三河国の空は、いつも風が強かった。
天文十七年(一五四八年)、額田郡蔵前の地に、ひとりの男児が産声を上げた。のちに「戦国最強」と呼ばれることになるその子の名は、鍋之助。本多忠高の嫡男として生まれた彼が、やがて忠勝と名を改め、五十七度の合戦を駆け抜けながらただの一度も傷を負わなかったという伝説を打ち立てるまでの物語は、ここから始まる。
しかし、その物語の幕開けは、決して華々しいものではなかった。忠勝がわずか二歳のとき、父・忠高は戦場に散った。幼子は、父の顔をほとんど知らぬまま残された。三河の武士とは、そういうものだった。戦があれば駆け、主を守り、命を落とす。それが当然とされる土地で、忠勝は父の不在という現実を、言葉よりも先に身体で覚えた。
父亡きあと、忠勝を引き取ったのは叔父の本多忠真であった。忠真は実直な武人で、幼い甥に槍の握り方と、武士の在り方を叩き込んだ。その教えの中でもっとも厳しかったのが、こんな言葉だったという。
「本多の者は、退くときに立て」
撤退戦こそが武士の真価を問う。華々しい突撃の陰で、最後尾に立ち、味方の背を守りながら退く。それがどれほどの胆力と覚悟を要するか。忠真はそれを、言葉だけではなく自らの命をもって証明することになる。だが、それはまだ先の話である。
目次
初陣、桶狭間の風の中で
永禄三年(一五六〇年)、忠勝は十三歳で初陣を迎えた。場所は、桶狭間の戦いに先立つ大高城への兵糧入れの任務である。今川義元の支配下にあった松平元康(のちの徳川家康)に従い、忠勝は戦場に立った。
まだ体も小さく、槍を振るうには経験が足りなかった。敵に囲まれ、あわや討ち取られるかという窮地に陥ったとき、駆けつけて敵兵を薙ぎ払ったのは、ほかならぬ叔父の忠真だった。
「まだ早い。だが、逃げなかったのはよい」
忠真のその一言が、少年の胸に深く刻まれた。逃げなかったこと。それだけが、この日の忠勝に許された武功であった。しかしこの初陣の記憶は、のちの忠勝の戦い方のすべてを決定づけることになる。退かないこと。それでいて死なないこと。その両立こそが、本多忠勝という武将の本質であった。
信仰より忠義を――三河一向一揆の岐路
永禄六年(一五六三年)、三河を激震が襲った。浄土真宗の門徒たちが蜂起し、家康の支配に反旗を翻したのである。世にいう三河一向一揆であった。
この一揆は、家康にとって生涯の三大危機のひとつとされるほど深刻なものであった。なぜなら、一揆に加わったのは農民だけではなかったからだ。家康の家臣団のなかにも一向宗の門徒は数多く、主君に仕える義理と、信仰への帰依との間で引き裂かれた者たちが次々と一揆側に走った。家臣団は真っ二つに割れ、昨日までの同僚が、今日の敵になった。
忠勝もまた、一向宗の門徒であった。
この事実は、彼の前に残酷な二者択一を突きつけた。信仰に従うか、主君に従うか。魂の救済か、武士としての忠義か。
忠勝は迷わなかった。あるいは、迷ったとしても、その迷いを少しも表に見せなかった。彼は浄土宗に改宗し、家康の側に留まって一揆勢と戦った。一族の中からも一揆側に加わる者がいる中で、十六歳の忠勝が下した決断は明快だった。
この人についていく。それだけが、自分の道である。
三河一向一揆における忠勝の行動は、武勇よりも深い次元で家康との絆を決定づけた。信仰すら捨てて従うという覚悟。それは、生涯を通じて忠勝が家康に注ぎ続けた忠誠の原点であった。
血の河を越えて――姉川の死闘
元亀元年(一五七〇年)、近江国姉川のほとりで、織田・徳川連合軍と浅井長政・朝倉の連合軍が激突した。世に名高い姉川の戦いである。
この戦いにおいて、徳川軍は朝倉の大軍を相手に苦戦を強いられていた。兵力に劣る徳川勢は押し込まれ、陣が崩れかかっている。このままでは壊走する。将兵の間に動揺が広がり始めた、まさにその瞬間であった。
一騎の武者が、敵陣に向かって馬を駆り立てた。
本多忠勝、二十三歳。蜻蛉切を構え、朝倉の軍勢のただ中に単身で突入したのである。
無謀、と呼ぶべき行為であった。だがその無謀が、戦場の空気を一変させた。「平八郎を討たすな!」。徳川の将兵たちは我を忘れて忠勝の後を追い、朝倉の陣に殺到した。この反撃が決定的な転機となり、徳川軍は朝倉勢を突き崩した。
忠勝の単騎駆けが計算ずくの戦術であったか、あるいは本能的な決断であったかは定かでない。しかし結果として、彼の身体を張った行動が味方の命を救い、戦況を覆した。忠勝が駆けた後には、敵の血と、味方の歓声だけが残された。
叔父の背中、三方ヶ原の涙
元亀三年(一五七二年)の暮れ、武田信玄の大軍が三河・遠江に迫った。甲斐の虎と謳われた信玄の西上作戦である。家康は浜松城から打って出たものの、三方ヶ原の台地上で武田軍の精鋭に徹底的に叩きのめされた。徳川軍は壊走し、家康自身も命からがら浜松城に逃げ戻った。戦国史上に名高い、徳川家康の大敗北である。
この壮烈な撤退戦のさなか、殿を買って出た武将がいた。叔父の本多忠真である。
忠真は退く味方の背後に立ち、追いすがる武田の軍勢を相手に、たった一人で道を塞いだ。振り下ろされる刃を受け止め、突き出される槍をかわし、それでも一歩も退かなかった。「ここを通さぬ」。その覚悟だけが、忠真の全身からにじみ出ていた。
やがて、忠真は力尽きた。武田の兵に幾重にも取り囲まれ、壮烈な討死を遂げた。
「本多の者は、退くときに立て」
かつて幼い忠勝に教えたその言葉を、忠真は自らの命をもって証明した。彼が倒れるまでのわずかな時間が、家康と将兵たちの命を繋いだ。
忠勝がこの報せをいつ、どのように受け取ったかは、記録に詳しくない。だが、叔父の最期を知った忠勝の胸に去来したものは、想像に難くない。武士とは、こうして死ぬのだ。いや、こうして死ねるのだ。その誇りと悲しみが、忠勝の槍をさらに研ぎ澄ませたことだろう。
一言坂の鬼神――「家康に過ぎたるもの」
三方ヶ原の大敗に先立つこと数日前、一言坂の戦いが起きている。武田軍の先鋒と徳川の偵察隊が遭遇し、劣勢の徳川軍は浜松城への撤退を余儀なくされた。
このとき殿を務めたのが、本多忠勝であった。
撤退戦とは、攻撃よりもはるかに困難な戦である。追撃する敵は勢いに乗り、退く味方は動揺している。殿の武将には、その両方に立ち向かう胆力が求められる。忠勝は蜻蛉切を構え、追いすがる武田の精鋭に向かって何度も馬を返した。わずか二十間ほどまで迫った敵に対して一騎で立ち向かい、武田の追撃を一瞬ためらわせた。そしてまた退き、また返した。その繰り返しの果てに、味方を一人も失うことなく浜松城への撤退を成功させたのである。
翌朝、武田軍の陣中に一首の落書きが掲げられた。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
徳川家康にはもったいないほどの宝がふたつある。ひとつは唐の頭と呼ばれる貴重な兜飾り、もうひとつは本多平八郎忠勝である、と。
敵方の武田軍が、戦場で命を賭けて戦った相手を讃えたのである。武田の小杉左近が残したとされるこの一首は、忠勝の名を天下に轟かせた。武勇とは、味方から讃えられるだけでは足りない。敵にすら敬意を払わせてこそ、本物なのだ。
蜻蛉切と鹿角の兜――最強の武将を象る魂
本多忠勝を語るうえで、その武具に触れぬわけにはいかない。忠勝のいでたちは、戦場においてひときわ異彩を放つものであった。
まず、愛槍「蜻蛉切」。天下三名槍のひとつに数えられるこの槍は、三河文珠派の刀工・藤原正真の作である。穂先は笹の葉のような形状をした大笹穂槍で、その切れ味にまつわる逸話は鮮烈だ。槍を立てかけていたところ、飛んできた蜻蛉がその刃先に触れた瞬間、真っ二つに切れ落ちた。蜻蛉切の名はここに由来する。
その穂先には梵字が彫り込まれていた。刃に祈りを刻むという行為には、殺生を重ねる武将としての苦悩と、討ち取った者への弔いの念が込められていたのだろう。蜻蛉切は単なる武器ではなく、忠勝の信仰と矜持の象徴であった。
次に、鹿角脇立兜。大きく天を衝くように伸びた鹿の角をあしらったこの兜は、忠勝の象徴として広く知られている。その由来には、こんな伝説が残されている。
あるとき、戦場へ向かう途中で忠勝は増水した川に行く手を阻まれた。渡河の場所を見失い、途方に暮れていたとき、どこからか一頭の鹿が現れ、浅瀬を渡り始めた。忠勝がその鹿の後に続くと、無事に対岸へたどり着くことができた。以来、忠勝は神鹿への感謝を込めて、兜に鹿の角を飾るようになったという。
注目すべきは、この兜の素材である。見た目の壮大さに反し、鹿の角は和紙を何枚も貼り合わせ、黒漆を塗って仕上げたものだった。つまり、極めて軽い。全身を覆う黒糸威胴丸具足も、同時代の武将たちの甲冑と比べれば薄く軽量に作られていた。
ここに、忠勝の戦い方の真髄が見える。彼が追い求めたのは、重厚な防御ではなく、圧倒的な機動力であった。軽く、速く、縦横無尽に戦場を駆ける。止まれば死ぬ。だから止まらない。その思想が装備のすべてに貫かれていた。
そして、具足の肩からは金箔押しの大数珠が掛けられていた。合戦のたびに命を奪う者が、同時に死者を弔う数珠を身につけている。その矛盾にこそ、忠勝という武将の奥深さ、人間としての厚みがあった。
五百騎の男、天下無双の名を得る
天正十二年(一五八四年)、小牧・長久手の戦いが起こった。この戦いは、織田信長の死後に覇権を争う豊臣秀吉と徳川家康が、正面から激突した唯一の大規模な合戦である。
戦況は一進一退を繰り返していた。秀吉は圧倒的な兵力を背景に徳川軍を圧迫し、家康はわずかな手勢で巧みに対抗していた。その渦中に、忠勝の名を天下に刻む瞬間が訪れる。
忠勝は五百騎を率いて出陣し、秀吉率いる約二万の軍勢の前に立ちはだかった。五百対二万。まともに戦えば瞬時に蹴散らされる兵力差である。だが、忠勝は退かなかった。
そればかりか、彼はおよそ信じがたい行動に出た。秀吉軍の眼前で、悠然と馬を川に乗り入れ、馬に水を飲ませ始めたのである。
敵の大軍を前に、一切のおそれを見せず、まるで休息でもとるかのように馬の口を洗う。その堂々たる立ち姿に、秀吉軍の将兵は圧倒された。「あれは何者だ」。陣中にざわめきが広がり、攻めかかることすらためらわれた。
やがて、この報告を受けた豊臣秀吉は、敵軍の将でありながら忠勝を高く評価し、こう称賛したと伝えられる。
「あれこそは天下無双の東の大将よ」
秀吉は忠勝を自陣に引き抜こうとしたという逸話も残されている。十万石を提示したとも、それ以上の条件を示したとも伝わるが、忠勝は泣いて断ったとされる。主君は家康ただ一人。いかなる恩賞を積まれようとも、その一念は揺るがなかった。
関ヶ原の風――老将の誇りと胸中
慶長五年(一六〇〇年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが訪れた。忠勝はこのとき五十三歳。老境に差しかかりつつも、なお家康の傍らにあって戦場に立った。
この戦いにおいて、忠勝は東軍の要として布陣し、的確な指揮と勇猛な采配で徳川軍の勝利に貢献した。しかし、関ヶ原で忠勝の名を語るとき、もうひとつ触れておかなければならないことがある。
戦端を開いたのは、忠勝ではなかった。家康の四男・松平忠吉の後見を務めていた井伊直政が、独断で抜け駆けの先陣を切り、戦いの火ぶたを落としたのである。忠勝にとって、それは複雑な思いを抱かせる出来事だったに違いない。
井伊直政は、忠勝よりも若い世代の将であり、家康に途中から仕えた身でありながら急速に出世を遂げた人物だった。古参の譜代として数十年を戦い抜いてきた忠勝からすれば、直政の華々しい台頭には思うところがなかったとは言えまい。
だが、忠勝は表立って不満を口にしなかった。井伊直政の勇猛さを認め、同じ徳川四天王として天下の覇業を支えた。戦場における誇りと、家中での分別と。その両方を、忠勝は最後まで兼ね備えていた。
関ヶ原後、忠勝は伊勢国桑名十万石を与えられ、初代桑名藩主となった。期待していた国持大名ほどの大封ではなかったかもしれない。しかし忠勝は、桑名の地で武将としての最後の仕事に取り組んだ。城下の整備、町割りの策定、領民の生活基盤の構築。槍を振るうことしかできない猛将ではなかったのだ。戦が終わった後の世をどう治めるか。忠勝はその問いにも、愚直に向き合った。
小刀の傷、そして永遠の別れ
慶長十五年(一六一〇年)、桑名の屋敷で、忠勝はひとり小刀を手にしていた。
老いた手で、持ち物に名を彫ろうとしていたのだろう。その刃が、不意に指先を滑った。わずかな切り傷。血が一筋、指の先から滴り落ちた。
五十七度の合戦。数え切れぬほどの敵を相手に、ただの一度も傷を負わなかった男が、戦場ではなく、自室の畳の上で初めて血を流した。
忠勝はその指先を見つめ、静かにつぶやいたという。
「わが命も、これまでか」
戦場で無傷であり続けたことは、忠勝にとって武運の証であると同時に、まだ死ぬべきときではないという天の意思の表れでもあったのだろう。その守り札のような無傷の伝説が、日常のささいなことによって破られたとき、忠勝は己の最期を悟った。
同年十月十八日、本多忠勝は桑名にて世を去った。享年六十三。晩年は眼を病み、戦場を駆けたかつての鋭気は衰えていたという。しかし、最期の瞬間まで、その心は三河の風の中にあったのではないか。
忠勝が残した辞世の句がある。
「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」
死にたくない。ああ、死にたくない。死にたくない。家康様から受けた深い恩を思えば。
技巧も修辞も、何もない。ただ「死にたくない」と三度繰り返すだけの、愚直きわまる歌である。しかし、その愚直さにこそ、本多忠勝という男の真実が詰まっている。
彼がおそれたのは、死そのものではなかったはずだ。五十七度の合戦を生き延びた男が、今さら死を怖れるはずがない。忠勝が「死にたくない」と叫んだのは、主君・家康への奉公がまだ足りないと感じていたからである。もっと仕えたい。もっと守りたい。その一念が、老いた喉から絞り出す最後の声となった。
最強の意味を問い直す
本多忠勝を「戦国最強」と呼ぶのは、たやすい。五十七度の合戦で無傷、天下三名槍の蜻蛉切を自在に操り、信長・秀吉・信玄という当代一流の英雄たちからその武勇を讃えられた。数字と逸話だけを並べれば、確かに「最強」の二文字がふさわしいように見える。
だが、忠勝の真の強さは、戦場における武技だけにあったのではない。
三河一向一揆で信仰を捨ててまで主君に従った精神の強さ。一言坂で味方の命をひとつも落とさずに撤退を成功させた冷静な判断力。小牧・長久手で万余の大軍を前に一歩も退かなかった胆力。そして、秀吉からの破格の誘いを涙ながらに断った忠義の深さ。
それらのすべてがひとつに溶け合って、「最強」という称号を形づくっている。
忠勝が生涯無傷であったのは、単なる幸運ではない。軽量の甲冑で機動力を追い求め、神出鬼没の部隊運用で敵を翻弄した戦の眼。叔父の忠真から受け継いだ「退くときに立つ」という撤退戦の極意。そして何より、主君を守るという一念が生み出す、異様なまでの集中力。それらが重なり合って、忠勝の身体に一本の矢も、一筋の刃も届かせなかったのだ。
本多忠勝は、最強であることの意味を問い続けた男だった。最強とは、最も多く敵を倒すことではない。最も長く、最も深く、守るべきものを守り抜くことだ。そしてその覚悟を、最後の一息まで持ち続けることだ。
辞世の句に込められた「死にたくない」という叫びは、忠義の完成形であった。主君のために死ぬのではなく、主君のために生き続けたいと願う。その願いの強さこそが、本多忠勝が戦国最強と呼ばれる、最も深い理由なのである。