佐竹義重(さたけよししげ)という名を聞いて、まず浮かぶのは鉄砲だろう。関東一の鉄砲隊を率い、北条の大軍と向き合った沼尻の陣では八千丁を超える鉄砲を並べた――。長篠で織田信長がそろえたとされる三千丁の倍をはるかに超える数字は、それだけで人を惹きつける。
だが、その数字の根をたどっていくと、足もとが急に心もとなくなる。そして心もとなくなったその先に、鉄砲の数よりもずっと手ごたえのある、一人の男の姿が立ち現れてくる。
八千丁の鉄砲は、どこから来た数字なのか
沼尻の合戦で佐竹・宇都宮の連合軍が八千丁以上の鉄砲を用意した、という話は広く知られている。ところが、この数字を確かな史料の言葉としてたどれるかというと、話は別である。
この数字を紹介する文章には、出典となる史料の名がはっきり示されないことが多い。この話を取り上げた研究者も「文献を信ずるならば」という条件を付けており、数字そのものには留保がつきまとう。一般向けの紹介では「八千六百挺」という、さらに細かい数字まで見えるが、その書き手自身が、後世に誇張されたものだろうと添えているほどだ。
もう一つ、見落とされがちな点がある。沼尻に陣を張ったのは佐竹家だけではない。宇都宮をはじめ、別々の家の兵が寄り集まった連合軍だった。仮に八千丁という数が何らかの記録にあったとしても、それは連合軍全体の数であり、義重ひとりの鉄砲隊の数として数えることはできない、という指摘もある。
義重が「関東一の鉄砲隊」を備えていたという評判にしても、事典類は「備えたという」と伝聞の形で一言触れるだけで、いつ、どの相手に、どれほどの数を、という具体は語られない。三千丁を超える鉄砲隊を組織した、という紹介も多いが、こちらも史料の名は添えられていない。
では、義重と鉄砲の結び付きはまったくの作り話なのか。そう言い切るのも早計だろう。確かなのは、数字がひとり歩きしているということだけだ。そして、なぜこの男がこれほど鉄砲と結び付けて語られてきたのか――その理由を探るほうが、八千という数の真偽を争うより、義重という人物の芯に近づける気がする。
十五、六で背負った家と、山に眠る金
天文16年(1547年)、義重は常陸の太田城に生まれた。父は佐竹義昭。永禄5年(1562年)、父の隠居を受けて家督を継いだとき、まだ十五、六歳の少年だった。
佐竹氏は清和源氏の名門である。だが名門であることは、戦国の世では何の保証にもならない。南には相模から関東を飲み込もうとする北条氏がおり、北には南奥羽の諸家がひしめく。周囲の小さな国衆は、強いほうへ、得になるほうへと、たやすく旗の色を変える。少年当主が背負わされたのは、そういう揺れ動く土地の真ん中に立つ家だった。
その家を支えたものの一つが、山である。佐竹の領内には二十を超える金山があったと伝わり、なかでも栃原の金山が重んじられたという。義重は領内の金山に新しい技術を入れて資金を得た、と後世の記録は語る。慶長3年(1598年)、豊臣政権への金の貢ぎ高は、上杉、伊達に次いで三番目だったとも紹介されている。
金があれば、兵を養える。武具をそろえられる。そして、遠くから鉄砲を買い入れることもできたはずだ――と、多くの紹介はここで金山と鉄砲を一本の線で結ぶ。しかし、義重が鉄砲をどこから、どれほど仕入れたのかを語る確かな記録には、まだ行き当たらない。金山と鉄砲隊の物語は、いかにも筋が通っているがゆえに、かえって慎重に眺めたほうがよい。
ただ、山の奥から掘り出される金が、この家の背骨になっていたことは疑いない。少年当主は、目に見える城や兵だけでなく、地の底に眠る富もまた、自分の武器にしていったのだ。
北条に抗う連合の盟主として
義重の前半生は、北条氏との長い綱引きだった。
若き日の義重は越後の上杉謙信と手を組み、永禄7年(1564年)には常陸の小田氏治(おだうじはる)を破ったと伝わる。だが謙信の力は、雪深い越後から遠い関東の隅々まで、いつまでも届くものではない。義重が選んだのは、誰かの傘の下に身を寄せるのではなく、自分が傘になる道だった。
永禄12年(1569年)11月、常陸の手這坂で、太田資正・梶原政景の父子が真壁久幹らの加勢を得て小田氏治を打ち破った。翌日には小田城が落ち、義重はこの城を資正に与えている。近年の研究では、この戦いが、佐竹を盟主とする北関東の国衆が上杉から自立していく出発点になったと評価されている。手柄を立てた者に城を与える。その気前のよさは、武勇の誇示よりもずっと雄弁に、周囲の者たちに「この男についていけば報われる」と伝えたことだろう。
北条の攻勢が強まると、義重は下総の結城、下野の宇都宮・那須といった家々と結び、婚姻を重ねて同盟を固めていった。のちには自分の子を他家へ養子に送り込み、血のつながりを網の目のように広げていく。北条が義重を正面から打ち倒せないと見て、奥州の伊達と手を結び、南北から挟み撃ちにする策をとったと後世の記録が語るのも、裏を返せば、それだけ義重の築いた網が厄介だったということだ。
刀を振るう強さと、人を束ねる強さ。義重はそのどちらも持っていたが、時を追うごとに、後者の比重が大きくなっていくように見える。
沼尻の百十日――試されたのは、鉄砲ではなかった
天正12年(1584年)、ついに北条との大きな対決の時が来る。
この年の初め、北条方にいた上野の由良国繁・長尾顕長の兄弟が佐竹方へ寝返った。義重らの働きかけによるものである。北条はこれを許さず、軍を北へ向ける。義重は宇都宮国綱とともに兵を出し、両軍は下野の沼尻、いまの栃木市藤岡のあたりでぶつかった。
ぶつかった、と書いたが、実のところ決定的な戦いは起きていない。5月の初め、両軍はそれぞれ陣城を築き、互いににらみ合ったまま動かなかった。にらみ合いは夏を越え、百十日に及んだと伝わる。
梅雨の湿り気が陣幕にまとわりつき、やがて真夏の日差しが土塁を焼く。動かない戦は、動く戦よりも人を消耗させる。兵糧は日ごとに減り、兵の心は日ごとに故郷へ向く。鉄砲が何丁あろうと、撃つ相手が攻めてこなければ、それはただの重い鉄の筒にすぎない。
同じころ、遠い尾張では羽柴秀吉と徳川家康が小牧・長久手で向き合っていた。義重は秀吉と連絡を取り合い、北条は家康に寄る。沼尻の長陣は、関東の片隅の小競り合いではなく、天下の行方とつながった綱引きでもあった。
均衡を破ったのは、刃でも弾丸でもなかった。7月15日、北条の調略によって皆川広照が寝返り、佐竹・宇都宮方の退路にあたる岩船山の陣城が落ちたのである。背後の道を断たれた陣は、もはや陣ではない。義重は講和に動き、8月27日に和睦が成り、翌日、兵を引いた。和睦の中身はわかっていないが、戦いのあとの処理は北条方が有利に進めたとされる。
この結末に、佐竹に従っていた真壁氏幹は激しく怒った。義重に宛てた書状に、彼はこう書きつけている。
「手抜之刷、前代未聞存候」
なんという手ぬるいやり方か、前代未聞だ――。主筋の盟主に向けるには、あまりに率直な言葉である。だが、この一文が残っていることそのものが、義重と国衆たちとの関係をよく物語っている。彼らは家来というより、ともに戦う仲間であり、だからこそ遠慮なく怒りをぶつけた。そして義重は、その怒りを受け止めながら、なお彼らを束ね続けなければならなかった。
退路を断たれたまま意地を張って戦えば、連合軍そのものが崩れたかもしれない。義重はそれを避けた。手ぬるいと罵られることを承知で、兵を生かして連れ帰る道を選んだのだ。それは、勇ましい武将の物語としては、あまりにも地味な決断である。
沼尻のあと、北条から離れていた由良・長尾の兄弟は降り、皆川や壬生も北条の側についた。佐竹と宇都宮は、いっそう秀吉を頼るようになっていく。沼尻の百十日が試したのは、鉄砲の数ではなかった。陣城を守り抜く粘りと、調略を見抜く目と、寄り合い所帯の同盟を最後まで崩さずにいられるかどうか――義重の強さの本当の中身だったのである。
人取橋、勝ちながら退いた日
沼尻の翌年、天正13年(1585年)の冬、義重の目は北へ向けられた。
奥州では、若き伊達政宗(だてまさむね)が勢いを増していた。二本松の畠山義継(はたけやまよしつぐ)が政宗の父・伊達輝宗(だててるむね)を連れ去り、輝宗も義継も命を落とすという凄惨な事件が起き、政宗は二本松城を攻め立てていた。これを見過ごせば、伊達の牙はいずれ南へ向く。義重は嫡男の佐竹義宣(さたけよしのぶ)とともに、蘆名・岩城・石川・白河・二階堂らの南奥羽の諸家と連合軍を組み、およそ三万の兵で北へ進んだ。迎え撃つ伊達軍は約七千。
11月17日、いまの福島県本宮市、瀬戸川にかかる人取橋のあたりで両軍は激突した。数に勝る連合軍は伊達軍を押しまくり、本陣にまで迫った。政宗のよろいには矢が一筋、銃弾が五発当たったと伝えられる。老将鬼庭左月斎は政宗を逃がすために敵中へ斬り込んで討ち死にし、伊達成実(だてしげざね)は挟み撃ちに遭いながらも持ちこたえて時を稼いだ。政宗はかろうじて本宮城へ逃れた。
義重の本隊が瀬戸川を渡ったとき、前線では伊達の本隊と鉄砲を撃ち合っていた――歴史読み物はそんな場面を描く。冬枯れの川原に硝煙がたなびき、乾いた音が谷にこだまする。その光景は、伝えられる話の一つとして思い描くにとどめておきたい。
勝負はほとんど決していた。あと一押しで、のちに奥州を飲み込む男の命運は、ここで尽きていたかもしれない。
ところが、その夜、佐竹の陣中で思いがけないことが起きる。一族の将・小野崎義昌が、自分の家臣に刺し殺されたのである。そこへ追い打ちをかけるように、本国の常陸に北条方の江戸重通や里見義頼らが攻め寄せるという報せが届いた。
義重は兵を引いた。
勝っている戦場から、自ら退く。その決断がどれほど苦いものだったかは想像に余りある。目の前には、手を伸ばせば届きそうな勝利がある。だが背後には、守るべき国と民がいる。沼尻で背後の道を断たれる怖さを身にしみて知った男にとって、本国の危うさは、目の前の勝ち戦よりも重かったのではないか。
この撤退には、もう一つの影が差している。義重の正室は伊達晴宗の娘、つまり政宗の叔母にあたる女性だった。連合軍の引き揚げの際、この縁が仲立ちになったという話も伝わる。真偽は確かでないが、戦場で刃を交えた相手が、妻の甥でもあったという事実は、戦国という時代の残酷さと、人のつながりの不思議さを同時に感じさせる。
人取橋の戦いは、戦場では連合軍の勝ちだった。だが政宗を討ち取ることも、本宮城を落とすこともできず、天下の流れを変えるほどの勝利にはならなかった。義重はこの後、北条との戦いに力を注ぎ、伊達に対して大きな兵を動かすことはなくなっていく。
「鬼義重」という名の重さ
佐竹義重には「鬼義重」という呼び名がついてまわる。北条の兵が義重の奮戦ぶりに恐れをなして逃げ出したという話は、この異名とともに今も語られる。
だが、この呼び名がいつから使われたのかは、はっきりしない。事典も「と呼ばれたとされる」と慎重に書き、江戸時代の記録に直接確かめることはできないという。研究者のなかには、後の世になってつけられた呼び名である可能性が高い、と見る人もいる。
東北の合戦を描いた軍記『奥羽永慶軍記』は、義重の姿を「夜叉羅刹とも云うべし」と描く。夜叉や羅刹といえば、人を食らう鬼神である。戦場で敵と向き合ったときの義重の気迫を、後世の人々はそう語り伝えたのだろう。
かぶとの前立てには、毛虫があしらわれていたと伝わる。毛虫は後ろへ下がらず、ひたすら前へ進む――そんな意味が込められていたという。もっとも、この由来は伝承の域を出ないし、布団を使わずに眠った、毎朝欠かさず刀をあらためた、といった話も、江戸時代も後期になってから編まれた書物に基づくもので、そのまま信じることはできないとされる。
一方で、義重のものとして、こんな言葉も伝わっている。
「戦いは人数の多少で決まるものではない」
これもまた伝承ではある。だが、この言葉を思い浮かべながら沼尻と人取橋を振り返ると、不思議と納得のいくものがある。沼尻では兵の数で劣らずとも、裏切り一つで陣が危うくなった。人取橋では四倍の兵で押しながら、陣中の一太刀と一通の報せで退くことになった。戦の勝ち負けを決めるのは、兵や鉄砲の数ではなく、人の心の向きなのだ――義重がそう言ったのだとすれば、それは鬼の言葉というより、何度も人の心の移ろいに泣かされた男の、骨身にしみた実感だったのではないか。
「鬼」という呼び名は、義重の荒々しい一面を伝える。けれども、その荒々しさの陰で、彼はつねに、離れていこうとする人の心をつなぎとめるという、地道で根気のいる仕事に向き合い続けていた。
秋田へ――鉄砲の数より確かなもの
天正17年(1589年)、会津の摺上原で、蘆名家を継いでいた義重の次男・蘆名義広(あしなよしひろ)が伊達政宗に大敗する。佐竹の兵も合流していたとされるが、蘆名は会津を追われ、義広は実家の佐竹を頼って落ちのびた。北の守りとして送り込んだ息子が、かつて人取橋で取り逃がした男に敗れたのである。義重の胸に去来したものは何だったろう。
義重はやがて家督を嫡男の義宣に譲り、太田城に退いた。家督を譲った年は天正14年とも17年ともいわれ、隠居ののちも実権はなお義重の手にあったとされる。
天正18年(1590年)、義宣は小田原に参陣し、豊臣秀吉から常陸の支配を認められた。佐竹家の所領は、のちに五十四万石余と数えられる大きさになった。義重が早くから秀吉と書状を交わし、石田三成や上杉景勝とも親しく交わってきたことが、ここで実を結んだと言ってよい。沼尻の長陣のさなかにも、義重は秀吉と連絡を絶やさなかった。天下がどちらへ転ぶかを、彼は誰よりも早く見ていたのである。
だが、天下はもう一度転ぶ。慶長5年(1600年)の関ヶ原で、三成と親しかった義宣は態度をはっきりさせず、義重は家康につくべきだと説いたという。親子の考えは割れた。戦いのあと、佐竹家は曖昧な態度をとがめられ、慶長7年(1602年)、常陸を離れて出羽の秋田へ移された。石高は大きく減ったが、家そのものは取り潰されずに残った。以前から家康・秀忠の父子と親しく交わっていた義重が、家の存続を願って働きかけたためと伝えられる。
先祖代々の常陸の地を、佐竹の家は去った。義重は秋田の南、仙北の六郷に移り住み、町の区割りを整え、新しい領地の見張りを務めた。生まれ育った太田の城を遠く離れ、雪深い北の地で、老いた「鬼」は最後まで家を守る仕事を続けたのである。
慶長17年(1612年)4月19日、義重は世を去った。六十六歳。狩りの最中に馬から落ちたのが原因と伝わる。最後の子・義直は、父の死のあとに生まれたという。
振り返ってみると、義重の生涯で鉄砲が決定的な役割を果たした場面は、確かめられる記録のなかには意外なほど見当たらない。八千丁の数字は根が細く、関東一の鉄砲隊という評判にも、具体の裏付けは乏しい。
それでも、義重が鉄砲とともに語られ続けてきたのは、たぶん、彼の強さがそれだけ人の目に大きく見えたからだろう。北条の大軍を十年、二十年と押しとどめ、奥州の伊達とも渡り合った男。その強さを説明するには、山ほどの鉄砲があったと考えるのがいちばん分かりやすかった。
だが、義重を本当に強くしていたのは、目に見える鉄の筒ではなかった。手柄を立てた者に城を与える気前のよさ。婚姻と養子で広げた血のつながり。前代未聞の手ぬるさと罵られても兵を連れ帰る決断。勝ち戦を捨ててでも本国を守る判断。そして、天下の移ろいを早く見抜き、家を次の世へつないだ粘り強さ。
戦いは人数の多少で決まるものではない――。その言葉が本当に義重のものだったかどうかは分からない。けれども、八千丁の伝説を一枚ずつはがしていった先に残るのは、まさにその言葉どおりに生きた一人の男の姿である。人と人とをつなぎとめる力こそが、佐竹義重という武将の、何よりも確かな武器だったのだ。