明石全登、史料に名を持たぬ猛将― 霧に消えた十万石の執政

明石全登
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幻の猛将、その真の名は

慶長二十年(一六一五)、大坂の陣。豊臣家の滅亡を決定づけたこの戦いで、徳川方の将兵たちは焼け落ちる城の跡や血塗られた野原を血眼になって這い回っていた。

彼らが探していたのは、たった一人の男。徳川家康の本陣を震え上がらせ、戦場を凄まじい速さで駆け抜けた猛将であった。しかし、その男の亡骸はどこにもなく、まるで煙のように姿を消してしまったのである。

男の名は、明石全登(あかし てるずみ)

歴史の教科書や小説にも登場するこの名だが、驚くべきことに、彼が生きていた時代の記録には「全登」という名前はただの一度も出てこない。後世の人々が創り上げた幻影なのだ。

当時の人々は、彼を「明石掃部(かもん)」と呼んだ。主君である宇喜多家を実質的に取り仕切る、強大な権力を持った重臣の顔である。

そしてもう一つ、彼の本当の姿を浮き彫りにする名がある。日本に滞在した宣教師たちの手紙に記された「ジョアン」という洗礼名だ。

そう、彼は熱烈なキリシタンだったのである。謀略と裏切りが渦巻く戦国の世において、胸に十字架を抱き、ひたすらに神へ祈りを捧げた一人の人間。それが、ジョアン・明石掃部の真実であった。

泥にまみれても生きよ

彼の魂の叫びが最も鮮烈に響き渡ったのは、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。

西軍の主力として奮戦した彼だったが、味方の裏切りにより戦線は崩壊。敗北が決定的となった戦場のただ中で、若き主君・宇喜多秀家は絶望し、敵陣への無謀な突撃や切腹を口にする。

その主君の白刃を、素手で掴むかのように激しく止めたのが明石掃部だった。

武士の世では、名誉を守るための自刃は美しいものとされていた。しかし、キリスト教において自ら命を絶つことは、絶対に許されない罪である。

「泥にまみれても、生き延びてくだされ」

主君の死を力ずくで制止した彼の行動は、武士としての忠義であると同時に、神の教えに従う信仰心の現れでもあった。

彼は主君を戦場から逃がすため、自ら決死の囮(おとり)部隊を率いて敵の刃を一身に浴びた。祈りと硝煙の狭間で引き裂かれながらも、彼は主君を逃げ延びさせるという奇跡を成し遂げたのである。

信仰を胸に、最後の死地へ

関ヶ原の敗戦後、領地も地位もすべてを失った彼は、身を隠すようにして歴史の表舞台から姿を消した。

それから十数年。徳川の世が盤石になろうとしていた頃、大坂の空に再び戦雲が立ち込める。その激動の渦中に、歴史の闇に沈み切っていたはずの男が、突如として大坂城に現れたのだ。

なぜ彼は、圧倒的に不利な豊臣方に味方したのか。

大坂城に集まった多くの浪人たちが、お金や領地、出世を夢見ていたのに対し、彼の目的はただ一つ。「キリスト教信仰の自由」を取り戻すためであった。

徳川の激しいキリシタン弾圧のなかで、豊臣方が勝てば、再び大手を振って神に祈ることができる。彼にとって大坂の陣は、己の魂の救済を賭けた聖戦だった。

炎の彼方へ消えた男

夏の陣の最終決戦。彼はわずかな兵を率いて、徳川家康の本陣へ一撃必殺の突撃を企てる。

だが、彼の目の前で、ともに戦った真田信繁(幸村)ら豊臣方の部隊は次々と壊滅し、死体の山が築かれていった。もはや、勝機は完全に失われた。幾重にも取り囲まれ、絶対絶命の窮地。

死を恐れぬ武士の美学に従うならば、ここで華々しく敵陣に突撃し、大坂城を枕に討ち死にを選ぶのが「美しい散り際」だろう。

だが、彼は違った。目前の状況を冷徹に見極め、家康への突撃を取りやめたのだ。

自死を禁じる神の教えに従ったのか。あるいは、生き抜くことへの執念か。彼は血みどろの包囲網の一角を切り裂き、見事に戦場からの脱出を果たしてしまう。いかなる絶望的な状況下であっても決して生を諦めない、戦い抜く男の姿と、十字架を背負った信仰者の姿がそこにはあった。

その後、彼がどこへ向かったのかは、今もって誰も知らない。

九州へ逃れたとも、海を渡って異国へ向かったとも言われている。徳川幕府は、この「死んだはずの男」が生きていることに恐怖し、何十年もの間、その影を追い求め続けた。

歴史は勝者が書き残す冷たい記録だ。しかし、名前すらも奪われ、確かな記録をことごとく消されながらも、己の信じる神とともに歴史の彼方へと鮮やかに消え去った男がいる。

どんな悲惨な負け戦のなかでも、決して生きることを投げ出さなかった明石掃部。彼が残した壮大な空白の向こう側に、歴史というドラマの本当の面白さが隠されているのである。

慶長二十年(一六一五)、大坂の空は業火に赤く染まり、淀川は幾多の将兵の血と泥にまみれて流れていた。豊臣の時代が完全に灰燼に帰し、徳川の天下が盤石なものとして歴史に刻み込まれたその日、勝者である徳川方の将兵たちは、焼け落ちた城の跡や血塗られた戦野を血眼になって這い回り、ある一人の男の姿を探し求めていた。

その男は、大坂牢人五人衆の一角として徳川家康の本陣を震え上がらせ、戦野を凄まじい速さで駆け抜けた猛将であった。しかし、彼が討ち取られたという確たる証拠はどこにもなく、戦場から煙のように姿を消したのである。

男の名は、明石全登(あかし てるずみ)

いや、果たしてそれは彼が真に名乗っていた名であったのだろうか。後世の書物を通じて現代にまで語り継がれる「全登」という文字の羅列は、驚くべきことに、同時代の一次史料にはただの一度も登場しない。彼が仕えた主君・宇喜多秀家が発した公文書群にも、あるいは彼と深い魂の交わりを持ったはずの宣教師たちが本国へ送った報告書にも、その名は一切見当たらないのである。

歴史とは本来、勝者が編纂する冷酷な記録の集積であり、敗者の足跡は必然的に消し去られる運命にある。だが、それにしてもこの男の空白はあまりにも巨大である。確かな武功と統率力を持ちながら、出生の年月日はおろか、初陣の記録も、合戦で振るった武器の名も、乗っていた馬の毛色すら定かではない。残されたのは、異国の神に祈りを捧げた「ジョアン」という霊名と、列島各地、さらには海を越えた異国にまで散らばる生存伝説、そして「ミスター行方不明」とでも呼ぶべき、歴史上の深いミステリーのみである。

諱の迷宮 ― 記号としての「全登」と実像としての「ジョアン」

歴史の探求において、人物の実像に迫る最初の足がかりとなるのは「名」である。名とは、その人物の存在を現世に繋ぎ止める絶対的な楔であるはずだ。しかし、彼の場合、その楔すらも後世に作られた幻影に過ぎないという冷酷な事実が立ちはだかる。

最新の史料批判が突きつける現実は、あまりにも劇的である。同時代史料に対する徹底的な調査の結果、「全登」という文字列は、彼の生存中にはいかなる文書にも確認されないことが判明している。当該文字列の初出は、大坂の陣が終結し、豊臣家が滅亡して彼が歴史の表舞台から完全に姿を消した後に作成された、後世の編纂史料においてのみである。この現象は、大坂の陣でともに戦い散っていった真田信繁が、後世の講談や軍記物のなかで「幸村」という名で固定化され、独り歩きしていった事象と全く同一の構造を呈している。

では、「全登」とは一体何に由来する記号なのか。これには複数の学説が入り乱れ、いまだに明確な決着を見ていない。

第一の学説は、これを仏教の法号と解釈し「ぜんとう」と発音するものである。しかし、生涯を通じて熱烈なキリシタンであった彼が、仏門の法号を名乗るという矛盾は拭いきれない。第二の学説は、キリスト教の霊名「Justo(ジュスト)」に対する当て字であるとする解釈である。音の響きを漢字に仮託したという推論であるが、これも確証には至らない。第三の学説は、これを諱(実名)と解釈し、「たけのり」「てるずみ」「いえのり」などと訓読みを当てはめるものである。後世の歴史辞典や文学作品においてもこれらの読みが散見されるが、いずれも一次史料の裏付けを持たない虚しい試みである。

同時代の人間たちが彼をどう呼んでいたかといえば、公的な記録や書状には「明石掃部(かもん)」という官途名、あるいは「守重」という名が残るのみである。明石掃部という呼称は、彼を指し示す最も確かな記号として当時の人々に共有されていた。

そしてもう一つ、彼の実像を暗闇の中から鮮烈に浮かび上がらせる名が存在する。それは、日本に滞在したイエズス会の宣教師たちが作成した書簡や報告書に刻印された「ジョアン(Joan)」という洗礼名である。武将としての威厳を纏う「掃部」という表の顔に対し、「ジョアン」という名は、十字架の前に膝をつき、己の罪と向き合いながら神に祈りを捧げた、血肉の通った一人の人間の魂の叫びを証明している。

「全登」という不確かな記号の迷宮に囚われてはならない。史実の奥に横たわる真の実像は、南蛮の教えを胸に抱き、矛盾に満ちた乱世を生き抜いたキリシタン武将、ジョアン・明石掃部その人なのである。

宇喜多の盾 ― 漆黒の主君と、純白の信仰

彼の出自や幼少期に関しても、歴史は堅く口を閉ざしている。生年は永禄十二年(一五六九)前後と推測されるが、明確な月日の記録はない。子供時代の生活状況や、初陣の場所、対戦相手に関する記録も一切が欠落している。備前国保木城(ほぎじょう)を拠点とし、名門・赤松氏の末裔を称する明石家は、父・行雄(ゆきかつ。景親、かげちか)の代から宇喜多家に仕える重臣の家柄であった。また、彼の母であるモニカは宇喜多直家の異母妹であり、彼自身の正室も直家の娘であったという記録があり、主家である宇喜多家とは極めて濃密な血縁関係で結ばれていた。

明石家が他国の大名家臣団と一線を画していたのは、彼らが単なる戦闘集団ではなく、備前の銅山運営管理業務を掌握する「技術統率者」であったという点である。鉱山技術者集団に対する強力な指揮権を持ち、そこから生み出される莫大な富と兵站の要を握っていた。この経済的基盤と実務遂行能力こそが、謀略と裏切りが渦巻く宇喜多家中において、彼が確固たる地位を築き上げるための巨大な推進力となった。

慶長四年(一五九九)、宇喜多家中を激震が襲う。「宇喜多騒動」と呼ばれる凄惨な御家騒動である。当時の宇喜多家中は、武功を重んじる坂崎直盛(さかざき なおもり)や花房正成(はなぶさ まさなり)らの「武断派」と、行政手腕を振るう長船綱直(おさふね つななお)らの「吏僚派(文治派)」との間で激しい対立が生じていた。この摩擦が頂点に達し、家宰(執政)であった長船綱直が暗殺されるという異常事態が発生する。さらには、秀家が寵愛した中村次郎兵衛の存在が火に油を注ぎ、主要な重臣層が次々と役職を放棄して出奔するという、大名家としての屋台骨を揺るがす崩壊状態に陥ったのである。

この危機の背後には、親豊臣派である宇喜多家の弱体化を意図的に狙った徳川家康の冷徹な介入があったと推測されている。家康の裁定により武断派の重臣たちが追放され、家中が空洞化するなか、崩れゆく宇喜多の盾として事態の収拾に立ち上がったのが明石掃部であった。

彼は出奔した重臣たちに代わり、家宰として家中実務の軍事および行政の最高指揮権を掌握する。組織内における調整、推進、そして安定化という途方もない重圧を一人で背負った彼は、宇喜多氏からの知行三万三千百十石に加え、秀家の岳父である豊臣秀吉からの直臣としての知行も獲得し、両者を合算して十万石という独自の大名クラスに相当する破格の地位を確立した。

しかし、十万石の最高行政責任者として、彼が具体的にどのような築城や検地を実行し、いかなる法度を定めたのかを示す史料は残されていない。彼が抜擢した若き家臣の名も、処罰した者の名も定かではない。性格を物語るような人間臭い台詞や逸話すら、綺麗に消え去っている。残されているのは「巨大な権限を握り、主家を支え続けた」という骨組みの事実のみである。

彼が背負った孤独は計り知れない。豊臣政権の重鎮でありながら家中の統制に失敗した若き主君・秀家に仕え、沈みゆく巨船の舵を泥まみれになって握り続けた男の胸中には、いかなる覚悟が宿っていたのか。暗殺と嫉妬、そして徳川の影が忍び寄る陰惨な権力闘争の中で、彼が己の精神の均衡を保つために縋ったのは、権力でも金銭でもなく、ただ一つ、純白の信仰であったのだろう。

十字架を背負った戦術家 ― 祈りと硝煙の狭間で

明石掃部という人物の奥底に触れる上で、決して避けて通れないのがキリシタンとしての揺るぎない顔である。彼の信仰は、当時の宣教師の記録において「熱烈」と特筆されるほどに深く、絶対的なものであった。

十万石の家宰という権力を手にした彼は、自身の寺社・宗教政策の一環として、宣教師の保護政策を公然と実行した。自らの屋敷を宣教師の住居として提供し、物理的な保護措置を敷いたのである。さらに、黒田如水(官兵衛)や黒田直之といった、同じ信仰を持つ他国のキリシタン武将たちと強固な連携関係を構築し、信仰を通じた独自のネットワークを広域に形成していた。

だが、ここに一つの大きな矛盾が生じる。武士の世界は、騙し討ち、寝返り、そして容赦のない殺戮が日常的に横行する修羅道である。その一方で、キリスト教は絶対的な隣人愛を説き、殺人を忌み、自死を固く禁じている。武士としての「業」と、キリスト教徒としての「愛」。この水と油のような二つの価値観が引き裂かれるような葛藤を、彼は己の内でどのように処理していたのだろうか。

その精神の相克が最も鮮烈な形で戦野に立ち現れたのが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いである。

宇喜多軍の実質的な軍事指揮官として西軍に与した彼は、七月から八月にかけての前哨戦である伏見城攻略戦に参加し、攻略部隊を指揮して同城の陥落に関与した。九月十四日の杭瀬川の戦いにおいては、遊撃行動を展開して局地戦での鮮やかな勝利を獲得し、西軍陣営の士気を劇的に向上させるという戦術的成果を上げている。

そして運命の九月十五日、関ヶ原本戦。宇喜多軍の先鋒部隊の指揮権を握った彼は、八千名の兵力を率いて、東軍の猛将・福島正則の部隊と真正面から激突した 。彼が率いた宇喜多軍全体の兵力は一万七千に達し、西軍のなかで最大規模の軍勢であったという記録もある。天下分け目の大戦において、彼は福島軍の猛攻を幾度となく跳ね返し、戦術家としての才覚を遺憾なく発揮して互角以上の戦闘状態を維持し続けた。

しかし、小早川秀秋の裏切りという歴史の暗転により、西軍の陣形は連鎖的に崩壊していく。敗北が決定的となった戦場のただ中で、若き主君・宇喜多秀家は自陣の崩壊に絶望し、敵陣への無謀な突撃、あるいは自害を企図した。その白刃を素手で掴むかのように激しく諫止したのが、明石掃部であった。

キリスト教において、自死は決して許されない大罪である。主君の自害を制止し、生き延びることを強要した彼の行動は、武士としての主君への献身であると同時に、彼の魂の底に横たわるキリシタンとしての信仰の発露そのものであった。彼は秀家を戦場から離脱させるため、自ら決死の殿軍部隊を編成して指揮権を行使した。追撃する東軍の刃を一身に浴びながら、主君の逃亡支援を完遂したのである。彼がどのような得物を振るい、どのような声で兵を鼓舞したのかは歴史の闇の中であるが、その行動の軌跡そのものが、祈りと硝煙の狭間で引き裂かれながらも戦い抜いた男の矜持を雄弁に物語っている。

関ヶ原の後、宇喜多家の没落に伴い十万石の知行をすべて喪失した彼は、一介の浪人へと転落した。徳川の追捕の手が迫るなか、彼に庇護の手を差し伸べたのは、かつて信仰を共にした黒田如水、そして黒田長政や黒田直之らであった。「道斎(どうさい)」という僧形の名を騙りながら、深い潜伏生活へと入る。如水の死後は、柳川藩の田中忠政を訪問し、キリスト教に寛容な地を求めて流浪したとの説も存在する。天下が徳川の治世へと染まりゆき、禁教の足音がじわじわと近づくなか、彼は歴史の表舞台から完全に姿を消し、深い沈黙と祈りの日々を過ごしたのである。

大坂の陣 ― 約束された再起と、プロフェッショナルな絶望

十余年という途方もない空白の時間が流れた。関ヶ原の記憶が風化し、多くの武将たちが徳川の威光に平伏して豊臣への恩義を忘却していくなか、慶長十九年(一六一四)、大坂の空に再び戦雲が立ち込めた。

その激動の渦中、歴史の闇に沈み切っていたはずの男が、突如として亡霊のように大坂城に入城し、豊臣方の軍勢に合流する。明石掃部ジョアン。彼は真田信繁、後藤又兵衛らとともに、大坂牢人五人衆の一角として豊臣軍の中核を担うこととなる。

なぜ彼は、圧倒的に不利な状況にある大坂方へ味方したのか。多くの牢人たちが恩賞や立身出世を夢見て集うなか、彼の参陣の目的は異質であった。宣教師の記録には、彼が「キリスト教信仰の自由の維持」を企図して参陣したことがはっきりと記録されている。徳川幕府によるキリシタン弾圧が苛烈さを増すなかで、豊臣方が勝利を収めれば、再び大手を振って主を讃えることができる。彼にとって大坂の陣への参戦は、「捲土重来(けんどじゅうらい)」を期す政治的な野心である以上に、己の魂の救済を賭けた聖戦であったのだ。

翌慶長二十年(一六一五)の夏の陣。彼の用兵術は、狂気と隣り合わせの極限状態においてさらなる凄みを見せる。道明寺の戦いにおいて、彼は水野勝成(みずの かつなり)、神保相茂(じんぼう すけしげ)、伊達政宗という東軍屈指の精鋭部隊と激突した。

戦闘の名称発生日付対峙勢力および標的具体的な行動および戦闘結果
道明寺の戦い1615年水野勝成、神保相茂、伊達政宗の各部隊突撃行動の実行。伊達部隊と神保部隊間の同士討ち事象の誘発。自身の負傷事象の発生
天王寺・岡山の戦い1615年標的:徳川家康本陣。包囲部隊:水野、松平、本多、藤堂の各部隊300名の決死隊の編成および指揮。友軍部隊壊滅の確認。突撃行動の中止。包囲網の突破および戦場からの離脱

濃霧と硝煙が入り混じる戦場の只中で、彼は自ら負傷するという事態に見舞われながらも、敵陣営の連携の隙を突く遊撃行動を展開した。その巧みな部隊の指揮は敵陣営に致命的な混乱を誘発し、結果として伊達部隊と神保部隊の間で大規模な同士討ちの事象を惹起させるという、驚異的な戦術的成功を収めるのである。細川忠興の書状においても、彼の軍事的能力の高さが特筆されている。

しかし、個人の武勇や戦術で覆すには、徳川の軍勢はあまりにも巨大であった。迎えた最終決戦、天王寺・岡山の戦い。彼はわずか三百余名という寡兵による決死隊を編成し、徳川家康の本陣に対する一撃必殺の突入作戦を立案した。だが、突撃の機を窺う彼の眼前に広がったのは、ともに戦った真田信繁ら豊臣方の友軍部隊が次々と壊滅し、死体の山を築いていく凄惨な光景であった。

死を恐れぬ武士道の美学に従うならば、ここは華々しく敵陣に突撃し、大坂城を枕に玉砕を選ぶべき場面である。後世の講談師たちが涙を流して語り継ぐような、見事な散り際を演出することは容易であったはずだ。

だが、彼は違った。彼は目前の状況を冷徹に分析し、突入作戦の中止を決定する。

彼の周囲にはすでに、水野、松平、本多、藤堂といった徳川の主力を担う部隊が幾重にも厚い包囲網を形成していた。絶対絶命の窮地。それでも彼は、腹を切らない。死を急がない。それは、自死を禁じる神の教えに絶対の服従を誓っていたからか。あるいは、長年の銅山管理や家宰としての実務で培われた、盤面を客観的に見極める冷徹な計算が、無意味な死を退けたのか。

彼は三百の兵を率いて血みどろの包囲網の一角へ決死の突破行動を実行し、五人衆の中で唯一、見事に戦場からの離脱を完遂するのである。そこには、死に場所を求める感傷的な武者の姿はない。いかなる絶望的な状況下であっても決して生を諦めず、最善の手を尽くして包囲を破る、極めてプロフェッショナルな戦術家と、十字架を背負った重厚な信仰者の姿が完全に重なり合っていた。

終焉の多層性 ― 討ち取られた「首」と、海を渡った「魂」

大坂城が焼け落ち、天王寺・岡山の戦いが終結した直後から、明石掃部の消息は深い霧の中へと沈む。彼の最期に関して、複数の同時代史料や後世の記録が、互いに激しく矛盾する主張を提示しているのである。戦場で討ち死にしたとする「戦死説」と、囲みを破って生き延びたとする「生存・逃亡説」。彼の実像を追及する過程は、ここで極めて難解なミステリーへと変貌する。

まず、彼が死亡したとする記録の束を見てみよう。幕府の公式記録である『徳川実紀』や『土屋知貞私記』は、彼が戦場において討ち死にした事象を淡々と記録している。さらに生々しいのは、包囲網の一角を担った水野勝成の家臣・汀三右衛門が明石の首級を取得したという『大坂御陣覚書』等の記述である。また、『石川家中留書』は、石川忠総が彼を討ち取り、豊臣秀頼から下賜された恩賜の短刀を奪取したという、物理的遺留品の存在を伴う記録を残している。極めつけは、井伊直孝の部隊が彼の首級を取得し、わざわざ自領である佐和山へ輸送した事実を示す井伊家の一次書状の存在である。

説の分類根拠となる史料の名称記録内容の詳細証拠能力の評価および背景推察
戦死説『徳川実紀』『土屋知貞私記』 戦場における討ち死にの記録 幕府の公式記録。体制安定のための死亡認定の意図
戦死説『大坂御陣覚書』等 水野勝成家臣・汀三右衛門による首級の取得 包囲網を構成した水野部隊との交戦記録との整合性
戦死説『石川家中留書』 石川忠総による討ち取り。秀頼恩賜の短刀の奪取 短刀という遺留品の記述。戦果の誇張の可能性
戦死説井伊方の書状(一次史料) 井伊直孝による首級の取得および佐和山への輸送 一次史料の存在。しかし他家との主張の重複による矛盾
逃亡説『大村家譜』等 嫡子・内記を同伴した九州地域への逃亡 過去の九州地域(黒田家等)における潜伏経験との関連性
逃亡説『土佐国諸氏系図』 阿波国を経由した土佐国への逃亡 四国地域における逃亡経路の伝承
逃亡説朝鮮半島の伝説 武器(微塵刀)を振るい「日本から来た明石」と名乗る 海を渡ったとする広域な生存伝説の一形態
逃亡説『武家事紀』等 南蛮(海外)への逃亡 イエズス会文書に記録なし。当時の人々の空想の産物

水野、石川、井伊。なぜ複数の大名家が「我こそが明石を討ち取った」と、互いに矛盾する主張を堂々と報告したのか。

その背景には、血生臭い武士の論理が横たわっている。当時の恩賞制度において、家康を恐怖させた大坂五人衆の首級は、莫大な領地と栄誉を約束される極上の標的であった。戦場の混乱の中で功を焦る将兵たちが、似た風体の遺体、あるいは豪華な甲冑を身につけた名もなき武将の首を「明石の首である」として主家に提出し、それが既成事実として幕府へ報告されたという構図が容易に推察される。

同時に、幕府側の政治的意図も極めて重要である。熱烈なキリシタンであり、宣教師とのパイプを持つ彼が生存し続けることは、徳川体制に対する新たな宗教的反乱の火種が燻り続けることを意味した。幕府は、首の実検が不確実であっても彼を公式に「死者」として処理し、その精神的影響力を完全に断ち切る必要に迫られていたのである。

しかし、為政者の思惑とは裏腹に、民衆や敗者たちの間では「明石は生きている」という強烈な伝承が全国へと拡散していく。これこそが、数々の生存・逃亡説の系譜である。

『大村家譜』等の史料は、彼が嫡子・内記を同伴して九州地域へ逃亡した事象を記録する。過去の浪人時代に黒田家などの庇護を受けた経験を鑑みれば、九州のキリシタン人脈を頼ったという推察は極めて自然である。『土佐国諸氏系図』は、阿波国を経由して土佐国へ逃れたという四国への逃亡経路を語る 。

さらに壮大なのは、国境を越えた伝説である。朝鮮半島のある村に盗賊が襲撃した際、ロザリオを身につけ、微塵刀(びせんとう)と呼ばれる特殊な武器を振るう男が現れて盗賊を撃退し、「私は日本から来た明石という者だ」と言い残して去っていったという伝承が存在するのだ。さらには『武家事紀』等が記録するように、南蛮(海外)へ逃亡したという説までがまことしやかに囁かれた。イエズス会の記録文書に彼が海外へ渡航したという該当事象の記載が存在しないため、歴史学の観点からは空想の産物と判定されるが、当時の人々が「あの男ならば必ず海を渡り、神の国へ逃れたに違いない」と信じていたことの強烈な証明である。

彼の血脈が密かに生き続けたことを示す伝承も、各地に根強く残されている。

伝承の地域関連する人物および家系伝承および記録の詳細内容
薩摩藩子・小三郎、島津忠恒島津忠恒による雇用の企図。キリシタン嫌疑の発生。処刑の執行記録
秋田県比内町息子たち、明石康氏弘前藩の保護の獲得および定住。明石康氏の出自に関する伝承
岡山県備前市子・景行、武元家旧宇喜多領における子孫の存在の伝承

秋田県比内町には、彼の息子たちが遠く陸奥国弘前藩の保護を獲得して同地に定住し、のちに国連事務次長を務めた明石康氏を輩出したという伝承があり、かつての拠点であった旧領・岡山県備前市にも、子である景行を祖とする武元家の系譜が静かに語り継がれている。一方で薩摩藩の記録には、島津忠恒が彼の子を雇用しようと企図したものの、キリシタン信仰に関する嫌疑が発生し、処刑が執行されたという極めて痛ましい事象が記されている。これは、大坂の陣という巨大な戦乱が終わった後も、敗者の家族に対する権力側の過酷な処置が続いたことの一端を冷酷に示唆している。

「明石狩り」という言葉がある。大坂の陣から数十年が経過した島原の乱の頃に至るまで、徳川幕府はキリシタン蜂起の背後に常に「ジョアン明石掃部」の影を恐れ、執拗な探索と捕縛を命じていた。幕府が最も恐れた男は、公式には死者とされながらも、怨霊のように、あるいは救世主のように、徳川の治世に重くのしかかっていたのである。

未完の美学 ― なぜ我々は「ミスター行方不明」を追い続けるのか

歴史を紐解く営みにおいて、我々は幾度となく「史料の壁」という冷厳な事実に突き当たる。

「全登」という名は後世の創作であり、同時代史料には一片の文字も残されていない。少年時代の具体的な生活状況を記した記録もなければ、戦場で振るった武器の形状も、乗っていた馬の毛色も、合戦前夜に彼が語ったであろう言葉も、周囲からの人物評価や、最期の情景に関する詳細な記録すら存在しない。残された史実が客観的に証明するのは、宇喜多家の家宰として権力を握った十万石の最高責任者としての地位、熱烈なキリシタン信仰と宣教師保護の実態、そして関ヶ原や大坂の陣での鮮烈かつ局地的な軍事行動という、血肉の削ぎ落とされた骨組みだけの事実である。

歴史の探求者はここで深い断絶に直面し、立ち尽くす。彼の本当の声はどこにあるのか。彼が遺したかったものは何だったのか。

しかし、その圧倒的な情報の欠落と、歴史という織物から意図的に切り取られた余白の中にこそ、人間の真実が宿るのではないか。現代に至るまで、名もなき敗者である明石掃部ジョアンという男が人々を強烈に惹きつけてやまない理由は、彼が敗北の宿命を背負いながらも、己の美学と信仰を最期の瞬間まで決して手放さなかったからである。

関ヶ原の敗戦という絶望の淵において、主君・宇喜多秀家が自刃しようとするのを命懸けで制止し、泥に塗れてでも生き延びる道を無理矢理にこじ開けた忠誠心。豊臣への恩義や自身の立身出世のためではなく、ただ己の信じる神への祈りの自由を取り戻すためだけに、巨大な権力に立ち向かう死地・大坂城へと向かった静かなる決意。そして、天王寺の激戦において、玉砕という安易な自己陶酔や武士道の呪縛を冷徹に拒絶し、血路を開いて戦場から姿を消した、その強靭すぎる生存への意志。

彼が包囲網を突破した直後に見た風景は、どのようなものであったか。硝煙と血の匂いにむせぶ天王寺の空の下、遠く焼け落ちる大坂城の炎を背に受けながら、彼は胸に下げた十字架を固く握りしめ、誰のために、何を祈ったのか。

誰の首が佐和山に送られようと、歴史学がいかに彼の南蛮逃亡を空想と断じようと、この男の魂が最終的にどこへ向かったのかを完全に証明できる者は、この世に一人として存在しない。

歴史とは、勝者が書き残した冷酷な記録の集積である。しかし、その史料の壁の奥深くからこぼれ落ちた、名もなき敗者たちの「沈黙」に耳を澄ませようと足掻くとき、歴史は初めて血肉を持った人間のドラマとして立ち現れる。

明石掃部。自らの存在した証である名前すらも後世の創作に塗り替えられ、確かな記録をことごとく奪われながらも、巨大な時代のうねりに抗い、己の信じる神とともに歴史の彼方へと鮮やかに消え去った男。彼が遺した巨大な空白と「未完の美学」が存在する限り、歴史にロマンを求める者たちは、このミスター行方不明の幻影を永遠に追い求め続けるのである。彼が背負った十字架の重みと、その足跡に立ち込める朝靄のような静寂に、深い想いを馳せながら。

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ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。