近江(滋賀県)出身の武将・蒲生氏郷は、大きな物事を成し遂げる可能性を持つ器量人として、戦国時代のスーパースター・織田信長に認められ戦国武将です。
さらに、人たらしの能力と機転で天下統一を果たした豊臣秀吉から恐れられた人物でした。
自ら戦の先陣を切って活躍するほどの豪胆さでリーダーシップを発揮しつつ、家臣を気遣う配慮も忘れなかった、まさに現代の「理想の上司」を体現したかのような戦国武将・蒲生氏郷(がもう うじさと)についてご紹介します。
目次
プロフィール
1556年(弘治2年)、名門・蒲生家に生まれます。同じ年生まれの武将に、大男として知られていた伊予今治藩主の藤堂高虎(とうどう たかとら)がいます。
氏郷は、近江の六角氏に仕えていた父・蒲生賢秀(がもう かたひで)と、側室であった後藤播磨守(ごとう はりまのかみ)の娘・おきりの間に、蒲生家の3男として誕生しました。
初対面で「眼光常ならず」と信長に評され、目つきの鋭い、知性的な氏郷の面持ちを信長が大変気に入ったと言われています。
実際の血液型は現存するどのプロフィールにも記されておらず不明ですが、直腸がんが死因とされていることを考えると、すい臓がんや直腸がんになりにくいとされるO型ではなかった、と思われます。
家紋
蒲生家は、源頼朝に仕え足利尊氏にも仕えていたことがある平安時代から続く名家。
かつて藤原姓を名乗っていた蒲生家の先祖・藤原秀綱(ひでつな)が、1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で窮地に陥った際、どこからともなく現れた一羽の鶴が、秀綱軍の旗を先導しました。
そうして、鶴が敗走中だった秀網たちを救ったという逸話から、代々「蒲生対い鶴」(がもうむかいづる)が家紋として使われるようになりました。
優美で華やかな鶴紋は、武家として超エリートだった蒲生家にぴったり。デザイン性の高い蒲生家の家紋は、鶴紋を使用するほかの家々とは一線を画します。
一方、蒲生氏郷が会津に封じられて以来、水が渦を巻いている様子を表した巴紋の「左三つ巴」の家紋も、合わせて使用するようになりました。
戦では、まるでダークヒーローを連想させるかのような、奇抜なデザインの兜を被っていた蒲生氏郷。
家柄が良いエリート出身の武将だけに、家紋でほかの武将を威圧する必要もなく、自分の出身に劣等感を感じることがまったくなかったので、家紋にはあまりこだわりを見せなかったようです。
刀
蒲生氏郷の愛刀は多く、相州政宗作の「会津政宗」(あいづまさむね)、短刀は相模の新藤五国光作の最高傑作と呼ばれる「会津新藤五」(あいづしんとうご)、そして小太刀は備前長船派の長光作の「鉋切長光」(かんなぎりながみつ)、名工・来一門の中でも、名刀工である国俊作の刀を使用していました。
そのほかにも、「江戸長銘政宗」や「蒲生政宗」など、火事で焼失したり、所在不明になっている刀も有していたとされています。
戦で先陣を切って戦ったのにもかかわらず、討死しなかったこと、さらには、刀剣への造詣が深かったことを考えると、氏郷の愛刀が名刀揃いの実践向きの刀だったのも頷けるのではないでしょうか。
ちなみに、「鉋切長光」は、かつて六角氏に仕えていた武士・堅田又五郎が、伊吹山で大工に化けた妖怪を、鉋ごと叩き切ったという伝説を持っています。
兜
バットマンを連想させるかのような、勝利のVサイン形の漆黒の兜「黒漆塗燕尾形兜」を使用しいてた氏郷。
ダークヒーローに憧れていた訳でも、Vサインを模した訳でもなく、燕の尾羽の形を兜にしました。シンプルながらも、戦場では良く目立ったため、家臣たちの士気を高めるのに大きな役割を果たしたようです。
実際、新しく家臣になった者に、
「銀の鯰尾の兜を被っている者(氏郷のこと)が先陣を切ったら、その者に負けないような活躍をしてほしい」
と伝えていました。
この言葉では、ツバメの尻尾がナマズの尻尾に変化しています。そのため、蒲生氏郷にはもう一つ愛用の兜があったのかと思う方もいらっしゃるでしょうが、どうやらここでは、ほかの兜のことを指して「ナマズ」と呼んだのではないようです。
氏郷の義妹は南部利信に嫁ぎましたが、南部家では「黒漆塗燕尾形兜」を「鯰尾兜」と呼んでいました。ですから、同じ兜なのにもかかわらず、燕の尻尾モチーフにも鯰の尻尾モチーフにも見えた兜だった、と言えるでしょう。
甲冑・鎧
天高く、突き上げるかのような特徴的な兜を愛用していた蒲生氏郷の甲冑は、黒を基調にした非常にシックな鎧でした。
全体的に漆黒の鎧ですが、草摺(くさずり)の部分に赤をほんの少しだけアクセント色として使用し、星の数ほどいる戦国武将の中でも突出したセンスの良さを感じさせてくれます。
佩楯(はいだて)の部分が、電卓をモチーフにしたように見えなくもないですが、全体的にバランスの取れた非常にカッコイイ鎧です。
もしかすると、そんなオシャレな鎧を着こなしているところも、氏郷が、義父であり当時のオシャレ番長だった織田信長に愛された理由だったのかもしれません。
家臣
非常に家臣思いだった戦国武将として知られている蒲生氏郷ですが、氏郷の家来の中でもっとも出世したのは、蒲生家の筆頭家老だった蒲生郷安でした。
主君である氏郷と共に数々の戦に参加して順調に戦功を立てていった人物ですが、氏郷のほかの家臣たちと対立することが多くありました。
氏郷の亡き後、まだ幼い蒲生家の跡継ぎ・秀行の補佐役となったのを機に、政務を独占しようとしたために蒲生家のお家騒動「蒲生騒動」を引き起こしてしまいます。
秀行の小姓・亘理八右衛門が、主君の命令を受けて彼の暗殺計画を立てたとして殺害し、それが元で蒲生家を追放されることになりました。
クリスチャンだった氏郷の影響か蒲生郷安もクリスチャンだったようですが、蒲生家追放の後は、京都生まれの「キリシタン大名」、小西行長の預かりとなりました。
墓
蒲生氏郷の墓は、京都・大徳寺にある黄梅院にあります。かつて昌林院の臨済宗大徳寺派の墓に埋葬されましたが、明治時代に現在の黄梅院と合併されます。
黄梅院には蒲生氏郷の墓のほかにも、小早川隆景や毛利元就の供養塔があります。
奥州の大名に収まった蒲生氏郷が、最期を京都で迎えたことを不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。
これには、文禄の役が関係しています。当時、豊臣秀吉が明の征服を企み、朝鮮半島に向けて兵を進めた朝鮮出兵の際に、蒲生氏郷は肥前名護屋城(佐賀県)まで駆けつけます。
しかしながら、そこで吐血し一度は会津へ帰りますが、病状が悪化したために再び京都屋敷に戻って療養することになりました。
秀吉が氏郷のために名医と名高い医師をつけましたが、その甲斐もなく、京都の地で氏郷は最期を迎えることとなりました。
会津若松市の興徳寺にも、蒲生氏郷のために臨済宗の五輪塔が建てられましたが、こちらは氏郷の遺髪のみが埋葬されています。
五つの石から成る五輪塔の墓には、臨済宗の「地水火風空」の文字が浮かんでいます。
成仏と往生を意味する墓に眠る蒲生氏郷。彼がキリシタン大名だったことを考慮すると、氏郷のために仏教的なお墓が建てられたことに対して少し複雑な気持ちになりますが、墓や埋葬方法についてまでキリスト教に基づいた方法で執り行ってほしい、とは思っていなかったのかもしれませんね。
妻「相応院冬姫」
蒲生氏郷の妻・相応院冬姫は、織田信長の二女、もしくは三女だったとされています。織田信長の娘であれば、「ぜひ結婚したい!」と願う武将は、当時山ほどいたことでしょう。
優秀な人材の中から、好き放題に自分の娘婿選びを行えた信長ですが、蒲生氏郷をひと目見た瞬間気に入り、自分の娘である冬姫を娶らせる約束をします。
まだ子どもであり、しかも人質の身で織田家側に引き渡された氏郷でしたが、そんな状況にもかかわらず信長に気に入られたのは、彼の育ちの良さや器量人としての器の大きさが、すでに表れていたからなのかもしれません。
9歳で14歳の氏郷のもとに嫁ぎ、戦国武将の妻として夫を支えました。氏郷は一生涯、冬姫以外の妻を娶りませんでした。
貧乏武将なら側室をはべらす甲斐性もなかったことでしょうが、奥州最大の大名が側室の一人も囲わなかったことを考えると、氏郷が非常に一途な性格であったことが読み取れます。
また、妻の冬姫のほうでも、氏郷の亡き後は天下人・豊臣秀吉から側室への召し入れの誘いがありましたが、きっぱりとその誘いをはねつけています。
もちろん、二人は恋愛結婚ではありませんでしたが、とても夫婦仲の良い夫婦であったことがわかります。蒲生家断絶後、冬姫は会津の地ではなく京都で余生を過ごし、現在は知恩院に眠っています。
子孫
氏郷が京都で亡くなった後、嫡男の秀行が家督を継ぐことになります。ただし、家督相続は思ったようにスムーズにはいきませんでした。
過少に石高申告をした疑いがあるとして、秀吉から会津領地をすべて没収、代わりに近江に2万石を与えようと提案されます。しかし、豊臣秀次のとりなしなどの助けを得て、会津領地没収は免れます。
13歳という若さで蒲生家の君主となった秀行でしたが、実質的に政務を行っていたのは蒲生家筆頭家老の蒲生郷安でした。
92万石を誇る大名家だけに、氏郷亡き後は当然ながら、「蒲生騒動」と呼ばれるお家騒動が起こりました。
氏郷の存命中から政務の中心的人物だった家老・蒲生郷安と、秀行を立てて新しい蒲生家を築こうとする者たちが対立していました。
秀行の小姓組の頭・亘理八右衛門を郷安が切ったことで、お家騒動はますます大きくなり、秀吉が介入するほどになります。
結果的に、お家騒動を収めることができなかったとして、蒲生秀行に対して会津若松92万石から、12万石にまで減封されてしまいました。
その後、徳川家康の娘・振姫と結婚していたことと、天下分け目の関ケ原の戦いでの活躍が功を奏し、60万石を有するようになります。
しかし、会津地震やもともと体が丈夫でなかったことも祟ってか、秀行は30歳という若さでこの世を去ります。
その後、秀行の長子・蒲生忠郷が蒲生家を継ぎますが、10歳とまだ幼かったために、母親である振姫が後見人として政務に当たるようになります。
ですが、氏郷の孫にあたる忠郷も、世継ぎを残すことなく、わずか26歳の若さで病死してしまいます。
その後、秀行の次男・蒲生忠知が家督を継ぐことになりますが、彼もまた31歳で亡くなり、それ以降蒲生家は途絶えることとなりました。
蒲生氏郷について
蒲生氏郷について、「彼が長生きさえしていれば、天下人になれるほどの器量があった」と評価する人が当時もいまも大勢います。
決して派手な働きをした武将ではありませんが、寄せ集め軍団であった家臣をまとめる統率力、戦場での勇猛果敢さ、家臣を大切にする気遣いに満ちていた蒲生氏郷は、理想的なリーダー像そのものだったのではないでしょうか。
洗礼名「レオン」を受けるキリシタン大名
親友であった高山右近の熱心な誘いを受け、キリシタン大名となった氏郷。洗礼名を「レオン」として、ローマに使節団を遣わそうとするほど熱心なキリスト教徒になります。
氏郷に洗礼を授けたオルガンティーノ神父は、氏郷のことを高く評価し、その知恵と寛大な心に感銘を受けました。
そもそも蒲生氏郷は、「茶道四祖伝書」という書物の中で、日本でもっとも気の長い武将として紹介されています。
そんな彼の性格に、信長をはじめ多くの人々が魅せられたのも、当然のことだったのかもしれません。
キリシタン大名として知られる氏郷ですが、けっしてヨーロッパかぶれの新しもの好きだった訳ではなく、茶の道を愛する文化人としての一面をも持ち合わせていました。
その証拠に、「利休七哲」と呼ばれている、千利休の高弟の筆頭に蒲生氏郷の名があげられ、武将の中でももっともすぐれた弟子として、「利休門三人衆」の一人に数えられています。
このことからも、氏郷が芸術をこよなく愛する心を持ち、さらに実力も兼ね備えていた数奇者だったことがわかるのではないでしょうか。
信長にガンを飛ばしても認められるという逸話
織田信長と言えば泣く子も黙る戦国時代のスーパーヒーローですが、その信長にひと目で気に入られたのが、蒲生氏郷でした。
仕えていた六角家が織田家に負けると同時に、今度は織田家に仕えることになった蒲生家。蒲生家の忠節を試す意味合いもあってか、氏郷が織田家の人質となります。
その際に、氏郷を見た信長は「目つきがただ者ではない。」と、氏郷を高く評価します。
新しい君主にガンを飛ばして、「将来性のある素晴らしいヤツだ!」と高い評価を得るだけでなく、褒美(信長の娘)までもらったのは、後にも先にも氏郷だけなのではないでしょうか。
会津92万石は左遷か?
近江出身の武将・蒲生氏郷は、伊勢の松阪城12万石の大名から、今度は会津92万石の大名になります。
石高だけを見れば大きな出世ですし、九州征伐や小田原征伐での活躍を評価してもらえた結果と見ることもできますが、秀吉による左遷と捉える見方もあります。
実際、出世を喜んでも良さそうなものですが、氏郷自身「ここに封じられては、上方になにか起こったときにすぐには行動できない」ことを非常に残念に思っていたようです。
氏郷の能力と冬姫(信長の実の娘)の影響力を恐れた秀吉が、上方より遠い会津に彼らを封じることで、自分の身の安全を保つと同時に、伊達政宗や徳川家康などを抑える役割を氏郷に与えていたのではないでしょうか?
秀吉にとっては一石二鳥ですが、うまく秀吉に利用された氏郷にとっては、内心不服だったのかもしれません。
密かに天下を狙っていた可能性も?
全国でも一、二を争うほどの石高を誇っていた蒲生氏郷ですが、秀吉によって会津に封じられたことを嘆いていました。
その理由は、京都でなにかあったときにすぐに駆け付けることができないから。つまり、天下を狙えるチャンスがあるのに、会津からだと遠すぎて天下を取るチャンスを逃してしまう、と考えていたことがわかるのではないでしょうか。
また、自らの家臣と秀吉の次に天下を取る人物に関して話しをしていた際にも、「秀吉の次は前田利家、その次はわし(蒲生氏郷その人)が天下を取る」と述べたとされています。
このことからも、蒲生氏郷が天下を狙っていた可能性は高いと言えるでしょう。