天正十年(一五八二)、六月二日。未明の京の都を、業火(ごうか)が焦がした。本能寺の変である。天下統一を目前にした覇王・織田信長が、家臣である明智光秀の謀反(むほん)によって討たれたこの事件は、日本史における最大の悲劇として語り継がれている。しかし、この日、信長とともに散ったもう一人の重要な人物の存在を、私たちはどれほど深く理解しているだろうか。その人物こそ、信長の嫡男(ちゃくなん)であり、織田家の家督(かとく)を譲り受けていた若き当主、織田信忠である。当時二十六歳。才気煥発であり、すでに幾多の武功を重ね、父からも「天下の事も譲るべき」と絶賛されていた傑物であった。もしも、彼がこの凶変を生き延びていたならば。もしも織田信忠が生きていたら、その後の日本の歴史は、そして豊臣秀吉や徳川家康の運命は、いかに変わっていたのだろうか。歴史の波間に消えた幻の天下人の素顔と、最期の瞬間に彼が選んだ誇り高き決断の真実に迫る。
目次
偉大なる父の影に隠れた若き後継者の才覚
織田信忠は、弘治三年(一五五七)、織田信長の長男として生を受けた。幼名は奇妙丸(きみょうまる)。特異な名付けを好んだ信長らしい命名であるが、その名に込められた真意は定かではない。生母は、信長が深く愛したとされる側室(そくしつ)・生駒吉乃(いこまきつの)であると言われている。信忠の幼少期は、まさに織田家が尾張の小大名から天下人へと飛躍を遂げる激動の時代と重なっていた。周囲には常に戦火のにおいが立ち込め、父・信長は文字通り血みどろの覇道を突き進んでいた。そのような環境下で、信忠は織田家の嫡男としての重圧を一身に背負いながら成長していくことになる。
信忠が歴史の表舞台に初めてその名を示すのは、元亀三年(一五七二)のことである。数えで十六歳の若武者は、浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)連合軍との戦いで初陣を飾る。以降、彼は父に従い、あるいは自ら軍の総大将として、伊勢長島の一向一揆(いっき)平定や、長篠の戦い、松永久秀(まつながひさひで)の討伐など、主要な戦役の数々において目覚ましい武功を挙げていく。特に天正五年(一五七七)、彼が弱冠十九歳にして大和の松永久秀が立て籠もる信貴山城を攻め落としたことは、その軍才を天下に知らしめる大きな契機となった。
若き信忠の戦いぶりは、決して父の威光に頼ったものではなかった。自ら軍の先頭に立ち、冷静沈着に戦況を見極め、的確な采配(さいはい)を振るうその姿は、歴戦の宿老(しゅくろう)たちをも唸らせるものであった。織田軍団の精鋭を率いるにふさわしい武将として、彼は着実に成長を遂げていたのである。天正四年(一五七六)、信長は安土城へと居城を移すと同時に、信忠に織田家の本城である岐阜城と、尾張・美濃の二カ国を譲り渡し、正式に家督を継承させた。これは、信忠が名実ともに織田家の新たな当主となったことを意味していた。天下統一の総仕上げは信長自らが行うにせよ、その後の太平の世を治めるのは信忠である。信長は、この才気あふれる嫡男に、織田家の未来を完全に託していたのである。
武田氏を滅亡へと追いやった甲州征伐の煌めき
織田信忠の武将としての評価を決定づけ、その輝かしい才能が最も遺憾なく発揮されたのが、天正十年(一五八二)の甲州征伐である。長篠の戦い以降、勢力を大きく削がれていたとはいえ、甲斐の武田家は依然として東国の雄であった。武田勝頼(たけだかつより)を討ち、武田家を完全に滅ぼすことは、織田家にとって長年の悲願であった。
この大事業において、信長は信忠を総大将に任命する。約五万という大軍を率いて、信忠は美濃から信濃へと侵攻を開始した。この時の信忠の進軍速度は、およそ常軌を逸したものであった。雪深い信濃の険しい山道を、織田軍はまるで疾風のごとく駆け抜けた。あまりの進軍の速さに、武田方の諸将は防戦の態勢を整える暇すらなく、次々と城を明け渡すか、あるいは戦わずして逃亡したのである。
甲州征伐における最大の激戦となったのが、勝頼の弟である仁科盛信(にしなもりのぶ)が守る高遠城の攻防であった。信忠はまず、盛信に対して降伏を勧告する使者を送った。しかし、盛信は降伏を拒絶し、使者の耳と鼻を削いで追い返すという強硬な態度に出た。この報告を受けた信忠は、即座に総攻撃を命じる。
高遠城の戦いにおいて、信忠は自ら最前線へと進み出た。『信長公記』には、彼がみずから武具を身にまとい、先頭を争って城の柵を破り、塀の上にまでよじ登って兵たちを鼓舞し、指揮を執ったと記されている。総大将みずからが死地へと飛び込むその果敢な姿に、織田軍の士気は頂点に達した。仁科盛信もまた決死の防戦を試みたが、織田軍の猛攻の前に高遠城はついに陥落し、盛信は自刃を遂げる。
この高遠城の陥落により、武田家の命運は完全に尽きた。出陣からわずか一ヶ月足らず。父・信長が本陣を出発し、戦地に到着するよりもはるかに早く、信忠は武田勝頼を天目山にて自害に追い込み、武田氏を滅亡させるという未曾有の大功を立てたのである。この電撃的な勝利の報に接した信長は、信忠の迅速かつ果断な采配を絶賛した。「これならば、天下の事も譲るべきである」。信長は、我が子の見事な成長ぶりに目を細め、織田家の盤石な未来を確信したに違いない。甲州征伐は、織田信忠という若き大将が、もはや父の影ではなく、自らの足でしっかりと大地を踏み締め、比類なき光芒を放った瞬間であった。
本能寺の変――なぜ二条御所から逃げなかったのか
武田家を滅ぼし、天下統一への最後の障害を取り除いたかに見えた織田家。しかし、その輝かしい未来は、わずか数ヶ月後に無残にも断ち切られることになる。天正十年六月二日、未明。備中の毛利攻めに向かう途上であった明智光秀が、突如として軍を返し、主君である信長が滞在していた本能寺を急襲した。本能寺の変である。
その時、信忠は本能寺からわずか数百メートルの距離にある妙覚寺(みょうかくじ)に滞在していた。父とは別の宿舎を取っていたのである。早朝、喧騒とともに「本能寺が明智軍の襲撃を受けている」との凶報が信忠のもとへもたらされた。信忠はすぐさま手勢を率いて本能寺へと救援に向かおうとした。しかし、時すでに遅く、本能寺はすでに炎に包まれ、信長が自害したとの報が届いた。
この絶望的な状況下で、信忠の側近たちは彼に進言した。「ここ妙覚寺は宿坊に過ぎず、防戦には適しておりませぬ。すぐさま二条新御所へと移り、籠城の態勢を整えるべきです」。二条新御所(二条御所)は、もともと信長が政庁として整備した城郭であり、高い堀と堅固な塀を備えていた。さらに、そこには誠仁親王(さねひとしんのう)が滞在していた。信忠は側近の言を容れ、僅かな手勢とともに二条新御所へと駆け込んだのである。
ここで、後世の歴史家や歴史ファンから常に投げかけられる一つの大きな疑問がある。「なぜ、信忠は逃げなかったのか」。
当時の信忠の周囲には、わずかながらも逃亡の可能性は残されていた。徳川家康が「伊賀越え」を決行し、九死に一生を得て三河へと生還したように、信忠もまた少数の供回りとともに京を脱出し、尾張や美濃へと落ち延びることは不可能ではなかったはずだ。彼が生き延びてさえいれば、織田軍団の中核をなす重臣たちを糾合(きゅうごう)し、光秀を討伐して織田家の覇権を維持することは十分に可能であった。それにもかかわらず、彼は二条新御所に立て籠もり、死を選ぶ道をとった。それはなぜか。
彼が逃げなかった理由は、決して彼が暗愚であったからでも、状況の深刻さを理解していなかったからでもない。むしろ、彼が織田家の「真の当主」としての強い責任感と矜持(きょうじ)を持っていたからに他ならない。
第一に、二条新御所には誠仁親王が滞在していた。朝廷の重鎮を見捨てて自分だけが逃亡することは、天下を統べる織田家の当主として決して許される行為ではなかった。信忠は明智軍が御所を包囲する中、親王に対して「光秀の狙いは私一人です。どうか速やかに退出を」と勧め、親王が無事に御所から避難するのを待ってから戦いを始めている。
第二に、逃亡に伴う巨大な政治的・道義的リスクである。もし彼が父を見捨て、命からがら尾張へと逃げ帰ったとしよう。その時、世間は彼をどう見るだろうか。「父を見殺しにして逃げた腰抜け」「織田家の当主たる器にあらず」。そのような汚名を着せられた状態で、果たして柴田勝家(しばたかついえ)や羽柴秀吉といった百戦錬磨の宿老たちを束ね、光秀に対抗するだけの求心力を維持できただろうか。信忠は、自らの逃亡が織田家の正当性そのものを揺るがす致命的な傷になることを、誰よりも深く理解していたのである。
覇王の血脈に流れる誇りと最期の戦い
二条新御所での戦いは、まさに壮絶を極めた。信忠の手勢はわずか数百から数千の規模であったと推測されるが、彼らは圧倒的な兵力を誇る明智軍を相手に、一歩も退かずに戦い抜いた。
『乙夜之書物』などの史料によれば、信忠は自ら御所の門を固く閉ざし、静まり返って敵の襲撃を待ち伏せていたという。明智軍の先陣が門を突き破って雪崩れ込んできたその瞬間、信忠の軍勢は一斉に鉄砲を撃ちかけ、敵を撃退した。信忠自身もまた、剣を振るい、槍を繰り出し、獅子奮迅の働きを見せた。彼の周囲には、織田家の未来を信じて彼に付き従ってきた若き近習たちが立ち並び、主君とともに決死の白兵(はくへい)戦を演じたのである。
しかし、多勢に無勢である。次々と押し寄せる明智軍の猛攻の前に、信忠の軍勢は次第に数を減らしていった。城郭としての構えを備えていたとはいえ、孤立無援の二条新御所で大軍を支えきれるはずもなかった。ついに敵兵が御所の内部へと侵入を果たす。
信忠は、自らの最期が近づいていることを悟った。彼は残されたわずかな将兵たちに、自らの首級(しるし)が敵の手に渡ることだけは決して防ぐようにと命じた。「雑兵の手にかかって死ぬのは、織田家の当主としてあまりに無念である」。そう言い残すと、彼は自ら刀を腹に突き立て、静かにその短い生涯を閉じた。享年二十六。その見事な散り際は、偉大なる父・信長にも劣らぬ、武将としての気高さと誇りに満ちたものであった。
彼の介錯(かいしゃく)を務めた家臣は、主君の遺命通り、その首を二条新御所の縁の下へと隠し、決して明智の兵に奪われることのないように処置したという。本能寺で灰燼(かいじん)に帰した信長と同様に、信忠の遺体もまた、永遠に歴史の闇へと消え去ったのである。
もしも織田信忠が生きていたら……歴史が失った未完の天下人
本能寺の変は、織田信長という絶対的なカリスマを失っただけでなく、織田家の正統な後継者である信忠をも同時に失うという、織田家にとって二重の致命傷となった。この父子の死によって、織田政権は完全に瓦解し、その後の歴史は羽柴秀吉、そして徳川家康へと受け継がれていくことになる。
もしも、あの運命の日に、信忠が奇跡的に二条新御所を脱出し、尾張あるいは美濃へと逃げ延びていたならば。日本の歴史はどのように展開していただろうか。
信忠が生存していれば、秀吉が天下を取るチャンスは万に一つもなかったと言い切れる。本能寺の変の直後、中国大返しを成功させた秀吉が覇権を握ることができたのは、彼が「信長の仇を討った」という大義名分に加え、織田家に明確な後継者が不在であったからである。清須会議において、秀吉はわずか三歳の三法師(さんほうし。信忠の遺児)を擁立することで、他の重臣たちを出し抜き、実質的な権力を掌握した。
しかし、信忠が生きていれば状況は全く異なる。信忠はすでに信長から家督を譲り受けており、名実ともに織田家の当主であった。彼が生存して大義名分を掲げれば、柴田勝家、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます)、そして秀吉といった宿老たちは、当然のごとく信忠の旗下に集い、明智光秀の討伐軍を形成したはずである。光秀はより迅速に鎮圧され、その後も織田家を中心とした強固な政権体制が維持されたに違いない。
信忠を頂点とする織田政権は、信長が築き上げた盤石な基盤を引き継ぎ、早々に天下統一を成し遂げたであろう。秀吉は織田家の優秀な一将軍としての地位に留まり、家康もまた織田家の有力な同盟国、あるいは臣従する大大名としてその生涯を終えていた可能性が高い。江戸幕府が存在せず、織田家による長期政権が日本を統治する、まったく別の歴史の扉が開かれていたのである。
信忠が逃げなかったという選択は、彼自身の気高さの証明であると同時に、日本の歴史の針を劇的に進めることになった最大の分岐点であった。天下人の嫡男として生まれ、父の背中を追い続け、ついに自らの足で歩み始めた矢先に襲いかかった理不尽な死。だが、彼が最期の瞬間に見せた潔さと、織田家の名誉を守り抜こうとした透徹(とうてつ)な意志は、決して色褪せることはない。
織田信忠。彼が生きていれば、どのような国を創り上げたのだろうか。その答えは永遠の謎として歴史の彼方に秘められている。しかし、本能寺の変という巨大な嵐の中で、逃げることなく運命に立ち向かった若き後継者の姿は、今もなお私たちの心を強く揺さぶり続けている。彼は決して暗愚な二代目などではなく、歴史を変えるだけの器と覚悟を持った、真の「未完の天下人」であった。