天正十四年(1586年)、豊後の海辺に築かれた丹生島城(にうじまじょう)に、轟音(ごうおん)が響き渡った。城壁の上から放たれた一条の砲火が、押し寄せる島津の大軍に向かって炸裂する。城を守る兵たちの士気は振るわず、援軍の到着も見えない。しかし、その砲声だけは、まるで天を裂く怒号のように敵陣を震わせた。
この大砲こそ、大友宗麟(おおともそうりん)がポルトガル人から手に入れた「国崩し」── 日本に初めてもたらされた西洋式大砲の異名である。国を崩すほどの威力を秘めたその兵器に、宗麟は何を託したのか。それは単なる軍事的野心ではなかった。異国の信仰に心を寄せ、理想の王国を夢見た一人の男の、壮大にして悲痛な生涯が、その砲身の奥には刻まれている。
血塗られた家督── 二階崩れの変と若き義鎮
大友宗麟── 本名を大友義鎮(よししげ)という。天文十九年(1550年)、豊後国を揺るがした惨劇を経て、二十歳の若さで大友家第二十一代当主の座に就いた男である。
事の発端は、父・大友義鑑(おおともよしあき)の偏った愛情にあった。義鑑は嫡男である義鎮を退け、寵愛する側室の子・塩市丸(しおいちまる)に家督を譲ろうと画策した。その背後には、寵臣・入田親誠(にゅうたちかざね)の策謀が蠢いていた。義鎮派の重臣たちは次々と遠ざけられ、ある者は謀殺の憂き目に遭った。
追い詰められた義鎮派の家臣── 津久見美作(つくみみまさか)と田口鑑親(たぐちあきちか)らは、座して死を待つことを潔しとしなかった。天文十九年二月十日の夜、彼らは大友館の二階に踏み込み、塩市丸とその母を斬り、義鑑にも瀕死の重傷を負わせた。世に言う「二階崩れの変」である。
義鑑は二日後に息を引き取った。血で染まった館の跡に立つ義鎮の胸中に、どれほどの葛藤があったかは知る由もない。父を喪った悲嘆か、あるいは自らの命を狙った父への複雑な感情か。いずれにせよ、この凄惨な事件を経て当主となった義鎮は、のちに「宗麟」の号を名乗り、豊後の覇者として北九州に君臨していくことになる。
しかし、その出発点が血塗られたものであったことは、宗麟の生涯に通底する影のように、常に彼の内面につきまとっていたのかもしれない。やがて彼が異国の神に心を開くのは、そうした原罪にも似た傷を癒す何かを、彼自身が求めていたからだとも考えられる。
海の彼方から来た光── ザビエルとの邂逅
二階崩れの変からわずか一年後の天文二十年(1551年)、一人の異国人が豊後府内(ふない)を訪れた。イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルである。
当時、ザビエルは山口で布教活動を行っていたが、豊後にポルトガル船が来航したとの知らせを受け、南へと向かった。若き当主・義鎮はこの異国の聖職者を館に招き、みずから会見に臨んだ。ザビエルが語る天地創造の教え、万人が神の前に平等であるという思想に、義鎮はどれほどの衝撃を受けたことだろう。
義鎮がザビエルに与えたのは、豊後での布教の許可であった。ここに、大友氏とキリスト教の長い関係が始まる。
もっとも、義鎮の動機が純粋な信仰心だけであったとは言い切れない。ポルトガル船がもたらす南蛮貿易の利益は莫大であり、鉄砲や火薬の原料となる硝石、さらには中国産の生糸や絹織物など、軍事力と経済力の両面において宗麟の覇業を支える柱となった。宣教師の保護と南蛮貿易は不可分の関係にあり、宗麟はその両輪を巧みに操りながら、北九州に覇を唱えていく。
天文二十八年(1559年)には足利将軍家から九州探題に任じられ、豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六か国に影響力を及ぼす九州随一の大名へとのし上がった。府内の町には教会(デウス堂)が建ち、宣教師たちによって西洋医療や西洋音楽が紹介された。日本で初めてオルガンの音色が響いたのも、この府内の地であったと伝わる。
宗麟にとって、海の彼方から来た文明は、単なる実利を超えた「光」であった。その光は、彼の魂の奥底に眠る何かを照らし出し、やがて一つの途方もない夢へと彼を導いていくことになる。
「国崩し」── 豊後に轟いた異国の雷鳴
天正四年(1576年)、宗麟のもとに、一門の大砲が届いた。ポルトガル人宣教師を仲立ちとして、遠くインドのゴアから運ばれてきたフランキ砲── 後装式の青銅製大砲である。
フランキ砲とは、もともと西洋の艦砲として設計されたもので、砲身の後方から子砲(しほう)と呼ばれる薬室を装填して発射する構造を持つ。当時の日本にあった火縄銃や大筒(おおづつ)とは次元の異なる兵器であった。砲弾は城壁を打ち砕き、密集した敵陣を一撃で吹き飛ばす。その射程は三町から四町(約330メートルから440メートル)に達したと伝わる。
宗麟は、この大砲のあまりの威力に驚嘆し、こう呼んだ。
──「国崩し」。
国を崩すほどの力を持つ兵器。その命名には、宗麟の戦国大名としての鋭い嗅覚がにじんでいる。鉄砲伝来から三十年あまり、火縄銃の普及によって合戦の様相は一変していたが、大砲の導入はさらにその先を行く革新であった。宗麟は日本で初めて西洋式大砲を実戦に投入した大名となったのである。
さらに注目すべきは、宗麟が輸入したフランキ砲をもとに、領内で独自の大砲製造にも着手したことである。東京大学史料編纂所の調査によれば、宗麟が量産化に成功した国産砲の一門が、ロシア・サンクトペテルブルクの砲兵博物館に現存している可能性が指摘されている。砲身に刻まれた洗礼名の印章が、宗麟のものと一致したのだという。豊後の鋳造技術と南蛮の砲術が融合した、まさに宗麟ならではの軍事的成果であった。
しかし、「国崩し」の真価が試されるのは、まだ十年ほど先のことである。その前に、宗麟はもう一つの「国崩し」── 自らの手で築いた九州の覇権を、自らの手で崩すことになる戦いに臨まねばならなかった。
音楽の園を夢見て── 日向侵攻と耳川の大敗
天正六年(1578年)、四十八歳を迎えた宗麟は、ついにキリスト教の洗礼を受けた。洗礼名は「ドン・フランシスコ」── かつて豊後を訪れたザビエルの名にちなんだものであった。二十七年前の邂逅(かいこう)から始まった信仰の道が、ここに一つの到達点を迎える。
そして、洗礼を受けたその年、宗麟は大軍を率いて日向国(現在の宮崎県)への侵攻を開始した。その胸に秘めていたのは、単なる領土拡張ではなかった。日向の地にキリスト教の理想王国を築くこと── それこそが宗麟の真の目的であった。
宗麟は本陣を置いた地を「無鹿(むしか)」と名づけた。音楽を意味するラテン語「Musica(ムジカ)」に由来するとされるその名は、宣教師たちが奏でるオルガンや聖歌の調べに魅了された宗麟の夢を映し出している。ここに、キリスト教の教えに基づく調和と平和の国を建てる── そんな壮大な理想を、宗麟は本気で信じていた。
しかし、理想に酔った宗麟の足元は、もはや危うかった。宗麟は日向に入ると、現地の寺社仏閣を破壊し、その材木を教会建設に転用するという強硬な政策をとった。これは家臣団のあいだに激しい反発を生んだ。日向侵攻そのものに反対する重臣も少なくなく、大友軍は出陣の段階からすでに一枚岩ではなかったのである。
さらに致命的だったのは、宗麟自身が最前線から遠く離れた「無鹿」に居を構え、理想郷の建設に没頭していたことである。総大将不在の大友軍は統制を欠き、前線では田北鎮周(たきたしげかね)らが軍議を無視して独断で攻撃を仕掛けるという混乱が生じた。
この隙を、島津義久は見逃さなかった。島津軍は得意の「釣り野伏(つりのぶせ)」── おとりで敵を誘い出し、伏兵で包囲殲滅する戦法── を駆使して大友軍を翻弄した。正面と側面から挟み撃ちにされた大友軍は総崩れとなり、耳川(みみかわ)まで追い詰められた将兵は、渡河の最中に討たれ、あるいは濁流に呑まれて命を落とした。
「耳川の戦い」と呼ばれるこの合戦で、大友軍は壊滅的な敗北を喫した。数多くの重臣が討死し、宗麟が三十年にわたって築き上げた九州の覇権は、この一戦で瓦解する。音楽の園は砂上の楼閣であった。「国崩し」の名を持つ大砲が敵の国を崩す前に、宗麟は自らの国を崩してしまったのである。
孤城に砲火を── 丹生島城の死闘
耳川の敗北以降、大友氏の凋落は止まらなかった。かつて傘下に置いていた筑前・筑後の国人たちは次々と離反し、島津氏の北上は日に日に勢いを増した。天正十四年(1586年)、ついに島津家久率いる大軍が豊後国に侵攻する。
すでに隠居の身であった宗麟は、みずからの本拠・丹生島城に籠城して迎え撃つ覚悟を決めた。丹生島城は臼杵湾に浮かぶ島に築かれた海城であり、四方を海に囲まれた天然の要害であった。干潮時にのみ陸続きとなるこの城は、少数の兵でも守り抜ける地の利を持っていた。
しかし、兵力の差は歴然としていた。城内の将兵の士気も低く、島津の大軍を前にして恐れをなす者も少なくなかった。
そのとき、宗麟は十年前にポルトガルから手に入れた「国崩し」を城壁の上に据え付けさせた。
砲声が響いた。城壁の上から放たれた砲弾は、海を越えて島津軍の陣に着弾し、凄まじい爆発とともに敵兵を吹き飛ばした。当時の日本において、大砲の砲撃を受けた経験を持つ武士はほとんどいない。突然の轟音と炸裂する砲弾に、島津の兵たちは大いに動揺した。
「国崩し」は繰り返し発射され、島津軍の攻勢を食い止めた。臼杵の港を挟んで対峙する島津軍は、四方を海に囲まれた丹生島城に容易に取り付くことができず、砲撃のたびに多くの死傷者を出して後退を余儀なくされた。
もっとも、「国崩し」だけで島津の大軍を撃退できるわけではなかった。城下町は島津軍によって蹂躙(じゅうりん)され、焼き払われた。城内の食糧も底をつき始め、援軍の到着を待つほかに道はなかった。
だが、宗麟は持ちこたえた。「国崩し」の砲火が島津軍の進撃を遅らせ、丹生島城は最後まで落ちることはなかった。この籠城戦は、日本の戦史において大砲が実戦で決定的な役割を果たした最初期の事例として記憶されている。
砲煙の果てに── ドン・フランシスコの旅路
丹生島城を守り抜いた宗麟を救ったのは、豊臣秀吉の九州征伐であった。天正十五年(1587年)、秀吉は二十万を超える大軍を九州に送り、島津氏を降伏に追い込んだ。大友家は辛うじて滅亡を免れ、豊後一国の領有を認められた。
しかし、宗麟にその報せを喜ぶ力はもう残されていなかった。長年の病が彼の体を蝕み、もはや床から起き上がることさえままならなかった。
天正十五年五月、大友宗麟── 洗礼名ドン・フランシスコ── は、豊後の津久見(つくみ)において、五十七年の生涯を閉じた。その最期はキリスト教式の葬儀で送られたが、のちに秀吉が伴天連追放令を発したことにより、息子の大友義統(おおともよしむね)によって仏式に改葬されている。
信仰すら、死後に奪われた。
宗麟の生涯を振り返るとき、「国崩し」という言葉は、実に多くの意味を帯びて響いてくる。それは、敵国を崩すための兵器の名であると同時に、自らの理想に殉じて自国の秩序を崩した男の物語でもある。
ザビエルとの出会いに心を揺さぶられ、南蛮の文物に魅了され、やがてキリスト教の理想王国を夢見るに至った宗麟。その夢は耳川の敗北で打ち砕かれ、島津の侵攻で焼き尽くされた。それでもなお、津久見の地で息を引き取るその瞬間まで、宗麟は洗礼名を捨てることはなかった。
臼杵城跡には今も「国崩し」のレプリカが海に向かって据えられている。かつて島津の大軍を睨んだその砲口は、いまは静かな臼杵湾を見つめるばかりである。
けれども、その沈黙の奥には、砲煙を纏いながらも最後まで自らの信念を貫こうとした、一人の男の気迫がなお宿っているように思えてならない。大友宗麟とは、「国崩し」の砲声とともに戦国の世を駆け抜け、その砲煙の中に夢と信仰を刻み込んだ、稀有な戦国大名であった。