最上義光

最上義光

【サマリー(リード文)】
大きな身体を駆使して、巨大な鉄の棒を振り回して戦場を駆け回った武将、最上義光。

身体だけでなく、頭を使って戦った策略家であることでも知られています。

愛する娘の死に震えながらも強く生き、関ヶ原の戦い後には57万石の大大名となり、最上家を一代で名家に押し上げた人物です。

魚の鮭を好み、「鮭様」などと呼ばれ、海の近くの領土を手に入れるために心血を注いだりもしました。

最上家の行く末を案じつつ、69才で病死した最上義光の、魅力に迫っていきたいと思います。

【プロフィール】
最上義光(もがみ よしあき)は、天文15年(1546年)1月1日生まれ。血液型は不明。
14才で元服して義光と名乗るまで、「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれていました。

身長が180cm~190cmもあったと言われていて、男性の平均身長が157cmしかなかった戦国時代としては、かなりの巨人です。

子供の頃から力が強く、大人8人がかりでやっと押せるような大石を、当時15才の義光が1人で軽々と転がした、というエピソードがあります。

容姿に関しては、肖像画が1枚と、「顔つきは色白で、冷静な印象のまなざし」と表現された文献が残っています。白寿丸と呼ばれていたのも、肌が白かったことが由来なんでしょうか。

【家紋】
最上家の家紋は、「丸に二両引き」です。丸の中の二本の線は竜を表していて、二匹の竜が天に昇ることを意味しています。

最上家は尾張の守護大名である斯波氏の分家にあたり、斯波氏は足利氏の一門なので、足利家で代々使われていた「丸に二両引き」の家紋を使用していました。

のちに義光の妹の義姫が伊達家に嫁いだことで、伊達家から贈られた「竹に雀」も最上家で使われました。

が、57万石の大大名になってからも、先祖代々の家紋である「丸に二両引き」を使い続けた義光。歴史と伝統を重んじる、そんな性格だったのかもしれません。

【刀】
義光の愛用していた武器は、日本刀ではなく、その2倍の重さを誇る「金砕棒(かなさいぼう)」です。

硬い木を鉄で補強した棒で、敵を斬るのではなく、叩き殺す。
鎧や兜でガッチリ固めている相手を日本刀で斬ることは難しいですが、全長2メートル、重さ約1.8kgもある鉄の棒で殴られたら、骨ごと粉砕されてしまいます。

身体が大きく、人一倍力の強かった義光だからこそ使いこなせた、重装備です。
「戦場ではなく、日常生活の中でも握っていた」という話もあるほど、義光はこの武器を愛していました。

【兜】
義光の兜は、「三十八間金覆輪筋兜(さんじゅうはちけんきんぷくりんすじかぶと)」と呼ばれる兜。

織田信長から贈られた兜で、家紋の1つである「竹に雀」が刻まれているのが特徴です。

義光が54才のときに出陣した慶長出羽合戦において、敵将である直江兼続の鉄砲隊に撃たれたとき、この兜のおかげで一命を取り留めたというエピソードがあります。撃たれたときのあとが残っています。

金砕棒と並んで、最上義光を象徴するアイテムの1つです。

【甲冑、鎧】
義光の甲冑や鎧に関するエピソードはあまり残っておらず、武器や兜に比べてそんなにこだわりがなかったんじゃないかと思います。

豪傑肌の人物を好んでいたという逸話もあり、防具にこだわるより武器を磨く、そんな性格だったんじゃないでしょうか。

【娘「駒姫」】
義光の娘、駒姫は、東国一の美少女として知れ渡り、当時の関白だった豊臣秀次から「15才になったら側室になれ」と言われ、義光は逆らえずに嫌々ながらも駒姫を嫁がせることにしました。

しかし、駒姫が京都に到着してすぐに秀吉の命令で秀次が切腹してしまい、実質まだ側室になっていないどころか秀次と会ってすらいないにもかかわらず、駒姫は他の側室たちと一緒に処刑されてしまいました。

あまりにもかわいそうですね。15才の女の子が山形から京都まで歩いて、嫌々嫁に行ったら処刑されたって。

義光は必死に助命嘆願しましたが、秀吉が聞き入れるのが間に合わず、あと少しで助かる前に処刑されてしまったそうです。

悲しみにくれている義光にさらに「伊達家と共謀し、秀次に加担して天下を狙っている」という疑いがかけられ、謹慎処分を受けました。

嫌々差し出したかわいい娘を殺され、身に覚えのない疑いをかけられた義光は、秀吉への憎悪を募らせ、この事件が5年後の慶長出羽合戦で徳川側につくきっかけになりました。

戦国武将である前に、娘を持つ1人の父であり、人間味のある人物であることがわかりますね。金砕棒で秀吉をぶん殴りたい気持ちだったと思います。

さらに娘を失ったショックで正妻も自殺してしまい、義光にとっては「不幸」という言葉では言い表せないぐらい、悪いことが重なってしまいました。

【死因と最後】
義光は66才のころ、駿府城の改築完成を祝うために駿府に行ったぐらいから、病気がちになりました。

晩年は嫡男(ちゃくなん)である最上義康との仲が悪く、義康は高野山に入る旅の途中で暗殺されましたが、この暗殺は義光がやったのではないかという説があります。

果たして、病気がちで老齢だった義光に暗殺できたかどうか。

そして3年後の69才のとき、再度駿府城に行き、徳川家康に最上家の今後を頼んだあと、病死しました。

病気の身体を引きずってまで駿府まで出向き、家康に謁見した義光は、心から子孫のことを気にかけていたんだと思います。

不仲だった嫡男の義康があとを継ぐことは無くなりましたが、次男である最上家親がうまくやっていけるかどうか、死ぬ間際まで心配だったんじゃないでしょうか。

【墓】
義光の墓は、山形県山形市にある光禅寺にまつられています。

光禅寺には墓のほかに、金砕棒をかまえて馬にまたがった、義光の銅像も置かれています。

【子孫・末裔】
義光の死後、次男である家親があとを継いだものの、たった3年で毒殺されてしまいました。

その後あと継ぎ問題でもめて最上家は分裂し、幕府から改易を命じられてしまい、義光が一代でのし上げた最上家は、輝きを失っていったのでした。

「『親子の仲があまりよくないので和解したい』と書いた義康の遺品の日記を読んで、義光は号泣した」という説もあり、本当に義康を暗殺したのかどうかは謎のままです。

文武に優れていたといわれる義康があとを継いでいたら、もしかしたら最上家の栄光は続いたのかもしれませんね。

【最上義光について】
領民たちを無駄死にさせないため、ときには卑怯という見られ方をしても、敵をじわじわ弱らせる戦い方をした最上義光。
豪快でもあり、人情家でもあった人物でした。エピソードをいくつか紹介します。

・鮭好き大名
義光は「鮭様」と愛称をつけられるほど鮭が大好きでした。2人の大名を自害させ、1人の大名を追放し、ようやく海につながる庄内を支配したときは、「これで好きなだけ鮭が食べられる!」と大喜びしたんだそうです。

庄内を手に入れる際に追放した大名の父親に、のちに庄内を奪い返されてしまい、豊臣秀吉に交渉してまで取り返そうとしましたが、失敗。

秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで徳川に味方して戦った功績として、再び手中に収めました。
義光はつくづく秀吉のことが嫌いだっただろうと思います。

・最上氏の復権と伊達氏からの独立を目指す
もともと最上氏は名門斯波氏の一族で、出羽を支配する羽州探題を任じられる名家でした。
が、9代当主の最上義定が伊達稙宗に敗れたことで、最上家は伊達家の臣下として従うことになりました。

義定は亡くなってしまい、その息子の最上義守が、当時2~3才で最上家のあとを継ぐことに。
この義守の活躍で、最上家は伊達家との家督争いに勝利し、伊達家から独立することに成功します。

そんな義守の嫡男として生まれたのが、最上義光です。
義光があとを継いだとき、「今更義光に従ういわれはない」などと言ってほとんどの臣下が従わず、一度地に落ちてしまった最上家を、再び立て直す必要がありました。

そのために大規模な免税など内政に力を入れ、領民に対してとても優しかったので、義光の統治下では一揆は一度も起こらなかったといいます。

気は優しくて力持ち。そんな言葉が、最上義光にはぴったりです。

・謀略にも戦闘にも優れ「羽州の狐」と呼ばれる
戦場では2メートルの鉄の棒を振り回す豪快な義光ですが、調略で敵を切り崩し、弱ったところを力攻めするのが得意でした。

知略に優れた戦いぶりから、「羽州の狐」、「虎将」などと呼ばれていました。

庄内を手に入れる際に、大名を「殺した」のではなく「自害させた」ところからも、猪突猛進タイプではないことがわかりますね。

領民が無駄に死んでしまわないようにやっていることなのですが、そういう戦い方が原因で、悪役のイメージが強くなってしまっています。

伊達家に政略結婚させられた妹の義姫と並んで、「悪の兄妹」などと表現されることもありますが、最上義光は人情家としても知られています。

やはりみんな、正面から堂々と突っ込んで行くタイプのほうが、感情移入できるんでしょうかね。

・秀次事件後、家康へ接近し、出羽57万石へ
娘の駒姫が処刑されてしまった悲しい事件後、家康側に味方して関ヶ原の戦いに参戦し、57万石の大大名に上り詰めた義光。

秀吉への全ての怒りをぶつけ、最上家を再び名家の座に着かせました。

義光が生まれたときは伊達家から独立して間もなく、名家とは程遠い位置にあった最上家。
自分の代で途絶えさせないために、決死の思いがあったんだと思います。

持って生まれた腕力だけでなく、頭を使って戦い、立ち回り、悲劇にも心が折れることなく、強く生きた武将でした。

よろしければ他の方にもご紹介ください

ABOUTこの記事をかいた人

パワーボム

元パチスロライターの、現フリーライター。スロッター時代にパチスロ戦国無双を打ったことがきっかけで、戦国時代に興味を持ちました。真田幸村、前田慶次、服部半蔵の中では服部半蔵派です。3人とも実在するけど、正式な名前じゃないんですよね。歴史初心者が読んでもわかりやすくて読みやすい記事を目指して、書かせてもらいました。楽しく、途中で疲れずに読んでもらえていたら嬉しいです。