無能と呼ばれた最後の将軍・足利義昭の矜持と室町幕府の黄昏

足利義昭

「無能」「時代遅れ」「優柔不断」……。室町幕府第十五代にして最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)に貼られたレッテルは、あまりにも冷酷で、数多い。

織田信長という稀代の風雲児に翻弄され、利用されるだけ利用された挙句、京を追放された惨めな将軍。それが後世に語り継がれる足利義昭の一般的なイメージである。

しかし、果たして本当にそうだろうか。

兵も持たず、金もなく、頼るべき領地さえ持たなかった男が、ただ「足利の血筋」と「将軍の権威」という目に見えぬ武器だけを握りしめ、あの戦国最強の武将たちを動かし、信長をいく度も死のふちまで追い詰めたのである。それが無能な人間にできる業(わざ)であろうか。

義昭の生涯をひもとけば、そこには室町幕府という斜陽の時代を背負い、不屈の闘志で乱世を泳ぎ抜こうとしたひとりの男の、血のにじむような矜持(きょうじ)と悲哀が浮かび上がってくる。

興福寺からの脱出と、偉大なる兄・義輝の死

足利義昭の人生は、その多くが理不尽な暗転の連続であった。

本来ならば、彼が将軍の座に就くことなどあり得なかった。次男として生まれた彼は、幼くして仏門に入り、大和国の興福寺一乗院で「覚慶」と名乗る高僧として、静かで平穏な余生を送るはずだった。彼には武将としての教練も、権力闘争の泥沼を生き抜くための狡猾さも与えられていなかった。

その運命が激変したのは、永禄八年(一五六五年)五月のことである。

天下に武名をとどろかせていた偉大なる兄、第十三代将軍・足利義輝が、三好三人衆や松永久通らの軍勢によって暗殺されたのだ。剣豪将軍とうたわれ、室町幕府の権威復興に生涯をささげた兄は、二条御所において刀を振るい、壮絶な最期を遂げた。「永禄の変」と呼ばれるこの凄惨な事件は、覚慶の心に永遠に消えない傷を刻み込んだ。

兄の死の直後、興福寺にいた覚慶もまた、三好方によって身柄を確保され、厳しい監視下に置かれた。いつ暗殺の刃が振り下ろされるとも知れない恐怖。一介の僧侶にすぎなかった彼にとって、それは暗闇のなかで死を待つに等しい絶望の時間であった。

「余もまた、兄上と同じ運命をたどるのか……」

恐怖に震える夜の果てに、一筋の光明をもたらしたのは、亡き兄に忠誠を誓った幕臣たちであった。細川藤孝(ほそかわふじたか)、一色藤長、和田惟政らである。彼らは命がけで興福寺に潜入し、厳重な包囲網の目を盗んで覚慶を救い出したのである。

永禄八年七月二十八日の夜。闇に紛れて大和国から脱出した覚慶は、近江国の和田城へと逃れた。その夜風の冷たさと、背後に迫る死の恐怖を、彼は生涯忘れることはなかっただろう。

還俗し、「足利義秋(のちの義昭)」と名乗った彼の中には、もはや仏の道を歩む僧侶の面影はなかった。

「兄の無念を晴らし、足利の家を、室町幕府を再興せねばならない」

己の無力さを痛いほどに知りながらも、義昭の胸には、足利家嫡流としての重すぎる使命感と、異常なまでの執念が芽生えていたのである。

織田信長との出会い。殿中御掟とすれ違う野望

義昭の将軍への道は、想像を絶する苦難の旅であった。

若狭の武田氏、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼り、長きにわたって流浪の日々を送った。彼はただひたすらに頭を下げ、諸大名に上洛の助力を請うた。しかし、誰もが「足利将軍家の権威」には敬意を払いながらも、三好氏という巨大な敵と戦うリスクを恐れ、決して重い腰を上げようとはしなかった。

そんな流浪の義昭の前に現れたのが、尾張の覇者・織田信長である。

永禄十一年(一五六八年)、信長は義昭をほうじて圧倒的な武力で上洛を果たす。義昭はついに念願の第十五代征夷大将軍の座に就き、兄のかたきを討つことに成功したのである。義昭にとって、信長はまさに地獄で仏、天の使いとも呼べる恩人であったに違いない。義昭は信長を「御父」と呼んで深く感謝し、両者の蜜月は永遠に続くかと思われた。

だが、二人の見ている景色は、根本から異なっていた。

義昭が求めたのは、大名たちを束ね、将軍が政治の頂点に立つ「室町幕府の完全なる復活」であった。それに対し、信長が求めたのは、将軍という「権威の看板」を利用して自らが天下の覇権を握ることであった。

その決定的な亀裂は、信長が義昭に突きつけた『殿中御掟』という名の鎖によって白日の下にさらされた。

そこには、将軍が独断で大名へ手紙を送ることの禁止や、訴訟への信長の介入など、義昭の政治的権限を徹底的に剥奪する内容が記されていた。信長にしてみれば「幕府の古い悪習を正すための合理的なルール」であったかもしれない。しかし、義昭にとって、それは武家の棟梁としての誇りを粉々に打ち砕く屈辱的な宣告であった。

「余は、織田の飾り物ではない!」

義昭の心の中で、恩人への感謝は、次第に激しい怒りへと変わっていった。将軍としての矜持が、傀儡(かいらい)として生きることを激しく拒絶したのだ。この瞬間から、義昭は己の権力を取り戻すため、信長という強大な巨獣との孤独な戦いを決意するのである。

張り巡らされた御内書。巨大なる信長包囲網の形成

義昭が信長に対抗するために手にした武器は、鉄砲でも槍でもなく、たった一枚の紙切れであった。将軍の公的な手紙である「御内書」である。

義昭は、信長の監視の目を盗み、全国の有力大名に向けて次々と御内書を密使に託した。

「信長の専横は目に余る。余を助け、朝家の安寧を取り戻せ」

それは、軍事力を持たない義昭の、必死の叫びであった。

もし彼が本当に「無能で時代遅れな将軍」であったなら、誰もその手紙に耳を貸さなかっただろう。しかし、現実は違った。

甲斐の虎・武田信玄、越前の名門・朝倉義景、北近江の雄・浅井長政(あざいながまさ)、そして大坂の本願寺顯如(けんにょ)……。戦国時代を代表するそうそうたる群雄たちが、義昭の呼びかけに応じ、反信長の旗印のもとに結集したのである。

世に言う「信長包囲網」の誕生である。

義昭は、大名同士の長年の遺恨や利害関係を調整し、見事な外交手腕で彼らをつなぎ合わせた。これは、単なる「将軍の威光」だけで成し遂げられる業ではない。義昭自身が持つ、人を動かす強烈な執念と、各勢力の思惑を巧みに操る政治的センスのたまものであった。

武田軍の猛攻により徳川家康が三方ヶ原で大敗を喫し、信長がかつてない絶望のふちに立たされた時、義昭の戦略はまさに結実しようとしていた。自らは一兵も率いずして、天下の覇王を滅亡の一歩手前まで追い詰めた男。その知略と外交力は、まぎれもなく一流のそれであった。

鞆幕府の意地。京都を追放された男の戦い

しかし、歴史の歯車は義昭に味方しなかった。

武田信玄の急死という不測の事態により、包囲網はもろくも崩れ去る。好機を逃さず反撃に転じた信長の前に、朝倉も浅井も滅ぼされた。

元亀四年(一五七三年)、義昭は宇治の槇島城に立てこもって最期の抵抗を試みるが、圧倒的な軍勢の前に敗北。ついに京都から追放されることとなった。

ここに、二百数十年続いた室町幕府は事実上の滅亡を迎えたとされている。

だが、義昭の戦いは終わっていなかった。

京都を追われ、河内や紀伊を転々とした後、義昭は毛利輝元を頼って備後国の鞆の浦(現在の広島県福山市)へとたどり着く。ここで彼は、驚くべき執念を見せる。

彼は将軍職を辞することなく、この小さな港町に新たな幕府――すなわち「鞆幕府」を開き、諸大名へ再び御内書を発し続けたのである。

「余はまだ、負けてはおらぬ。将軍である限り、幕府はここにある」

その心境はいかばかりであったか。京の華やかな御所を追われ、辺境の海辺から天下をにらむ流浪の将軍。

そこには、滑稽なほどの意地と、涙ぐましいまでの武家の棟梁としてのプライドがあった。彼は京都五山の住職を任命して権威を保ち、毛利氏を動かして信長への抵抗を続けた。

決してあきらめない。その強烈な生命力こそが、足利義昭という男の真の恐ろしさであり、人間としての魅力であった。

秀吉との和解。僧・昌山道休が見た新しい世

義昭の長きにわたる執念の戦いは、意外な結末を迎える。

天正十年(一五八二年)、本能寺の変によって宿敵・織田信長が横死したのだ。しかし、義昭が京へ返り咲く夢はかなわなかった。時代はすでに、信長の跡を継いだ豊臣秀吉の手によって、新たな秩序へと形を変えようとしていた。

秀吉の天下統一が決定づけられた後、義昭はついに時代の流れを受け入れる決断を下す。

天正十五年(一五八七年)、九州征伐に向かう秀吉と対面した義昭は、長きにわたる反乱のほこを収め、和解した。そして翌年、一万石の領地を与えられ、征夷大将軍の職を朝廷に返上。出家して「昌山道休」と名乗った。

十五年ぶりに帰還した京都。そこは、かつて義昭が知っていた室町幕府の都ではなく、秀吉の権威を象徴する黄金の都・聚楽第がそびえ立つ場所となっていた。

秀吉は義昭を「御伽衆」としてそばに置き、徳川家康や前田利家ら諸大名よりも上位の席次を与えて極めて厚遇した。それは、秀吉にとって「かつての将軍を従える」という自らの権威づけのためであったかもしれない。

しかし、晩年の義昭は、それを静かに受け入れていた。

かつてあれほどまでに執着した権力も、兄のかたきを討つという憎悪も、すべては歴史の波に洗い流されていた。

彼は茶の湯をたしなみ、かつて自分を裏切った細川藤孝らとも和歌を詠み交わすなど、穏やかな日々を過ごしたという。その心境は、誰にも分からない。屈辱に耐えていたのか、それとも、重すぎる「将軍」という宿命から解放され、安堵していたのか。

慶長二年(一五九七年)、足利義昭は大坂でその波乱に満ちた六十一年の生涯を閉じた。

彼は決して、無能で時代遅れなだけの敗者ではなかった。

室町幕府という巨大な古い船が沈みゆく中で、最後までかじを握りしめ、己の信じる「将軍の義」を貫こうとした誇り高き男。その泥臭くも強烈な生き様は、戦国という激動の時代において、ひとつの美しい落日として、今も歴史の片隅で静かな光を放ち続けている。

よろしければ他の方にもご紹介ください

ABOUTこの記事をかいた人

アバター画像

ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。