慶長五年(一六〇〇年)九月十五日。美濃国関ヶ原の盆地は、正午を過ぎるころから暗雲が垂れ込め、激しいにわか雨と硝煙が大地を濡らしていた。
松尾山に陣取っていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の一万五千が、突如として山を駆け下り、西軍の盟主たる大谷吉継(おおたによしつぐ)の陣形へと雪崩れ込んだその刹那、沈黙を守り続けていた四つの軍勢が動いた。脇坂安治(わきさかやすはる)、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱。彼らは昨日まで西軍の旗頭を仰ぎ、同じ陣営として布陣していたはずの武将たちであった。
だが、彼らが繰り出した槍の切っ先は、東軍の徳川勢ではなく、孤軍奮闘する大谷隊の横腹へと容赦なく向けられた。世にいう関ヶ原の「裏切り」である。
この猛攻によって大谷陣営は壊滅し、西軍の命運は音を立てて崩壊した。合戦後、江戸の世において脇坂安治の名は、「時流に日和見した変節漢」「背信の徒」として長く軽蔑の眼差しを浴びることとなる。川柳には「貂の尾を輪違いに振る関ヶ原」と詠まれ、戦後を彩る軍記物でも、勝ち馬に乗っただけの不忠者として描かれるのが常であった。
しかし、安治の足跡を丹念にたどるとき、浮かび上がってくる真実は決してそのような単純なものではない。安治が選んだ「裏切り」は、戦場の空気に流された場当たり的な寝返りなどではなく、激動の濁流のなかで一族の命脈を何としてもつなぎ止めるために張り巡らされた、極限の生存戦略であった。
男が背負った汚名の裏には、いかなる葛藤と冷徹な計算、そして生きることへの凄絶な執念が隠されていたのか。湖北の土豪から身を起こし、栄光と地獄を味わい尽くした武将の歩みをたどらねばならない。
目次
湖北の素朴な土豪から「賤ヶ岳の七本槍」へ
脇坂安治の出自は、決して華々しい名門の家柄ではない。天文二十三年(一五五四年)、近江国浅井郡脇坂村(現在の滋賀県長浜市)の土豪・田付孫左衛門の子として生を受けた。幼名は甚内。のちに母が脇坂安明に再婚したことで脇坂の姓を継いだが、所領とてわずかな寒村に過ぎず、乱世に生きる地侍の常として、明日の命すら定かではない境遇であった。
若き日の安治が最初に仰いだ主君は、北近江の雄・浅井長政(あざいながまさ)であった。長政の気品と武勇に憧れを抱きながら仕えたものの、天正元年(一五七三年)、織田信長の猛攻によって小谷城(おだにじょう)は落城し、浅井氏はあえなく滅亡する。主家を失った安治は、生き残るために近江を離れ、信長の重臣であった明智光秀の配下に身を寄せた。
しかし、光秀のもとでの日々も長くは続かない。天正四年(一五七六年)ころ、安治の運命を決定づける人物との出会いが訪れる。織田家中において頭角を現しつつあった羽柴秀吉である。秀吉は出自にとらわれず、実力と忠節を持つ若者を貪欲に求めていた。安治の剛胆さと実直な気性を一目で見抜いた秀吉は、彼を小姓頭として直臣(じきしん)に迎え入れた。
秀吉配下となった安治は、苛烈を極めた播磨攻めの最前線へと投入される。三木城の兵糧攻め、あるいは神吉城攻めにおいて、安治は泥まみれになりながら城壁に取り付き、敵の鉄砲玉が兜をかすめるのも構わず一番乗りの武功を立てた。このとき、安治は秀吉から自らの母衣に付ける紋として「金の山道に白い輪違い」を賜っている。長谷寺の寺紋に由来するこの「白輪違紋」は、天の金剛界と地の胎蔵界が調和することを意味していた。泥臭く戦功を重ねる安治にとって、それは主君から認められた無上の誉れであった。
そして天正十一年(一五八三年)、織田信長亡き後の天下の覇権を賭けた賤ヶ岳の戦いが勃発する。秀吉率いる羽柴軍と、織田家筆頭の宿老(しゅくろう)・柴田勝家が激突したこの決戦において、安治の槍は冴え渡った。柴田方の勇将・柴田勝政を討ち取るなど目覚ましい働きを見せ、福島正則(ふくしままさのり)、加藤清正(かとうきよまさ)、片桐且元(かたぎりかつもと)らとともに「賤ヶ岳の七本槍」としてその名を天下に轟かせたのである。
だが、この七本槍の顔ぶれのなかで、安治の立ち位置はきわめて異質であった。清正や正則が十代半ばから二十歳前後の、秀吉に文字どおり子飼いとして育てられた若武者であったのに対し、安治は当時すでに数えで三十歳に達していた。浅井の滅亡を見届け、明智の軍門に降り、幾多の死線をくぐり抜けてきた安治は、若者たちのような無邪気な英雄主義には染まっていなかった。武名がどれほど華々しくとも、一歩足を踏み外せば家など一夜にして吹き飛ぶ。その冷厳な現実を、彼は骨身にしみて理解していたのである。
敵将・赤井直正が遺した「貂の皮」の誇り
脇坂安治という武将の心根を語る上で、後世に語り継がれる奇妙な家宝の存在を忘れることはできない。「貂(てん)の皮」である。
天正年間の初頭、安治が明智光秀の配下として丹波黒井城を攻めていたころのこととされる。城主は「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将・赤井直正であった。織田の大軍を相手に一歩も引かず、幾度となく寄手を撃退した直正であったが、やがて重い病に倒れ、死期を悟るに至る。
その報に接した若き安治は、周囲の制止を振り切り、わずかな供を連れて敵陣たる黒井城内へと単身乗り込んだ。目的は降伏の勧告であったが、死の淵にある直正を前にした安治の態度は、傲慢な戦勝の使者などでは毛頭なかった。敵将の武勇を心から敬い、静かに、しかし凛とした気迫をもって言葉を交わした。
直正は降伏の勧めには応じなかった。だが、死を目前にした老将の濁らぬ眼は、死地に平然と足を踏み入れた安治の肝の太さと、その奥にある清冽な武士の魂をしっかりと見定めていた。直正は安治を見つめ、やがて傍らの家臣に命じて赤井家伝来の宝物を持ってこさせた。それが、美しく光る「貂の皮」であった。
「この皮は、まことの勇士にこそ相応しい。若き御辺の度胸に免じ、これを進ぜよう」
直正から手渡されたのは、雌の貂の皮であった。安治が「雄の皮はいずこに」と問うと、直正はかすかに笑って「雄が欲しくば、明日の戦場にて我が槍の先から奪い取ってみよ」と答えたという。
翌日、直正は病のために世を去り、黒井城は落ちた。安治は約束どおり雄の皮をも手に入れ、この一対の貂の皮を自らの槍の鞘、あるいは馬印へと仕立て上げた。敵将から託された誇り高き遺産。それは、若き安治にとって「武士として恥じぬ生き方をする」という魂の誓いそのものであった。
だが、運命とは恐ろしいものである。関ヶ原での寝返り以降、この美談は後世の人々によって残酷な嘲笑の具へと歪められていく。味方を後ろから突いて勝ち馬に乗った安治を皮肉り、「貂の尾を振って家康におもねった」と揶揄された。司馬遼太郎の短編小説『貂の皮』においても、若き日の爽やかな好漢が、年老いるにつれて変節を重ね、老獪で薄汚れた小男へと堕ちていく姿として描かれた。
しかし、安治自身は後年になっても、この貂の皮を恥じるどころか、脇坂家の至宝として生涯大切に守り抜いた。そこには、他人の嘲笑など意に介さず、泥水をすすってでも生き残り、家を守り通すことこそが真の武士の道であるという、安治なりの凄絶な矜持(きょうじ)が宿っていたに違いない。
閑山島の惨敗と、毎年七月八日にワカメを食らう誓い
賤ヶ岳の功名によって山城国に三千石を与えられた安治は、天正十三年(一五八五年)には淡路国洲本三万石の大名へと累進した。秀吉は、瀬戸内海の要衝を押さえる安治に水軍の編成を命じる。四国征伐、九州征伐、そして小田原征伐における伊豆下田城攻めと、安治は九鬼嘉隆(くきよしたか)らとともに豊臣水軍の中核として華々しい功績を積み上げていった。
だが、順風満帆に見えた安治の武者修行に、人生最大の破滅的危機が襲いかかる。文禄元年(一五九二年)に始まった朝鮮出兵である。
緒戦において、安治は類まれなる軍事的才覚を見せつけた。「龍仁の戦い」である。漢城奪還のために北上してきた朝鮮軍三道七万の大軍に対し、安治が率いる兵はわずか千数百余名に過ぎなかった。誰もが絶望する兵力差のなか、安治は敵が布陣を完了する前に電光石火の奇襲を仕掛けた。指揮系統を寸断された朝鮮軍は大混乱に陥り、雪崩を打って敗走した。世界戦史にも残る寡兵での大勝利であり、安治の野戦指揮官としての評価は天を衝くほどに跳ね上がった。
しかし、この奇跡的な勝利が、安治の心に致命的な慢心を生んでしまった。
龍仁の勝利からわずか一ヶ月後、文禄元年七月。安治は水軍を率いて朝鮮南岸の巨済島付近へと進出していた。功名を焦った安治は、加藤嘉明(かとうよしあき)や九鬼嘉隆ら友軍の到着を待たず、単独での敵艦隊撃滅を企図して出撃したのである。その海原で待ち受けていたのが、朝鮮水軍の英雄・李舜臣(りしゅんしん)であった。
閑山島の海峡において、李舜臣は巧妙な後退戦術を用いて安治の船団を狭い海域へと誘い込んだ。安治が気づいたときには、周囲を「鶴翼の陣」を敷いた敵船団に完全に包囲されていた。頑強な装甲と火砲を備えた亀甲船が火を噴き、日本の兵船は次々と炎上、撃沈されていく。安治の率いた主力五十九隻は瞬く間に海の藻屑と消えた。
安治自身も鎧に無数の矢を浴び、旗艦を失いながら、命からがら近くの無人島へと泳ぎ着いた。兵も食糧もなく、救援の当てもない絶海の孤島。灼熱の太陽の下で、安治は岩肌にへばりつくワカメを引きちぎり、それをむさぼり食うことで辛うじて飢えをしのいだ。その飢渇の十日間、男は何を思ったのか。己の浅はかな功名心が招いた惨状、沈みゆく部下たちの叫び声、そして死への恐怖。三十代の男の矜持は、朝鮮の海で完全に粉々に砕け散ったのである。
奇跡的に友軍に救出された安治の行動は、常人のそれとは異なっていた。多くの武将であれば、このような惨めな敗北は記録から消し去り、隠蔽しようとするだろう。しかし安治は違った。この敗戦を克明に記録に残させたばかりか、自戒の念を忘れないため、毎年七月八日(海戦の日)には、家中全員で「ワカメを食べる」という厳格な風習を定めたのである。この儀礼は、江戸時代を通じて脇坂家のならわしとして守り継がれ、現代に至るまで子孫の間で記憶されている。
さらに安治は、帰国後に本拠たる洲本城の大改修に着手した。朝鮮半島に築かれた陣城で目にした最新の防衛技術を取り入れ、山麓の居館から山頂の本丸へと斜面をはい上がるように連なる「登り石垣」を築き上げたのである。敵の横移動を遮断し、退路を確保するための無骨な石垣。それは、閑山島の敗北という深い痛恨から生まれた、二度と油断によって滅びはしないという安治の執念の城砦であった。
敗北から目を背けず、屈辱を自らの血肉へと変える力。この泥臭い強靭さこそが、来るべき関ヶ原の修羅場において、安治に冷徹な判断を下させる土台となったのである。
大坂の孤立と、密かに交わされた徳川家康への誓詞
慶長三年(一五九八年)、豊臣秀吉がこの世を去った。絶対的な巨星を失った豊臣政権は、朝鮮出兵の泥沼化も手伝って急速に動揺し、石田三成ら文治派と、加藤清正や福島正則ら武断派の対立が抜き差しならぬものとなっていった。
賤ヶ岳の七本槍でありながら、水軍として朝鮮で泥水をすすった安治は、三成らの官僚的な差配に強い不満を抱いていた。政権の屋台骨が揺らぐなか、天下の動向を見据えていた安治は、急速に存在感を増す五大老筆頭・徳川家康へと接近していく。
慶長五年(一六〇〇年)六月、家康は上杉景勝の不穏な動きを討つべく、会津征伐の軍を起こした。このとき安治は、嫡男の脇坂安元を徳川軍に従軍させるべく東国へと向かわせた。脇坂家は明確に家康支持の立場を鮮明にしつつあったのである。
ところが、その虚を突くようにして、石田三成が大坂で挙兵した。三成は近江国の愛知川に関所を設け、東上しようとする諸大名の動きを力づくで封鎖した。安元は進路を断たれて大坂への帰還を余儀なくされ、さらに大坂城周辺に滞在していた安治自身も、西軍の勢力圏内に完全に閉じ込められてしまったのである。
西軍は大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより)を擁し、豊臣恩顧の大名たちに矢継ぎ早に出陣を迫った。拒否すれば、即座に妻子もろとも叛逆者として誅殺される。安治の手元にある兵力は千数百余。西軍の大軍勢に抗うことなど到底不可能であった。安治はやむなく西軍の陣列に加わり、北国口や伊勢方面の作戦に従事せざるを得なくなった。
しかし、安治の腹は決まっていた。「形の上では西軍に従うが、我が心は徳川にある」。
安治は、家康の側近として同行していた旧友・山岡景友(山岡道阿弥)や、同じく水軍の将として親交の深かった藤堂高虎(とうどうたかとら)を介し、極秘裏に家康へと密書を送り届けた。
「今、大坂の凶徒に囲まれ、やむなく西軍の陣に加わっておりますが、これは決して本意ではございません。機を見て必ずや殿のために働きますゆえ、何とぞ御疑念をお持ちなきよう」
これに対し、家康から安治・安元父子のもとへ極めて異例の返書が届いた。慶長五年八月一日付の徳川家康書状である。そこには、安治の置かれた苦境に対する深い理解と、その忠節に対する謝意、そして「近々上方へ兵を進めるので心安らかに待て」という強い信頼の言葉がつづられていた。
世間が「関ヶ原の裏切り」と呼ぶ行為は、決して戦場の混乱に乗じた突発的な思いつきなどではなかった。安治は開戦のひと月以上も前から、命懸けの外交戦を展開し、徳川との間に固い約束を取り交わしていたのである。
松尾山の咆哮と、佐和山城を焦がす残酷な踏み絵
慶長五年九月十五日。関ヶ原の合戦当日、脇坂安治は松尾山の麓、藤古川を隔てた山麓に布陣していた。その傍らには、同じく西軍に属しながら去就を測りかねていた小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の陣が並んでいた。彼らは名目上、西軍の重鎮である大谷吉継の指揮下に配されていた。
午前中の激戦において、西軍は善戦した。石田三成や宇喜多秀家、小西行長(こにしゆきなが)らの奮戦により、東軍は攻めあぐねていた。しかし、松尾山の一万五千を擁する小早川秀秋は、山上で旗を動かさず、両軍の激闘を冷然と見下ろしていた。
安治もまた、動かなかった。大谷吉継からの出撃要請が届いても、適当な理由をつけて兵を動かさず、ひたすらに松尾山の動向を注視していた。家康への内通を果たしていたとはいえ、もし小早川が西軍として山を下りれば、東軍の敗北は免れない。そのとき安治が独力で寝返れば、たちまち西軍の波に呑み込まれて全滅する。息の詰まるような心理戦のなか、安治は自軍の兵にじっと待機を命じ続けた。
正午過ぎ、ついに運命の瞬間が訪れた。家康の陣から放たれた問鉄砲に驚愕した小早川秀秋が、松尾山を駆け下りたのである。その矛先は、西軍の大谷吉継隊であった。
「今ぞ!」
安治は下知を飛ばした。脇坂隊の千数百が、一斉に反転した。それに引きずられるようにして、小川、赤座、朽木の軍勢も大谷隊へと殺到した。
大谷吉継の陣営は、まさに地獄と化した。小早川の裏切りを予測して迎撃態勢を整えていた大谷隊であったが、背後と側面から同時に四将の猛攻を受け、陣形は完全に崩壊した。業病に冒されながらも義のために戦った友将・大谷吉継を、自らの槍で討ち果たす。それは、武士としての倫理を完全に踏みにじる行為であり、安治の胸中にも名状しがたい心の痛みがあったはずである。しかし、戦国の掟は非情であった。生き残るためには、情を捨て、鬼にならねばならなかった。
なお、近年の研究においては、公卿の日記などの記録に基づき、安治が関ヶ原本戦の前から東軍方の京極高次(きょうごくたかつぐ)とともに大津城の戦いに関わっていたとする見解も示されている。どのような経緯をたどったにせよ、安治の行動がその場の混乱に流された偶発的な裏切りではなく、当初から周到な意図をもって東軍に資する道を選んでいたことは疑いようがない。
合戦は半日で東軍の圧勝に終わった。だが、安治に対する家康の試練はこれで終わりではなかった。戦場に漂う硝煙も消えぬ九月十五日の夜、家康は安治ら寝返り組に対し、冷酷な命令を下した。
「石田三成の居城、近江佐和山城を攻め落とせ」
昨日までの盟友の城を、己の手で血祭りにあげよというのである。それは、徳川への忠誠を血で購わせる残酷な「踏み絵」であった。
安治は躊躇しなかった。佐和山城攻めの先鋒として城壁に取り付き、三成の父・正継や兄・正澄らが籠もる本丸を猛烈な勢いで攻め立てた。佐和山城が炎上し、三成の一族が自害して果てたとき、安治の「裏切り」はもはや後戻りのできない完全な事実となった。自らの手をかつての友の血で染め上げることで、彼は徳川の世を生き抜く資格を強引に奪い取ったのである。
この関ヶ原の戦後処理において、歴史の残酷な選別が行われた。
同じく戦場で寝返った四将のうち、小川祐忠と赤座直保は、合戦後に改易(所領没収)の処分を受けた。彼らは戦況を見てその場で寝返ったに過ぎず、家康から「不忠の輩」として切り捨てられたのである。朽木元綱も大幅な減封を余儀なくされた。
そのなかで唯一、脇坂安治だけが本領たる淡路洲本三万石を完全に安堵された。それどころか、戦後の論功行賞において家康から深く感謝されたのである。事前に家康と気脈を通じ、書状を交わしていた安治の行動は、徳川政権にとって「裏切り」ではなく「敵中に潜入していた味方の蜂起」と見なされたのであった。
安治が背負った汚名は、世間が貼ったレッテルに過ぎない。厳しい政治の現実のなかで、彼は見事に勝ち残ったのである。
大坂の陣の沈黙と、二つの世界を結んだ「輪違い」の結末
関ヶ原の激戦を生き抜いた安治は、慶長十四年(一六〇九年)、伊予国大洲五万三千五百石へと加増転封となった。海に面した洲本から、内陸の要衝である大洲へ。安治は大洲城の改修に心血を注ぎ、洲本城の天守を解体して大洲へと運ばせたと伝えられる。波乱に満ちた生涯の黄昏時を、彼は領国の経営とともに静かに過ごすはずであった。
しかし、戦国の残影は老将を安眠させなかった。慶長十九年(一六一四年)から翌年にかけて勃発した大坂の陣である。
徳川が豊臣を完全に滅ぼすための最終戦争。天下の諸大名が徳川方として大坂へ参陣するなか、六十歳を越えた安治の胸中は激しく引き裂かれた。
秀吉は、湖北の無名な土豪に過ぎなかった自分を見出し、七本槍の栄誉を与え、一国一城の主へと引き上げてくれた大恩人である。その恩義ある豊臣家が、今まさに滅びようとしている。いかに冷徹な現実主義者として生きてきた安治であっても、自らの手で豊臣の息の根を止めることだけは、どうしても耐えられなかった。
安治が下した決断は、痛切なものであった。
彼は自ら出陣することをかたくなに拒み、中立を守って動かなかった。だが、それは徳川に対する叛逆を意味しかねない危険な賭けでもあった。そこで安治は、嫡男の脇坂安元を徳川軍の主力として出陣させ、大坂の陣で奮戦させたのである。
自らは豊臣への恩義に殉じて沈黙を守り、息子には徳川の世で生き抜くための軍功を立てさせる。父と子で役割を分担し、魂の誇りと家の存続を両立させるという、老将の苦渋に満ちた二重の選択であった。
慶長二十年(一六一五年)五月、大坂城は炎上し、豊臣家は滅亡した。その報を京都で聞いた安治は、深く嘆息したという。戦後、安治は一切の未練を断ち切るように家督を安元へと譲り、京都の西洞院に隠居して「臨松院」と号した。
寛永三年(一六二六年)、脇坂安治は静かにこの世を去った。享年七十三。戦国乱世を駆け抜けた武将としては、稀に見る大往生であった。
安治が命懸けで守り抜いた脇坂家は、そののちも驚くべき生命力を発揮した。安元のあとを継いだ安政は、実家が徳川譜代の名門・堀田家であったことを奇貨として、外様大名から「譜代格(願譜代)」への昇格を勝ち取ったのである。そして播磨国龍野五万三千石の藩主として定着し、淡口醤油の産地として名高い播磨龍野の城下町を築き上げた。脇坂家は一度の改易も受けることなく、明治維新に至るまで見事に家名を保ち続けたのである。
秀吉から賜った「白輪違紋」。天と地、二つの異なる輪が交わり、調和を生み出すあの紋章のように、安治の生涯は、豊臣と徳川、武士の誇りと冷徹な現実、義理と実利という、相反する二つの世界の境界を綱渡りのように歩み続けたものであった。
世人は彼を「裏切り者」と呼ぶかもしれない。しかし、乱世の濁流のなかで義理や見栄に殉じて滅び去っていった幾多の大名たちを前にしたとき、泥をかぶり、汚名を一身に背負いながらも、子孫に平和な世を手渡した安治の決断を、誰がむげに責めることができるだろうか。
赤井直正から贈られた「貂の皮」の誇りを胸の奥深くに秘め、閑山島の敗北で味わった「ワカメの塩辛さ」を生涯忘れず、生きることの重みに徹した男。脇坂安治の「裏切り」とは、戦国という過酷な時代を生き抜くために彼がまとわざるを得なかった、最も重く、最も誇り高い鎧であったに違いない。