島津義弘

戦国最強の武将ともいわれている島津義弘。数々の戦において武勇伝を残しており、鬼島津と呼ばれ恐れられていました。屈指の猛将として知られている島津義弘ですが、実は学問にも秀でておりまさに文武両道ともいえる人生を送った武将としても知られています。部下からの信頼も厚かった男、島津義弘の強さの秘密に迫ります。

■プロフィール
島津義弘は天文23年7月23日に島津家の次男として生まれました。父・島津貴久の子として生まれ、4人いた貴久の子の中でも特に優秀だったといわれています。幼少期のころから勇武英略に抜きん出ていると評されており、20歳という若さで初陣に出たときには臆することなくその勇猛さを発揮しました。

□家
島津家の家紋は丸の中に十字をかたどった「轡十字(丸十字)」が有名です。定着しているものではありますが、実は義久が名をはせた時代には丸のないただの筆文字で十を描いたものでした。島津家の家紋は様々ありますがそのほとんどが十字紋であるのは、キリスト教の影響があるのではないかといわれています。またその一方で、戦勝祈願を意味する魔除けのような役割として十字を用いたという説もあります。
筆文字による十文字から丸がついた十文字になったのは、屏風などから読み解くとどうやら戦国末期から江戸時代にかけてだったともいわれています。

□刀
戦国最強と呼ばれた島津義弘の刀は「西蓮」と「朝鮮兼光」と呼ばれるものです。中でも西蓮は90cmを超える長刀であったといわれ、身幅が広く豪快な義弘にふさわしい刀だったといわれています。義弘は数々の戦で常に先頭に立って戦った武将と言われており、その戦によって手元には刀剣で切られた傷が生々しく残っているといわれています。

□兜
島津義弘は合戦において先陣として突破を果たしていたことから、簡単に破られることのないかつ勢いを感じさせることができる兜を使用していたようです。数多くの合戦において、義弘は先頭に立ち敵中突破を行っています。その勢いは「鬼島津」と呼ばれるほどのものであり、かの徳川家康にも恐ろしいといわしめるほど。それを印象付けるものとしてこの兜の影響もあったのではないでしょうか。

□甲冑・鎧
島津義弘が使用していた甲冑・鎧は「阿古蛇形兜緋糸威中札二枚胴具足」と呼ばれているものです。闘争心を感じさせる赤色に全身を包み、先頭に立って積極的に敵中突破を行っていたとされています。騎馬戦の際には大鎧をまとい、あの関ヶ原の戦いにも挑んだようです。

□島津四兄弟
義弘の兄弟は「島津四兄弟」として名をはせていました。長男である義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久ともに優秀な四兄弟であったといわれています。四男である家久だけ生みの母が違いますが、それを感じさせない仲が良い兄弟としても知られており、この時代に多かった後継者争いや兄弟での抗争といったトラブルはなかったようです。
義弘は兄弟の中でも特に優秀であり猛将として有名でしたが、最期まで家族を大切にしていたといわれており、主君である義久には、常に忠信を誓っていたといわれています。

□子孫
島津義弘には7人の子どもがいたとされています。兄・義久が家督を継いだ際は補佐役として戦で大きな爪痕を残していった義弘ですが、豊臣軍との戦いによって兵力の劣勢により敗北。兄の説得を受けて嫡男であった久保を人質として差し出しています。義弘はその後、義久からの譲渡により島津家の17代当主となっていますが、主な実権を握っていたのは兄・義久であったために形式的なものであったといわれています。なお嫡男の久保は、義弘が豊臣政権下として朝鮮へ滞陣しているときに病気で失っています。
また関ヶ原の戦い後、徳川家に対し義弘が交渉を行ったことで島津家は温存されたといわれており、結果、家督は子・忠恒へと譲渡されることになりました。

■島津義弘について
戦国最強でありながらも家族・家臣を大切にしていたともいわれる人情深い島津義弘。彼が鬼島津と呼ばれるようになった所以と彼を語るに欠かせない関ヶ原の戦いを振り返ります。

□戦国大名最強の武将「鬼島津」
戦国最強の武将とも言われる島津義弘は、若干20歳での初陣後もメキメキと頭角を現しますが、彼が「鬼島津」と呼ばれるようになった決め手として、「木崎原の戦い」があります。
九州の桶狭間とも称される木崎原の戦いでは、敵であった伊東善祐が3000もの大軍を率いて攻めてきたのに対し、なんと300ほどの兵力で応戦。圧倒的不利な状況であったにも関わらず、義弘の活躍もあって勝利を飾りました。
また豊臣政権下で朝鮮軍と戦った際は、20万もの兵を約7000という数の兵のみで打ち破った記録もあり、戦下において大いにその強さを発揮しています。
朝鮮兵と戦ったときには日本の鬼を意味する「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として恐れられていたといわれており、これをきっかけに「鬼島津」の名が世に広まったともいえますね。

□関が原の戦いでの誤算と敵中突破
島津義弘といえば関ヶ原の戦いでのエピソードが有名です。家康が軍を起こした際、義弘は家康の要請を受けて家臣であった鳥居元忠への援軍に向かいます。しかし元忠が家康から聞いていないとして入場を拒否。これにより本来徳川方へつくはずだった義弘は意志を覆して西軍へと参戦します。
しかし手勢が少なかったことから西軍にも相手にされず、義弘は関ヶ原の戦いに対して戦う意志がそがれていったという説もあるようです。
とはいえ関ヶ原の戦いは小早川秀秋らの寝返りで西軍の敗走を一気に早めます。そこで義弘は本隊の撤退に際し、自身の小部隊を追撃する敵軍と戦わせることを繰り返し、足止めすることで本隊を逃げ切らせるという戦法を実施。勇猛な島津勢の活躍により、義弘らは生還することができたといわれています。
自身の家臣も多く亡くなったこの勇気ある戦法は、後に「島津の退き口」として伝説となりました。

□名言

「老武士のため、伊吹山の大山を越え難し。たとえ討たれるといえども、敵に向かって死すべしと思う」
関ヶ原の戦いにて西軍の敗走が濃厚となった中での名言です。「どうせ死ぬのであれば、敵に背中を向けて死ぬのではなく、敵に一矢報おうではないか」といった意味で、多くの合戦で先陣に立ち勇猛に戦ったきた義弘ならではの言葉ともいえます。その言葉どおり、義弘は関ヶ原の戦いにて「島津の退き口」と呼ばれる戦法を生み出し、敵陣を驚かせました。

「良いことの五つは真似しやすく、悪いことの一つはなかなかやめられない」
島津家を大きく躍進させた義弘は、強い武将でありながら非常に勤勉家であったともいわれています。自分にとって悪い習慣というのは辞めたくてもなかなか辞められないもの。悪い習慣を断ち切るためには相応の努力が必要です。この言葉を残した義弘自身も、武力や知識を養うために悪いことを我慢する努力をしていたのかもしれませんね。

「すべて国に残っている者は、身分の上下にかかわらず、不行儀なことがあったならば、たとえ誰でも、それを見聞きしたものが申し出てほしい。褒美をつかわす。」
身分にかかわらず、不徳を行った者に関して申し出を行いなさいという言葉です。自身が死亡した際、家臣が13人も後追いしたといわれているほど人情味あふれる義弘ですが、彼のその尊敬される所以にこういった誠実さがあるのかもしれません。

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