織田信雄は本当に無能だったのか 父にも兄にもなれなかった次男が、最後に残したもの

織田信雄

「三介殿のなさることよ」

何か不始末が起きるたびに、織田家の家臣たちはそうささやき合ったと伝わる。三介とは、信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)の通称である。この言葉が本当に誰の口から出たものか、確かめる手立ては残っていない。だが、そう言われても仕方がないと人々が感じていたことは、ほかの記録からも透けて見える。日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、その著作『日本史』のなかで、信雄を「愚鈍」と書き、知恵が劣り、思慮が浅い人物として描いた。

戦国の世で「無能」と決めつけられた男は、たいてい滅びる。信長の嫡男・信忠(のぶただ)は本能寺の変の折に二条で自刃し、聡明と評された三男・信孝(のぶたか)は兄弟の争いの果てに自害に追い込まれた。信長の血を引く男たちの多くが、乱世の渦にのまれて消えていった。

ところが、その渦の底から、ただひとり浮かび上がった者がいる。愚鈍と書かれ、陰口をたたかれた、あの信雄である。彼の血筋は江戸の世を通じて大名家として続き、出羽の天童と丹波の柏原で、幕末まで家名を保った。信長の子のなかで、大名の家を明治の世まで残したのは、この信雄の系統だけであった。

偉大すぎる父を持つということは、どういうことなのか。父の影のなかで、何をしても比べられ、何をしても足りないと言われ続けた次男。その生涯をたどると、「無能」という一語では片付けられない、ひとりの人間の重さが見えてくる。

名門を継がされた少年と、父の目

信雄は永禄元年(1558年)、信長の次男として生まれた。母は生駒吉乃とされ、兄の信忠、妹の徳姫(とくひめ)と同じ母を持つ。幼名は茶筅といい、茶をたてる道具にちなむ名だった。

少年の運命が大きく動いたのは、永禄12年(1569年)のことである。伊勢の国司として南伊勢に君臨していた名門・北畠氏を、信長は大軍で攻めた。北畠方は大河内城に籠もって激しく抗ったが、やがて10月に和睦が結ばれる。その条件のひとつが、信長の次男を北畠家の養子として迎え入れることだった。

十二歳の少年は、自分の意思とは関わりなく、伊勢の名門へ送り込まれた。それは養子縁組という名の、事実上の乗っ取りであった。北畠の家臣たちが、敵将の子をどんな目で見ていたか、想像に難くない。少年もまた、自分が父の伊勢支配のための駒であることを、どこかで感じ取っていたはずである。

天正3年(1575年)6月、信雄は北畠家の家督を継ぎ、居城を田丸城に移した。北畠具豊と名乗ったのはこの頃である。そして翌天正4年(1576年)11月、伊勢に血の嵐が吹き荒れた。前の当主であった北畠具教が殺害され、北畠の一族が次々と粛清されたのである。世に三瀬の変と呼ばれるこの事件は、信長の意向によるものとされる一方、『勢州軍記』は信雄の怒りが発端だったと記す。命じたのが父か子か、記録によって食い違い、真相は霧のなかにある。

ただひとつ確かなのは、この惨劇によって、北畠の名跡は名実ともに織田のものとなったことだ。十九歳の若き当主は、養家の血にまみれた土地の主となった。その手に握らされたものの重さを、彼はどう受け止めたのだろうか。父に命じられるままに動いたのか、それとも自ら手を汚して父に認められようとしたのか。どちらであっても、そこには父の目から逃れられない息子の姿がある。

伊賀の山中に散った焦りと、父の怒り

信雄を語るとき、人々が真っ先に挙げる失敗がある。天正7年(1579年)の伊賀攻めである。

発端は、前年にさかのぼる。信雄は家臣の滝川雄利(たきがわかつとし)に命じ、伊賀との境に近い丸山城を修築させていた。かつて北畠具教が隠居城とした城である。伊賀の国人たちにとって、それは自分たちの喉元に突きつけられた刃にほかならなかった。天正6年10月25日、伊賀衆は丸山城に総攻撃をかけ、滝川の軍勢は伊勢へと敗走した。

面目を潰された信雄は、報復に燃えた。そして翌天正7年9月、父の信長にも、兄の信忠にも断ることなく、独断で伊賀へ兵を進めたのである。

伊賀は山と谷が入り組んだ険しい土地で、そこに暮らす人々は地の利を知り尽くしていた。信雄の軍勢が山道に分け入ると、伊賀衆は夜襲を仕掛け、たいまつを使って闇のなかで敵を惑わせたと伝わる。慣れない地形のなかで、織田の兵は散り散りになった。殿(しんがり)を務めた重臣の柘植保重は、退く味方を守りながら討ち死にを遂げた。若き当主の無謀な賭けは、取り返しのつかない大敗に終わった。

知らせを受けた信長の怒りは凄まじかった。9月22日付で信雄に送られた書状は、無断の出兵を厳しく責め、親子の縁を切ることまで示して叱りつけたとされる。天下統一へ向かう父にとって、勝手な戦で兵と重臣を失った息子の振る舞いは、許しがたい愚行と映ったのだろう。

この一件は、どう弁護しようとしても擁護しにくい。信雄を「無能」とする評価の、まさに原点である。フロイスの「愚鈍」という手厳しい言葉も、この失態が背景にあるとする見方がある。

だが、ここで物語は終わらない。わずか二年後の天正9年(1581年)、信長は再び伊賀攻めを決めた。そのとき総大将の一人として伊勢地口から攻め入ったのは、ほかならぬ信雄だった。親子の縁を切るとまで言った父は、あの失敗をした息子に、もう一度同じ伊賀の地を任せたのである。戦が終わると、信長は阿拝・伊賀・名張の三郡を信雄に与えた。

信長という人は、見込みのない者に二度目の機会を与えるほど甘くはない。激しく叱りながらも、父は息子を見捨ててはいなかった。伊賀の山々を再び越えていく信雄の胸には、二年前の屈辱と、父の期待に今度こそ応えたいという思いが、ないまぜになっていたのではないか。

本能寺の炎の向こうに、手の届かなかった天下

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こる。父・信長が討たれ、兄・信忠も二条で自刃した。織田家の柱が、一夜にして二本とも折れたのである。

伊勢の松ヶ島にいた信雄は、兵を率いて西へ向かい、近江の土山まで進んだ。しかし、そこで足が止まる。背後の伊賀では国人たちが不穏な動きを見せていた。二年前に力ずくで押さえつけた土地が、主の不在を突いて牙をむきかねなかった。信雄はそれ以上進めなかった。そのあいだに、中国地方から驚くべき速さで引き返してきた羽柴秀吉が、山崎で明智光秀を討ち果たした。父の仇を討つという、織田家の後継者にとって何よりの手柄は、家臣であった秀吉の手に渡った。

この頃、安土城の天主が焼け落ちている。宣教師の報告である『耶蘇年報』は、これを信雄の放火によるものと記した。一方で『太閤記』は明智秀満の仕業とし、記録によって話は食い違う。研究者のなかにも、信雄に城を焼く動機が乏しいとして断定を避ける見方がある。父が心血を注いで築いた城を、息子が焼いたのか。疑いだけが残り、確かな答えは今も出ていない。だが、そうした疑いがかけられること自体が、当時の信雄に向けられた目の冷たさを物語っているのかもしれない。

6月27日、尾張の清須城で、織田家の今後を決める会議が開かれた。後継者の候補として名が挙がったのは、信雄と、同い年の弟・信孝である。当時の評判は対照的だった。信孝は聡明で人望があるとされ、信雄は凡庸と見られていた。だが結局、家督を継いだのはどちらでもなく、亡き信忠の幼い遺児・三法師であった。信雄を推す重臣は、ひとりもいなかったとされる。

信長の次男でありながら、誰からも後継者の器と見なされなかった。信雄に与えられたのは尾張一国のみで、彼は不満を胸に残したという。父が築いた天下が、自分の手をすり抜けて、家臣たちの思惑のなかで切り分けられていく。その光景を、二十五歳の信雄はどんな思いで見つめていたのだろう。

やがて秀吉と柴田勝家の対立が深まり、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が滅ぶと、勝家と結んでいた信孝もまた追い詰められ、自害に至った。信雄が弟を追い込んだとされる。聡明とうたわれた弟が先に消え、凡庸と嘲られた兄が生き残った。信孝の旧領を得た信雄は、尾張・伊勢・伊賀の三国を治める大名となり、本拠を清須から伊勢の長島城へ移した。

長島の惨劇と、小牧山に掲げた旗

三国の主となった信雄だが、その地位は危うかった。天下の実権を握りつつある秀吉は、もはや織田家の家臣としてふるまうことをやめていた。信雄は、自分が秀吉にとって、いずれ取り除かれる存在になりつつあることを感じていたはずである。

天正12年(1584年)3月6日、信雄は重臣の岡田重孝・津川義冬・浅井長時の三人を呼び寄せ、その場で殺害した。三人が秀吉に内通していると疑ったためである。場所は長島城とする記録が多いが、松ヶ島城とする話もあり、資料によって食い違う。いずれにせよ、この粛清は、秀吉への事実上の宣戦布告となった。

なぜ信雄は、長年仕えた重臣たちを手にかけたのか。小瀬甫庵の『太閤記』は、三人が秀吉に目をかけられているのを面白く思わない近習たちが、謀叛の心ありと信雄に告げ口したのだと記す。告げ口を真に受けた短慮な主君、という読み方である。一方、近年の研究では、親秀吉の勢力を家中から取り除き、内側から家が崩れていくのを防ぐ狙いがあったとする解釈も示されている。もっとも、三人が実際にどこまで秀吉と通じていたのかは、確かめようがない。

疑心暗鬼に駆られた愚行か、それとも家を守るための冷徹な決断か。おそらく、そのどちらの顔も、このときの信雄にはあったのだろう。

信雄が頼ったのは、父の盟友であった徳川家康だった。家康は「主家である織田家を助ける」という名分を掲げ、一万五千の兵を率いて清須城に入った。信長の子が旗印となることで、家康は秀吉と戦う大義を手にしたのである。

連合軍は、かつて信長が最初に築いた城の跡である小牧山に本陣を置き、東へ連なるようにとりでを築いた。対する秀吉は楽田に陣を構えた。父がかつて天下への第一歩を踏み出したその山に、息子が今、父の家臣だった男に抗う旗を立てていた。北畠への養子入りも、伊賀攻めも、どこかで父の意向や父の目を意識したものだった。だが、この戦いは違う。信雄が初めて、自分の意思で、自分の家と領国のために挑んだ戦であった。

4月9日の長久手の戦いでは、徳川方が秀吉方の別働隊を打ち破り、大いに優勢となった。しかし秀吉は、正面からの決戦にこだわらなかった。秋になると、その矛先は信雄の本領である伊勢へと向けられる。秀吉の軍勢は北伊勢から信雄の城々を次々と攻め立てた。戸木城のように最後まで持ちこたえた城もあったが、領国はじわじわと削られていった。戦場で勝ちを重ねた家康とは裏腹に、信雄は足元から追い詰められていったのである。

秀吉と結んだ講和は、裏切りだったのか

天正12年11月、信雄は秀吉と講和を結んだ。『伊木文書』や『荒尾文書』によれば、その条件は伊賀三郡や南伊勢五郡、犬山城などの割譲に加え、信雄の娘を秀吉の養女とすることなどであったとされる。

通説では、この講和は家康に断りなく結ばれた「単独講和」とされる。信雄のために戦っていた家康は、守るべき主家の当人が先に手を引いてしまったことで、戦う大義名分を失い、兵を引くしかなかった。のちに徳富蘇峰は、この講和を「愚人」ゆえの決断と評している。味方のはしごを外した、身勝手で愚かな男。それが長く語られてきた信雄の姿だった。

だが、近年はこの見方に疑問も投げかけられている。研究者の渡邊大門氏は、11月13日付の秀吉の朱印状を読み解き、家康との講和や人質の話も同じ時期に進んでいたとみる。信雄が家康に何も知らせず、突然はしごを外したという筋書きは、確実な史実とは言えないというのである。そもそも信雄は家康の家臣ではない。自らの領国と地位を守るために戦った、戦の当事者であった。

伊勢の城が次々と攻められ、領民が戦火にさらされていくなかで、当主として何を選ぶべきか。意地を張って戦い続け、すべてを失うのか。それとも領国の一部を差し出してでも、家を残すのか。信雄が選んだのは後者だった。その選択を「裏切り」と呼ぶか、「家を守る判断」と呼ぶかで、この男の見え方はまるで変わってくる。

講和の翌年、天正13年(1585年)2月のこととして、ひとつの逸話が残る。秀吉が名物の茶つぼ「兵庫壺」を披露する茶会を開き、信雄も招かれた。ところが信雄は、出された茶に口をつけなかった。毒を盛られることを恐れたのだろうと伝わる。すると翌日、秀吉は自ら茶をたてて信雄に飲ませ、あの兵庫壺を与えたという。

かつては主君の息子と家臣であった二人が、立場を逆転させて向き合う茶席。疑いの目で茶碗を見つめる信雄と、それを笑って受け流し、自ら茶をたててみせる秀吉。この逸話が史実かどうかは確かめられない。それでも、このときの二人の間に流れていた空気を、これほどよく映すものはないだろう。

先祖の地を捨てなかった誇りと、すべてを失った夏

講和ののち、信雄は秀吉の政権のもとで官位を重ね、内大臣にまで昇った。だが、その地位は実権を伴わない飾りにすぎなかったとする見方もある。

転機は天正18年(1590年)の夏に訪れた。小田原の北条氏が滅んだあとの論功行賞で、秀吉は関東へ移る家康の旧領を、信雄に与えようとしたのである。石高だけを見れば、決して悪い話ではなかった。

しかし信雄は、これを固辞した。父祖伝来の地である尾張と伊勢を離れたくない、というのがその理由だった。尾張は織田家が興った土地であり、伊勢は彼が少年の日から生きてきた土地である。そこを去ることは、自分が信長の子であることの、最後の拠り所を手放すことだったのかもしれない。

秀吉は激怒した。信雄は所領をすべて取り上げられ、下野の烏山へ流されることになった。『秋田佐竹譜』によれば、のちに佐竹義宣の預かりとなり、太田城に留め置かれたのち、出羽の秋田へ移されたという。追い打ちをかけるように、その年の8月3日には京の信雄の屋敷が焼けた。三国の主から、すべてを失った流人へ。信雄は髪を下ろし、「常真」と号した。

改易の理由には別の話も伝わる。『常山紀談』は舞をめぐる一件を理由とする逸話を載せ、小和田哲男氏は、信雄が京に新築した「内府屋形」と呼ばれる屋敷が秀吉に危険視されたという説を紹介している。いずれにせよ、秀吉にとって、信長の子という存在そのものが、どこかで目障りになっていたのかもしれない。

先祖の地に執着して、すべてを失った。損得だけで見れば、これほど愚かな判断もない。だが、天下人の命令に、自分の筋を通して「否」と言える者が、当時どれほどいただろうか。愚かさと誇りは、ときに同じ顔をしている。

茶と能と連歌に生きた、しなやかな後半生

流人となった信雄に手を差し伸べたのは、またしても家康だった。翌天正19年(1591年)2月、家康の尽力によって信雄は赦された。

文禄元年(1592年)の頃には、秀吉のそばに仕える御伽衆に加えられ、大和国内に一万七千石の扶持を与えられた。御伽衆とは、主君の話し相手を務める者たちである。かつて秀吉と天下を争った男が、今は秀吉の傍らで談笑する。その胸の内を思うと複雑なものがあるが、信雄はこの役目を、みごとに務めてみせた。

文禄3年(1594年)2月27日、秀吉が催した吉野の花見に、信雄も加わった。満開の桜の下で詠まれた歌は『吉野花見和歌懐紙』として今も残る。続く3月4日には高野山での連歌の会で発句を詠み、3月11日には禁中で能を演じたことが、同時代の記録である『駒井日記』に書き留められている。茶の湯は叔父の織田有楽斎(おだうらくさい)に学んだとされ、京の屋敷に湧く「柳の水」を、千利休が茶の湯に用いたとも伝わる。

戦場では父に遠く及ばなかった男が、歌と能と茶の場では、天下人の宴に欠かせない人となっていた。父から受け継いだのは、戦の才ではなく、雅を解する心だったのかもしれない。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの信雄の立場は、記録によって大きく食い違う。石田三成から恩賞を約束されて西軍に心を寄せたとする記録もあれば、東軍への内応を強調する記録もある。確かなことは、戦後に改易され、再び浪人の身となったことだけである。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が迫ると、豊臣方は信雄を味方に引き入れようとした。だが信雄はその誘いを断り、京へ移ったとされる。織田の血を引く者として担ぎ上げられれば、どんな結末が待っているか。信雄はそれを、身をもって知っていたのだろう。

大坂の陣が終わった元和元年(1615年)、家康は信雄に、大和国宇陀郡と上野国小幡などを合わせて五万石を与えた。信雄は五十八歳にして、再び大名に返り咲いたのである。もっとも、信雄自身は京の北野に住み、領地の政は家臣に任せたとされる。茶を点て、歌を詠み、静かに日々を送ったのだろう。

寛永7年(1630年)4月30日、信雄は京で世を去った。七十三歳。父・信長が四十九歳で炎に消えてから、四十八年の歳月が流れていた。

戦の才に恵まれた者たちが次々と倒れていった乱世を、信雄は頭を下げ、場に溶け込み、生き延びた。それは戦場の勇とは別の、もうひとつの才であった。

無能か、それとも

信雄の所領は子たちに分けられた。四男の信良は上野小幡を治め、その家はのちに出羽の高畠を経て天童へ移った。五男の高長は大和宇陀松山を継ぎ、その系統はやがて丹波の柏原へ移った。二つの家は江戸の世を生き抜き、幕末まで大名として続いた。天下人・信長の子のなかで、大名の家をこれほど長く保ったのは、信雄の系統だけである。

河合敦氏は、信雄は周りから凡庸と見られていたからこそ織田家の当主になれず、そしてその凡庸さゆえに大名の地位を守ることができたのだと論じている。才気ある者は警戒され、担ぎ上げられ、やがて滅ぼされる。凡庸と侮られた者だけが、乱世の嵐をやり過ごすことができた。皮肉なことだが、そこには一面の真実がある。

そもそも「愚鈍」という評も、どこまで信じてよいものか。それを書き残したフロイス自身が、信雄を直接見聞きしたうえで書いたのではない可能性も指摘されている。伊賀での失態の噂が、宣教師の筆を通じて、一人の人間の評価として固まってしまったのかもしれない。

伊賀攻めの大敗は、確かに擁護しようのない失敗だった。だが、三家老の粛清も、秀吉との講和も、転封の拒否も、領国と家を守ろうとした当事者の判断として読む余地がある。そして何より、信雄は生き延び、血をつないだ。

父・信長のような天才にはなれなかった。兄・信忠のような後継者にもなれなかった。弟・信孝のような才気も、人望もなかった。比べられるたびに、足りないと言われ続けた次男である。けれど、その父も、兄も、弟も、誰ひとりとして成し得なかったことを、信雄だけが成し遂げた。織田の家を、その血を、遠い未来まで残したのである。

「三介殿のなさることよ」

そう嘲られた男が最後に残したものは、天下でも、名声でもなかった。二百数十年の時を越えて続いていく、家という名の命であった。

それでもなお、この男を無能のひと言で片付けられるだろうか。

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