嫌われ者と呼ばれた軍師――本多正信、徳川家康の孤独を背負いし男

本多正信

駿府の冬空は、どこまでも冷たく澄み渡っていた。遠く富士の白雪が朝日に照らされ、りんとした光を放っている。霜の降りた枯れ野を、老いた鷹が鋭い羽音を立てて舞い上がった。その勇壮な飛翔を、並んで見つめる二つの影がある。

一人は、戦国の荒波を乗り越え、ついに天下をその手中に収めた徳川家康。そしてもう一人は、粗末な羽織をまとい、不自由な足を引きずりながら主君の歩調に寄り添う老臣、本多佐渡守正信(ほんだまさのぶ)であった。

周囲には護衛の武士たちが控え、息を潜めていた。彼らの視線は、家康に対しては畏敬に満ちていたが、その隣を歩く正信に向けられたとき、そこには隠しようのない冷え冷えとした軽蔑と嫌悪の色が宿っていた。

徳川の家中において、本多正信ほど徹底して忌み嫌われた男はいない。三河以来の古参の家臣たちは、正信の背中を指さして「腰抜け」「出戻りの裏切り者」「腸の腐った佞臣(ねいしん)」と罵った。生涯五十七度の戦でかすり傷一つ負わなかった徳川四天王の猛将・本多平八郎忠勝(ほんだただかつ)に至っては、「佐渡守と同じ本多の姓を名乗ることすら恥辱である」と公言してはばからなかった。

武功によって命をかけ、血と汗で主君を押し上げてきた三河武士たちにとって、かつて一度主君を裏切って出奔し、戦場で槍を振るうこともないまま、いつの間にか家康の懐深くに入り込んで幕府の最高権力を握った正信の存在は、どうしても許しがたいものだったのである。

だが、絶対の権力者となった家康が、心底から腹を割り、「我が朋友」と呼んで膝を交えたのは、生涯を通じてただこの正信一人であった。寝所に帯刀したまま入ることを許されたのも、正信だけであった。

なぜ正信は、徳川家中においてこれほどまでに嫌われ抜いたのか。なぜ彼は、同僚たちからの怨嗟(えんさ)と嫉妬の嵐にさらされながらも、平然とその場に留まり続けることができたのか。そしてなぜ、天下人・家康は彼を手放さず、乱世を終わらせるという最も困難で冷酷な事業のすべてを、この男に託したのか。

冷徹な謀略家という仮面の裏に隠された、ひとりの男の凄絶な覚悟と、孤独な美学の旅路を追う。

仏の旗に背きし傷痕――三河一向一揆の挫折と流浪の果て

本多正信は天文七年、三河国において本多俊正の次男として生を受けた。通称は弥八郎。本多家は松平家に古くから仕える安祥譜代の家柄であったが、槍働きを旨とする本多忠勝らの平八郎家とは早くに分かれた別家であり、正信の家系は鷹匠として主君に仕える極めて微禄の家筋に過ぎなかった。

戦国乱世において、武士が身を立てる道はただ一つ、戦場に出て槍を振るい、敵の首級(しるし)を挙げることであった。どれほど知恵があろうと、血を流して主君のために戦わぬ者は武士とみなされぬ時代である。

若き日の正信もまた、その掟に従って戦場へ赴いた。永禄三年、桶狭間の戦い。駿河の大大名・今川義元の先鋒として、若き松平元康(後の家康)率いる三河勢は、織田方の丸根砦や大高城への決死の兵糧入れを敢行した。この激戦のさなか、正信は膝に深い傷を負う。

命こそ取り留めたものの、傷口は悪化し、正信の脚は生涯不自由なものとなってしまった。走ることも、馬上で自在に槍を操ることもかなわぬ肉体。それは武士として戦場で武功を立てる道が、永遠に閉ざされたことを意味していた。痛む足を引きずりながら、正信は自らの運命の残酷さに歯ぎしりしたに違いない。だが、この挫折こそが、彼をして「槍ではなく、知恵で生きる」という修羅の道へと踏み出させる決定的な契機となった。

しかし、その知恵の刃が最初に向けられたのは、皮肉にも己の主君であった。

永禄六年、三河一向一揆が勃発する。今川家から独立を果たし、三河統一を目指す若き家康に対し、不入の特権を侵害されたとして浄土真宗本願寺派の門徒たちが一斉に蜂起したのである。この一揆は、単なる農民の反乱ではなかった。家康の家臣団の少なからぬ武士たちが、熱心な一向宗の門徒であったため、主君への忠義と仏への信仰の間で引き裂かれ、家中を真っ二つに割る血みどろの内乱へと発展したのである。

熱心な門徒であった正信は、弟の正重とともに、迷うことなく家康に反旗を翻した。

愛知県安城市に残る本證寺。それは寺院という名を借りた、東西三百メートルを超える巨大な城郭であった。深く掘られた二重の堀、高さ五メートルを超える分厚い土塁。そこに何千人もの門徒が立てこもっていた。吹きすさぶ三河の寒風の中、「進まば極楽、退かば地獄」と唱える念仏の声が、地鳴りのように響き渡る。

正信はその土塁の上に立ち、眼下に押し寄せる松平軍の陣容を冷ややかに見つめていた。彼は一揆方の軍師として、巧みな防衛戦を指揮し、かつての主君である家康を幾度も窮地に追い込んだ。家康自身が銃弾を浴び、命を落としかけるほどの死闘であった。

主君を裏切り、弓を引く。それは三河武士の道徳において、決して許されぬ大罪であった。だが、正信にとっては、自らが信じる仏の教えこそがすべてであり、世俗の権力者に盲従することへの激しい拒絶でもあった。

半年余りに及ぶ激戦の末、一揆は家康の粘り強い調略と武力によって鎮圧された。家康は門徒の武士たちに対し、「改宗すれば罪を問わぬ」と寛大な処分を示した。多くの武士が涙を流して主君に詫び、徳川家臣へと復帰していった。

しかし、正信は詫びなかった。自らの信じる理を曲げてまで、主君に頭を下げることを潔しとしなかったのである。

死罪こそ免れたものの、正信は生まれ故郷である三河を追放された。財産も、領地も、武士としての名誉もすべて失い、一本の杖にすがって諸国を流浪する無頼の身となったのである。

その後の十数年間、正信の足取りは定かではない。京都の町をさまよい、加賀の一向一揆に合流して織田信長勢と戦ったとも、大和の梟雄(きょうゆう)・松永久秀(まつながひさひで)に仕えてその悪謀を間近で学んだとも伝えられる。松永久秀は後に正信を評して、「東国の武士を多く見てきたが、みな武勇ばかりを誇る野卑な者ばかり。だが本多弥八郎だけは違う。あやつの持つ器量と知謀は、並大抵のものではない」と語ったという。

諸国を巡る流浪の日々の中で、正信が見つめたものは何だったのか。それは、忠義や名誉といった美名のもとに殺し合い、あっけなく滅び去っていく武士たちの愚かしさであり、権力者たちの身勝手な野望に踏みにじられる民百姓のうめき声であった。

血気と武勇だけで天下を語る三河の狭い世界を離れ、天下の情勢を冷徹に俯瞰する視座を、正信はこの孤独な漂泊の果てに手に入れたのである。

泥を被る覚悟――大久保忠世の温情と冷徹なる帰参

十数年に及ぶ流浪の末、正信の人生に再び光を当てたのは、三河譜代の重臣・大久保忠世(おおくぼただよ)であった。

忠世は、三河武士の鑑とされる武骨な勇将でありながら、人の才能を見抜く深い度量を備えた人物であった。彼は、正信がかつて主君に弓を引いた裏切り者であることを知りながら、その比類なき知謀を惜しんだ。「あの男の頭脳を野に埋もれさせておくのは、徳川家にとって最大の損失である」。そう考えた忠世は、正信が不在の間、困窮していたその妻子に密かに米や銭を送り、衣食の面倒を見続けていたのである。

そして天正年間、忠世は家康に対し、幾度も頭を下げて正信の帰参を懇願した。

「殿、弥八郎の罪は重うございます。されど、あやつの知謀は、これからの徳川の道筋を照らす灯火となりましょう。どうか、もう一度だけあやつをお召し抱えください」

家康は忠世の必死の取りなしを受け入れ、ついに正信の帰参を許した。しかし、戻ってきた正信に与えられた役目は、かつての家老待遇などではなく、わずか四十石の微禄、しかも鷹匠としての小身であった。

城の広間に姿を現した正信を、徳川の家臣たちは冷淡な目で見つめた。かつて命懸けで家康を守り抜いた誇り高き三河武士たちにとって、主君を裏切って逃げ出し、のうのうと戻ってきた正信は、忌み嫌うべき存在以外の何者でもなかった。

「裏切り者が、どの面下げて戻ってきたか」

「槍も持てぬ不具者が、口先だけで飯にありつこうという魂胆か」

すれ違いざまに投げつけられる露骨な嘲笑と罵声。だが、正信はそれらの言葉に対し、眉一つ動かさなかった。怒りをあらわにすることもなく、弁解することもなく、ただ静かに頭を下げてその場を通り過ぎた。

正信は、痛いほど理解していたのだ。自分が犯した罪の重さを。そして、一度でも裏切り者という消えぬ汚名を背負った人間が、武士としての名誉や友情を取り戻すことなど不可能であるということを。

武功によって称賛される道は、とうに断たれている。ならば自分は何のために徳川の家に戻ってきたのか。

「この命、もはや己の名誉のために使うことはない。ならば、すべてを主君の影として、泥を被るために捧げよう」

正信はその冷徹な覚悟を胸の奥底に秘め、黙々と鷹の世話を続けた。荒野で鋭い眼光を光らせる鷹を見つめながら、彼は主君・家康の心が何を求め、時代の風がどちらへ吹いているのかを、静かに読み解いていたのである。

正信の真価が初めて発揮されたのは、天正十年、本能寺の変の直後であった。

織田信長が横死したことで、信長によって滅ぼされたばかりの武田家の旧領――甲斐と信濃は、支配者のいなくなった巨大な空白地帯と化し、徳川、北条、上杉による激しい争奪戦が始まった。いわゆる天正壬午の乱である。

兵力において圧倒的に勝る北条の大軍を前に、家康は苦境に立たされた。このとき、大久保忠世とともに信州平定へと赴いた正信は、武力による衝突を避け、驚くべき手腕を見せる。

武田の遺臣たちは、信長による苛烈な残党狩りに怯え、山中に潜んでいた。正信は彼らに向けて、次々と書状を送った。「徳川に味方するならば、旧領の安堵を約束する。武田の家風と誇りを、徳川のもとでそのまま継承せよ」。

ただ力でねじ伏せるのではなく、相手の恐怖と矜持(きょうじ)を巧みに操る懐柔工作。正信の緻密な心理戦により、真田や依田といった旧武田の信濃国衆が次々と徳川方に寝返った。徳川軍は、ほとんど血を流すことなく信濃の半分と甲斐全土を手中に収めたのである。

浜松城に戻った家康は、正信の報告を聞き、深く息を呑んだ。

何千人もの兵を戦わせ、あまたの首を討ち取ることよりも、一通の書状と知恵によって一国を手に入れることの凄まじさ。武辺一辺倒の三河武士たちには決して真似のできぬその知謀に、家康は乱世を終わらせるための唯一の武器を見出したのである。

この日を境に、正信は鷹匠の小屋を出て、家康の御座所のすぐ傍らに座るようになった。

刀なき戦場の謀略――武断派の罵声としたたかなる居眠り

時代は激動の渦の中にあった。豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ、家康は北条氏の旧領である関東二百四十万石へと移封された。見渡す限りのアシの生い茂る荒涼たる江戸の地で、家康は巨大な領国の経営という前代未聞の課題に直面する。

ここで正信は、関東総奉行の一人として抜擢され、領内の検地、代官の配置、治水や新田開発といった民政の全体構想を一身に担った。槍を振るうことしか知らぬ武将たちには、帳簿をめくり、租税を計算し、複雑な利害関係を調整する行政官僚の仕事は務まらない。正信の筆先一つによって、荒野であった関東は、徳川の天下を支える巨大な経済基盤へと生まれ変わっていったのである。

だが、正信が家康の信任を得て権力の中枢に昇れば昇るほど、家中における「嫌われ者」としての孤立は深まるばかりであった。

特に、関ヶ原の戦いが近づくにつれ、徳川家臣団の中には修復不能な亀裂が生じていた。「武断派」と「文治派」の対立である。

武断派の筆頭は、言わずと知れた本多忠勝であった。名槍・蜻蛉切(とんぼきり)を振るい、数々の死線を家康と共に潜り抜けてきた忠勝にとって、戦場にも出ず、書斎の中で小細工を弄して主君の耳目を塞ぐ正信は、胸が悪くなるほど不愉快な存在であった。

ある日、城中の評定の場において、忠勝は正信を真っ向からにらみつけ、居並ぶ家臣たちの前で大喝した。

「佐渡の腰抜けめ! 敵の前に立ったこともない奴が、したり顔で軍略などを語るな! 同じ本多の血筋を名乗ることすら、我が武名に対する最大の侮辱よ!」

広間は凍りついた。誰もが正信の返答を息を呑んで待った。だが、正信は怒る風もなく、ただ薄笑いを浮かべながら、深々と頭を下げただけであった。

「平八郎殿のおっしゃる通り。私ごとき不具の者が、皆様の武勇の足元にも及ばぬことは、百も承知にございます」

その柳に風のごとき態度が、武辺者たちをさらにいらだたせた。彼らから見れば、正信のその卑屈なまでの笑みは、自らの知恵に絶対の自信を持つ男の、見下すような傲慢さに映ったのである。

榊原康政(さかきばらやすまさ)もまた、正信を「腹の底の知れぬ男」「腸の腐った奴」と毛嫌いし、徳川秀忠の伝役(もりやく)であった大久保忠隣(おおくぼただちか)も、次第に正信の存在を疎ましく思うようになっていった。

家中において、正信の味方は誰一人としていなかった。評定が終われば、武将たちは群れて酒を酌み交わし、武勇伝を語り合ったが、正信は常に一人、静かに自室へと引き揚げていった。

だが、正信には孤立を恐れる気持ちなど微塵もなかった。なぜなら、彼にはただ一人、絶対の理解者がいたからである。主君・徳川家康である。

家康と正信の絆は、主従というよりは、冷酷な現実を共有する「同志」であり、魂の奥底で結びついた「朋友」であった。

家康は毎日のように正信を自室に呼び寄せた。人払いをした薄暗い部屋で、二人は膝を突き合わせ、夜が明けるまで天下の情勢を語り合った。大名たちの配置、豊臣方の懐柔と離反工作、朝廷との交渉。家康が胸の内に抱える誰にも言えぬ猜疑心や冷酷な本音を、そのまま吐露できる相手は正信だけであった。正信もまた、主君におもねることなく、最も現実的で、最も冷徹な選択肢を提示した。

文人として知られる石川丈山は、かつて家康の近侍として仕えていた頃の、正信の驚くべき処世の姿を書き残している。

あるとき、家康が自らの軍略や政務の方針について、正信に意見を求めた。

もし家康の意見が正しく、優れたものであれば、正信は顔を輝かせ、「恐れ入りました。誠に上意の通りにございます」と手放しで称賛した。

しかし、家康の意見に誤りがあり、あるいは無理な強行策であると感じたとき、正信は決して真っ向から反論しなかった。口を開いて議論すれば、主君の誇りを傷つけ、意固地にさせてしまうことを知っていたからである。

ではどうしたか。正信は、家康が熱心に語っている最中に、すうすうと鼻を鳴らして「居眠り」を始めたのである。

天下の家康を前にしての居眠り。通常の家臣であれば、即座に手討ちにされても文句の言えぬ無礼であった。だが、家康は怒らなかった。

正信の眠る姿をじっと見つめた家康は、ふっと苦笑いを浮かべ、自らの顎を撫でながら考え込んだ。

「……佐渡が眠ったか。ということは、今の儂の考えには、まだ見落としている落とし穴があるのだな」

家康は席を立ち、部屋の中を歩き回りながら、自らの策を一つ一つ検証し直した。そして、より合理的で無理のない修正案に思い至ると、再び座敷に戻り、独り言のようにその新たな案をつぶやいた。

すると、どうだろうか。それまで深い眠りに落ちていたはずの正信が、まるで今目覚めたかのようにパチリと目を開き、柔らかな笑みを浮かべて平伏したのである。

「殿、今のお言葉、まさに天の啓示にございます。それこそが天下を治める名案でございましょう」

家康は破顔し、「ふん、狸めが」とつぶやいて笑った。

主君の面目を一分の隙もなく保ちながら、その判断の狂いを音もなく正す。血気盛んな三河武士たちには逆立ちしても真似のできぬ、したたかで巧みな、至高のいさめの術であった。

二人の間には、言葉を交わさずとも通じ合う、深いあうんの呼吸があった。家康にとって正信は、天下という重すぎる荷を背負い、誰にも心を許せぬ孤独な覇王の、唯一の安息所だったのである。

禄を捨てて権を握る――二万二千石に秘めた防具と処世の美学

慶長五年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。正信は徳川秀忠の軍監として、中山道を進む別動隊に同行した。

信濃の上田城において、知将・真田昌幸(さなだまさゆき)の巧妙な挑発に乗った秀忠軍は、城攻めに固執して貴重な時間を費やし、結果として関ヶ原の本戦に遅参するという大失態を演じる。後世の軍記物では、大久保忠隣が攻城を主張し、正信が急行を主張して対立したなどと描かれるが、実際には悪天候や増水、連絡の遅延が重なった結果であった。

だが、遅参に激怒した家康に対し、秀忠の取りなしを行い、父子の絆を修復させたのは、他ならぬ正信の沈着冷静な差配であった。

関ヶ原の勝利により、徳川の覇権は決定的なものとなった。戦後の論功行賞において、徳川家臣団の面々は破格の領地を与えられた。武断派の筆頭・本多忠勝は伊勢桑名十万石。井伊直政(いいなおまさ)は近江彦根十八万石。榊原康政も上野館林十万石。彼らはいずれも十万石を超える大大名へと出世を遂げた。

その一方で、幕府の草創期において実質的な最高権力者となり、大老や老中を束ねる立場にあった正信の所領は、一体どれほどのものであったか。

わずか、二万二千石。相模国玉縄の小大名に過ぎなかったのである。

家康は、天下取りの最大の功労者である正信に対し、幾度も加増を打診した。「佐渡、そなたの働きを思えば、十万石や二十万石の領地を与えるに何の惜しげもない。どこでも望む国を申せ」。

だが、正信はそのすべてを平伏して固辞した。

「滅相もございません。私のような不器量者には、二万二千石でも身に余る過分な禄高でございます。これ以上のお恵みをいただけば、領地を治めることもかなわず、かえって徳川の家に仇をなすことになりましょう」

なぜ正信は、巨万の富と領地を拒絶し続けたのか。

「権ある者は禄少なく、禄ある者は権少なく」

これこそが、正信が生涯を通じて守り抜いた鉄則であり、同時に彼が編み出した、己の身と家を守るための「見えざる鎧」であった。

正信は、自らの立ち位置を冷徹なまでに客観視していた。自分は武功のない出戻りの裏切り者であり、知謀一つで権力の中枢に座っている。それだけで、同僚たちからの嫉妬と怨嗟は沸点に達しているのだ。

もしその上で、十万石、二十万石という領地を手に入れ、豪華な城を築いて富を誇示してみろ。武断派の武将たちの我慢は限界を超え、正信に対する憎悪は本多家を根底から滅ぼす火種となるだろう。

「私は富など望まぬ。ただの貧乏な事務方に過ぎぬ」

二万二千石という小大名の身分に甘んじることで、正信は同僚たちの溜飲を下げ、自らに向けられる嫉妬の切っ先を巧みにそらしていたのである。権力を握る者は、富を捨てねばならぬ。富を握る者は、政治の中枢から退かねばならぬ。正信はこの思想を、後の江戸幕府二百六十年を支える統治機構――親藩・譜代大名(禄は少ないが幕政を担う)と、外様大名(巨大な禄を持つが幕政から排除される)という構造の基本理念へと昇華させていったのである。

しかし、正信の歩んだ道は、決して無私で清らかなだけの道ではなかった。

慶長十九年、幕府を揺るがす大事件が起きる。かつて流浪の正信を救い、徳川家へ引き戻してくれた大恩人・大久保忠世の嫡男であり、秀忠の側近として武断派の重鎮であった小田原藩主・大久保忠隣が、突如として改易・流罪に処されたのである。

罪状は、幕府の許可を得ずに養女を嫁がせたという、法度違反の嫌疑であった。

世人は、これを「正信・正純父子の陰謀」と噂した。権力を独占するために、かつての恩人の息子を陥れ、無残に叩き潰したのだと。正信に対する世間の評価は、決定的に地に堕ちた。「恩を仇で返す極悪人」「血も涙もない悪臣」。正信に向けられる視線は、もはや軽蔑を超え、恐怖と呪詛に満ちたものとなった。

だが、近年の研究が明らかにしているように、忠隣の失脚は正信個人の私怨によるものではない。それは、徳川が「個人の忠義や武勇に頼る戦国大名」から、「将軍を頂点とし、法度によってすべてを統制する官僚国家」へと脱皮するために避けて通れぬ、体制的な粛清であった。

許可なき婚姻を許せば、諸大名は勝手に結託し、再び乱世の火種が生まれる。たとえどれほど功績のある譜代の重臣であろうと、法を破る者は容赦なく処断する。その冷酷な見せしめを、家康自身が決断したのである。

正信は、その家康の冷徹な意志を代行し、事務的に処刑台の露払いを務めたに過ぎなかった。

恩人を裏切った悪名を一身に浴びながら、正信は沈黙を守った。「自分が悪者になればよい。天下の法が定まり、乱世が終わるならば、後世の歴史家からどれほど罵られようと痛くもかゆくもない」。

正信は、主君・家康の聖天子としての光を曇らせぬため、徳川の世のあらゆる暗部と泥を引き受ける「嫌われ役」という名の業(ごう)を、自ら進んで背負い続けたのである。

朋友の逝く野辺を見送りて――父の遺訓と後を追う落日

慶長十九年、京都東山の方広寺に、重厚な梵鐘の音が鳴り響いた。

豊臣秀頼(とよとみひでより)が再建したこの寺院の鐘に刻まれた銘文の中に、正信と家康の策士たちは、豊臣家を滅亡へと追い込む決定的な言いがかりを見出す。「国家安康」「君臣豊楽」。家康の実名(諱)を二つに割り、豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ呪詛である――。

それは、白昼堂々と仕掛けられた、冷酷無比な言葉の戦争であった。

正信が編み出した論理の罠に絡め取られ、豊臣家は大坂の陣へと引きずり込まれていく。慶長二十年、大坂夏の陣。炎上する大坂城とともに豊臣宗家は滅亡し、百五十年余りに及んだ戦国乱世は、ついにその幕を閉じた。

戦いが終わった。武士たちが血を流し、首を奪い合う野蛮な時代は、永遠に去ったのである。

その翌年の元和二年四月十七日、駿府城の奥御殿において、徳川家康が波乱に満ちた七十五年の生涯を閉じた。

死の床に侍る家臣たちの中で、正信はただ一人、静かに主君の痩せ衰えた顔を見つめていた。貧しい三河の小領主から、幾度も裏切られ、苦渋をなめ、ついに天下の覇業を成し遂げた男。そして、その影として生き、あらゆる泥を被り続けてきた男。二人の間に、もはや言葉は必要なかった。家康の瞳が静かに閉じられた瞬間、正信の心の中で、自らの命の灯火もまた静かに消え去った。

家康の葬儀を終えた正信は、即座に家督を嫡男の正純に譲り、一切の政務から身を引いた。生きる目的のすべてが、主君の死と共に失われたのである。

病の床に臥せった正信は、ある日、枕元に正純を呼び寄せた。正純は父の知謀を受け継ぎ、二代将軍・秀忠の側近として急速に頭角を現していた。

正信は、やせ細った手で息子の腕をつかみ、鬼気迫る表情で言い残した。

「正純、よく聞け。我が徳川への奉公を、殿がお慈悲で報いてくださろうとしても、子孫は決して三万石を超える所領を受けてはならぬ。ゆめゆめ、過分な加増を望むな」

正純はけげんな顔をした。「父上、なぜでございますか。功を立て、天下を動かす者が相応の禄を得て、何が悪いのでございますか」。

正信は悲痛な眼差しで、首を振った。

「我が一族の器量は、三万石を治めるのが関の山よ。それ以上の禄を持てば、必ずや己の分を忘れ、傲慢となり、周囲の怨嗟を浴びて身を滅ぼす。権力を握る者は、禄を貪ってはならぬのだ。それが、嫌われ者として生きる我ら親子の、唯一の生き残る道なのだぞ……」

それは、己の身を削りながら乱世を生き抜いてきた老臣の、凄絶な遺訓であった。

家康の死からわずか五十日足らず後の元和二年六月七日。まるで主君の魂の旅路に遅れまいとするかのように、本多正信はこの世を去った。享年七十九。死因は老衰であった。

だが、皮肉にも、父のこの凄絶な遺訓を、子の正純は守り切ることができなかった。

秀忠政権下で老中として権勢を振るった正純は、父の死後、下野小山藩から宇都宮藩十五万五千石へと莫大な加増を受け取ってしまう。父の戒めを忘れ、権力と富の双方を手にした正純に対し、武功派の譜代大名たちの怒りと嫉妬が爆発した。

正信の死からわずか六年後の元和八年、正純は突如として宇都宮城の釣天井で秀忠暗殺を企てたという嫌疑をかけられ、改易・配流となった。雪深い出羽国横手の地で、正純は幽閉同然の孤独な余生を送り、その血脈は没落していったのである。

父が遺した「分相応」という見えざる鎧を脱ぎ捨てた瞬間に、かつて父が背負い続けた怨嗟の毒が、息子を飲み込んでしまったのだ。

本多正信という男は、最後まで誰からも愛されることを求めなかった。

裏切り者と罵られ、腰抜けとあざ笑われ、同僚たちから徹底して忌み嫌われながらも、彼は自らの選んだ道を一歩も引かなかった。彼が求めたのは、個人の名誉でも、広大な領地でもなく、ただ一つ、主君・徳川家康と共に「人が無駄に血を流さずに済む太平の世」を創り上げることだけであった。

冬の枯れ野を静かに舞う鷹のように、孤高の空から乱世の世の動向を見据え、主君の影として泥を被り続けた男。

本多正信が引き受けた「嫌われ者」という名の孤独な覚悟こそが、二百六十年続く徳川の平和の、最も強固で、最も哀しい礎となったのである。

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