千曲川の清らかな流れが霧を呼び、信濃の山々を深い白の底へと沈めていく。静寂に包まれた陣屋の奥、張り詰めた大気をつんざくように、乾いた澄んだ音が一つ、響き渡る。碁笥(ごけ)から取り出された黒と白の石が、厚みのある碁盤の盤面を打つ音である。それは一見、乱世の喧騒を逃れた風流人の慰みのようでありながら、その実、研ぎ澄まされた刃を交えるよりもなお苛烈な、魂の攻防戦そのものであった。
盤上の黒白が織りなす無限の展開に、己の血肉と一族の命運のすべてを仮託した武将がいる。信濃の山あいに根を張り、やがて戦国屈指の知勇を誇る名門へと駆け上がった真田家の礎を築いた男、真田幸隆(さなだゆきたか)である。
後世、真田一族の知略は常に「囲碁」の情景とともに語り継がれてきた。慶長五年、関ヶ原の合戦の折、東軍の徳川秀忠率いる数万の大軍が信州上田城へと押し寄せた際、城主である幸隆の三男・真田昌幸(さなだまさゆき)は、城門が次々と破られる急報が届く中、微動だにせず盤面を見つめ、静かに碁を打ち続けていたと伝えられる。さらに、合戦後に紀州九度山へと流され、草庵に隠棲した昌幸は、昼夜を忘れて碁盤に向かい、石を打ち続けた。古書『爛柯堂棋話』には、その異様な執念を案じた息子の真田信繁(さなだのぶしげ、通称・幸村)に対し、昌幸が夜更けの戸棚を開け、盆石で作られた大坂城の模型を見せながら語りかけた言葉が克明に記されている。
「碁というものは、天地方円の象徴であり、陰陽動静の理がある。風雲が変化する機微、山河の表裏の情勢、世の栄枯盛衰、そして兵家の奇策や正攻法、攻守のすべてが、この囲碁の中に含まれているのだ。早ければ三年、遅くとも五年のうちには、天下の大乱が起こる。それゆえ私は、昼夜、黒と白の碁石を敵味方に見立てて、その勝負を試みているのだ」
昌幸が語ったこの壮絶な盤上の哲学は、突如として生まれたものではなかった。それは信濃の過酷な大地において、持てる知略のすべてを「布石」として打ち込み、絶望の淵から這い上がった父・幸隆の背中から受け継がれた、真田一族の血の記憶であった。信濃の険しい山河を巨大な碁盤に見立て、敵の心の隙間を突いて領地を切り拓いた幸隆の戦い。正面衝突の血みどろの力攻めをあざ笑うかのように、戦わずして城を呑み込んでいったその神妙な軍略は、まさに盤上の碁石が相手の包囲網を音もなく締め上げていく定石そのものであった。真田幸隆という男の生涯は、一族の存亡を賭けた、壮大にして哀切なる盤上の死闘であった。
目次
盤上に宿る一族の魂――真田家を貫く「囲碁」の血脈
真田の郷、長野県上田市真田町に鎮座する山家神社。古くから白山信仰の修験の地として崇敬を集め、真田一族が代々産土神として祈りを捧げてきたこの静けさに包まれた神域に、今も参拝者の目を引く特異な遺構がある。真田神社の境内に据えられた「真田の碁盤石」と呼ばれる巨石である。幸隆が本拠とした真田本城(松尾古城)から移されたとも伝わるその石は、かつて幸隆の孫である真田信繁が盤を囲み、天下の行く末を見据えて思索を巡らせた場所であるという伝承を残している。現代においてもなお、人生の岐路に立つ人々が「最善の一手」を願ってこの石を訪れ、真田の家紋である六文銭の形に硬貨を並べる姿が絶えない。
真田一族と囲碁の結びつきは、単なる地方の伝承にとどまらない。昭和六十三年に放送された大河ドラマ『武田信玄』において、俳優・橋爪功が演じた真田幸隆の登場場面は、今なお多くの歴史ファンの記憶に鮮烈な残像を刻み込んでいる。若き日の武田晴信(たけだはるのぶ、後の信玄)が父・武田信虎(たけだのぶとら)を追放し、甲斐の国主となって間もない頃、流浪の身であった幸隆は、何の前触れもなく晴信の御前に碁盤を抱えて現れた。そして晴信の鋭い視線を受け止めながら、自らの知略と信濃の領地を賭け、盤上で乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負を挑んだのである。
もちろん、この印象深い場面は脚本上の創作である。しかし、後世の創作者たちが幸隆という人物を描く際、抜き身の刀や長槍ではなく、なぜ「碁盤」を持たせずにはいられなかったのか。その答えは、彼が戦国乱世で見せつけた軍略の特異性にある。
戦国時代の武将といえば、屈強な肉体を誇り、先陣を切って敵陣を蹂躙(じゅうりん)する猛将の姿が連想されがちである。だが幸隆は、そうした武力一辺倒の戦いを最も嫌った。彼が選んだのは、敵の心理を読み、人間関係の綻びを見抜き、時間をかけて盤面の要所要所に味方の息のかかった者を配置していく「調略」の道であった。一歩間違えれば自らの命はおろか一族が根絶やしにされる極限の緊張感の中、相手の出方をじっと見極め、最善の一手を打ち続ける。相手が気づいたときには、すでに逃げ場のない包囲網が完成している。そうした幸隆の知略の本質を象徴するものとして、「囲碁」以上にふさわしい器は存在しなかったのである。
さらに、松代藩の史料や古文書の調査においても、真田家と囲碁の密接な関係は幾度となく浮かび上がっている。江戸時代の棋書や記録には、昌幸と長男・真田信幸(さなだのぶゆき、後の信之)が対局したとされる棋譜が伝えられており、現代の囲碁愛好家や専門家の間でも「戦いを恐れず、複雑な戦略を仕掛ける、真田らしい気迫に満ちた碁」として語り継がれている。年代の矛盾から後世の仮託である可能性が指摘されつつも、そうした伝説が語り継がれること自体、真田家が代々受け継いできた精神の根底に、盤上の知略が深く息づいていた証左にほかならない。
だが、幸隆がこの冷徹にして精緻な知略を手に入れるまでには、骨肉の痛みを伴う絶望的な敗北と、すべてを失った放浪の苦汁をなめ尽くさねばならなかった。
盤面崩壊と屈辱の捨て石――海野平の敗北から仇敵・武田晴信への臣従
真田幸隆、その生前の実名(諱)を「真田幸綱」という。信濃国小県郡の土豪として誇り高き血統を引く海野一族に連なる彼は、幼少より信濃の険しい山々に抱かれて育った。小県は東信濃の要衝であり、千曲川の河岸段丘と険しい山並みが入り組む、地勢的にも防御に適した土地であった。だが、その地理的な重要性ゆえに、常に隣接する大勢力の草刈り場となる宿命を背負っていた。
天文十年五月、幸隆の人生における最初の、そして最大の破局が訪れる。「海野平の戦い」である。
甲斐の猛虎・武田信虎、信濃屈指の勢力を誇る諏訪頼重(すわよりしげ)、そして北信濃の雄・村上義清(むらかみよしきよ)。この三者が手を結んだ連合軍が、怒涛のごとく小県郡海野平へと侵攻してきたのである。数において圧倒的に劣る海野一族は果敢に防戦したものの、多勢に無勢、陣形は瞬く間に突き崩された。一族の棟梁であった海野棟綱は敗走し、幸隆の一族もまた、本拠である真田郷を追われた。
紅蓮の炎が先祖代々の館を包み込み、黒煙が信濃の青空を黒く染め上げていく。昨日まで自らの領地であった山河が、見る影もなく蹂躙されていく光景を、幸隆はどのような思いで見つめていたのか。手元に残されたのは、わずかな手勢と、幼子を抱えた家族のみ。碁盤に例えるならば、序盤の布石を整える間もなく、盤上の石をことごとなぎ払われ、盤面そのものが粉々に砕け散ったに等しい壊滅状態であった。
着の身着のままで山越えを果たした幸隆一行は、上野国の箕輪城主・長野業正を頼り、その庇護のもとで亡命生活に入った。長野業正は義理堅い名将であり、落ち延びてきた海野・真田の残党を温かく迎え入れた。だが、他国の軒先を借りる寄食の身であることに変わりはない。故郷を遠く離れた上野の地で、幸隆は先の見えない屈辱の日々を過ごした。武士にとって、先祖伝来の土地を奪われることは、自らの存在理由を根こそぎ否定されることと同義であった。
「いかにして、あの信濃の山河を取り戻すか」
冷たい夜風が吹き抜ける部屋で、幸隆は独り、暗闇の中で思考を巡らせ続けた。だが、長野業正の力を借りて信濃へ攻め入ることは、現実問題として不可能に近かった。長野家は関東管領の上杉家に連なる勢力であり、越後や相模の後北条氏との緊張関係を抱え、信濃の奥深くへ大軍を派遣する余裕など毛頭なかったのである。業正の好意に甘えていれば、命は長らえるかもしれない。しかしそれは、真田の家名が歴史の片隅で静かに朽ち果てていくことを意味していた。
そのとき、信濃と甲斐の情勢に地殻変動が起きる。海野平で幸隆らを蹴散らした武田信虎が、嫡男の晴信によって駿河へと追放されたのである。若き晴信が甲斐の新たな主となり、信濃への再侵攻を開始したという報せが、上野の幸隆の耳にも届いた。
ここで幸隆は、常人の武士であれば決して下さない、戦慄すべき決断を下す。
「武田晴信に仕える」
それは、昨日まで自らの故郷を焼き払い、一族を流浪の身へと追いやった不倶戴天の仇敵の軍門に降ることを意味していた。武士の面目や誇りを何よりも重んじる当時の価値観からすれば、仇敵に膝を屈するなど、末代までの恥辱と罵られても弁解の余地はない。事実、長野家の家臣たちの中には、幸隆の動きを裏切りと見なして軽蔑の目を向ける者も少なくなかった。
だが、幸隆の胸中にあったのは、陳腐な面目や過去への感傷ではなかった。彼が見据えていたのは、盤面全体を俯瞰する「大局」であった。小県を占領しているのは村上義清である。その義清を叩き潰し、旧領を奪還できる力を持つ勢力は、今や信濃侵攻を推し進める武田家をおいてほかにない。仇敵であろうと何であろうと、勝つための最強の駒として利用する。自らを武田という巨大な陣営の中の一石として打ち込み、泥をすすってでも活路を拓く。
己の誇りを「捨て石」とし、未来の一着を期する。この冷徹極まりない現実主義こそが、真田幸隆という男の真骨頂であった。
一方の武田晴信にとっても、幸隆の臣従は天の配剤であった。晴信は信濃攻略を進めていたが、険しい山岳地帯に割拠する信濃の国衆たちは手強く、土地の地理や人間関係に暗い甲斐の軍勢は苦戦を強いられていた。信濃の国衆の血縁関係、誰が誰と反目し、誰が利に目ざといか、そのすべてを骨の髄まで知り尽くしている幸隆の存在は、喉から手が出るほど欲しい知略の宝庫であった。晴信は幸隆の器量を見抜き、外様の新参者である彼を信濃先方衆として重用することを決めた。
怨讐を呑み込み、利害の一致によって結ばれた晴信と幸隆。信濃の命運を左右する巨大な盤上において、二人の怪物がついに手を携えたのである。
難攻不落を覆した神妙の一手――砥石崩れの雪辱と無血開城の真相
武田家に仕えた幸隆の前に、最大の壁として立ちはだかったのは、かつて海野平で辛酸をなめさせられた宿敵・村上義清であった。義清は北信濃に君臨する名将であり、その武勇と統率力は武田軍を震撼させるに十分であった。
天文十七年、信濃上田原の戦いにおいて、武田晴信は村上義清と正面から激突した。結果は、武田軍の惨敗であった。信玄の守り役(傅役)であった重臣・板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)をはじめとする名だたる将が討ち死にし、晴信自身も負傷して辛うじて甲府へと兵を引いた。連戦連勝を誇っていた若き晴信にとって、生まれて初めて味わう致命的な敗北であった。
だが、悪夢はそれだけで終わらなかった。天文十九年九月、晴信は雪辱を期して、村上方の最重要拠点である「砥石城」の攻略に乗り出した。
砥石城は、千曲川の北岸、東太郎山から南へと延びる険しい尾根の頂に築かれた山城である。東面と南面は切り立った断崖絶壁であり、まさに砥石の名が示す通り、人を寄せ付けぬ天然の要塞であった。城の背後は深い谷に守られ、力攻めで落とすことは不可能に近い。しかし晴信は、上田原の敗戦の屈辱を晴らそうと焦るあまり、力づくでこの崖をよじ登らせる強襲策を命じてしまった。
城内から降り注ぐ大石と矢の雨、そして急斜面を転がり落ちる武田の兵たち。攻めあぐねる武田軍の背後から、村上義清の本隊が電光石火の勢いで急襲を仕掛けた。前方を崖に阻まれ、後方を突かれた武田軍は大混乱に陥り、総崩れとなった。いわゆる「砥石崩れ」である。武田軍は千人近くの死傷者を出し、名将・横田高松までもが討死を遂げた。秋の山風が吹きすさぶ中、無残に打ち捨てられた武田兵のなきがらが斜面を埋め尽くした。
晴信の威信は失墜し、信濃の国衆たちは一斉に武田を見限り始めた。正面から力攻めを挑めば、どれほど大軍を擁していようとも、名城と知将の前には脆くも砕け散る。強引な力攻めの限界が、誰の目にも明らかとなった瞬間であった。
この絶望的な局面において、静かに立ち上がったのが幸隆であった。
「某に、砥石城攻略をお任せいただきたい。武田の兵馬は一兵たりとも損じさせませぬ」
晴信に対し、幸隆はそう告げた。大軍を率いて二度までも村上義清に叩きのめされた晴信にとって、それはにわかには信じがたい言葉であった。だが、幸隆の瞳の奥には、確固たる勝算の光が宿っていた。力で押し通せないならば、相手の内側から崩せばよい。盤上の石が相手の包囲を解くように、城を支える人間関係の糸を一本ずつ解きほぐしていけば、城はおのずと自壊する。
後世の軍記物や講談では、幸隆が真田の忍びを城内に潜入させ、夜陰に乗じて火を放って城内を大混乱に陥れたという、奇術のような忍術談として語られることが多い。しかし、近年の歴史研究が明らかにした幸隆の戦いは、そうした派手な奇策とは正反対の、驚くほど地道で泥臭い「人間工作」の積み重ねであった。
砥石城に立て籠もる城兵や周辺の土豪たちは、元をただせば幸隆と同じ信濃の土着領主たちである。村上義清の強大な武力に屈して従ってはいるものの、誰もが心から義清に心服しているわけではない。所領の境界をめぐる争い、家督相続の遺恨、武田軍の侵攻による経済的な疲弊。彼らの胸のうちには、無数の不満と不安がよどみのように溜まっていた。
幸隆は、それらの亀裂を見逃さなかった。かつて小県に暮らしていた頃の人脈と地縁を総動員し、城内の有力者たちへ宛てて、夜な夜な書状を書き送った。
「武田に下れば、先祖伝来の本領を安堵しよう。功績次第では、さらなる恩賞も約束する」
単に利を説くだけではない。相手の親族関係を綿密に調べ上げ、縁者を通じて説得の糸を伸ばした。一度手紙を断られようとも、幸隆は決して諦めなかった。二度、三度と使者を送り、相手の不安や疑念を丁寧に聞き出し、晴信直筆の起請文(きしょうもん)を取り付けて安心させた。幸隆の弟である矢沢頼綱もまた、城内の不満分子と密かに接触し、裏切りの手筈を整えていった。
それは、碁盤の隅に誰も気づかないような小さな布石を一つずつ置き、時間をかけて相手の活路を塞いでいく作業であった。敵の目に見える軍勢は一歩も動いていない。しかし、砥石城を支える心の石垣は、幸隆の手によって内側から音もなく抜き取られていたのである。
天文二十年五月二十六日、そのときが訪れた。
幸隆の手勢が砥石城へと迫ると、突如として城内から火の手が上がり、内応者たちが城門を内側から押し開いた。何が起きたのか理解できぬまま狼狽する村上方の将兵に対し、幸隆の兵が雪崩れ込む。守将であった村上義清の重臣たちは戦意を喪失し、我先にと逃げ惑った。
わずか一日。武田の大軍が千人の血を流しても落とせなかった難攻不落の砥石城が、幸隆の知略によって、ほとんど血を流すことなく瞬く間に陥落したのである。
この報せが甲府の晴信のもとに届いたとき、晴信をはじめとする武田の重臣たちは驚愕のあまり言葉を失ったという。力で敵をねじ伏せることしか知らなかった甲斐の武士たちに、幸隆は「知略によって戦わずして勝つ」という、軍略の最高峰を見せつけたのであった。
砥石城の奪還により、村上義清の支配力は根底から崩壊し、やがて義清は本拠の葛尾城をも捨てて越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへと逃亡することになる。そして幸隆は、念願であった真田郷を含む小県郡の旧領を完全に回復し、真田の家名を信濃の山河に再び轟かせたのである。
「攻め弾正」の冷徹と「一徳斎」の苦衷――岩櫃城の死闘と信玄との絆
砥石城を鮮やかに奪取した幸隆の名声は、甲斐・信濃のみならず近隣諸国へと鳴り響いた。武田家中において、幸隆は特別な存在として畏敬を集めるようになる。武田軍団の中で特に優れた働きを示した三人の知将・猛将を指して「戦国三弾正」と呼ぶが、幸隆はその筆頭に挙げられた。
前線で槍を振るい、敵陣を突き破る圧倒的な武勇を誇った「槍弾正」保科正俊。撤退戦において殿(しんがり)を務め、味方の損害を最小限に抑える冷静沈着な采配を見せた「逃げ弾正」高坂昌信(こうさかまさのぶ)。そして、敵の城を内部から切り崩し、戦わずして落とす智謀を極めた幸隆に与えられた異名こそが、「攻め弾正」であった。
「攻め」という言葉は、一見すると敵陣へ真っ先に突撃する猛将の姿を想起させる。だが、幸隆のそれは、物理的な力による攻撃ではなかった。敵の心の最も脆い部分を見定め、そこへ鋭利な知略の楔を打ち込む「心理の攻め」であった。
だが、この「攻め弾正」の知略は、常に美しい無血開城ばかりで彩られていたわけではない。乱世の荒波の中で一族を生き残らせるためには、時に鬼となって非情の決断を下さねばならない瞬間があった。
永禄年間、信玄の命を受けた幸隆は、上野国吾妻郡の攻略へと乗り出す。その標的となったのが、名勝・岩櫃山の中腹にそびえる「岩櫃城」であった。標高八百メートルを超える険峰に築かれた岩櫃城は、南面を二百メートルの絶壁に囲まれ、尾根には長大な竪堀が何本も刻まれた、砥石城にも劣らぬ天然の要塞であった。城主の斎藤憲広は気骨ある武将であり、上杉謙信の後援を頼んで武田軍に頑強に抵抗していた。
幸隆は林の郷の諏訪の森に陣を構え、ここでも力攻めを避けて徹底した調略戦を展開した。斎藤一族の家臣たちに連判起請文を書かせ、内応の約束を取り付けていく。だが、城主・憲広の結束は固く、調略は難航を極めた。甲府の信玄からは「早く城を落とせ」という厳しい督促の書状が次々と届く。
焦燥と重圧の中、幸隆は冷徹な罠を仕掛けた。斎藤憲広の甥である斎藤弥三郎を調略して味方に引き入れ、城内に不和の種を蒔いたのである。永禄六年、ついに岩櫃城は内通者の手によって火を放たれ、憲広は城を捨てて逃亡した。
しかし、戦いはそこで終わらなかった。逃げ延びた憲広の一族は、近隣の嵩山城に籠り、徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。籠城が長引けば、越後の上杉軍が越山して救援に駆けつける恐れがある。時間的な猶予はなかった。
永禄八年、幸隆は冷酷な計略を用いた。城内に偽りの情報を流して斎藤勢を城外へとおびき出し、待ち伏せていた伏兵で一気に包囲したのである。退路を断たれた斎藤一族は壊滅し、幸隆の軍勢は城内へと突入した。そして、逃げ惑う女や子供に至るまで、一族郎党をことごとく討ち果たしたと伝えられる。
目的を果たすためには、手段を選ばず、後顧の憂いを根絶やしにする。この徹底した苛烈さゆえに、周辺の武将たちは幸隆を「鬼弾正」と呼び、恐怖に震え上がった。盤上に置かれた石を取り除く際、一片の私情も挟まない冷酷さ。それもまた、過酷な戦国乱世を生き抜くために幸隆が背負わねばならなかった、策士の業であった。
だが、他者を震え上がらせる「鬼弾正」の内面は、決して血も涙もない怪物ではなかった。最前線で他国との腹の探り合いを続け、味方をも欺く謀略に神経をすり減らす日々は、確実に幸隆の心身を削り取っていた。
永禄二年、武田晴信が出家して「信玄」と名乗った際、幸隆もまた後を追うように剃髪し、「一徳斎」と号した。外様の新参者でありながら、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の大手門のすぐ近くに屋敷を与えられ、武田の屋台骨を支える重鎮となった幸隆。だが、老境に入った彼の身体は、長年の激務によって病魔に侵されつつあった。
長野県上田市に残る古文書の中に、病に倒れた幸隆を気遣う武田信玄直筆の書状がある。
「然して僥倖軒医療故、一徳斎煩少々験気を得らるうの由、大慶に候。猶其の城用心疎略なく肝煎頼み入り候」
現代の言葉に直せば、「医師の僥倖軒の治療のおかげで、一徳斎殿の患いが少し快方に向かっていると聞き、心から喜ばしく思っております。どうか引き続き、城の守りに油断のないよう、お骨折りをお願いいたします」という意味である。
信玄の「大慶に候」という飾らない安堵の言葉に、二人が築き上げてきた信頼の深さが滲み出ている。信玄にとって幸隆は、単なる便利な駒ではなかった。情報戦の重要性を説き、自らの覇業を影から支え続けてくれた、かけがえのない戦友であった。そして幸隆にとっても、自らを信じて旧領奪還の機会を与え、その知略を存分に振るわせてくれた信玄は、命を捧げるに値する唯一の主君であった。
冷酷な謀略の影で、老いた肉体の痛みに耐えながら、主君からの温かい手紙に静かに目を落とす一徳斎幸隆。その姿には、乱世の修羅の道を歩んだ男の、深い孤独と人間的な温もりが同居していた。
盤外へ受け継がれた大局観――信濃の山々から大坂の陣へ至る遺産
天正二年五月十九日、真田一徳斎幸隆は、波乱に満ちた六十二年の生涯を閉じた。前年に主君・武田信玄が陣中で病没し、巨星が相次いで墜ちた年であった。先祖伝来の領地を追われ、仇敵に膝を屈するという屈辱の底から這い上がり、信濃と上野にまたがる確固たる領国を築き上げた男の、静かな幕引きであった。
だが、幸隆が信濃の山河という碁盤の上に打ち込んだ数々の布石は、彼の死によって消え去ることはなかった。それどころか、その知略の血脈は、次の世代へと恐るべき密度で受け継がれていくことになる。
幸隆の死の翌年、天正三年五月、戦国史上名高い「長篠の戦い」が勃発する。武田勝頼(たけだかつより)率いる武田軍団は、織田信長・徳川家康の連合軍が待ち構える設楽原へと突撃した。無数の馬防柵の前に火縄銃の轟音が鳴り響き、武田の精鋭たちは次々となぎ倒された。
この地獄のような戦場において、真田家を継いだ幸隆の長男・真田信綱(さなだのぶつな)と、次男・真田昌輝の兄弟は、先頭に立って織田の陣地へと肉薄した。信綱は愛刀「陣太刀」を振るって奮戦したものの、無情の銃弾を浴びて壮絶な討死を遂げた。昌輝もまた兄の後を追うように命を散らした。
真田家は、当主と次期当主を一日の戦闘で同時に失うという、海野平の敗戦に匹敵する未曽有の危機に直面した。盤面は再び根底から揺らぎ、崩壊の危機が迫った。
その絶望の淵において、急遽真田の家督を継ぐこととなったのが、三男の真田昌幸であった。
幼少期より信玄の側近「奥近習六人衆」として育てられ、信玄から「我が目」と称えられた昌幸は、武田最高峰の軍略を間近で吸収してきた麒麟児であった。そして何より、彼の体内には、父・幸隆から受け継いだ冷徹な大局観と、囲碁の盤面を見つめるような鋭敏な知略が脈打っていた。
天正十年、織田信長の甲州征伐によって主家・武田家が滅亡すると、信濃と甲斐の旧武田領は、織田、徳川、上杉、北条という巨大な勢力が鍔迫り合いを演じる「天正壬午の乱」の舞台となった。周辺を虎視眈々と狙う巨大な大名たちに包囲された真田家は、いつ誰に踏み潰されてもおかしくない小勢力に過ぎなかった。
だが昌幸は、狼狽することなく、父譲りの盤上遊戯を開始した。あるときは上杉に付き、あるときは北条と結び、あるときは徳川の傘下に入り、情勢の変化に応じて目まぐるしく主君を変えた。後世、豊臣秀吉をして「表裏比興の者(油断のならない食えない曲者)」と言わしめた昌幸の外交術は、まさに盤上の状況に応じて自らの石の配置を変え、相手同士を戦わせて漁夫の利を得る、高度な布石の技術であった。
そして、昌幸が築いた平城・上田城において、真田の軍略は天下を震撼させる。天正十三年の第一次上田合戦、そして慶長五年の第二次上田合戦。二度にわたり、数倍から数十倍の兵力を誇る徳川の大軍を迎え撃った昌幸は、城下に敵を引き込み、千曲川の奔流と神川の堰止めを利用し、完璧な罠によって敵を完膚なきまでに叩きのめした。
上田城の攻防戦において、敵が城内に乱入してきても微動だにせず碁を打ち続けたという昌幸の伝説。それは、敵の動きのすべてを計算し尽くし、「次はこう動く、その次にはこう崩れる」という盤面の推移を完全に読み切っていたからこそ可能な、絶対的な余裕の現れであった。
その昌幸の姿は、砥石城の崖下で、血を流すことなく城内の人心が離反するのを静かに待ち続けた父・幸隆の姿と、寸分違わず重なり合っている。
昌幸の軍略と精神は、さらにその息子たちへと受け継がれた。徳川の世を生き抜いて真田の血筋を後世へ残した長男・信之。そして、豊臣の恩義に殉じ、大坂の陣において「日本一の兵」と天下に称えられた次男・信繁。
慶長十九年、大坂冬の陣。大坂城の南に突如として出現した出城「真田丸」において、信繁は父や祖父から受け継いだ調略と陣地構築の粋を集め、押し寄せる徳川の大軍を散々に打ち破った。そして翌年の夏の陣、敗色濃厚の中で徳川家康の本陣へと決死の突撃を敢行し、あと一歩のところまで天下人を追い詰めた信繁の武勇は、戦国乱世の最後を飾る最大の伝説となった。
真田三代の奇跡。その出発点にあったのは、海野平で故郷を追われ、信濃の冷たい風の中で独り、信玄の前に碁盤を抱えて進み出た真田幸隆の執念であった。
囲碁の勝負において、序盤に打たれた一粒の石は、その瞬間には何の力も持たないように見える。しかし数十手の後、盤面全体が複雑に絡み合ったとき、その忘れ去られていたはずの一石が、勝敗を決定づける巨大な要石へと変貌する。
幸隆が打った布石は、信濃の山河を取り戻すにとどまらず、息子の昌幸へ、孫の信繁へと受け継がれ、やがて大坂の陣という日本史上最大の盤上決戦において、天下を揺るがす巨大な輝きを放ったのである。
山家神社の木漏れ日の中に横たわる「真田の碁盤石」は、今も何も語らない。だが、その風化した石肌に触れるとき、私たちは時空を超えて響いてくる澄んだ音を聞くことができる。それは、過酷な乱世の険しい山河に、自らの命を賭けて打たれた、美しくも哀切なる「攻め弾正」の一手の響きなのである。