織田信長の功績が日本を変えた――破壊と創造の生涯を追る

織田信長イラスト

天正十年六月二日、京都本能寺の炎のなかに消えた男の名を、四百余年を経た今日もなお、日本人は忘れることができない。織田信長。戦国の世に生まれ、旧弊を打ち砕き、新しき秩序の礎を築いたその功績は、単なる武功の連なりにとどまらない。経済を、軍事を、そして人々の暮らしそのものを根底から変えた、壮大な破壊と創造の軌跡である。

信長が遺したものの大きさを知るためには、彼がいかなる時代に生き、いかなる覚悟をもってその道を歩んだのかを、丹念に辻らねばならない。うつけと嘗われた少年がやがて天下人の座に手をかけるまでの物語には、功績という言葉だけでは汲みつくせぬ、ひとりの人間の凄まじい生き様が刻まれている。

うつけと呼ばれた若き日の覚悟

天文三年(一五三四年)、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生を受けた信長は、幼名を吉法師といった。幼少の頃から野山を駆け回り、身分を問わず誰とでも遊び、町人や百姓の子らと相撲をとっては泥だらけになって帰る。袴も着けず、腰に瓢箪をぶら下げ、柿や餅を頬張りながら町中を闊歩する。馬術と水練には殊のほか熱心であったというが、行儀作法には一向に関心を示さなかった。父・信秀の葬儀に際しては、正装もせずに位牌の前で抹香を鷲掴みにして投げつけるという前代未聞の蛮行に及び、居並ぶ家臣たちを愕然とさせた。人々は口を揃えて「尾張の大うつけ」と呼び、信秀の跡継ぎとしての資質を疑う者も少なくなかった。

だが、そのうつけぶりの裏に潜む鋭い眼差しに気づいていた者がいた。僅役の平手政秀である。信秀の代から織田家を支えた老臣は、吉法師の奇行の底に流れる、常人には見えぬ何かを感じとっていたのだろう。政秀は信長の教育に心血を注ぎ、武芸のみならず外交や政治の機微を教え込んだ。美濃の蟀と恐れられた斎藤道三との会見を取り持ったのも政秀であり、この会見で道三が信長の器量を見抜いたという逸話は、政秀の慧眼をも物語っている。尾張織田家が戦国の世を生き延びるための基盤を築くうえで、平手政秀が果たした役割は計り知れないものがあった。

天文二十二年(一五五三年)、その政秀が突然みずから命を絶った。享年六十余とも伝えられる。その死因については、信長の奔放な振る舞いを諫めるための「諫死」であったと長く語り継がれてきた。だが近年の研究は、実子との不和や家中の複雑な人間関係、さらには織田家を取り巻く政治的な軌轢が背景にあった可能性をも指摘している。真相は今なお歴史の闇のなかにあるが、いずれにせよ、幼き日から「じい」と慕った老臣の死は、若き信長の胸に消えぬ傷を刻んだ。信長は後に政秀の菩提を弔うために政秀寺を建立し、沢彦宗恩を開山に迎えてその魂を手厚く供養している。うつけと蔑まれながらも、恩ある者への情愛を決して忘れぬ一面が、ここにすでに現れている。

政秀の死後、信長は弟・信行との家督争いを制し、尾張統一へと歩を進めてゆく。その過程で彼の胸中にあったものは、単なる支配欲ではなかった。旧い秩序が音を立てて崩れゆく戦国の世にあって、力によって新しき世を切り拓く以外に道はない。その確信こそが、後に「天下布武」の思想へとつながってゆくのである。

桶狭間に響いた雷鳴――運命を切り拓いた一戦

永禄三年(一五六〇年)五月、駿河・遠江・三河の三国を治める太守・今川義元が、二万五千とも四万五千とも号される大軍を率いて尾張へ侵攻した。対する信長の手勢はわずか数千。家中の動揺は激しく、籠城を唱える者、降伏を勧める者も現れた。誰もが織田家の滅亡を覚悟していた。

五月十八日の夜、清洲城に集まった家臣たちは口々に対策を論じたが、信長はまるで関心がないかのように世間話を続け、やがて「もう遅い。帰って休め」と告げた。家老たちは呆然とし、「運の末には知恵の鏡も曇る」と信長を嘲ったという。だが信長の胸中には、まだ誰にも明かさぬ勝機への直感が研ぎ澄まされていた。

翌五月十九日未明、丸根砦・鷫津砦が今川の先锋に攻め落とされたとの報せが届くと、信長はおもむろに立ち上がり、幸若舞『敦盛』の一節を謡いはじめた。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」

その声は、まだ薄暗い城の広間に厳かに響いたことだろう。人の一生など、天上の時の流れに比べれば瞬きにも満たぬ幻にすぎない。されば、この刻那を全力で生きるのみ。信長は立ったまま食事を済ませ、わずか六騎を従えて城を飛び出した。

熱田神宮に参じて戦勝を祈願し、善照寺砦で兵を集めた信長は、義元本陣が陣を敷く桶狭間山を目指した。太田牛一が記した『信長公記』の記述によれば、信長は山道を迂回して背後から奇襲したのではなく、正面から堂々と突撃を敢行したとされる。折しも天が味方したかのように激しい雷雨が戦場を覆い、大粒の雹が降り注いだとも伝えられている。視界を奪われた今川軍は陣形を崩し、混乱の極みに陥った。嵐のなかを死に物狂いで駆け抜けた信長の兵たちは、ついに今川義元の首級を挙げたのである。

桶狭間の戦いは、信長の功績を語る上で欠かすことのできない原点である。圧倒的な劣勢にあっても、地形と天候と時機を読み、機を見て果断に動く。その姿は、後に天下の半ばを制する覇者の片鱗を鮮やかに示していた。義元の首を取った毛利新介に対しては、後に厚く報い、功ある者を正当に遇する信長の実力主義もまた、この一戦から芽を出していた。桶狭間をもって信長の名は東海から畿内にまで轟き、尾張の小大名は一躍、戦国の主役として歴史の表舞台に躍り出たのである。

天下布武の旗印のもとに

桶狭間の勝利は信長に貴重な時間を与えた。今川氏の脅威が去った後、信長はまず東に三河の徳川家康と清洲同盟を結び、背後の安全を確保した。そして西へ目を転じる。標的は美濃国――義父・斎藤道三が討たれて以来、混乱を深める斎藤家の領国である。

七年にわたる美濃攻略は、信長の粘り強さと戦略眼を示す功績であった。調略と武力を巧みに使い分け、稲葉一鉄ら美濃三人衆の寝返りを誘い、永禄十年(一五六七年)ついに稲葉山城を攻め落とす。信長は城と町の名を「岐阜」と改めた。中国の周の文王が岐山から天下を平定したという故事に倣い、自らの志をその名に託したのである。

そしてこの時、信長は「天下布武」と刻まれた印判を用いはじめた。武をもって天下に秩序を敷く。それは単なる武力制圧の宣言ではなく、古き権威に頼らず、自らの力で新たなる世のかたちを創り上げるという政治的意思の表明であった。

翌永禄十一年、信長は流浪の将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たす。義昭を第十五代将軍の座に就けることで、形式上は幕府の擁護者として畿内に進出したのである。だが義昭との蜜月は長く続かなかった。将軍の権威を利用しつつも実質的な統治権を自らに集中させようとする信長と、傀儡に甘んじることを拒む義昭の間に、亀裂は日増しに深まった。義昭は武田信玄、朝倉義景、浅井長政ら諸大名に密書を送り、「信長包囲網」を形成して対抗しようとする。

元亀四年(一五七三年)、ついに信長は義昭を京から追放し、事実上、室町幕府を終焉に導いた。二百年以上にわたって日本の統治の柱であった幕府体制を、ひとりの武将が終わらせたのである。この決断は信長の功績のなかでもとりわけ重い意味を持つ。彼は古い秩序を壊すことを恐れなかった。壊した先に何を築くかという構想を、すでに明確に胸に抱いていたからである。

それは旧来の地方分権的な支配構造を脱し、ひとつの強力な中央政権のもとに天下を統べるという、中世から近世への大転換の構想であった。家臣たちの領地を頻繁に替え、土地に根ざした独立性を削ぎ落とすことで、すべての権限を織田政権という中央に集約する。この発想は、のちに豊臣秀吉の太閤検地、徳川家康の幕藩体制へと受け継がれ、近世日本の政治的骨格を形づくる設計図となったのである。

楽市楽座と関所撤廃――民を潤した経済革命

信長の功績を語るとき、戦場での武勲と並んで忘れてはならないのが、経済政策における革新である。なかでも「楽市楽座」と関所の撤廃は、日本の商業史における一大転換点であった。

戦国の世において、商工業者たちは「座」と呼ばれる同業組合に属し、公家や寺社に税を納める代わりに独占的な営業権を手にしていた。新たに商売を志す者がいても、座の壁に阻まれて参入は叶わない。物流は硬直し、物価は高止まりし、その負担は結局、農民や町人の肩にのしかかっていた。

信長はこの旧弊を一刀両断にした。座の特権を廃止し、誰もが自由に商いを行える市場――「楽市」を開放したのである。城下町に商人を積極的に呼び寄せ、市場税を免除することで人と物の流れを活性化させた。美濃の加納、近江の安土をはじめ、信長が治める領国の城下町は次々と賠わいを見せ、戦乱に疲弊した人々の暮らしに活気が戻りはじめた。

さらに信長は、領国内の関所をことごとく撤廃した。戦国の各地には領主や寺社が街道の要所に関所を設け、通行税を徴収していた。これは商人にとっても旅人にとっても重い負担であり、物流を大きく妨げる障壁であった。たとえば美濃と尾張を往来する商人は、わずかな距離を移動するだけでも幾度となく通行税を取られ、荷の値は道中で膨れ上がっていた。信長はこれらの関所を悉く廃し、街道の安全を保障することで、人と物と金が自由に行き交う開かれた経済圏を実現したのである。道が開かれれば人が集まり、人が集まれば市が立つ。その循環は、戦国の世に苦しむ庶民にとっても、確かな希望の灯であった。

この経済革命の意義は、信長自身の軍事力の源泉となった点にもある。活発な商業は莫大な富を生み出し、その富は鉄砲の大量調達や常備的な兵力の維持を可能にした。経済と軍事を表裏一体のものとして捕らえ、両輪で天下取りを推し進めた信長の先見性は、同時代の武将たちの発想を大きく凌駕するものであった。

もっとも、楽市楽座の制度そのものは信長の完全な独創ではない。近江の六角定頼が先駆的に実施した例がすでに知られている。しかし、それを制度として広範囲かつ強力に推し進め、天下規模の政策として昇華させたのは、紛れもなく信長の功績である。座の背後にいた寺社や公家といった中世的な既得権益層から経済的な支配権を奪い取り、新たな権力の基盤を自らの手で築き上げた。その果断さは、旧弊を打ち壊す信長の本領が遺憾なく発揮された瞬間であった。

長篠の硝煙と安土の天主

天正三年(一五七五年)五月、三河の長篠城をめぐり、織田・徳川連合軍と甲斐の名門・武田勝頼の軍勢が激突した。世に名高い長篠の戦いである。

従来、この合戦は信長が三千丁もの鉄砲を三段に並べ、装填の間隙を埋めながら絶え間ない連続射撃を行う「三段撃ち」によって武田の精鋭騎馬隊を壊滅させたと語られてきた。だが近年の研究は、この華々しい「三段撃ち」の逸話が『甫庵信長記』など後世の軍記物に由来する可能性を指摘している。一次史料である『信長公記』にも、三段に分けたという具体的な記述は見当たらない。

実際の戦場では、信長は馬防柵を巧みに張り巡らせ、武田軍の猛烈な突撃を受け止めながら、鉄砲隊に準備が整った者から順次柔軟に射撃を行わせたと考えられている。武田氏もまた早くから鉄砲を導入しており、単純に「鉄砲対騎馬」という構図では語り切れない。しかし、当時としては異例の規模で鉄砲を集中運用し、それを支える財力と補給体制を万全に整えたこと自体が、信長の軍事的功績の真髄であった。

津島や堰といった交易の要所を掌握し、近江国友村の鉄砲鍛冶から大量の銃器を調達できたのは、楽市楽座や関所撤廃が生み出した経済基盤があればこそである。経済力が軍事力を支え、軍事力がさらなる経済圏の拡大を保障する。その好循環こそが信長の強さの本質であり、戦国の世に新たな戦いのかたちを示した功績であった。

長篠の勝利から翌年の天正四年、信長は近江国安土の地に壮大な城の築城を命じた。安土城である。琵琶湖のほとり、京都と東海道を結ぶ交通の要衝に聳え立つこの城は、それまでの日本のどの城とも異なる、まったく新しい存在であった。

五層七階の天主は金箔と極彩色に彩られ、内部には狩野永徳の筆による豪壮な障壁画が飾られた。最上層には仏教と儒教の世界観を融合させた絵画が描かれ、その下層には鷹の図や花鳥画が配されたと伝えられる。吹き抜けの構造を持つ天主は、それまでの日本建築の常識を覆すものであり、宣教師ルイス・フロイスも「ヨーロッパの最も壮麗な城にも劣らぬ」と驚嘆の記録を残している。それは軍事施設というよりも、天下人の権威を万人の目に焼きつけるための政治的な装置であった。家臣たちを城下に集住させ、楽市楽座を開き、経済と軍事と統治の機能を一点に凝縮した安土城は、信長が思い描いた新しい国のかたちそのものの具現であった。

天正九年の正月には、安土城下で盛大な馬揃えが催され、京から公家衆を招いてその威容を天下に誇示した。信長は天主の最上階から眼下の城下町を見渡し、琵琶湖の水面に映る朝陽を眺めていたという。その眼差しの先にあったのは、もはや中世ではなく、来たるべき近世の夜明けであったに違いない。

炎に消えた覇道、遺された功績

天正十年(一五八二年)、信長は天下統一の総仕上げに取りかかろうとしていた。三月には甲斐の武田氏を滅ぼし、中国地方の毛利氏を攻めるべく羽柴秀吉を先遣していた。四国攻めの準備も着々と進んでいる。天下布武の完成は、もはや目前に迫っていた。

六月一日、信長は京都本能寺に宿泊していた。中国方面への援軍を指揮するための途上であったが、身辺にはわずかな小姓たちを従えるのみで、ほぼ無防備な状態であった。翌二日未明、突如として明智光秀の軍勢一万三千が寺を取り囲む。

「是非に及ばず」

光秀が謀反を起こしたと知らされた信長は、驚きのなかにもそうもらしたと『信長公記』は伝えている。もはや議論も後悔も意味をなさぬ。為すべきは、ただ戦うのみ。信長は女房衆を逃がした後、みずから弓を取って矢を放ち、弦が切れると次いで槍を振るって奮戦した。しかし、やがて肘に槍傷を受けて退き、御殿の奥に姿を消す。そして寺に火を放ち、紅蓮の炎のなかに没した。享年四十九。その遺骸は、ついに見つからなかった。

奇しくもそれは、桶狭間の朝に謡った「人間五十年」の詞章に、わずか一年足りぬ生涯であった。だが、その短い生涯に信長が遺した功績の重みは、日本史の流れそのものを変えるほどに巨大であった。

桶狭間の戦いで天下に名を轟かせ、室町幕府を終わらせて中世の幕を引き、楽市楽座と関所撤廃で経済を解き放ち、鉄砲の集中運用で合戦の様相を一変させ、安土城で中央集権国家の雛型を眼前に示した。そのいずれもが、信長なくしては成し得なかった革新であり、後の世に計り知れぬ影響を与えた功績である。

信長の死後、羽柴秀吉がその構想を引き継いで天下統一を成し遂げ、太閤検地と刀狩りによって兵農分離を制度として確立した。さらに徳川家康が盤石の幕藩体制を築き、二百六十年にわたる泰平の世を実現する。その壮大な道筋の出発点に最初の鑿を打ち込んだのが、他ならぬ織田信長であった。

本能寺の炎は、ひとりの覇者の肉体を焼き尽くした。しかし、その功績の灯火は消えなかった。破壊と創造を恐れず、古き世を終わらせて新しき世の扉をこじ開けた信長の生涯は、四百余年の時を超えて、なお私たちの胸を打ち続けている。戦国の世にあって、天下布武の旗のもとに全力で駆け抜けた四十九年。その短くも壮絶な一生そのものが、日本の歴史に永遠に刻まれた、最も壮大な功績の物語なのである。

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