八咫烏(やたがらす)の旗を背に、数千の鉄砲を従えて信長の大軍を撃ち崩す。小説や芝居、近ごろではゲームの画面のなかでも、雑賀孫市(さいかまごいち)はいつもさっそうとしている。義理に厚く、権力にへつらわず、からりと笑って引き金を引く男。あまりに出来すぎた姿だからこそ、ふと疑いが湧く。この人は、本当にいたのだろうか。
答えは、二つの層に分かれている。
一つ目の層は、はっきりしている。孫市は確かにいた。紀州の湯河氏に関わる古い起請文(きしょうもん)、永禄5年(1562年)七月のものとされる一通には、雑賀の各地の有力者が名を連ねている。その列のなかに、「十ヶ郷 鈴木孫一殿」の文字が見える。創作の人物なら、こうした地味な誓約の紙に名が載ることはない。さらに『本願寺文書』には、石山合戦の時代の孫一が「重秀」と自ら署名した文書が残る。名を呼ばれ、自分の手で名を書いた人。それが、記録の上の孫市の最初の姿である。
ところが二つ目の層に降りていくと、景色は急にかすんでくる。いつ生まれ、いつ死んだのか。父は誰か。鉄砲を何丁率いたのか。八咫烏の旗は本当に掲げたのか。どれも、確かな史料にはたどり着けない。名と署名は残っているのに、生涯の輪郭は薄墨で描いたようにぼやけている。
雑賀孫市は、実在した。けれども、私たちが思い浮かべる「孫市」がそのまま実在したわけではない。その隙間にこそ、この男の本当の面白さが潜んでいる。
紀ノ川が海へ注ぐ土地で
雑賀は、紀ノ川が紀伊水道へ流れ込む河口のあたりの地名である。古くは『万葉集』にも「雑賀野」「雑賀の浦」が詠まれ、平安の末には雑賀荘という荘園が生まれた。潮の香りと川の湿り気が混じり合う、ひらけた土地だったのだろう。
戦国の世、この一帯には五つのまとまりがあった。雑賀荘、十ヶ郷、宮郷、中郷、南郷。これを「雑賀五組」と呼ぶ。いまの和歌山市から海南市の大部分にかけての広がりで、天文3年(1534年)以降は、紀伊の湯河氏と一揆を結んでいた。
ひとくちに雑賀といっても、中身は一枚岩ではない。雑賀荘と十ヶ郷は浄土真宗、宮郷・中郷・南郷は新義真言宗を信じていた。本願寺の門徒がそのまま雑賀衆だった、とは言い切れないのである。同じ川の水を飲みながら、祈る仏の違う人々が肩を並べていた。
孫市が名乗った「十ヶ郷」は、紀ノ川の北岸に広がる地域だった。事典は、孫市の本拠を名草郡貴志荘の平井村、いまの和歌山市平井のあたりとする。川の流れを背に、田畑と集落が点々と続く土地を思い浮かべればよい。
雑賀の人々が名を上げたのは、鉄砲によってである。天文12年(1543年)に種子島へ鉄砲が伝わると、雑賀はいち早くこれを取り入れ、鉄砲を使う戦い方で知られるようになった。だが、彼らは鉄砲撃ちだけの集団ではなかった。紀ノ川の流域から瀬戸内、さらに九州へと、海の道を行き交う人々でもあったのである。
その証が、いまも残っている。天正9年(1581年)に出された「過所船旗」がそれだ。船が海を通るための許しを示した旗で、平成27年(2015年)に重要文化財となった。旗を受けた向井氏は雑賀衆(さいかしゅう)の一員とみられている。潮風にはためく布切れ一枚が、雑賀の男たちの広い行動範囲を静かに語っている。
鉄砲の扱いに長け、船を操り、遠い土地の事情にも通じる。そうした人々の暮らしのなかから、孫市という男は立ち上がってくる。
「孫一」と呼ばれた男たち
まず、名前のことから確かめておきたい。小説や芝居では「孫市」と書かれることが多いが、確かな史料に見えるのは「孫一」の字である。苗字は鈴木。雑賀孫市とは、雑賀の鈴木孫一のことである。
厄介なのは、「孫一」を名乗った人物が一人ではないことだ。石山合戦で名を上げた重秀のほかに、江戸中期の軍記『畠山記』に見える重意、和歌山の蓮乗寺に墓があるとされる義兼、小田原の陣に関わる天正17年(1589年)の名簿に出てくる「孫一郎」、そして水戸藩に仕えたとされる鈴木重朝(すずきしげとも)。候補の名を並べるだけで、霧はいっそう濃くなる。
ここから、「孫市」は雑賀衆の頭が代々受け継いだ通り名だった、という襲名の説が生まれた。いかにも物語向きの説明で、広く語られている。一方で、和歌山市史はこれらの名を重秀と同じ人物と見ることもでき、何人も想定しなくてよいという立場をとる、とされる。どちらが正しいのか、決め手はまだ無い。確かな史料で「孫一」と結びつくのは、いまのところ重秀である。
父の名もまた、書き手ごとに食い違う。『紀伊続風土記』は鈴木佐大夫とし、『太田水責記』は鈴木左近大夫、『寛政重修諸家譜』は鈴木次郎左衛門光善とする。三つの記録が三つの名を挙げ、どれにも確証がない。
晩年についても同じことが言える。事典のなかには、孫市が水戸藩の家老となり三千石を得たと記すものがある。だが水戸藩に仕えたとされるのは重朝のほうで、それが石山合戦の孫一本人かどうかは分からない。重朝が伊達家に身を寄せたという話もあるが、こちらも確かめられてはいない。
一人の人間の生涯をたどろうとすると、いつのまにか何人もの影が重なり、どれが本人の足跡なのか判然としなくなる。孫市を追うことは、名前という一本の糸を握ったまま、霧のなかを手探りで進むことに似ている。
それでも、糸は確かにある。『佐武伊賀覚書』は、弘治3年(1557年)ごろの名草郡の戦いで、孫一がすでに有力者として働いていたと伝える。その頃、孫一は二十代の後半だったと推定されている。若くして郷の顔となった男は、やがて天下の行方を揺るがす戦いへと身を投じていく。
本願寺の鉄砲として
雑賀一揆は、はじめから信長の敵だったわけではない。元亀3年(1572年)までは、むしろ信長の側にいた。それが天正2年(1574年)、反信長へとかじを切る。この年の十月、孫一のもとには、京を追われた将軍足利義昭(あしかがよしあき)の側近、真木島昭光から書状が届いている。義昭の返り咲きに力を貸してほしい、という頼みだった。天下を争う者たちが、雑賀の鉄砲と、その先頭に立つ孫一の名を求めていたのである。
大坂の石山本願寺と信長との戦いは、十年におよんだ。雑賀五組のうち、本願寺に味方して籠城の中核となったのは、浄土真宗を奉じる雑賀荘と十ヶ郷の二組で、彼らは鉄砲を存分に用いた。孫一の名が事典に「雑賀(鈴木)孫一」と記され、鉄砲衆とともに特に知られた人物として挙げられるのは、この戦いでの働きによる。
天正4年(1576年)五月、天王寺の戦い。信長の部将塙直政が討たれ、信長自らが出陣して本願寺の軍勢と向かい合った。孫一はこの戦場にいた。戦いののち、京では孫一の首だとされるものがさらされたが、それは偽物だったという。偽の首がさらされるほど、その名は敵味方に知れ渡っていたのだ。噂が首より先を走る男。ぞっとするような名声である。
石山の陣中で、孫一は本願寺の坊官下間頼廉と並んで「大坂之左右之大将」と称された、とも伝わる。ただ、この呼び名をどの史料が記したのかは確かめられていない。話としては胸の躍るものだが、伝えられた言葉として受け取っておくのがよいだろう。
同じ時代を見ていた異国の目もある。宣教師ルイス・フロイスは、雑賀の人々について、その戦場での武勇によって「日本に大名を得た」と書き残したと、日本大百科全書は伝えている。海の向こうから来た者にも、雑賀の名は強く響いていたのだ。
よく語られる「孫一は鉄砲五千丁を率いた」という話は、どうだろうか。この数は広く知られているが、どの史料に基づくのかは示されていない。三千人の鉄砲隊という数も同じである。確かな記録で孫一の鉄砲の数が分かるのは、もう少し後の天正12年(1584年)、秀吉の陣立書に記された「弐百」という数字だ。五千と二百。そのあいだの開きは、物語と記録の距離そのものを示している。
天正5年(1577年)、信長はついに本願寺の背後を断つべく、大軍を率いて雑賀へ攻め込んだ。このとき、雑賀の内側にひびが入る。浄土真宗の二組は信長に抗い、真言宗の三組は信長方についた。五組がひとつにまとまっていた雑賀の結びつきは、この戦いで割れてしまう。戦いは一か月ほどで和睦に至ったが、反信長の二組はほどなく再び兵を挙げたという。孫一の十ヶ郷は、抗う側にいた。
天正8年(1580年)、本願寺の顕如(けんにょ)は信長と和睦し、石山を退いて雑賀の鷺森御坊(さぎのもりごぼう)へ移った。講和をめぐる交渉では、孫一も雑賀の宿老(しゅくろう)、有力者の一人として起請文に名を記している。十年の戦いの幕引きにも、その名は刻まれていた。
頭領ではなかったかもしれない男
小説の孫市は、雑賀衆を一身に背負う頭領として描かれる。号令一下、数千の鉄砲が火を噴く。だが近年の研究は、その姿に静かな疑問を投げかけている。
雑賀衆は、ひとつの固い雇われ兵の集団ではなかった、という見方がある。地縁で結ばれた、それぞれ独立した集団が緩やかにつながった連合体であり、全体を代表する一人の頭はいなかった、というのだ。その傍証として挙げられるのが、起請文の形である。雑賀の起請文は、有力者たちの名を同じ紙の上に並べて書く。誰か一人が上に立ち、ほかの者を従える形ではない。
鈴木眞哉氏もまた、重秀は一般に雑賀衆の頭目とされるけれども、雑賀衆の全体を統べたわけではなく、雑賀衆自体がもともと厳しく組み立てられた集まりではなかった、と見ている。
こうして眺め直すと、永禄の起請文に記された「十ヶ郷 鈴木孫一殿」という書き方が、急に意味を帯びてくる。孫一は、十ヶ郷の顔だった。雑賀全体の王ではなく、仲間と名を並べて誓いを立てる、郷の有力者の一人だったのである。
頭領ではなかったかもしれない。それは、孫市の値打ちを下げるだろうか。むしろ逆だと思う。命令ひとつで人を動かせない場所で、それでも敵にも味方にも名を知られ、偽の首がさらされるほどの存在になった。その名声は、肩書きではなく、戦場での働きと、仲間たちの信頼のなかから積み上がったものだったはずだ。組織の頂点に据えられた英雄よりも、横並びの人々のなかで抜きん出た一人のほうが、かえって生々しい手触りを持っている。
本能寺の夜、闇のなかを駆ける
石山の戦いが終わると、孫一の立ち位置は大きく変わる。本願寺が退いたのち、孫一は信長との間をとりもつ役を務め、やがて信長に近づいていったとされる。かつて銃口を向けた相手の側へ、身を寄せたのである。
雑賀のなかには、信長に抗い続ける者たちもいた。その筆頭が土橋氏である。土橋氏は反信長の立場をとり、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)とも近かったとされる。
天正10年(1582年)正月、土橋若太夫胤継が鷺森御坊へ参詣していたところを、孫一の放った刺客が襲い、命を奪った。孫一はさらに、若太夫の息子たちが立て籠もる城を攻める。顕如は和睦を勧めたが、孫一ははじめ耳を貸さなかった。息子たちのある者は逃れ、ある者は討たれ、五男の楠千代ひとりが残るまでになって、ようやく孫一は和睦を受け入れたという。
なぜ、ここまでしたのか。『信長公記』をもとにした古くからの見方では、天正9年に孫一の継父が土橋氏に殺されたことへの報復だとされる。私怨の果ての凄惨な仕返しである。
けれども、近年の研究者藤田達生氏は、その背後に信長の影を見る。鈴木一族は信長に歩み寄っていたが、土橋氏は反信長で長宗我部に近い。四国攻めを控えた信長が、孫一を後押しして土橋氏を除こうとしたのではないか、というのだ。実際、この年の二月八日には、信長の後援を得た孫一の側が土橋派に勝ったとされる。
私怨か、天下人の思惑か。おそらく、どちらか一つではなかったのだろう。継父を失った怒りと、信長という大きな後ろ盾。その二つが重なったとき、孫一は郷の仲間の血を流すことをためらわなかった。かつて信長と戦った男が、今度は信長の力を借りて、信長に抗う同郷の者を討つ。その苦い反転のなかに、戦国を生き抜こうとする者の、むき出しの現実がある。
そして同じ年の六月二日、京の本能寺で信長が倒れた。
その知らせが雑賀の孫一に届いたのは、翌三日の朝だったという。後ろ盾が、一夜にして消えた。孫一はその夜のうちに雑賀を抜け出し、和泉の岸和田城へと逃れた。翌四日には、土橋派の攻撃が始まっていたとされる。あと一日遅れていれば、孫一の命はなかったかもしれない。
想像してみる。報を聞いた瞬間の、背筋をはい上がる冷たさ。正月に流した血が、いまや自分に跳ね返ってくる。家族を、郎党を、どこまで連れて行けるのか。夏の闇のなか、紀ノ川を背にして北へ急ぐ足音。故郷は、その夜を境に、帰る場所ではなくなった。
孫一がこれほど素早く逃げたことは、裏を返せば、それだけ信長に近いところにいたことを物語っている。反骨の英雄として語られる男が、実は信長の後押しで郷を治め、信長の死とともに郷を追われた。物語の孫市とは、あまりにもかけ離れた姿である。
陣立書の「弐百」、消えていく足跡
故郷を失った孫一は、次に羽柴秀吉のもとへ身を寄せた。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い。根来衆(ねごろしゅう)や雑賀衆の多くは、徳川家康と織田信雄(おだのぶかつ)の側について秀吉に抗った。そのなかで孫一は、秀吉方として戦場に立っている。八月の秀吉の陣立書には、「鈴木孫一殿 弐百」と記されている。鉄砲頭九人のなかで、孫一の数が最も多かったとされる。
二百。かつて語られた五千丁に比べれば、ずいぶん控えめな数だ。けれども、これは確かな記録に残る数字である。故郷を追われてなお、秀吉の陣中で鉄砲頭の筆頭に名を連ねる。その腕と名は、まださびついてはいなかった。
翌天正13年(1585年)三月、秀吉は紀州へ兵を進めた。根来寺は炎に包まれ、雑賀衆が籠もった太田城は、堤を築いて紀ノ川の水を引き入れる水攻めにさらされた。城はおよそ一か月で開かれ、首謀者は斬られ、百姓は許されて村へ帰されたという。主だった者五十余人が処刑されたと記す事典もある。
このとき孫一は、太田城へ降伏を勧める使者を務めたとされる。かつて肩を並べた郷の人々が籠もる城へ、攻める側の使いとして向かう。その胸のうちを記した史料は無い。濁った水に沈んでいく故郷の田畑を、孫一はどんな目で見たのだろうか。
役目を終えたあと、孫一は息子を人質に差し出し、それきり雑賀へ戻った形跡はない。大坂で暮らしたと考えられている。秀吉に仕えて小田原の陣にも加わったと記す事典もある。秀吉は紀州を平らげたのち、岡山の地に和歌山城を築いた。雑賀の男たちが自らの手で郷を治めた時代は、ここで終わる。
そして、孫一の足跡も、ここから先は霧のなかへ溶けていく。いつ、どこで、どのように死んだのか。確かな記録は残っていない。没年は分からない。あれほど名をとどろかせた男の最期が、誰にも書き留められなかったのである。
確かなことと、確かでないことのあいだで
いま一度、最初の問いに戻ろう。雑賀孫市は実在したのか。
実在した。永禄の起請文に名が見え、『本願寺文書』に「重秀」の署名が残り、秀吉の陣立書に「弐百」の数とともに記されている。名を呼ばれ、自ら名を書き、戦の数に数えられた人である。
けれども、物語の孫市を形づくってきた多くのものは、確かな史料のなかには見つからない。八咫烏の旗印は有名だが、使ったことを示す史料は示されていない。鉄砲五千丁、三千人という数にも出どころがない。水戸藩や伊達家に仕えたという晩年も、別の人物との取り違えかもしれない。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』に描かれた「七万石の大名」という姿は、『紀伊続風土記』の誤りに由来するものだと指摘されている。江戸の世には浮世絵『太平記英勇伝』や歌舞伎『御文章石山軍記』にも孫市が登場し、人々に愛されてきた。物語の孫市は、何百年もかけて人々が育ててきた、もう一人の孫市なのだ。
では、史料の向こうに立つ孫一は、物語の孫市より色あせているだろうか。
そうは思わない。信長に抗い、信長に近づき、信長の死とともに郷を追われ、秀吉の陣に加わって、かつての仲間が籠もる城へ降伏を勧めに行く。権力に屈しない英雄の物語とは、まるで違う。だがそこには、決して一つの旗に殉じることなく、潮目を読み、風向きを測りながら、それでも生き延びようとした一人の男の、したたかで、ときに痛ましい姿がある。
鉄砲と船を操り、海の道を行き交った雑賀の人々は、もともと一つの主に縛られない生き方をしていた。孫一の身の振り方は、その土地の気風そのものだったのかもしれない。仲間と名を並べて誓い、仲間を討ち、仲間に降伏を勧める。その揺れのすべてが、紀ノ川の河口で生まれた男の生き方だった。
確かなことと、確かでないことのあいだに、孫市は立っている。輪郭が霞んでいるからこそ、人々はそこに理想の英雄を描き込み、何百年も語り継いできた。そして霧をかき分けたその先に、英雄ではない、ただ必死に乱世を渡ろうとした一人の男の背中が、ぼんやりと見えてくる。私たちが心惹かれるのは、きっとその両方なのだろう。