真田家の灯火を守り抜いた長男・真田信之の逸話と九十三年の葛藤

真田信之

乱世の嵐が吹き荒れるなか、数多の武将が華々しく戦場に散り、あるいは謀略に敗れて歴史の闇へと消えていった。その血みどろの抗争が終わりを告げ、泰平の世が訪れるまでの凄絶な時代を、九十三年という途方もない長寿をもって生き抜いた男がいる。

真田源三郎信幸。のちの真田信之である。

「日本一の兵」とうたわれた弟・真田信繁(幸村)が放つ鮮烈な光と、戦国最高の謀将と恐れられた父・真田昌幸(さなだまさゆき)の底知れぬ闇。その二人の影に挟まれ、ともすれば地味で堅実な印象を持たれがちな信之だが、彼の生涯をひもとけば、そこには誰よりも熱く、そして誰よりも深く傷つきながら家と血脈を守り抜いた男の、凄まじい執念と葛藤が浮かび上がる。

彼が残した数々の逸話をたどると、単なる「堅実な兄」という枠には収まりきらない、信之という一人の為政者の真実が見えてくる。

宿命を背負いし長男の覚悟と武辺

永禄九年(一五六六)、信之は武田信玄の懐刀として仕えた真田昌幸の長男として生を受けた。幼少期より武田家への人質として甲府で過ごした彼は、武田家の滅亡という巨大な悲劇を肌で感じながら成長した。主家が滅び、頼るべき庇護者を失った真田家が、織田、北条、徳川、上杉という巨大な大名たちの間で生き残るためには、父・昌幸の神業のような外交手腕と、戦場での確かな武勇が必要不可欠であった。

若き信之がその真価を世に問うたのは、天正十三年(一五八五)の第一次上田合戦である。このとき真田軍はわずか二千の兵力でありながら、約七千もの徳川軍を上田城に迎え撃った。この絶望的な戦力差のなか、信之はわずか八百の寡兵を率いて手小丸城を奪還し、徳川軍の側面を突くという神出鬼没の奇襲戦術を展開したのである。

敵勢を分断し、徳川軍に大打撃を与えたこの戦功は、彼が決して父の威光にすがるだけの凡庸な武将ではなく、独立した野戦指揮官として非凡な才覚を備えていたことを証明している。父・昌幸が描く冷徹な謀略の絵図面を、戦場という血なまぐさい現実の地平で完璧に実行に移す。それが長男としての信之に課せられた重い役割であった。

しかし、その智勇兼備の武将としての顔の裏で、彼は常に「真田の嫡男」という重圧を背負い続けていた。長篠の戦いで非業の死を遂げた伯父・真田信綱の遺女(清音院殿)と婚姻を結んだのも、三男の家系であった父・昌幸が真田本家の家督を正当に継承するための、血の統合という冷徹な政治的要請に応えるものであった。個人の感情や恋愛といった甘美な幻想は入り込む余地などなく、彼の人生は生まれたその瞬間から、「真田という家を存続させるための重要な布石」として決定づけられていたのである。

小松姫との絆と試練に満ちた政略結婚

真田の武名が天下にとどろくにつれ、巨大な権力者となった徳川家康は、この厄介な国衆を自らの陣営に組み込むための手段に出た。それが、政略結婚である。家康は自身の最も信頼する重臣・本多忠勝の娘を養女とし、信之の正室として嫁がせた。世に名高い小松姫(稲姫)である。

この縁談に際して、ある痛快な逸話が残されている。家康が信之との縁談を進めるため、諸将の若武者たちを庭に並ばせ、小松姫に直接選ばせたという。並み居る若武者たちが家康の養女である小松姫の威光に恐れおののき平伏するなか、彼女は無造作に若武者たちのまげをつかんで顔を上げさせ、品定めをしていった。しかし、信之の前に立ったとき、彼は自らのまげをつかまれるや否や、毅然として小松姫を睨み返し、「無礼であろう」とその手を払いのけたという。この気骨あふれる態度を見た小松姫は、「この者こそ我が夫にふさわしい」と微笑み、彼を選んだと伝えられている。

戦国一の猛将の血を引く勝気な姫と、誇り高き真田の若き当主。敵対していた両家の間を結ぶこの政略結婚は、やがて戦国の歴史においても稀有なほどの深い絆へと昇華していくこととなる。

信之は自身の拠点である上野国・沼田城を大規模に改修し、関東で江戸城以外には類を見ない壮麗な五層の天守を建造した。空高くそびえ立つ金箔瓦の天守は、真田家の独立した威信の象徴であり、小松姫とともに築き上げた彼らの誇りそのものであった。

小松姫は単なる人質や政略の道具ではなく、真田家の内政を支え、信之が不在の折には留守居を立派に務め上げる気丈な女性であった。徳川の重臣の娘という出自でありながら、彼女は完全に「真田の女」として覚悟を決め、夫である信之と苦楽を共にしたのである。この妻の絶対的な信頼と支えがあったからこそ、信之は後に訪れる最大の悲劇に際しても、己を見失うことなく耐え抜くことができたのであろう。

涙の「犬伏の別れ」と引き裂かれた真田

慶長五年(一六〇〇)七月。信之の運命を永遠に変えてしまう決定的な転機が訪れる。世に言う「犬伏の別れ」である。

徳川家康による会津の上杉景勝討伐に従軍し、下野国の犬伏(現在の栃木県佐野市)に滞在していた真田親子の元に、石田三成から密書が届いた。「豊臣の遺言に背き、専横を極める家康を討つ」。その知らせは、天下が再び真っ二つに割れることを意味していた。

遠目に見ると大犬が伏したような丘のふもと、古びて薄暗い新町薬師堂という密室で、父・昌幸、弟・信繁、そして信之の三人は膝を突き合わせた。蒸し暑い夏の盛りのことであり、堂の周囲には蝉時雨が狂おしいほどに響いていたことだろう。

東西どちらに付くか。それは単なる政治的選択ではなく、一族の血をどちらの秤に乗せるかという命がけの決断であった。議論は白熱し、緊迫した空気が堂内を支配した。このとき、人払いを命じられていたにもかかわらず、心配した重臣の河原綱家がこっそりと様子をうかがいにきた。それに気づいた父・昌幸は激昂し、「下がるように命じたはずだ」と履いていた下駄を力任せに投げつけた。下駄は綱家の顔面に命中し、彼は生涯前歯が欠けたまま過ごすことになったという。この生々しい逸話は、親子三人の協議がいかに常軌を逸した極限状態で行われていたかを物語っている。

結果として、父と弟は石田三成の西軍へ、信之は義父・本多忠勝がいる徳川家康の東軍へと分かれることが決した。これが真田の血を残すための意図的な生き残り策であったのか、それぞれの信念と姻戚関係がもたらした必然の決裂であったのかは、今となっては知る由もない。

ただ確かなことは、この日を境に、固い絆で結ばれていた真田の三父子は、二度と同じ陣営で並び立つことはなくなったということである。

「兄上は東へ。あっぱれなり」

かすかな微笑みを浮かべながら西へと去っていく弟の背中と、冷徹なまでの決意を秘めた父の横顔。信之はその二人の姿を、身を裂かれるような孤独のなかで見送ったはずである。彼が選んだ道は、愛する肉親を自らの手で討つ覚悟を決めるという、武士の宿命のなかでも最も過酷で悲痛な道であった。

別離の後、西軍についた昌幸と信繁が、最後に孫の顔を見ようと信之の留守を突いて沼田城を訪れた際、小松姫は甲冑を身にまとい城門に立ちふさがった。「義父君であっても今は敵味方に分かれた身。主人の留守中に城内に入れることはなりませぬ」と毅然として入城を拒絶したのである。しかし彼女はその後、昌幸らが滞在する城外の正覚寺に護衛を連れて密かに訪れ、食事や供物でもてなし、孫の顔を見せるという機転を利かせた。この小松姫の凛とした態度と深い情愛の背後には、留守を完全に任せ切っていた信之との絶対的な信頼関係があり、引き裂かれた真田家の悲壮な覚悟が色濃くにじんでいる。

命懸けの助命嘆願と九度山の父

関ヶ原の戦いは、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。徳川の世が決定づけられたその裏で、第二次上田合戦において徳川秀忠の軍勢を散々に翻弄し、足止めを食らわせた昌幸と信繁は、家康の激怒を買い斬首の危機にひんしていた。

勝者となったはずの信之に、歓喜の余韻など微塵もなかった。彼はすぐさま義父・本多忠勝とともに家康の御前に進み出た。自身の戦功のすべてをなげうち、「父と弟の命を助けていただきたい。もし斬首となるのであれば、まずこの私に切腹を命じていただきたい」と、一歩間違えれば己の命はおろか、真田家そのものが取り潰しになる危険を冒して決死の助命を嘆願したのである。

忠勝の口添えもあり、家康はついに折れた。昌幸と信繁は紀伊国九度山への配流という形で一命を取り留めることとなった。

しかし、信之の苦しみはそこからさらに深まっていく。九度山での配流生活は極度に困窮を極め、父や弟からは絶えず無心の手紙が届けられた。

「此の元借儀あまた候間、いかが共当年の仕合成らず候条、残二十両の事一日も早く上げ候様に」

借金がかさみ、仕送りを早く送れと急かす父からの生々しい書状。上田藩の復興に莫大な資金を要し、大名としての責任を一身に背負っていた信之にとって、公儀の咎人となった肉親への長年にわたる援助は、財政的にも政治的にも極めて危険で過酷な重荷であった。それでも信之は、決してその援助を打ち切ることはなかった。父からの手紙には「たとへかたわに御成り候共、御家のつゞき候やうに御ひき候て下さるべく候」という、病気がちな信之の身体を気遣う一文も残されている。遠く離れてもなお、彼らは確かに一つの家族であったのだ。

慶長十六年(一六一一)、父・昌幸が九度山で無念のうちにこの世を去った。信之は、幕府の重鎮である本多正信に公式な弔いを行いたいと打診したが、返ってきたのは「公儀御憚りの仁ゆえ、控えるように」という冷酷な通達であった。父の死を公に悼むことすら許されない屈辱。勝者として生き残ったはずの自分が、これほどまでに無力であるという絶望。彼が三の丸の屋敷から見上げた上田の空は、底知れぬほど虚しく、そして冷たかったに違いない。

その三年後、大坂の陣が勃発する。大坂城に入り、徳川の軍勢に牙をむいたのは、あの犬伏で別れた弟・信繁であった。信之はこのとき重病の床にあり、自ら出陣することはかなわず、長男・信吉と次男・信政を名代として送らざるを得なかった。自分の息子たちが、最愛の弟に刃を向ける。その光景を病床で想像しなければならなかった信之の胸中はいかばかりであったか。信繁が大坂の夏の陣で華々しく散り、「日本一の兵」として伝説となったとき、信之の心のなかで、かつて上田の地で肩を並べて戦った古き良き真田の記憶は、完全に喪失されたのである。

太平の世を生き抜いた獅子

信之の並外れた人間力と懐の深さを示す逸話がある。ある夜、信之が愛妾の住む長局を訪ねた際、そこから一人の家臣が慌てて逃げ出していくのを目撃した。愛妾の密通という決定的瞬間であった。当時の武家の常識からすれば、相手を斬り捨て、女を処罰するのが当然である。しかし信之は怒り狂うことも追手を差し向けることもせず、何食わぬ顔で部屋へ入り、そのまま一夜を過ごした。後日、不審に思った近習がその理由を尋ねると、信之は「男女の痴情のもつれごときで、得難い家臣の命を奪うべきではない」と平然と答えたという。

人間の業や弱さを知り尽くし、清濁を併せのむ。それは幾多の地獄をくぐり抜け、命の重さを誰よりも知る信之だけが到達し得た、途方もなく大きく、温かい為政者の境地であった。

元和八年(一六二二)、信之は幕府より先祖伝来の上田から松代への移封を命じられる。家臣団に動揺が走るなか、彼は気丈に振る舞い「子孫のためであり、幕府の命に従うのは名誉なことである」と諭した。しかし、親交のあった文化人に宛てた手紙には、「もはやこの浮世に未練はないが、子供たちのために露の命の消えぬまで世を渡る。この心細さを推し量ってほしい」と、心血を注いだ地を離れる寂しさと老境の孤独を赤裸々に吐露している。

最愛の妻・小松姫に先立たれ、「真田家の灯火が消えてしまった」と慟哭(どうこく)したのもこの頃であった。

しかし、彼の戦いはまだ終わらなかった。第三代将軍・徳川家光の治世に至ると、信之は「戦国を知る最後の生き残り」として畏敬を集める存在となった。家光は彼を「天下の飾り」と絶賛し、信之が老齢を理由に幾度も隠居を願い出ても、幕府の重臣たちは彼を手放そうとしなかった。実に九十一歳になるまで、彼は真田家の当主としての重責を担い続けたのである。

「何事も 移ればかわる世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」

九十三歳で迎えた死の床で、信之はこの辞世の句を詠んだ。秀吉が自らの栄華のはかなさを嘆き、信繁が散り急いだなか、信之だけは違った。

愛する者たちを見送り、孤独と重圧のなかで泥にまみれながら生き抜いた彼にとって、人生は決してはかない夢などではなかった。それは確かな痛みを伴う、圧倒的な現実であった。

すべてが変わっていくこの世界を、決して夢とは呼ばない。

その痛切な現実を見据える眼差しと執念こそが、真田信之という男の生きた証である。彼が守り抜いた真田家の灯火は、その後も消えることなく、時代を超えて信濃の地に赤々と燃え続けたのである。

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ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。