武田勝頼の評価――「暗愚」の汚名を超えて、悲運の名将の実像に迫る

武田勝頼

武田勝頼という名を聞いたとき、多くの人が思い浮かべるのは「偉大な父の遺産を食いつぶした愚かな二代目」という像であろう。長篠の戦いで無謀な突撃を繰り返し、名だたる家臣を死なせ、ついには甲斐武田氏を滅亡へと導いた男。江戸時代に編まれた軍学書『甲陽軍鑑』が描き出したその姿は、あまりにも鮮烈であったがゆえに、四百年を超えてなお人々の記憶に焼きついている。

だが、近年の歴史研究は、その像を根底から覆しつつある。信玄でさえ落とせなかった城を陥落させ、父の版図(はんと)をしのぐ領土を築き上げた勝頼。織田信長をして「油断ならぬ敵」と言わしめ、上杉謙信からも一目置かれた若き当主。その実像に光を当てるとき、浮かび上がるのは「暗愚」とはほど遠い、過酷な運命に最期まで抗い続けた一人の武将の、壮絶な生き様である。

父の仇の血を引く子

武田勝頼の生涯を語るとき、まずその出自の特異さに触れなければならない。

勝頼は武田信玄の四男として天文十五年(一五四六年)に生まれた。母は諏訪御料人。信濃国の名門・諏訪家の当主であった諏訪頼重の娘である。ここに、勝頼の人生を貫く宿命の糸がある。信玄は、かつて同盟を結んでいた諏訪家を裏切り、攻め滅ぼし、頼重を自害に追い込んだ。その仇敵の娘を側室に迎え、生まれたのが勝頼であった。

つまり勝頼は、父が滅ぼした家の血を半身に宿す子だった。

この出自は、幼い頃から彼の立場を微妙なものにした。武田家の通字である「信」の一字が、兄弟のなかで勝頼にだけ与えられなかったのは象徴的である。「勝頼」の「頼」は諏訪家の通字であり、彼は武田の嫡流としてではなく、滅びた諏訪家の名跡を継ぐ者として育てられた。高遠城主・諏訪四郎勝頼。それが若き日の彼に与えられた肩書きであった。

本来、武田家の家督は嫡男・武田義信(たけだよしのぶ)が継ぐはずだった。しかし義信は父・信玄と対立し、永禄八年(一五六五年)に謀反の疑いで幽閉、二年後に死去する。想定外の形で、諏訪の血を引く四男に家督継承の道が開かれた。

だが、それは栄光の道ではなかった。家中には勝頼を正統な当主と認めない空気が根強く漂っていた。信玄ほどの絶対的な求心力を持たぬ若い当主に、古参の重臣たちが心から従うはずもない。信玄は死の際、「三年のあいだ喪を秘し、動くな」と遺言したとされるが、裏を返せば、それは勝頼がまだ独力で武田家を率いるにはもろすぎると、信玄自身が見抜いていたということでもある。

元亀四年(一五七三年)四月、信玄は西上の途上で病に倒れ、帰らぬ人となった。享年五十三。甲斐の虎の死を知ったとき、二十七歳の勝頼の胸に去来したものは何であったか。父への畏敬か、それとも、ようやく自分の手で何かを証明できるという、苦い解放感であったか。

いずれにせよ、彼はここから、偉大すぎる父の影と戦い続けることになる。

信玄でも落とせなかった城

信玄の死後、勝頼は周囲の予想を覆すような積極的な軍事行動に打って出た。

天正二年(一五七四年)五月、勝頼は二万五千もの大軍を率いて遠江国・高天神城に迫った。高天神城は、東海道を睨む戦略上の要衝であり、標高の高い二つの峰に築かれた天然の要害であった。かつて信玄もこの城に兵を向けたことがあったが、本格的な攻城戦には至らず撤退している。「信玄でさえ落とせなかった城」。その名は、勝頼にとって挑むべき壁であると同時に、乗り越えれば己の武名を天下にとどろかせる好機でもあった。

勝頼は猛攻を仕掛けた。城を守る徳川方の軍勢は必死に援軍を待ったが、織田信長は長島一向一揆への対応に追われ、動くことができなかった。孤立した高天神城はついに開城。城将・小笠原長忠は降伏し、武田の軍門に下った。

この勝利は、勝頼の名声を一気に押し上げた。武田の領国は父・信玄の時代を超える最大版図に達し、東海から信濃、上野にかけての広大な領域が武田の旗のもとに統べられた。敵将・織田信長でさえ、この時期の勝頼について警戒の念をにじませる書状を残している。信玄亡き後の武田を「もはや脅威ではない」とたかをくくっていた者たちは、認識を改めざるを得なかった。

だが、この輝かしい勝利には、暗い影が寄り添っていた。

高天神城の攻略に要した膨大な兵力と軍資金。父から引き継いだ領国の経済は、度重なる遠征によって徐々に疲弊しつつあった。そして何より、「勝ち続けなければ求心力を保てない」という逃れられぬ宿命が、勝頼を次なる戦場へと駆り立てていく。高天神城を落とした翌年、勝頼は設楽原の地で、取り返しのつかない代償を払うことになる。

設楽原の血霧

天正三年(一五七五年)五月、三河国・長篠城をめぐり、武田軍と織田・徳川連合軍が激突する。世に名高い「長篠の戦い」である。

長きにわたり語り継がれてきた通説はこうだ。織田信長が三千丁の鉄砲を用意し、三段撃ちの戦法で、無敵を誇る武田騎馬軍団を壊滅させた、と。しかし近年の研究は、この劇的な物語に大きな疑問を投げかけている。

まず、「鉄砲三段撃ち」そのものが後世の創作である可能性が高いことが指摘されている。当時の軍隊にとって、三千丁もの鉄砲を整然と交代で射撃させる運用は、現実には極めて困難であった。また、武田軍もかなりの数の鉄砲を装備しており、「騎馬のみで鉄砲に挑んだ無謀な軍勢」という像は、事実とは異なる。

では、武田軍はなぜ敗れたのか。

決定的だったのは、信長が設楽原に築いた「陣城」とも呼ぶべき防御陣地であった。三重の馬防柵、土塁、空堀。野戦でありながら、まるで城攻めを強いられるかのような堅固な防衛線が、武田軍の突破力を封じ込めた。加えて、織田軍は鉄砲の弾薬と火薬を十分に確保する補給体制を整えていた。対する武田軍は、早い段階で弾薬が尽き、火力戦で圧倒される結果となった。

さらに信長は、あえて兵力を少なく見せる陽動を仕掛け、勝頼を堅陣へと誘い込んだとも言われる。勝頼はわなにはまったのか。それとも、退くに退けない事情があったのか。

おそらく、その両方であろう。前年の高天神城攻略で名を上げたばかりの勝頼にとって、ここで退けば家臣団の信頼が揺らぐ。「諏訪の血筋」という出自の負い目を抱え、常に武功によって己の正統性を証明し続けねばならなかった若き当主にとって、退却という選択肢は、軍事的には正しくとも、家中をまとめる上では致命傷となりかねなかった。

結果は壊滅的であった。馬場信春(ばばのぶはる)、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)、土屋昌次。信玄の時代から武田軍の屋台骨を支えてきた歴戦の名将たちが、この一戦で命を落とした。失われた将兵は一万を超えるとも言われる。

だが、ここで強調しておかねばならないことがある。この壊滅的な敗北の後も、武田家はすぐに滅亡したわけではなかった。勝頼はその後七年にわたって武田家を存続させ、領土の回復に努め、外交の立て直しを図っている。もし勝頼が真に無能な暗愚の将であったなら、あの敗戦の後に七年も持ちこたえることなど、到底できなかったはずだ。

崩れゆく盾

長篠の敗戦は、武田家の軍事力に深い傷を負わせたが、それだけで武田を滅亡に追い込んだわけではない。勝頼を真に追い詰めたのは、外交関係の崩壊であった。

天正六年(一五七八年)三月、越後の龍・上杉謙信が急死した。謙信には実子がなく、養子である上杉景勝と上杉景虎(うえすぎかげとら)が家督をめぐって激しく争う。世に言う「御館の乱」である。

景虎は北条氏康の子であり、北条氏政の弟であった。武田家は北条家と「甲相同盟」を結んでおり、本来ならば景虎を支援する立場にあった。事実、勝頼は当初、景虎支援のために越後へ出兵している。

ところが、ここで勝頼の判断が揺れた。景勝側から破格の条件が提示されたのである。上野国の一部の割譲、多額の軍資金の提供。長篠以降、財政が苦しくなっていた武田家にとって、それは容易には断れぬ申し出であった。

勝頼は方針を転じた。景虎への支援を打ち切り、景勝との和睦に踏み切ったのである。

この決断は、致命的な結果をもたらした。弟を見捨てられた形の北条氏政は激怒し、甲相同盟は崩壊する。それまで東方の守りを北条との同盟に委ねてきた武田にとって、この盾を失うことは、西の織田・徳川に加え、東からも北条の圧力にさらされるという、四面楚歌を意味していた。

後世の目から見れば、勝頼の判断は明らかな外交的失策であった。だが、当時の勝頼の立場に身を置いてみれば、その選択がいかに苦いものであったかが見えてくる。長篠で失った将兵の穴は埋まらず、領国の経済は疲弊し、織田・徳川の圧力は日増しに強まっている。目の前に差し出された金と領土は、沈みゆく船の最後の浮き輪に見えたのかもしれない。

さらに追い打ちをかけたのが、天正九年(一五八一年)の高天神城の陥落であった。かつて勝頼が華々しく攻め落としたこの城は、徳川家康によって完全に包囲され、「鳥も通わぬ」と言われるほどの封鎖網が敷かれていた。城兵は飢えに苦しみ、援軍を待ち望んだが、勝頼にはもはや救援の兵を送る力が残っていなかった。

かつて己の武名を天下に知らしめた城が、今度は己の無力を天下に晒す場となる。この皮肉な運命の反転は、武田家の威信に決定的な打撃を与えた。「勝頼は味方を見殺しにする主君である」。その評判は家臣たちの心を確実にむしばんでいった。

天目山に散る

天正十年(一五八二年)二月、織田信長は満を持して「甲州征伐」を発動した。織田信忠を総大将とする大軍が、四方から武田領になだれ込む。

そして、信じがたい光景が展開された。

木曾義昌が離反した。武田一門衆の筆頭格である。続いて穴山梅雪が寝返る。信玄の娘婿であり、甲斐の有力な家臣でもある人物の裏切りは、武田家臣団の動揺を決定的なものにした。次々と城が開城し、寝返りの連鎖が止まらない。まるで堤が決壊するように、武田の領国は崩れ落ちていった。

勝頼は新府城に火を放ち、最後の望みを託して東へ向かった。頼みとしたのは、長年仕えてきた家臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)が守る岩殿城であった。天然の要害であるこの城に籠もれば、まだ抵抗の余地はある。そう信じて、勝頼は妻子を伴い、険しい山道を東へと急いだ。

しかし、その信茂もまた、主君を裏切った。

岩殿城の手前で、小山田信茂は入城を拒絶した。長年仕えてきた家臣に最後の希望を断たれたとき、勝頼は何を思ったであろうか。怒りか、絶望か、それとも、すべてを悟った末のある種の静けさか。

行き場を失った勝頼一行は、先祖ゆかりの地・天目山を目指した。その麓の田野(現在の山梨県甲州市)にたどり着いたとき、従う者はわずか四十数名にまで減っていた。

三月十一日の朝、織田信忠率いる追手が迫った。

最後まで主君のそばを離れなかった忠臣たちがいた。なかでも土屋昌恒は、崖際の細い道に立ちはだかり、片手で藤蔓(ふじづる)を掴みながらもう一方の手で刀を振るい、押し寄せる敵兵を斬り続けたという。「片手千人斬り」と後世に語り継がれるその壮絶な奮戦は、主君が最期の覚悟を整えるための、命を賭した時間稼ぎであった。

その時間のなかで、勝頼は嫡男・武田信勝に別れを告げた。わずか十六歳の少年であった信勝もまた、父とともに死を選んだ。正室の北条夫人は、夫に先立って自刃したと伝えられる。北条家から嫁いできた彼女は、実家の北条と武田が敵対するなかにあっても、最期まで夫のもとを離れなかった。

勝頼、自刃。享年三十七。

甲斐武田氏は、ここに滅んだ。

汚名の向こうに

武田勝頼の評価は、長い歴史のなかで大きく揺れ動いてきた。

江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』は、信玄を神格化する一方で、勝頼を「暗愚」「無分別」と断じた。この軍学書が広く読まれたことで、「名将・信玄に対する愚将・勝頼」という構図が定着し、それは明治、大正、昭和を通じて揺るぎない通説となった。

しかし、同時代の記録に立ち返ると、まったく異なる勝頼像が浮かび上がる。

織田信長は勝頼を滅ぼすにあたり、最大規模の動員と周到な準備を重ねている。もし勝頼が真に取るに足らぬ暗愚の将であったなら、あれほどの労力を費やす必要はなかったはずだ。上杉謙信もまた、勝頼の武勇を「侮りがたし」と評したとされる。敵が本気で警戒する相手を「無能」と呼ぶのは、やはりどこか矛盾している。

近年の歴史学は、武田家滅亡の原因を勝頼個人の資質に帰すことの危うさを指摘している。領国経済の構造的な限界、信玄から引き継いだ軍事動員体制の疲弊、甲相同盟の破綻がもたらした外交的孤立、そして織田信長という類まれなる才覚を持つ人物が築き上げた圧倒的な軍事・経済システム。勝頼が直面していたのは、一個人の才覚で覆せるような局面ではなかった。

歴史学者の平山優は、勝頼を「悲劇の名将」と位置づけ、その統治能力と軍事的手腕を再評価している。信玄の版図を超える領土を築いたこと、長篠の敗戦から七年にわたって武田家を存続させたこと、新府城の築城に見られる先見性。これらはいずれも、暗愚な当主には不可能な業績である。

だが、再評価が進むなかでもなお、勝頼の人生が「悲劇」であったという事実は変わらない。父の仇の家の血を引き、通字すら与えられぬまま、想定外の形で巨大な家督を背負わされた男。信玄という巨人の影のなかで、常に武功によって己の正統性を証明し続けなければならなかった男。最後には信じた家臣にも裏切られ、わずかな供回りとともに山中に散った男。

勝頼の三十七年の生涯は、「名将」か「愚将」かという二項対立では決して語り尽くせない。そこにあるのは、過酷な時代と運命のなかで、最期の瞬間まで己の誇りを手放さなかった一人の人間の、痛みと矜持(きょうじ)に満ちた物語である。

天目山の麓に広がる甲州の山々は、今も静かに春を迎え、夏を越え、秋に染まり、冬に眠る。四百四十年前のあの朝、この地で散った男の名を、歴史はようやく正しく呼び始めている。

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