片倉小十郎景綱

サマリー(リード文)
近年、大河ドラマや歴史関係のアニメ・ゲームなどで急速に知名度を上げている片倉景綱。一般的には「片倉小十郎」という名で知れ渡っており、聞き馴染みのある人も多いのではないでしょうか。かの有名な伊達政宗の家臣として活躍した武将で、軍師のような役割を果たしていたとされています。非常に頭が良かったといわれている片倉景綱、彼はいったいどんな武将だったのでしょうか?その人生と彼の魅力に迫ります。

■プロフィール
片倉小十郎景綱は、弘治3年、現在の山形県に位置する米沢八幡神社の神職であった片倉景重の次男として生まれました。母は本沢刑部真直の娘で、もともとは伊達家の評定役であり、伊達家家臣である鬼庭良直の夫人でしたが、男児の出産に恵まれず離縁となり、片倉家に再嫁します。その後、誕生したのが片倉景綱でした。
ちなみに良直との間に生まれた娘・喜多はのちに伊達政宗の保母であったとされています。神職の子として生まれた景綱ですが、幼いころに両親ともに失ってしまいます。景綱には異母兄がいたことから神職を継ぐことはできず、姉であった喜多に育てられた後、親戚である藤田家に養子として預けられています。しかし、藤田家に実子が誕生すると、景綱は追い出され再び喜多とともに暮らしました。
たらいまわしにされていた少年期の苦労は後の景綱を大きく成長させるきっかけだったといわれています。
また、姉であった喜多は文武両道に通じており、姉の影響を受けてか剣術、知識ともに兼ね備えた武将であったようです。
その結果あり幼少期には文武両方の分野で天才と称されるほどの腕の持ち主でした。

□家紋
片倉家の家紋は伊達家と同じ「九曜」「丸に竪三引両」だったとされています。基本的に主君と同じ家紋を使用することはあまりなかった時代でしたが、片倉景綱は伊達政宗から別格で特別扱いを受けており、家紋を伊達家より拝借していたとされています。
しかし片倉家の先祖を納めている傑山寺には「ばら藤に井桁」と呼ばれる紋が伝わっており、片倉家代々の家紋としては「ばら藤に井桁」が有力な説として唱えられています。

□刀
景綱が使用した刀は現存では残っておらず、刀の名前も不明とされています。しかし、幼少期から剣術に長けていたことや、戦場での活躍から良く切れる刀を使いこなしていたともいわれているようです。

□兜
景綱が使用していた兜は「神符八日月前立筋兜」と呼ばれているものです。その名の通り八日月を催した前立てが特徴的で、八日月の前立ての上に軍神として信仰されていた「愛宕山大権現守護所」の御札を立てていたとされています。

□甲冑
景綱の甲冑は刀と同じく現存されていないとされていますが、記録に残っている限りですと、仙台市博物館所有のものである最古の肖像画に描かれているものが景綱が使用していたものとされています。しかし、肖像が描かれた段階で現存していたものはなかったため、想像によって描かれたものともされています。

□墓
景綱の墓は片倉家の先祖が眠る菩提寺である「傑山寺」にあります。現在は観光名所として訪れることもできる場となっており、彼の魅力を知ろうと訪れる人も増えてきています。

□居城「白石城」
片倉氏が居城としていた白石城は、伊達氏の支配下にあったものを豊臣秀吉に没収され、後に伊達政宗によって関ヶ原の戦いの際、再び攻略されています。
この攻略により、伊達政宗から景綱へと分地されたことで片倉氏の居城となりました。景綱の手に渡ったあと、大改修が行われ、以降明治維新まで以後明治維新まで260年ほどの間、片倉氏の居城であったとされています。
中世を感じさせる造りが取り入れられており、戦への備えは万全であったことから長期に渡り城として機能させることができたようです。日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であったともいわれています。

□嫡男「重長」
景綱の嫡男であった重長は、伊達政宗・忠宗・綱宗の3代に仕え、景綱と同じく小十郎を名乗っていました。
その能力は父・景綱に並ぶほどのもので、病床についていた景綱の代わりに出陣した大坂夏の陣では、正宗の指示のもと奮戦し功績を残しています。この際、一軍の主将でありながらも自らが剣をとり、恐るべき知識と武力を発揮していたことから「鬼の小十郎」の異名をつけられています。

□子孫
景綱の死後は、重長が家督を継ぎ、伊達家に仕えており、主君伊達忠宗によって最高家格ではないにしろ特別ともいえる家格「一家」を獲得しています。江戸幕府からも独立大名のような扱いを受けており、片倉家は別格としての扱いを受けていました。それも景綱の功績があってのことといえるのではないでしょうか。

■片倉景綱について
片倉景綱といえば伊達政宗から大いなる信頼を得ていた家臣として知られています。景綱が正宗から信頼を得ることができたのはなぜなのか、彼の知られざる実力とともにご紹介していきます。

□伊達正宗との関係
景綱は幼いころ米沢で起こった大火の際、自らの危険を顧みず、積極的に町の火消しを行ったことからその当時の主君であった伊達輝宗に見染められ、小姓として使えたことが伊達家との関わりでした。18歳になるころには正宗のそばに仕え、正宗が主となったほとんどの戦に参戦し、どれも伊達家に多大な貢献をしています。
正宗と景綱の信頼関係がわかるエピソードとして、正宗の右目の秘密があります。伊達政宗といえば独眼竜といわれ、眼帯をしている外見が特徴ですが、実はあの右目は景綱によって抉り出されたものだといわれています。
正宗の右目は天然痘を患ったことによって失明。眼球が飛び出ているような状態だったことを嫌がり正宗は人前に出ることを恥じらうようになります。その見苦しさを見た景綱が正宗の右目を抉り出したといわれています。それを機に正宗は改心し、積極的に戦へと出向くようになったというエピソードです。
現在では正宗の右目は抉り出されたわけでなく、病気であったために必然的に失明をし眼球を失ったとされていますが、この正宗と景綱のエピソードが本当であったかどうかは定かではありません。
家臣が主君を平気で裏切ることが多かった時代でここまで一家に忠心し、主君のために貢献したのは景綱ならではといっても良いでしょう。こういった説が唱えられるほど2人の信頼関係は絶大なものであったともいえますね。

□智謀の将
景綱は伊達政宗に仕えていたときは軍師的な役割を勤めていたとされており、非常に頭のよい智謀、知略に優れた武将でした。戦時下では謀略を練っていた景綱でしたが、平時には伊達氏の内政にもその手腕を発揮していたとされています。伊達藩60万石の創設にも大きな役割を果たし、その後の伊達家に大いに貢献したといわれています。

□名言「墨のゆがみたるは すぐになるものにて 人の心は知られぬものに候」
景綱が老年になった際に残した言葉です。ある日景綱の手跡をみた幼子が「墨跡が曲がっている、それは心が曲がっているからだ」と生意気な口をききました。それに対し景綱は「字の歪みは正せるものだ。表面的なことに惑わされるのではなく、人の胸深くに潜む心を知るように心がけなさい」との意味をこめてこの言葉を残したといわれています。
幼少期から苦しい環境を生き抜き、伊達政宗に仕えてきた景綱だからこそ、人の本質を見抜くことが大切だと教えてくれる一言ですね。

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