松永久秀

松永久秀(まつなが ひさひで)は通称「松永弾正(まつなが だんじょう)」の名で広く知れ渡っている戦国時代の武将です。

大和国の戦国大名であり、第一主君の三好長慶(みよし ながよし)に仕えた後は、あの織田信長に仕えていたという経歴があります。

しかし信長に仕えていながらも、2度にもわたる反逆行為を行うなど、信長に勝るとも劣らない破天荒な性格で数々の悪行を行ってきた悪名高い人物です。

一見するとあまり聞いたことのない武将ではありますが、近年では歴史のドラマやゲームなどに登場するなど、密かに人気を博しています。

数多くの暗殺や裏切りに関わっていることから稀代の悪党とも呼ばれている松永久秀ですが、その人気の秘密はどういったところにあるのでしょうか?

怒涛の時代を生き抜いた彼の生涯に迫ります。

プロフィール

松永久秀
読み方 まつなが ひさひで
別名・
あだ名
弾正(だんじょう)
乱世の梟雄(らんせのきょうゆう)
戦国三大梟雄(せんごくさんだいきょうゆう)
生年月日 1510年(永正7年)、日付不明

松永弾正久秀は、永生7年(1510年)に生まれたとされています。

生まれは摂津国、阿波国など諸説ありますが、幼少期の生涯については確たる証拠がなく、今でも謎が多い人物です。

弟に誠実な武将で知られる松永長頼(まつなが ながより)を持ち、秀久は長頼の七光りによって地位を高めたとも言われています。

家紋

鷹紋

松永弾正久秀を代表とする松永氏の家紋は「蔦紋」と呼ばれています。

蔦紋は日本十大家紋の一つとして数えられるほど有名な家紋で、諸説ありますがもともとは桐紋の代わりとして使用されたのが始まりだったようです。

蔦紋を選んだことについてははっきりとした理由は明らかになっていませんが、松平氏がもともと「葵紋」を家紋としていましたが、その葵紋が徳川家の定紋となったことをきっかけに、蔦紋に変えたといわれています。

また、将軍である徳川家に蔦のように絡まって松永家も繁栄するように、といった願いが込められていたとされています。

蔦紋の絵柄はおよそ500種類以上あるといわれており、そのどれもが美しさと力強さを兼ね備えているものばかりです。

その美しさから平安時代には貴族の衣装の紋様として用いられていたほど。いつの時代でも愛された家紋だといえますね。

松永弾正久秀が関わる刀に「不動国行(ふどうくにゆき)」「薬研藤四郎(やげんとうしろう)」が挙げられますが、このどちらも久秀が織田信長に献上したものとして知られています。

不動国行は来国行(らい くにゆき)によって鎌倉時代中期に作られた刀であり、もともとは室町幕府13代目将軍である足利義輝が所持していたものです。

薬研藤四郎は粟田口吉光(あわたぐち よしみつ)により作られた短刀で、こちらも足利家が伝来所持してきた刀だといわれています。

その両刀ともが、久秀が三好三人衆(みよし さんにんしゅう)とともに義輝を襲撃し殺害した際に分捕ったもので、久秀の手から信長へと渡っていくわけです。

久秀は2度にわたり信長を裏切るわけですが、その裏切りの許しを乞う道具として名刀を信長に献上しています。

信長は裏切り者に対して厳しい処分を下すことで有名な人物ですが、そんな信長に許してもらうことができたのは、そのずる賢さゆえに利用価値があると判断されてのことかもしれません。

子孫

久秀の子供で公にされている存在といえば嫡男である松永久通(まつなが ひさみち)です。

幼いころから父・久秀への忠誠心が強く、常にそばに寄り添って久秀とともに時代を生きた一人といえます。

久通の最期は様々な説がありますが、一説によると父・久秀とともに自爆を遂げたともいわれており、悪名高いといわれていた久秀に最期まで仕えた武将でもあったようです。

その他の子孫として久通にも2人子供がいましたが、織田信長のもとに人質として出されており、久通の死後、信長の手によって処刑されたといわれています。

一方太平洋戦争初期の時代に、海軍中将として活躍した松永貞市も久秀の子孫とされていますが、その系統は明らかにされていません。

辞世の句

松永弾正久秀は、

この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ

という辞世の句を残しています。

この辞世の句は、彼自身が何度も謀反を起こしていた主君織田信長にあてたもので、信長軍と対峙した際、謀反したことに対し久秀が所有していた名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を渡せば許してやろうと言った信長に対する拒否の言葉です。

平蜘蛛の釜どころか自分の首すら絶対に渡しやしないというところに彼の皮肉を込めた想いが感じられますね。

この辞世の句を残した後、信長に渡すまいと平蜘蛛の釜をかち割ったという話もあるほど。最後まで悪役を貫き通していたその信念に魅力を感じる人が多いのかもしれません。

家臣

久秀の家臣で欠かせない人物といえば本多正信(ほんだ まさのぶ)でしょう。

本多正信はのちに江戸幕府の老中として徳川家康とともに幕政を大きく揺るがす武将です。

とはいえ久秀に仕える前はもともと家康に仕えていたとされています。かの有名な桶狭間の戦いでは膝に負傷を負ってまで家康とともに戦った経験も。

家康の元を離れ、久秀の家臣となってからもその才能から久秀には大変信頼を置かれていたようです。

その人生からも正信は参謀として主君に仕えるのが大変上手かった人物ともいえます。

松永弾正久秀について

ここまで松永弾正久秀について様々な観点から見てきましたが、彼の魅力は悪名だけに留まりません。

戦国のダークヒーローとも呼ばれる久秀がどんな人物であったか、彼の人生からさらに読み解いていきましょう。

戦国三大梟雄

戦国時代、久秀は日本に悪名をとどろかせた武将として有名ですが、他にも悪行を行っていた武将に「北条早雲」「斎藤道三」がいます。

彼らは人呼んで「戦国三大梟雄(せんごくさんだいきょうゆう)」と呼ばれており、その中でも久秀は戦国の大悪人として一際注目されていたようです。

久秀がやってのけたこととして、主家の三好家を裏切り長慶の弟や嫡男を暗殺したという説があります。

とはいえ、この暗殺説の後しばらくも三好家に仕えていたことや、長慶への忠誠を促す言動を残していることからその真意は定かではありません。

長慶の死後、三好三人衆とともに室町幕府13代目将軍であった足利義輝を暗殺します。

首謀者が久秀であるという有力な説は残されてはいませんが、将軍暗殺を黙認し、虎視眈々と政権を握ろうと動いていたのではないかといわれており、いずれも将軍の首をとるという大それたことをやってのけた大悪人といえますね。

その後は、三人衆との対立となり東大寺の大仏を焼き討ちしたという悪行を行っています。

そんな久秀の悪行ぶりに思わずあの信長も、

「この老人はまったく油断ならん。常人では一つとして成せないことを三つも成している」

と家康に紹介したといわれています。

3つとは、

  1. 主君である三好長慶の暗殺
  2. 室町幕府13代将軍、足利義輝の暗殺
  3. 奈良東大寺大仏の焼き討ち

です。

悪行を働いていながらも、信長に一目置かれるその魅力は久秀ならではのものかもしれません。

日本初?のクリスマス休戦

久秀のエピソードで有名なものに「日本で初めてクリスマスを理由として休戦を行った」というものがあります。

これは三好三人衆と交戦しているとき、戦況が不利な状況にあった久秀はキリシタンが多く在籍していた三好方に対してクリスマスを理由に休戦を命じたといわれているものです。

このエピソードについて具体的な文献は残っていませんが、一説によると松永氏に仕える兵たちと三好三人衆に仕えるキリシタン兵たちが仲良くミサでパーティを開いていたといわれています。

頭が働く武将であるのか、はたまたずる賢い武将であるのか、いずれにせよ久秀によるクリスマス休戦がなかったら、現代にクリスマスは浸透していなかったかもしれませんね。

城作りの名人

多聞櫓(写真は大阪城)

悪行ばかりが目立つ久秀ではありますが、優秀な武将であったと評価されています。

特に城づくりについては名人ともいわれており、自身が築城した多聞山城(たもんやまじょう)の城門と櫓を一体化させた造りは先進的な今までにない城であったとのこと。

多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれるその造りは、その後の日本の建城へ大きな影響を与えたとされています。

なお、天守閣の先駆けを造ったとも言われており、そういった点から先見の明を持ち合わせていた人物であることが伺えますね。

茶器コレクター

久秀は戦国武将としては珍しく茶器を集めるのが趣味であったとされています。それはもはやコレクターともいわれる域で、高級な茶器や名器と呼ばれる茶器・茶釜も数多く持ち合わせていたようです。

その変わった趣味が信長の目にもとまり、久秀が信長へ仕える際にも名茶器「九十九髪茄子(つくもなす)」を差し出して気に入られています。

豪快な悪行をなんども働きつつも、繊細な美や名器に対する美的センスを持ち合わせていた、なんとも飽きさせない武将です。

織田信長を二度も裏切る

久秀の悪名高い理由のひとつに織田信長への裏切りがあります。

暴君としても恐れられていた信長をなんと二度にわたり裏切るといった経験を持つ、鋼の心臓の持ち主ともいえるでしょう。

驚きなのはあれほど裏切り者に厳しいとされる信長が一度目の裏切りを許すほどの人材であったこと。

この事実からだけでも久秀の本来の実力と名将ぶりを見ることができます。

壮絶な最後、信貴山の戦いで爆死

松永弾正久秀の人生は面白い話でたくさんですが、なんといっても久秀最大のエピソードといえば彼自身の最期といえます。

久秀は最期の主君であった信長を裏切り、信貴山城(しぎさんじょう)に立てこもり反発の姿勢を見せます。

それに対し信長は名器である「平蜘蛛茶釜」を差し出せば許してやろうと声をかけますが、なんと久秀はそれに反論。

加えて信長に対し「平蜘蛛の釜と俺の首の二つは信長に見せるものか。粉々に破壊することにする」といった言葉を残し、平蜘蛛に火薬を詰めて自身もろとも自爆したのです。

この壮絶なエピソードは後々「日本で初めて爆死した男」として語り継がれることになります。

怒涛の人生を生き、最期は大団円で人生の幕を閉じた松永弾正久秀。

彼の最期まで自分の信念を貫き通す強い志と、数々の悪行をこなすことのできた頭の回転の早さは、歴史上でも深く名前の残る武将として語り継がれていくことでしょう。

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