元亀元年(1570年)四月、越前へ進軍中の織田信長のもとに、一報が届いた。「浅井備前、別心」──義弟にして盟友であるはずの浅井長政(あざいながまさ)が、背後から牙を剥いたというのである。信長は即座にこれを退けた。「虚説たるべき」と。妹のお市の方を嫁がせ、北近江の支配を任せてきた男が、なぜ自分を裏切るのか。信長にとって、それはおよそ理解の及ばぬ事態であった。
しかし、虚説は虚説ではなかった。次々と届く続報が、長政の謀反を事実として裏付けていく。信長がようやくその現実を受け入れたとき、彼はすでに敵中に孤立していた。『信長公記』が伝える、この一連のやりとりの中に、浅井長政という武将の本質が透けて見える。信長をして「まさか」と言わしめた男──その謀反は、果たして裏切りであったのか、それとも義に殉じた決断であったのか。
目次
北近江の風土が育んだ浅井の血脈
浅井氏の興りは、戦国の混沌そのものの中にある。北近江──現在の滋賀県長浜市一帯──は、琵琶湖の東岸に広がる豊かな平野と、それを囲む険しい山々からなる、天然の要衝であった。北陸と京を結ぶ街道が貫くこの地は、古来より兵家必争の土地であり、支配者たちが幾度となく入れ替わってきた。
浅井氏の初代・亮政(すけまさ)は、この混沌を逆手にとった男であった。もとは北近江の守護・京極氏の被官にすぎなかったが、京極家内部の権力闘争に乗じて頭角を現し、大永年間(1520年代)には小谷城(おだにじょう)を築いて独立の拠点を確立する。標高約495メートルの小谷山に築かれたこの山城は、前面に姉川の流れる平野を望み、背後には伊吹山系の峻峰が控える、まさに天然の要害であった。
亮政の死後、二代目の浅井久政(あざいひさまさ)が家督を継ぐ。しかし久政の治世は苦難の連続であった。南近江に君臨する六角義賢(ろっかくよしかた)の圧力の前に、久政は屈従の道を選ばざるを得なかった。嫡男の猿夜叉丸──のちの長政──は元服にあたって義賢から偏諱(へんき)を受け、「賢政」と名乗らされた。さらに六角氏家臣の娘を正室に迎えさせられるなど、浅井家は事実上、六角氏の属国と化していた。
家臣たちの胸中に、怒りと屈辱が静かに堆積していった。
若き当主、六角の軛を断つ
永禄二年(1559年)、浅井家中にひとつの嵐が起こる。父・久政の外交方針に不満を抱いた家臣団が、弱冠十五歳の賢政を擁してクーデターを断行したのである。赤尾清綱(あかおきよつな)、遠藤直経(えんどうなおつね)ら重臣たちの支持を得た賢政は、父を強制的に隠居させ、浅井家の新たな当主となった。
最初に為したことは、自らの名を変えることであった。六角義賢から押しつけられた「賢」の一字を捨て、「長政」と改名する。同時に六角氏家臣の娘である正室を離縁し、実家に送り返した。十五歳の少年が下した判断としては、あまりにも鮮やかで、あまりにも苛烈であった。これは単なる家督相続ではない。六角氏への従属からの完全なる離反──浅井家の独立宣言であった。
翌永禄三年(1560年)、激怒した六角義賢が大軍を率いて北近江に侵攻する。野良田の戦いである。兵力では圧倒的に劣る浅井軍であったが、長政はこれを迎え撃ち、見事に撃退した。この勝利によって、長政は家中における絶対的な求心力を獲得する。北近江の若き獅子は、こうして戦国の舞台に躍り出た。
信長との盟約──お市とともに訪れた蜜月
長政が六角氏を退けた頃、尾張では一人の男が急速に勢力を拡大していた。織田信長である。美濃の斎藤氏を滅ぼし、天下布武の野望を公然と掲げる信長にとって、上洛の通路にあたる近江の安定は不可欠であった。そして、六角氏と対立する北近江の浅井氏は、信長にとって理想的な同盟相手であった。
永禄十年(1567年)から翌年にかけて、両家の同盟が成立する。その証として、信長は秘蔵の妹──お市の方を長政のもとに嫁がせた。政略結婚であることは言うまでもない。しかし、長政とお市の仲は極めて睦まじかったと伝えられている。二人の間には、のちに茶々、初、江と名づけられる三人の娘が生まれた。
信長にとって、長政は単なる同盟者以上の存在であった。『信長公記』の記述を読む限り、信長は長政を義弟として深く信頼し、北近江の統治を安心して任せていた。信長の側からすれば、両者の関係は盤石のものであったはずである。
だが、この同盟の底には、はじめから一つの亀裂が走っていた。同盟成立の際、長政側は一つの条件を提示したとされる──「朝倉氏を攻めないこと」。越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)は、浅井家にとって父・久政の代からの盟友であり、亮政の時代まで遡れば、浅井家が北近江で自立を果たす過程で多大な支援を受けた恩人ともいえる存在であった。
信長がこの条件をどこまで真剣に受け止めていたのか。それは今となっては知る術がない。ただ一つ確かなのは、この不文律が、やがて二つの家の運命を決定的に引き裂くことになるということであった。
引き裂かれる義と利──朝倉攻めの衝撃
元亀元年(1570年)四月、信長は突如として越前への出陣を宣言する。名目は、将軍・足利義昭の命に従わない朝倉義景の討伐であった。信長は若狭を経て越前に入り、金ヶ崎城を攻略。朝倉氏の本拠・一乗谷(いちじょうだに)に向けて進軍を開始した。
この報せを受けた長政のもとに、父・久政をはじめとする家中の重臣たちが詰めかけた。朝倉を見捨てるのか、それとも信長との盟約を破るのか──それは浅井家の存亡に関わる究極の選択であった。
長政の胸中には、幾重もの葛藤が渦巻いていたはずである。信長との同盟を維持すれば、浅井家の安泰は約束される。しかし、それは朝倉という旧来の盟友を切り捨てることを意味する。先代からの義理を踏みにじり、恩を仇で返すような真似が、果たして武将として許されるのか。
一方で、信長に背けば、天下統一に最も近い男を敵に回すことになる。勝算など、冷静に計算すればほとんどないに等しい。それでも長政は、義を選んだ。
近年の研究では、長政の決断を単なる「朝倉への義理立て」だけでは説明できないとする見方もある。信長との同盟関係の中で、浅井氏が次第に対等な盟友から従属に近い立場へと追い込まれていたこと。信長の上洛後、幕府内での処遇や領土的な利権において冷遇されたという不満。そして何より、先祖代々の土地を「信長から与えられたもの」として扱われることへの、浅井家中に広がる根深い屈辱感──。
理由は一つではなく、幾重にも重なっていたのだろう。だが、いずれにせよ長政は決断した。信長への「別心」である。その報せが越前の信長のもとに届いたとき、長政はすでに信長の背後を突くべく軍を動かしていた。
金ヶ崎の退き口──背を向けた義弟
浅井長政の謀反は、信長を戦国人生最大の窮地に追い込んだ。前方には朝倉軍、背後には浅井軍。挟撃の構図が完成した瞬間であった。
信長は驚愕した。しかし、一度現実を受け入れるや、その判断は恐るべき速さであった。全軍撤退──それも、敵中からの脱出という、戦において最も困難な行動である。信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と徳川家康に殿(しんがり)を任せ、自らはわずかな供回りとともに朽木谷を抜けて京へと逃れた。世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
このとき、お市の方が信長に袋の両端を紐で縛った小豆──いわゆる「袋の鼠」の暗号を送って危機を知らせたという逸話が広く知られている。ただし、この話の出典は太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』ではなく、後世の軍記物『浅井三代記』に基づくものであり、史実とするには疑わしい。しかし、お市という女性が、夫と兄という二つの忠誠の間で引き裂かれていたであろうことは、想像に難くない。
長政にとって、この瞬間は後戻りのできない一線を越えた瞬間であった。義弟に背を向けた男は、もはや信長の敵でしかない。そしてその敵は、天下にあって最も恐ろしい男であった。
姉川の死闘──意地と覚悟のぶつかり合い
金ヶ崎を脱した信長は、すぐさま報復に動いた。同年六月、織田・徳川連合軍は北近江に侵攻し、姉川の河原で浅井・朝倉連合軍と激突する。姉川の戦いである。
緒戦は浅井軍が猛攻を仕掛けた。とりわけ、浅井家臣団屈指の猛将・磯野員昌(いそのかずまさ)の奮戦は凄まじく、織田軍の陣形を次々と突き破り、一時は信長の本陣に迫る勢いであったとされる。後世にこれを「十一段崩し」と称え、員昌の武名は戦国の世に轟いた。もっとも、この逸話は『浅井三代記』によるものであり、一次史料である『信長公記』には詳細な記述がないことから、誇張が含まれている可能性もある。
しかし、戦局はやがて浅井・朝倉連合軍に不利に傾く。朝倉軍と対峙していた徳川家康の軍勢が朝倉勢を撃破し、側面から織田軍を支援したことで形勢が逆転したのである。さらに、織田軍の美濃三人衆──稲葉一鉄(いなばいってつ)、安藤守就(あんどうもりなり)、氏家卜全(うじいえぼくぜん)──の側面攻撃も加わり、浅井・朝倉連合軍は敗退を余儀なくされた。
だが、長政はこの敗北で終わる男ではなかった。小谷城に退いた長政は、なおも抵抗の構えを崩さない。浅井家の家臣団もまた、主君とともに戦い抜く覚悟を固めていた。遠藤直経はこの戦いで奮戦の末に討ち死にしたが、その死に様こそが、浅井家臣団の気概を象徴していた。
包囲網の瓦解──忍び寄る落日
姉川の敗戦後も、長政には一つの希望が残されていた。信長包囲網である。甲斐の武田信玄、石山本願寺の顕如(けんにょ)、比叡山延暦寺、そして将軍・足利義昭──信長の急速な膨張を恐れる勢力が、全国各地で反信長の旗を掲げた。長政と朝倉義景も、この包囲網の一翼を担っていた。
とりわけ元亀三年(1572年)、武田信玄が大軍を率いて西上を開始したときには、信長は東西から挟撃される絶体絶命の危機に陥った。三方ヶ原の戦いで徳川家康を蹴散らした信玄が上洛を果たせば、信長包囲網は完成し、天下の形勢は一変するはずであった。
だが運命は、長政に味方しなかった。元亀四年(1573年)四月、武田信玄が陣中で病没する。包囲網の要であった信玄の死は、反信長勢力にとって致命的な打撃であった。信長はこの機を逃さず、一気に反撃に転じた。将軍義昭を京から追放し、足利幕府を滅亡させる。続いて矛先を朝倉氏に向け、わずかひと月のうちに越前を制圧。朝倉義景は家臣の裏切りに遭って自害し、名門朝倉氏は滅亡した。
長政を取り巻く状況は、急速に暗転していった。盟友を次々と失い、信長の大軍が迫りくる中、小谷城は孤立を深めていく。かつて北近江に君臨した浅井家の威光は、もはや過去のものとなりつつあった。
小谷城の最期──妻子を送り出した男の覚悟
天正元年(1573年)八月、織田軍は小谷城への総攻撃を開始する。信長の攻撃は容赦なく、まず城の一郭である京極丸を陥落させ、本丸と父・久政の籠る小丸を分断した。久政は抗いきれず、小丸にて自害する。
長政は覚悟を決めていた。しかし、その覚悟の中に、一つだけ譲れぬものがあった。お市の方と三人の幼い娘たちの命である。
落城の直前、長政は妻と娘たちを城外へ送り出した。信長の妹であるお市の方を引き渡すことで、彼女たちの安全を確保しようとしたのである。夫と妻が最後に交わした言葉は、史料には残されていない。ただ、お市の方と三人の娘──茶々、初、江──が無事に織田軍に保護されたという事実だけが、長政の最後の願いが聞き届けられたことを静かに物語っている。
お市と娘たちを見送った長政は、家臣・赤尾清綱の屋敷に入り、そこで自害して果てた。享年二十九。浅井家三代の栄華は、ここに幕を閉じた。
落城の二日前、八月二十九日付で、長政は家臣の片桐直貞──のちの片桐且元(かたぎりかつもと)の父──に宛てた感状をしたためている。小谷城が追い詰められた極限の状況下で、なおも忠義を尽くしてくれた家臣への感謝を綴ったこの一通が、浅井長政の現存する最後の書状である。
長政は辞世の句を残さなかった。あるいは、言葉にする必要を感じなかったのかもしれない。彼の生き様そのものが、辞世であったのだから。
三姉妹が紡いだ浅井の血脈
浅井長政は滅んだ。しかし、その血は三人の娘を通じて、日本の歴史の奥深くに流れ込んでいく。
長女・茶々は、のちに豊臣秀吉の側室となり、嫡男・秀頼を産む。父の仇ともいえる男のもとに嫁いだ茶々の胸中に、どれほどの葛藤があったのか。大坂夏の陣において秀頼とともに大坂城で果てたとき、彼女の脳裏には幼き日の小谷城の光景がよぎったであろうか。
次女・初は京極高次(きょうごくたかつぐ)の正室となり、姉と妹の間をつなぐ架け橋として、豊臣家と徳川家の狭間で奔走した。戦国の世を知恵と胆力で生き抜いた、静かに強い女性であった。
三女・江は、二度の結婚を経て、徳川秀忠の正室となる。三代将軍・家光の母として江戸幕府の礎を築いた彼女の血脈は、やがて皇室にまで連なっていく。浅井長政の血は、こうして日本という国の骨格の一部となった。
義を選び、利を捨てた男の謀反。それは、勝利への計算から生まれたものではなかった。信長の側からすれば不可解極まる「裏切り」であっても、長政の側から見れば、それは武将として最後に守るべきものを守るための、宿命の決断であった。浅井長政の謀反が今なお人々の心を打つのは、そこに勝算ではなく、覚悟があったからであろう。北近江の山城に散った若き獅子は、その生き様によって、義という言葉の意味を後の世に問い続けている。