井伊直政

徳川家康の家臣の中でもすばらしく大きな功績をあげた4人を「徳川四天王」と呼びます。その中の1人がこの井伊直政です。

2歳のころ父親である直親(なおちか)が殺されてしまい、井伊家は破滅の道へと進むのかと思われましたが、直親の従妹に当たる井伊直虎(なおとら)が井伊氏の当主となり、その元で直政は養育されました。

そして、若干15歳で家康に認められ、徳川家の家臣となります。関ヶ原の合戦では豊臣恩顧の大名たちとも連携し東軍の勝利を勝ち取るなど、徳川家の外交官としての任務も担っていたといいます。

武将として厳しく、熱く、まっすぐに生きた井伊直政についてまとめてみました。

プロフィール

井伊直政
読み方 いい なおまさ
別名・
あだ名
井伊の赤鬼(いいのあかおに)
人斬り兵部(ひときりひょうぶ)
虎松(とらまつ)
万千代(まんちよ)
生年月日 1561年(永禄4年)2月19日
身長 不明(180cm近く?) 血液型 不明

直政出生地の井伊谷城跡

井伊直政(いい なおまさ)は1561年2月19日に今川氏の家臣であった井伊直親(なおちか)の長男として、遠江国井伊谷(今の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で誕生。

身長は定かではありませんが、小柄で童顔だったそうで、会う女性がみな見惚れてしまうというほどの美男子でイケメンだったということでとても有名です。一説では男からも好色的な目で見られていたほど、ともいわれています。

武田氏が滅亡した後、武田家の旧臣を家臣として受け「井伊の赤備え」という部隊を率い家康のために戦いますが、とても熱く真っ直ぐなな性格から部下にもとても厳しく、自分を直政の家臣から外して欲しいと家康に願い出る者までいたそうです。

そんな直政が得意なのは戦いばかりでなく、外交手腕にもとても長けていました。特に関ヶ原の戦いでは、戦に備えて全国の大名と連絡を取りたくさんの武将が東軍に参加するなどの功績も上げています。

ですが、この戦いで島津軍に狙撃されてしまった鉄砲傷が原因となり、2年後に死去。慶長7年2月1日(1602年3月24日)、42歳でした。

家紋

直政の元々の使用紋「丸に橘」

井伊家の家紋は「丸に橘(たちばな)」で、花が描かれています。江戸時代からはとてもよく似ていますが少し異なる「彦根橘」が使われました。

彦根転封後の使用紋「彦根橘」

日本にはたくさんの家紋が存在していますが、井伊家の家紋「橘紋」は日本十大家紋の一つにされているほど多く使われる家紋です。

もともと橘は公家の名門橘家の紋であるのですが、この家紋が使われるようになったのには、井伊家の始まりとされる共保(ともやす)にまつわる話があります。

寛弘7年(1010年)の元旦に遠江国・井伊谷の八幡宮の神主が、手洗場の井戸横に捨てられている赤ちゃんを見つけ、その赤ちゃんが共保だったといわれています。

その傍らに橘が咲いていたとのこと。そして橘が昔から生命力の強い、長寿の象徴とされていることと合わせてこの橘紋が使われるようになったとされています。

直親の死で一度なくなってしまいそうだった井伊家を立て直せたのも、この橘紋のお陰かもしれません。

井伊家の「井」の字が型どられた井桁の合戦旗

旗は誰がその部隊を率いているのかを一目で分かるようにした目印なのですが、直政の旗はその役割を見事に果たす真っ赤で、巨大な「井」が書かれているものです。

鎧と同様、真っ赤な旗を付けることによって、戦いで泥をかぶろうが、誇りまみれになろうがどこにいても分かる。

それだけでなく、敵の返り血を浴びたようなその真っ赤な色は敵を威嚇するにも十分効果を発揮したといいます。

直政の指料(さしりょう)として使われた刀は無銘、刀工は備前長船の倫光(のりみつ)です。

刃の長さは69cm、反りは1.3cm。直政のあと、2代井伊直孝(なおたか)から3代直澄(なおすみ)へ伝えられたと御代々御指料帳には記されています。

そして、直政の九戸城攻めでの手柄で家康より貰った短刀が、その後も井伊家に伝来した九戸来国行(くのへらいくにゆき)もあります。常に生傷の絶えない、戦いが大好きであった直政には欠かせない、どちらも実用的な刀だったと思われます。

朱漆塗越中頭形兜(うるしぬりえっちゅうずなりかぶと)と呼ばれる兜です。直政は旗から兜、甲冑に至るまですべてのものを真っ赤に統一していました。

外見は小柄な体つきで少年のような顔立ちをしていましたが、真っ赤な兜には鬼の角のような物をあしらい「井伊の赤鬼」と呼ばれていたそうです。

甲冑・鎧

朱漆塗紺糸威横矧桶側胴具足(うるしぬりこんいとおどしよこはぎおけがわどうぐそく)、こちらももちろん真っ赤な甲冑、鎧になります。

この赤は高級品であった辰砂(しんしゃ)から出される色でそめられていて、誰でもが手に入れられるものではありませんでした。選ばれし精鋭部隊のみが身に着けていたのです。

はじめにこの真っ赤な部隊(赤備え)を率いたのは武田軍でした。徳川家康が武田軍と戦い、負けた武田家の旧臣を直政が受けた際、家康が直政に徳川家の精鋭部隊として「井伊の赤備え」を継承させたのです。

「佐和山城」と「彦根城」

彦根城

直政は関ヶ原の戦いで功を上げ、敵の大将・石田三成の居城であった佐和山城を与えられました。

直政が三成をひどく嫌っておりすぐにでも建て直したい、もっと機能的な城にしておきたいという理由から築城計画について話されてはいたものの、島津義弘を追撃する際に受けた銃弾により大怪我を負ってしまい、準備が遅れてしまっていました。

結果、彦根城が完成したのは直政が死去した後となり、彦根城の姿を見ることはできませんでした

子孫

井伊家の初代当主は井伊共保(ともやす)ですが、先ほども家紋のところで紹介したように共保は捨て子だといわれています。そこから井伊家は始まりました。

直政の父直親は直政が2歳のときに殺害され、これで井伊家は終わってしまうのではと言われましたが、直親の従妹に当たる直虎が後を継ぐことになり存続することができました。

井伊家17代目の直政には息子が二人と娘が二人いました。通常であれば長男の直勝(なおかつ)が後を継ぐのですが、病弱であったために(一族を率いる力がないという説もありますが)、次男の直孝(なおたか)が彦根藩二代藩主となりました。

彦根藩の藩主となった後、江戸幕府時代には譜代大名筆頭の家柄となり、大老を5人も輩出しています。

そして幕末の激動期に改革を実行し、桜田門外の変で暗殺される大老の井伊直弼(なおすけ)は34代目の井伊家の当主(彦根藩の第15代藩主)です。

井伊直政について

15歳で家康の小姓となった直政は養母だった直虎の死去後、井伊家を継ぎました。

後に家康の養女の花(唐梅院)と結婚しますが、妻には頭の上がらない恐妻家だったそうです。その反面、家臣には驚くほど厳しく、嫌われていたといわれるほどの軍律を立てていました。

家康に忠実で、すべての戦いに命がけで、そして常に最前線で戦い抜いた直政の戦と人柄にスポットをあててまとめてみます。

井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)

直政は22歳で元服し、この同じ年に家康の養女・花と結婚しました。

そして、武田の滅亡後の遺臣を家臣として与えられた直政は、山県昌景(やまがた まさかげ)の赤備えを引き継いで、徳川家一の精鋭部隊「井伊の赤備え」を誕生させました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、赤備えを率いて初めての武功をおさめ、天下にその名が知られるようになりました。

鎧から兜、旗など何から何まで真っ赤に染められた赤備えはさぞかし戦場で目立ったことでしょう。

直政が先陣を切る中、前進していく部隊は自信に満ち溢れた戦意を持ち、返り血を浴びたようにも見えるその色はただただ恐ろしく見えたといいます。

小柄な体つきではあったものの真っ赤な鎧を身にまとい、兜には鬼の角のような立物をあしらい、長い槍を振り回し常に先陣を切って敵を次々と倒していく勇ましい姿は「井伊の赤鬼」と呼ばれ、他の戦国大名たちからも恐れられました。

どんなことがあっても勝つ、捨て身と言われようが負けることだけはあってはならない、という直政の性格だったからこその戦功だったのだと思います。

関ヶ原の合戦での抜け駆け

関ヶ原古戦場跡(松平忠吉、井伊直政陣跡)

天下分け目の関が原の合戦の時にも先陣で戦ったというエピソードがありますが、実は関ヶ原の合戦で先陣を任されたのは、直政ではなく福島正則でした。

合戦の当日は、前日からの雨で霧が立ちこめていました。たった25メートル先も見えない状況だったので、西軍東軍ともに対峙したまま動くことができませんでした。

そんな中、東軍の直政は自分の部隊を木俣守勝(きまた もりかつ)に任せ松平忠吉(まつだいら ただよし)に一緒に来て欲しいと頼みました。

そして、直政と松平忠吉は約300の軍隊を率い、福島正則の陣勢を通り抜け東軍の先頭に出ようとしました。

しかし、徳川家康から先陣を任されていた福島正則の家臣に、

「今合戦の先陣は福島正則だ。誰であってもここを通すことは出来ない」

と言い放たれました。直政は、

「松平忠吉殿が初陣なので、敵を見に行くだけである。何も抜け駆けなどするためではない」

と返しますが、

「であれば、こんなに多くの人数はいらないであろう。手勢だけで行かれよ」

と言われ、仕方なくそれを受け入れた直政と忠吉は50ほどの手勢を連れ先頭へと出たのでした。

霧が晴れてきたころでした、先ほど「敵陣を見に行く」だけだったはずの直政たちが西軍に向かって発砲した(接近から槍や刀で攻撃したとう説もあり)のです。

これが関ヶ原の合戦の始まりでした。これは完全なる抜け駆けです。

当時、抜け駆けは軍法の違反で、思い処罰が下されるはずでした。が、やはり家康の力が働いたのか直政は罰せられなかったのです。

家康との間で本当はそういう話ができていたのではないか…という説もありますが、直政の負けず嫌いな性格、自らが常に戦の最前線で命がけで戦うという武将のプライドがそうさせた。

もしかするとどちらもが本当の話なのかもしれません。

直政への他の武将からの評価

直政は小身なれど、天下の政道 相成るべき器量あり

井伊直政はその気になれば天下を取ることさえできる器量を持つ男だ。と毛利家の重臣であった小早川隆景は称しました。

他人をあまり評価することがなかったと言われている家康も

「井伊直政という男は日頃は冷静沈着で口数が少なく何事も人に言わせて黙って聞いているが、局面では的確に意見を述べる。特に自分が考え違いをしている時は余人がいない所で物柔らかに意見をしてくれる。故に何事もまず彼に相談するようになった」

と秀忠の夫人に宛てた手紙に残しています。

直政は、無口だったため名言としてあまり記録が残っていませんが、こうした周りからの直政への高い評価がたくさん残され伝えられています。

関ヶ原の合戦で受けた鉄砲傷のために亡くなってしまうまで、戦いを愛し家康を守ることに人生をかけた、無口で強い直政は家康が幕府を開くにあたって、一番の功績をおさめた者といえるでしょう。

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ABOUTこの記事をかいた人

Naomi D

岡山県出身、現在はオーストラリアで子育てしている主婦です。学生のころは日本史が大の苦手でした。オーストラリア人の主人と結婚し子連れで渡豪することにり、将来自分の子どもに日本史を教えなければいけないと自覚。勉強している間にはまってしまいました。戦国時代から第二次世界大戦まで、何を聞かれても答えられるような日本人になれるかな。