島津義久と朝鮮出兵――海を渡らなかった当主が、国元で背負い続けたもの
島津義久は朝鮮出兵のあいだ、一度も海を渡らなかった。だが国元では、届かない軍船と兵の工面、秀吉の膝元で起きた梅北一揆、弟の歳久の成敗、娘婿の久保の死、検地で膨れた石高と、当主にしか背負えない難事が次々と続いていた。弟の義弘が武名を上げた陰で、崩れかけた家を黙って支え続けた兄の姿をたどる。
島津義久は朝鮮出兵のあいだ、一度も海を渡らなかった。だが国元では、届かない軍船と兵の工面、秀吉の膝元で起きた梅北一揆、弟の歳久の成敗、娘婿の久保の死、検地で膨れた石高と、当主にしか背負えない難事が次々と続いていた。弟の義弘が武名を上げた陰で、崩れかけた家を黙って支え続けた兄の姿をたどる。
池田輝政は関ヶ原の本戦で目立つ働きを伝えられていない。それでも戦の後、播磨五十二万石を手にした。その鍵は、本戦の半月以上前、かつて自らも城主を務めた岐阜城を一日で落とした攻防にある。信長の孫・秀信の降伏を受け止め、家康の娘婿として白い姫路城を築いた男の、目立たないが確かな歩みをたどる。
安国寺恵瓊は、本能寺の変の当日、備中高松城を囲む羽柴秀吉と向き合っていた毛利の外交僧である。かつて信長の没落を「高ころびにあおのけに」と書状に記した僧は、そのとき信長の死を知っていたのか。清水宗治の切腹と引き換えの講和から、秀吉への接近、関ヶ原の敗北と六条河原の最期までをたどる。
武田信虎の追放は、天文10年(1541年)、嫡男の晴信が、駿河へ向かった父の帰り道を閉ざして起きた。暴君と書き残された信虎だが、乱れた甲斐を一つにし、甲府の町を開いたのも彼だった。凶作と戦に国が疲れ果てた末の政変の真相と、国を追われた父が八十一歳で世を去るまでの三十三年をたどる。
森可成の最後は、元亀元年九月二十日、坂本での討死だった。浅井・朝倉の大軍が湖西の道を下るなか、信長の古参の将は宇佐山城を出て敵を迎え撃ち、織田信治とともに倒れた。だが主を失った城は落ちず、信長が摂津から戻るまで京への道を閉じ続けた。敵方の寺に葬られた亡骸と、残された子らの行く末までたどる。
長束正家は関ヶ原の戦いの年、算盤の奉行でありながら自ら軍勢を率いて伊勢の城を攻めた。豊臣家の兵糧と財政を預かり、家康の会津攻めの米まで手配していた男が、なぜその家康に背いたのか。安濃津城の開城、南宮山での沈黙、そして日付も場所も食い違う最期まで、算盤とともに生きた奉行の最後の夏をたどる。
佐竹義重といえば鉄砲。関東一の鉄砲隊、沼尻の八千丁と語られるが、その数字の出どころは心もとない。北条との百十日のにらみ合い、勝ちながら兵を引いた人取橋、そして秋田への国替え。記録をたどった先に見えてくるのは、鉄砲の数ではなく、人と人をつなぎとめる力で家を守り抜いた一人の武将の姿である。
雑賀孫市は実在したのか。永禄の起請文や本願寺文書、秀吉の陣立書には「鈴木孫一」の名が確かに残る。だが八咫烏の旗も鉄砲五千丁も、確かな史料には見当たらない。信長と戦い、やがて信長に近づき、本能寺の変とともに故郷を追われた男。物語の英雄とは違う、したたかで、ときに痛ましい男の実像をたどる。
仙石秀久は切腹していない。戸次川の敗戦で長宗我部信親や十河存保を死なせ、秀吉の怒りを買って讃岐を没収されたが、命までは奪われなかった。高野山へ追われた浪人は小田原の陣で槍を手に戦場へ戻り、信濃小諸五万石の城主に返り咲く。同じ軍監の失態で斬られた尾藤知宣との分かれ目から、泥まみれの再起をたどる。
立花道雪が「雷神」と呼ばれたのは、雷を斬った伝説のためだけではない。足の自由を失いながら輿に担がれ、誰よりも先に敵陣へ進んだ大友家の老将。主君の宗麟を涙でいさめ、しくじった家臣を酒でなぐさめ、花を愛した意外な素顔と、生涯名乗ったとされる戸次の名に込めた誇りをたどり、雷神という名の正体に迫る。