誇り高き魂の城――高山右近、追放と信仰の果てに見出した武士の真髄

高山右近

慶長十九年(一六一四)の初冬、長崎の港を出港した一艘の南蛮船の甲板に、白髪交じりの老武士が静かにたたずんでいた。

その名は高山右近。かつて摂津高槻や播磨明石を領し、織田信長や豊臣秀吉の天下取りにおいて目覚ましい武功を挙げた名将である。茶道においては千利休の高弟「利休七哲」の一人として名を馳せ、当代随一の築城家としても知られた男が、いまや徳川家康の手によって生まれ故郷の日本から追放され、見知らぬ異国の海へと流されようとしていた。

冷たい風が吹きつける甲板の上で、右近は遠ざかりゆく山並みをただ無言で見つめていた。その瞳に浮かんでいたのは、すべてを奪われた男の絶望でも恨みでもない。自らの信じる道をただひたすらに歩み抜いた者だけが宿す、澄み渡るような静寂であった。

人はなぜ、自らの命よりも重い領地や名誉を捨て去ることができるのか。権力者がすべてを支配する戦国という過酷な時代にあって、なぜ一介の武将が天下人の命令に抗い、孤高の追放を選び取ったのか。刀と十字架、茶杓と軍配という相容れないはずのものを一身に背負い、魂の自由を守り抜いた高山右近の生涯は、乱世が生んだもっとも気高く、もっとも哀切な人間の叙事詩であった。

十字架と火縄銃の狭間に立って――乱世の洗礼と若き苦闘

高山右近、幼名を彦五郎という男がこの世に生を受けたのは、天文二十一年(一五五二)のこととされる。父は摂津国高山の領主・高山飛騨守友照、母はマリアと伝わる。戦乱の火の手が近畿一円を覆い尽くしていた時代、土豪たちが弱肉強食の論理で領地を奪い合っていたただ中に、高山家はあった。

右近の運命を決定づけたのは、永禄六年(一五六三)、彼がわずか十二歳の初陣を迎える前の出来事であった。父・友照が、大和の信貴山城主・松永久秀(まつながひさひで)の命により、キリスト教の教義を論破すべく宣教師ガスパル・ヴィレラを招いて宗論を挑んだのである。しかし、仏僧たちの代表として臨んだ友照は、宣教師の語る神の愛や人類の平等、永遠の命という教えに心を打たれ、論破するどころか自ら深く帰依してしまった。父とともに洗礼を受けた彦五郎は、ここに「ジュスト(正義の人)」という洗礼名を授かることとなった。

だが、キリシタンになったからといって、乱世の過酷な現実が消え去るわけではなかった。むしろ、神の愛を信じながらも、敵を斬り倒さねば生き残れないという凄惨な矛盾が、若き右近の胸をさいなみ続けることになる。

元亀四年(一五七三)、二十一歳の右近は、父とともに仕えていた高槻城主・和田惟政(わだこれまさ)の死後、跡目をめぐる争いに巻き込まれる。和田惟政の弟や家臣らによる陰謀を察知した高山父子は、白昼の乱闘の末に相手方を討ち果たし、右近自らも重傷を負いながら高槻城の支配権を握った。

この流血の経験は、若き右近に深い心の傷を残した。自らの手を血で汚し、人の命を奪ったという事実は、キリストの教えと真っ向から衝突する。右近は夜ごとに祈りを捧げ、神の前にひれ伏して罪の許しを請うた。このとき芽生えた深い罪悪感と内省の念こそが、彼を単なる血気盛んな戦国武将から、己の魂を厳しく見つめ続ける求道者へと変貌させていく原点であった。

城主となった右近は、高槻の地に教会や神学校(セミナリヨ)、貧しい者や病人を救済する施設を次々と建てた。自ら粗末な着物をまとい、領内の病人を見舞い、身寄りのない死者を自らの肩に担いで葬ったという。領民たちは、領主でありながら自らに仕えるように慈愛を注ぐ右近を「伴天連の大旦那」と呼び、父のように慕った。高槻領の住民の過半数がキリシタンとなったのは、決して強制によるものではなく、右近という一人の人間の生き様に心を打たれたからにほかならなかった。

有岡城の慟哭(どうこく)と白衣の決断――血縁と義の板挟みを超えて

高山右近の人生において、最初の過酷な試練が訪れたのは天正六年(一五七八)秋のことであった。摂津の旗頭であり、右近の主筋にあたる有岡城主・荒木村重(あらきむらしげ)が、天下布武を掲げる織田信長に対して突如として反旗を翻したのである。

村重の配下にあった右近は、信じがたい苦境へと突き落とされた。信長に敵対することの無謀さは火を見るより明らかであったが、右近の妹や幼い息子をはじめとする一族の妻子は、人質として村重の有岡城に預けられていたのである。もし信長に寝返れば、人質たちは即座に処刑され、無残に首をはねられる。

しかし、信長からの脅迫はさらに過酷を極めた。信長は右近が高槻城を明け渡して降伏しなければ、京都や近江にいる宣教師たちを全員処刑し、領内のすべての教会を焼き払い、日本のキリスト教を根絶やしにすると宣告してきたのである。

「主君への義理と我が子の命か、それとも信徒たちの命と信仰の存続か」

これほど残酷な二者択一が、かつて武将の前に突きつけられたことがあっただろうか。父・友照は村重への義理と孫の命を重んじ、徹底抗戦を主張した。家臣たちも二つに割れ、高槻城内は息の詰まるような緊迫感に包まれた。

右近は夜を徹して祈り続けた。尊敬するイタリア人宣教師オルガンティノ神父が密かに高槻城へ入り、涙ながらに説得を試みたが、右近の苦悩を晴らすことはできなかった。我が子を見殺しにする親の罪を背負うのか、何万人もの同胞を皆殺しにする元凶となるのか。右近の心は千々に引き裂かれ、もはや人間の知恵では答えを見出すことができなかった。

そして十一月十六日の未明、右近は一つの信じがたい決断を下す。

彼は武士の命である甲冑を脱ぎ捨て、刀を置き、純白の紙衣(かみこ)を一枚だけ身にまとった。そして髪を切り落とし、丸腰のまま、ただ一人で高槻城を抜け出したのである。

目指したのは、城を取り囲む信長の本陣であった。

右近は信長の前に進み出ると、静かに平伏した。城を明け渡すでもなく、信長のために戦うと誓うでもない。彼は自らの身一つを差し出し、首をはねられることを望んだのである。自らが死ぬことで、信長の怒りを鎮めて教会と信徒を救い、同時に村重に対しては「裏切ったのは右近一人であり、城の父や兵には罪がない」と証し立てようとしたのだ。

武士の面目や名誉をかなぐり捨て、白装束の罪人となって現れた右近の姿に、峻厳を極める信長は息を呑んだ。並み居る諸将が呆然と見守る中、信長は右近のたぐいまれな無私と勇気に深く胸を打たれ、自らの羽織を脱いでその肩に掛け、高槻領を安堵したと伝えられる。

右近の命がけの単身出頭は、結果として村重の防衛網を内側から瓦解させ、中川清秀(なかがわきよひで)ら他の武将たちの連鎖的な降伏を呼んだ。奇跡的に、有岡城の人質たちも処刑を免れ、生きて右近のもとへと戻ることができた。己を完全に無にし、すべてを天に委ねることで、右近は絶体絶命の窮地を切り抜けたのである。

覇王の先陣と茶の静寂――山崎の激戦から「南坊」の草庵へ

信長の庇護のもとで再び領国の経営に励んだ右近であったが、平穏は長くは続かなかった。天正十年(一五八二)六月、本能寺の変が勃発し、信長が明智光秀の凶刃に倒れたのである。

天下が再び大混乱に陥る中、右近の判断は迅速であった。中国大返しを敢行して畿内へと取って返した羽柴秀吉の軍勢に、いち早く合流したのである。

山崎の戦いにおいて、右近は自ら願い出て先鋒を務めた。円明寺川を挟んで明智軍と対峙した右近の軍勢は、わずか数百に過ぎなかったが、その士気は凄まじかった。先陣を切って突撃した右近は、天王山の麓で敵の猛攻を支え続け、秀吉本隊が到着するまでの貴重な時間を稼ぎ出した。続く賤ヶ岳の戦いでも岩崎山に陣を敷き、柴田勝家方の猛将・佐久間盛政(さくまもりまさ)の猛攻を耐え抜いた。

右近は決して、祈るだけの軟弱な信徒ではなかった。戦場にあっては誰よりも勇敢に敵陣へ切り込み、武士としての義務を完璧に果たす猛将であった。信仰を胸に秘めながらも、現実の戦国を生き抜く強靭な現実感覚を彼は持ち合わせていたのである。

戦功を重ねた右近は、天正十三年(一五八五)、秀吉から播磨明石六万石を与えられ、大名としての絶頂期を迎える。右近は明石川の河口に、海へと直結する名城「船上城(ふなげじょう)」を築いた。南蛮船が直接横付けできる港を備え、西国街道の要衝を押さえるこの城は、軍事拠点であると同時に、海外との交易や文化交流の拠点でもあった。

だが、この輝かしい栄華の裏で、右近が何よりも愛したのは、一切の虚飾を削ぎ落とした「茶の湯」の世界であった。

右近は千利休に師事し、「南坊」の号を持つ高弟として利休七哲の筆頭格に数えられた。津田宗及(つだそうきゅう)や細川忠興(ほそかわただおき)、蒲生氏郷(がもううじさと)ら当代の一流の数寄(すき)者たちと交わり、一碗の茶を通じて深い精神の交流を重ねた。

右近にとって、わずか四畳半の草庵は、下剋上の血生臭い現実を忘れ、己の内面を見つめ直す祈りの場そのものであった。身分や階級を厳格に重んじる武家社会にあって、利休の茶室の中では大名も町人も平等であり、ただ一人の人間として対峙する。この茶道の精神は、神の前におけるすべての平等を説くキリスト教の精神と、右近の心の中で完璧に重なり合っていた。

刀を置き、静まり返った茶室で湯の煮え立つ音に耳を澄ませるとき、右近は己の魂のよって立つ場所を確かめていたのである。

伴天連追放令の衝撃――六万石を捨てて貫いた魂の自由

天正十五年(一五八七)夏、九州平定を成し遂げた秀吉は、筑前博多の箱崎に陣を構えていた。右近もまた、秀吉の軍勢に従って九州へと出陣し、各地で戦功を挙げていた。

だが、天下統一を目前にした秀吉の心には、ある暗い影が差し始めていた。九州の各地でキリシタン大名たちが領民を改宗させ、寺社を打ち壊し、さらには南蛮商人が日本人を奴隷として海外へ売り飛ばしているという実態を目の当たりにしたのである。

何より秀吉を戦慄させたのは、キリシタンたちの強固な連帯感であった。主君の命よりも神の掟を重んじ、信仰のためならば死をも恐れない信徒たちの姿は、かつて織田信長を十数年にわたって苦しめ抜いた「一向一揆」の狂気と重なって見えた。このままキリスト教を放置すれば、やがて自らの天下を根底から覆す巨大な宗教蜂起が起こりかねない。秀吉の政治的本能が、激しい警鐘を鳴らしていた。

六月十九日の夜、秀吉は突如としてイエズス会準管区長コエリョを呼び出し、激しい詰問を浴びせた。そしてその数時間後、世に言う「伴天連追放令」が電撃的に発布されたのである。

秀吉の怒りの矛先は、ただちに陣中にいた高山右近へと向けられた。右近は当時、キリシタン武将たちの精神的支柱であり、信徒たちから絶大な信望を集める中心人物であった。秀吉は右近に対し、厳しい使者を送って最後通牒を突きつけた。

「キリシタンの信仰を捨て、棄教せよ。さもなくば、領地と身分をすべて没収し、追放に処す」

秀吉としても、山崎の合戦以来の功臣であり、優れた軍略と築城の才を持つ右近を本気で処罰したかったわけではない。形だけでも棄教の姿勢を示せば、六万石の領地を安堵し、さらなる加増すら与える腹積もりであった。

秀吉は説得の使者として、右近の茶の湯の師である千利休を差し向けた。茶室で魂を通わせ合ってきた師弟が、今度は絶対権力の刃を間に挟んで対峙することになったのである。

利休は右近の前に座り、静かに言葉を尽くしたはずである。いまは秀吉の機嫌を損ねるべきではない、表向きだけでも棄教を受け入れ、生き延びてこそ道は開ける、と。

しかし、右近の眼差しは微動だにしなかった。彼は尊敬する師に向かって、静かに、しかし毅然とした声でこう答えたと伝えられる。

「キリシタンの教えが主君の命より重いかどうかは分かりませぬ。しかし、武士たる者が一度心に定めた志を、権力に脅かされて変えることなどできましょうか。たとえ全世界を与えられようとも、我が魂の救いと引き換えにすることはできませぬ。身柄も、禄高も、領地も、殿のお心のままになされよ」

その言葉には、一片の迷いもなかった。利休はそれ以上、一言も説得の言葉を重ねることができなかった。武士としての矜持(きょうじ)と、神への信仰が寸分の隙もなく結晶化した右近の気骨に、利休はただ深く頭を垂れるしかなかったのである。

右近の返答を聞いた秀吉は激怒した。自らの絶対的な権力に対して、一介の大名が魂の自由を盾にして真っ向から拒絶したからである。右近は即座に改易され、播磨明石六万石の所領をすべて没収された。

家臣たちは涙を流して主君の不遇を嘆いたが、右近の表情は驚くほど晴れやかであったという。彼は一族を連れ、着の身着のままで城を出た。富も、名誉も、領地も、すべてを失った。しかし、彼は自らの魂だけは、何者にも売り渡さなかったのである。

加賀前田の客将と築城の深謀――雪深き北陸での二十六年

城を追われ、流浪の身となった右近一家に救いの手を差し伸べたのは、同じキリシタン大名であった小西行長(こにしゆきなが)であった。行長は秀吉の怒りを恐れず、右近を小豆島に密かにかくまい、次いで自らの領地である肥後へと招いて温かく保護した。

だが、天下人・秀吉もまた、右近という不世出の器量を完全に捨て去ることはできなかった。天正十六年(一五八八)、秀吉は加賀の大名・前田利家(まえだとしいえ)に対し、右近の身柄を預かるよう命じたのである。

表向きは罪人の身柄預かりであったが、利家は右近の清廉な人柄と卓越した軍才を誰よりも高く評価していた。利家は右近を罪人として粗末に扱うどころか、一万五千石とも七千石とも言われる破格の扶持を与え、客将(軍奉行)として金沢へ迎え入れたのである。

加賀での暮らしは、右近にとって思わぬ安息の地となった。利家をはじめとする前田一門は右近に深い敬意を払い、軍事や築城、文化面での顧問として重用した。

右近はその恩義に報いるべく、加賀前田家のために自らの持てる才能のすべてを注ぎ込んだ。天正二十年(一五九二)の文禄の役では肥前名護屋城の普請(ふしん)に関わり、金沢城の修築や城下町の町割りにもその卓越した手腕を振るった。

さらに右近の築城術の集大成となったのが、慶長十四年(一六〇九)、前田利家の長男・前田利長(まえだとしなが)の隠居城として築かれた越中高岡城の縄張り(基本設計)である。

右近が考案したとされる高岡城の設計は、従来の山城とは一線を画す、極めて近代的な平城であった。敷地全体の実に三分の一を巨大な水堀が占め、複雑に入り組んだ曲輪同士が土橋で巧みに連結されていた。さらに北東の低地にはあえて堀を掘らず、馬や兵の脚を奪う底なしの泥沼(深田)を天然の防壁として利用するなど、敵の侵入ルートを完全に計算し尽くした深謀遠慮が張り巡らされていた。

関ヶ原の合戦を経て徳川の世となり、いつ豊臣との間に天下分け目の大戦が再燃してもおかしくない緊迫した情勢にあって、右近は前田家を守り抜くための難攻不落の要塞をわずか数か月で設計してみせたのである。

加賀の地には教会もなく、公にミサを挙げることも許されなかったが、右近は邸内に小さな祈りの場を設け、静かに信仰を守り続けた。利家の正室・まつ(芳春院)や利長も右近の篤実な人柄に深く帰依し、前田家中には右近を慕って受洗する武士が後を絶たなかった。

雪深い北陸の地で過ごした二十六年という歳月は、波乱に満ちた右近の人生において、もっとも穏やかで、もっとも実り豊かな時間であった。

吹雪の峠を越えて海へ――徳川幕府の追放令と娘ルチアの覚悟

だが、歴史の歯車は再び過酷な音を立てて回り始めた。

慶長十八年(一六一三)十二月、駿府の大御所・徳川家康は、全国に向けて「キリシタン禁教令」を発布した。豊臣の残党を警戒し、西国大名と海外勢力の結びつきを断ち切ろうとする家康にとって、全国のキリシタンの精神的支柱であり続ける高山右近の存在は、看過できない危険因子であった。

慶長十九年(一六一四)正月、金沢の前田家に対し、幕府から厳しい命令が届いた。

「高山右近とその一族を国外へ追放せよ」

前田利長は苦悩した。二十年以上にわたって前田家を支えてくれた恩人を、いまさら寒風の荒野へ放り出すことなどできようか。利長は密かに右近に対し、信仰を隠して加賀の山奥に身を潜めるよう勧めたという。

しかし、右近はその温かい申し出を静かに固辞した。自らが留まることで、恩ある前田家に幕府の嫌疑が及ぶことを何よりも恐れたのである。

「私は喜んで流罪を受け入れます。神の御名のために苦難を受けることこそ、我が生涯の無上の誉れでございます」

右近は再び、すべてを捨てて旅立つ道を選んだ。

このとき、右近の過酷な運命に自ら飛び込んでいった一人の女性がいた。右近の愛娘、ルチアである。

ルチアは前田家の筆頭家老である横山長知の嫡男・横山康玄に嫁ぎ、加賀藩の重臣の妻として何不自由のない平穏な暮らしを送っていた。しかし、父の追放が決まった瞬間、彼女は夫に対して涙ながらに離縁を申し出たのである。

もし自分が妻のまま留まれば、横山家や前田家に幕府からの詮議が及ぶかもしれない。そして何より、老いた両親が罪人として流されていくのを、自分一人だけ贅沢な屋敷で見送ることなど、信仰者としても人の子としても耐えられなかった。

ルチアは愛する夫と温かい家庭を自ら捨て、罪人の娘として、父とともに極寒の流浪の旅に出ることを選んだのである。

慶長十九年二月十五日、金沢の空からは重く湿った雪が容赦なく降り注いでいた。

すでに六十三歳という老境に達していた右近は、妻のジュスタ、娘のルチア、そして幼い孫たちを連れ、徒歩で金沢の城下を後にした。かつて加賀百万石の重臣として城下を行き交った名将が、粗末な笠をかぶり、雪に足を奪われながら倶利伽羅峠を越えていく。見送る者とてほとんどいない吹雪の山道で、右近の一行はただ静かに祈りの歌を口ずさみながら歩み続けた。

京都、大坂を経て長崎へと護送された右近たちは、そこで同じく国外追放となった内藤如安や修道士、多くの信徒たちと合流した。長崎の町には、日本を追われる信仰の勇者たちを一目見ようと、数千人の信徒たちが集まり、涙を流して別れを惜しんだ。

十月二十七日、右近たちを乗せた南蛮船は、冷たい北風をはらんで長崎の港を静かに滑り出した。見慣れた日本の山々が水平線の彼方へと消え去っていくのを、右近は甲板の上からいつまでも見つめていた。二度と踏むことのない祖国の土。しかしその心には、武士として、信徒として、自らの義を貫き通したという誇りだけが静かに満ちていた。

異国マニラの熱風と静かなる帰天――世俗の敗者が遺した永遠の光

長崎からマニラへの船旅は、四十三日間にも及ぶ過酷を極める航海であった。

冬の東シナ海は荒れ狂い、老朽化した木造船は木の葉のように波間に揺られた。狭く不衛生な船倉の中で、寒さと飢え、そして激しい船酔いが容赦なく乗船者たちを襲った。とりわけ、六十三歳の老いた体に長年の辛苦を重ねていた右近の体力は、日ごとに奪われていった。

しかし、船が南方へと進むにつれ、寒風は一転して肌を焼くような熱風へと変わった。十二月二十一日、船がフィリピンのマニラ湾へと滑り込んだとき、右近たちの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景であった。

マニラの港は、色とりどりの旗で飾られ、数千人もの市民と兵士たちで埋め尽くされていたのである。スペインのフィリピン総督フアン・デ・シルバは、国王の代理として大砲の礼砲をとどろかせ、自ら港に出向いて右近を出迎えた。

「全財産と地位を投げ打って信仰を守り抜いた日本の偉大なる騎士」

右近の名声は、イエズス会の宣教師たちを通じて遠くヨーロッパや南蛮の地にまでとどろいていたのである。町中の教会の鐘が一斉に鳴り響き、聖歌が歌われる中、右近は国賓としての熱烈な歓迎を受けた。総督は右近に対し、スペイン国王の名において広大な邸宅と手厚い年金を提供し、軍の指揮官として迎えたいと申し出た。

だが、右近はその破格の歓待を、静かに、しかし断固として辞退した。

「私は祖国に多くの家臣や同胞を残し、信仰のために追放されてまいりました。いまさら異国で栄華を誇る気などございませぬ。一介の貧しいキリシタンとして、静かに神に仕えるだけで十分でございます」

異国の地にあっても、右近は最後まで「日本の武士」としての誇りと清貧の美学を崩さなかったのである。

しかし、過酷な航海と、極寒の北陸から熱帯のモンスーン気候への急激な変化は、すでに限界を迎えていた老いた右近の肉体を容赦なくむしばんでいた。マニラに上陸してわずか一か月余り後、右近は激しい熱病に倒れた。

病床に伏した右近のもとには、彼を慕う多くの宣教師や信徒、そして娘のルチアや妻ジュスタが集まり、涙を流して回復を祈った。死期を悟った右近は、悲嘆に暮れる家族を見つめ、かすれた声でこう語りかけたと伝えられる。

「なぜ泣くのか。私が死んだらお前たちが困るとでも思っているのか。そうではない。神がお前たちを守り、神がお前たちの真の父となってくださるのだ。神が私を召されるのだから、私はこれ以上の喜びはない。いまほど幸せな時が、私の全生涯にあっただろうか」

慶長二十年(一六一五)二月三日、高山右近は多くの人々の祈りに包まれながら、静かに息を引き取った。享年六十三。

マニラ市街の聖アンナ教会で執り行われた葬儀には、総督をはじめとする要人から一般市民まで全市民が参列し、軍隊による追悼の銃声が異国の空に鳴り響いた。その遺体は、イエズス会教会の主祭壇の傍らに手厚く葬られた。

戦国という時代は、領地を広げ、敵を滅ぼし、権力を握った者こそを「勝者」と呼んだ。その物差しで測るならば、六万石の大名からすべてを奪われ、着の身着のままで異国へと追放されて客死した高山右近は、紛れもない「敗者」であったかもしれない。

だが、本当にそうであろうか。

信長の脅迫にも屈せず、秀吉の威令にもなびかず、家康の追放をも恐れなかった男。自らの地位や財産を守るために主君を裏切り、友を欺くことが日常茶飯事であった裏切りの時代にあって、右近はただ自らの良心と信仰に対してのみ忠誠を誓い続けた。

天下人が築いた壮麗な城郭や権力は、百年も経たぬうちに灰燼(かいじん)に帰した。しかし、右近が己の胸の中に築いた「魂の城」は、いかなる暴君の武力をもっても、ついに落城させることはできなかったのである。

死後四百年を経た二〇一七年、ローマ教皇庁は高山右近を、信仰のために命を捧げた「福者」として認定した。日本の武士が、世界的な霊の英雄として永遠の光を当てられた瞬間であった。

刀を帯びながら慈愛を説き、茶の静寂を愛しながら戦場を駆け抜け、最後は己の誇りのために祖国すらも捨て去った男。高山右近がその追放の果てに残したものは、時代を超えて人の胸を揺さぶり続ける、気高い人間の尊厳そのものであった。

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ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。