で制圧してしまった竹中半兵衛の才能に目を付けた信長は、家臣になるよう半兵衛に働きかけます。

秀吉を遣わして彼を説得するように命じましたが、半兵衛は首を縦に振りませんでした。しかし、秀吉は諦めずに「三顧の礼」を実践し、浪人中の竹中半兵衛を信長軍に引き入れようとします。

ところが、当の竹中半兵衛は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった織田信長に仕えるよりも、まだまだ下っ端の家来だった秀吉に仕えることを選びます。

間接的には織田信長の配下に入ったことになりますが、この逸話を通して、竹中半兵衛が外見通りの優男ではなく、はねっかえりの天邪鬼で、今の権力を笠に着て偉ぶるよりも、一緒に成長できるような主君を求めていた「熱い男」だったことが理解できます。

軍師といえば戦略家でちょっとズルいイメージがありますが、竹中半兵衛に限っては、ズルいイメージがまったくありません。

体力がないから知力で世間を渡る処世術を身につけていたことは確かですが、なりふり構わず出世や立身の鬼と化す、あさましいほかの「もののふ」たちとは一味違った武将であったようです。

稲葉山城の乗っ取り

斉藤氏の居城があった稲葉山

竹中家が斎藤氏に仕えていた頃、主君の斎藤龍興からもその臣下からも、半兵衛の武士らしくない様子を馬鹿にされることが度々ありました。

周りの嘲弄をそれほど気にも留めていなかった竹中半兵衛でしたが、稲葉山城に出仕した帰りに、彼の怒りが爆発する出来事が起こります。櫓から、いつものごとく半兵衛を嘲弄していた龍興の家臣が、半兵衛に向かって放尿したのです。

その時は、なんのリアクションもせずに帰った半兵衛でしたが、恐らく腸は煮えくり返っていたことでしょう。

その証拠に、城から帰った後、義父・安藤定治に戦闘要員をお借りしたいと申し出ます。ところが、「仕返しなんて馬鹿なことは考えるな」と諭されてしまい、仕返しの作戦変更を余儀なくされます。

そこで、実弟で人質として稲葉山城に住んでいた重矩に協力を要請し、弟の見舞いを装った潜入に成功します。

たったの16人で城内を急襲し、半兵衛に放尿した本人だと思われる侍大将の斎藤飛騨守も切り捨てます。斎藤龍興もたまらず城外へ脱出し、稲葉山城は竹中半兵衛の策により乗っ取られることとなりました。

しかしながら、仕返しが終わった無欲な半兵衛は、そのまま謀反を起こすでもなくあっさりと龍興にお城を返還しました。

織田信長が8年以上もずっと狙っていた稲葉山城を、いとも簡単に乗っ取ってしまった鮮やかな手口に、それまで半兵衛のことを「ボンクラ」と罵っていた者たちは唖然としたことでしょう。

この有名な逸話から、竹中半兵衛の辛抱強い、かつ執着心のないあっさりした性格と大胆さを知ることができるかもしれませんね。

両兵衛と言われる黒田官兵衛との関係

戦国時代では、優秀な家臣はまるで宝のようにみなされていました。秀吉に仕えた数々の軍師の中でも、竹中半兵衛と黒田官兵衛は「両兵衛」と言われ、その優秀さを褒めたたえられたものです。

同僚、もしくは戦友でありながらもライバルでもあった彼らは、いったいどのような関係にあったのでしょうか?

二人の出会いは、姫路城でした。名高い天才軍師として秀吉に仕えた竹中半兵衛と黒田官兵衛ですが、実質的に共に働いたのは、わずか4年ほど。

短い期間ですが、竹中半兵衛は黒田官兵衛こそが自分の後継者として活躍するようになることを確信していました。いずれは秀吉を助けて天下を取る、そんな夢を託せる相手であった黒田官兵衛に対して、半兵衛は時に冷たく、時に温かく接します。

そうすることで、黒田官兵衛を真の軍師として鍛えていたに違いありません。ライバルとして反目しあう二人というイメージがありますが、実は竹中半兵衛は黒田官兵衛の嫡男の命を救った恩人でもありました。

謀反を起こした荒木村重を説得に向かった黒田官兵衛は、そこで1年の間幽閉されてしまいます。連絡が途絶えた黒田官兵衛が監禁されているとも露知らず、織田信長は「両兵衛」のうちの片割れが裏切ったと憤ります。怒った信長は、人質として捉えていた黒田官兵衛の嫡男・松寿丸の殺害を秀吉に命じました。

実は秀吉はこの黒田家の松寿丸を非常に可愛がっており、非情な信長の命令に秀吉は困惑します。

それを見兼ねた竹中半兵衛は、松寿丸の始末を名乗りでました。しかし、始末すると見せかけて、実際には松寿丸を匿い、ほかの城に移動させて偽の首を信長に届けさせます。

後日、黒田官兵衛が救出された際、彼が裏切っていなかったことが明らかになり、信長は後悔することになります。

しかしながら、松寿丸は半兵衛の機転で命拾いしていたことがわかり、黒田官兵衛はもちろんのこと、織田信長でさえも半兵衛の行動の大胆さと正しい判断に感謝します。

結局、竹中半兵衛は戦場で病死してしまったため、黒田官兵衛が礼を言うこともなく「両兵衛」は黒田官兵衛だけが残る結果となりました。

情に厚く、主君の命令が絶対だとは思わず自分の信念を貫く男性であった竹中半兵衛は、男気のある魅力溢れる人物なのではないでしょうか。

名言

要害がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければものの用をなさない。

「堅固な守りを誇る立派なお城があったとしても、人の心が一つにならなければ無意味」という意味のこの名言は、稲葉山城を乗っ取った際に、斎藤龍興に助言した言葉です。

難攻不落な城という評判の城があっても、半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったときのように、城内のものがバラバラでは城の強さや堅固さは意味をなしません。

チームワークがあってこそ、堅固なお城をさらに安全な場所にすることができる、という戒めなのかもしれません。嫌味に聞こえそうですが、本当にわずかの時間で、かつ少人数で稲葉山城を制圧した竹中半兵衛だからこそ、堂々と発することができた名言でしょう。

武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。

「馬に限らず、武士なら名前や名声こそ惜しいけど、義のためには命も惜しむべきではない」という名言。それと同時に、手柄を立てて得た財宝や宝石なども、名声や評判に比べれば価値の低いものだと捉えるべきとみなしています。

これこそ、竹中半兵衛がなぜ療養中の静かな死ではなく、戦場での病死を迎えることを選んだか、理解することができる言葉です。

分に過ぎたる価をもって馬を買うべからず。

「馬に戦場で乗っていると、馬のことが気にかかり、戦場にもかかわらず注意力が散漫になるでしょう。そのため、高価すぎる馬は買わないことにしましょう」という意味の名言。

半兵衛は、人からどう見られるかということよりも、実際的で実践的なことのほうを評価しました。このことは、彼が天才軍師という名声に胡坐をかくのではなく、謙遜で控えめ、しかも本当に賢い人物であったことを証明する言葉だと言えるでしょう。

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