戦国の世において、武名とは前へ進む者に与えられるものだった。一番槍を付けた者、敵将の首を挙げた者、真っ先に城壁を駆け上がった者。そうした勇士の名は陣中に響きわたり、主君からの感状となって子々孫々に伝えられた。退くことは恥であり、背を見せることは武士の死に等しいとされた時代である。
その時代に、「逃げ」の一字を冠して呼ばれた男がいた。武田信玄の重臣にして、武田四名臣の一人に数えられる高坂昌信(こうさかまさのぶ)である。同時代の文書では春日虎綱と記されるこの男は、「攻め弾正」真田幸隆(さなだゆきたか)、「槍弾正」保科正俊と並び、「逃げ弾正」の名で後世に語り継がれてきた。
なぜ、武田最強の軍団を支えた宿老(しゅくろう)が「逃げ」の名で呼ばれたのか。そこには臆病者へのあざけりではなく、退くことの困難さを知り抜いた者たちの、深い畏敬が込められていた。そして、その異名の奥底には、すべてを失った一人の農民の子が、ただ一人の主君に生涯を捧げた、静かで激しい物語が眠っている。
石和の野に立ち尽くした少年
大永七年(一五二七年)、甲斐国八代郡石和の地に、一人の男児が生まれた。父は春日大隅といい、この地に根を張る豊かな百姓であった。のちに武田家の柱石となるその子は、源五郎と名づけられた。
武士の家ではない。土を耕し、年貢を納め、村の顔役として暮らす家である。本来ならば、源五郎もまた父の跡を継ぎ、石和の田畑を守って一生を終えるはずであった。
しかし運命は、少年に穏やかな人生を許さなかった。父・大隅が世を去ると、その遺産をめぐって姉の夫との間に争いが起こる。訴えは裁きの場へと持ち込まれたが、若い源五郎に勝ち目はなかった。裁判に敗れた少年は、父が遺したものをことごとく奪われ、路頭に放り出されたのである。
十六歳。頼るべき親もなく、帰るべき家もない。肉親に裏切られ、すべてを失った少年が、そのとき何を思ったかを伝える史料はない。ただ、甲斐の冷たい風の中で立ち尽くす若者の胸に、人の世の非情さが深く刻まれたであろうことは想像に難くない。
その少年に手を差し伸べたのが、甲斐の若き国主、武田晴信(たけだはるのぶ)であった。父・信虎を駿河へ追い、家督を継いで間もない晴信は、身分や家柄にとらわれず、自らの手足となって働く者を求めていた。晴信は源五郎を奥近習として召し抱え、自らの身辺に置いた。
この救いが、少年の生涯を決めた。血を分けた肉親が自分を見捨てたとき、赤の他人である主君が自分を拾い上げてくれた。その恩は、源五郎にとって単なる主従の義理を超えた、命そのものの重さを持っていたに違いない。
うろたえる主君と神々への誓い
天文十五年(一五四六年)七月五日、晴信は一通の起請文(きしょうもん)をしたためた。宛名は「春日源助」。源五郎、すなわち若き日の虎綱である。
この文書は、戦国武将が家臣に宛てた手紙として、他に類を見ない内容を持っている。晴信はそこで、弥七郎という別の小姓に言い寄ったものの、腹痛を理由に断られたこと、決して弥七郎と夜をともにしたことはないことを、言葉を尽くして弁明しているのだ。もしこれが偽りであれば、甲斐の一宮・二宮・三宮の大明神、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を受けるとまで誓っている。
当時、主君と小姓が衆道の契りを結ぶことは、武家社会においてさほど珍しいことではなかった。しかし一国の主が、一介の近習の機嫌を損ねまいとして、神々の名を連ねて必死に釈明する姿は、驚くほど人間くさい。のちに「甲斐の虎」と恐れられる男が、二十代半ばの青年として、一人の若者の心を失うことを本気で恐れていたのである。
この誓詞から浮かび上がるのは、源助が決して主君の意のままになる従順な存在ではなかったということだ。嫉妬し、すね、主君をうろたえさせるほどの気骨と意志を持った青年であった。そして同時に、晴信にとって源助が、それほどまでに心を寄せる特別な存在であったことも示している。
世界のすべてを失った少年にとって、晴信は新しい世界そのものであった。この濃密な絆こそが、のちの虎綱の生き方を貫く背骨となっていく。
香坂の名を継ぎ、海津の城に立つ
近習として信玄の傍らに仕えた源五郎は、やがて使番として戦場を駆けるようになり、二十代のうちに百五十騎を預かる侍大将へと抜擢された。農民の子が、甲斐の名だたる国衆と肩を並べる地位に昇ったのである。
信玄の狙いは明確だった。父・信虎の代から続く有力な譜代家臣の力を抑え、当主に直接仕える有能な実務の担い手を育てること。源五郎はその象徴であり、信玄の期待に応えることが、彼の生きる意味のすべてであった。
信濃の攻略が進むと、信玄は源五郎に北信濃の名族・香坂氏の名跡を継がせた。後世に広まる「高坂」の名は、この「香坂」に由来する。彼はのちに元の春日姓へと戻り、同時代の文書には終生「春日虎綱」の名で現れる。広く知られる「昌信」という名は、実のところ確かな史料には見当たらない。それでも人々は彼を「高坂弾正」と呼び、その名で愛し続けてきた。
永禄三年(一五六〇年)ごろ、武田家は北信濃の川中島平に新たな城を築いた。海津城である。千曲川を背にし、越後の上杉謙信と真正面から向き合う、武田の最前線であった。虎綱はこの城の城代に任じられ、以後二十年近くにわたって、この地を守り続けることになる。
北信濃の冬は厳しい。千曲川の水は凍りつき、川中島の平野は朝ごとに深い霧に包まれる。その霧の向こうから、いつ越後の龍が姿を現すか知れない。海津城のやぐらに立つ虎綱の日々は、終わりのない緊張の連続であった。
永禄四年(一五六一年)、第四次川中島の戦いが起こる。武田方は、別働隊が妻女山の上杉軍を背後から突き、山を下りた敵を八幡原の本隊が迎え撃つという作戦を立てた。のちに「啄木鳥(きつつき)戦法」と呼ばれるこの策において、虎綱は馬場信春(ばばのぶはる)らとともに別働隊を率いたと伝えられる。
しかし謙信は武田の動きを見抜き、夜陰に紛れて妻女山を下りていた。霧が晴れたとき、八幡原の信玄本隊の眼前には上杉の大軍が迫っていた。別働隊が駆けつけるまでの間に、信玄の弟・武田信繁(たけだのぶしげ)や軍師・山本勘助をはじめ、多くの将兵が命を落とした。
戦いの後、川中島の野には敵味方の遺骸がおびただしく横たわっていた。伝承によれば、虎綱はそれらを敵味方の区別なく集め、手厚く葬ったという。いまも八幡原の近くに残る首塚は、その名残とされている。昨日まで刃を交えた敵兵にも、等しく土をかけ、祈りを捧げる。その姿には、勝ち負けを超えて人の命の重さを知る者の、深い悲しみがにじんでいる。
「逃げ弾正」に込められた畏敬
では、虎綱はなぜ「逃げ弾正」と呼ばれたのか。
戦場において、最も困難な任務は退却である。勝ち戦の追撃は誰にでもできる。しかし負け戦の中で、浮き足立つ味方をまとめ、勢いに乗って追いすがる敵を食い止めながら、軍を崩さずに退かせることは、並の将には到底かなわない。殿(しんがり)を務める者は、全軍の盾となって最後尾に残り、自らの命と引き換えに味方を逃がす覚悟を求められた。
虎綱は、この退きの采配に優れていたと伝えられる。押すべきときと引くべきときを冷静に見極め、不利と見ればためらわずに兵を退く。無謀な突撃で兵を死なせることを何よりも嫌い、一人でも多くの将兵を生きて国へ帰すことに心を砕いた。「逃げ弾正」の「逃げ」とは、この退却の巧みさに対する、戦国の武士たちの最大級の賛辞だったのである。
もっとも、この異名が確かな同時代の記録に見えるわけではない。「戦国三弾正」という呼び名も、後世の軍記や伝承の中で形づくられたものと考えられている。だが、それが後世の創作であったとしても、人々が虎綱という人物の本質を「逃げ」の一字に見いだしたことには、深い意味があるだろう。
虎綱の慎重さは、ときに周囲から嘲笑の的となった。『甲陽軍鑑』は、武田勝頼(たけだかつより)の代に武田家が東美濃や高天神城で戦果を挙げ、家中が勝利に沸き立っていたころの出来事を伝えている。虎綱と内藤昌秀(ないとうまさひで)は、勝頼が宿老の意見を聞かず、側近の言うがままになっていることに強い危機感を抱いていた。このままでは織田・徳川を相手に無理な戦いを挑み、武田家は滅びると。
しかし、勝利に酔う人々は、二人の懸念を「臆病分別」と笑った。臆病者の考えることだ、というのである。
虎綱はそのあざけりに、どれほど胸を痛めたことだろう。農民の出である彼は、戦で倒れていく足軽や雑兵の一人ひとりに、かつての自分の姿を重ねていたのかもしれない。名もなき者が命を落とすことの重さを、彼は誰よりも知っていた。無駄な死を避けようとする心を臆病と呼ぶのなら、虎綱は喜んで臆病者の名を引き受けたのではないか。
『甲陽軍鑑』には、虎綱の言葉として次のような教えが伝わる。手柄を焦って討ち死にするのは不忠である、と。主君のために命を惜しまないことが武士の誉れとされた時代に、命を惜しめと説く。それは、命を捨てるよりもはるかに難しい勇気であった。
長篠、行かざりし者の悔恨
元亀四年(一五七三年)四月、信玄は西上の途上で病に倒れ、帰らぬ人となった。虎綱はそのとき海津城を守っており、主君の死に目に会うことはかなわなかった。
すべてを失った少年を拾い上げ、侍大将へと引き立て、北信濃の要を託してくれた主君。誓詞を書いてまで自分の心をつなぎとめようとした、あの若き国主。その人が、最期の言葉を交わすこともなく逝ってしまった。虎綱の胸に去来したものは、言葉にしがたい喪失であったろう。
しかし虎綱は、殉死の道を選ばなかった。信玄の遺した武田家を守り、その跡を継いだ勝頼を支えること。それこそが、亡き主君への何よりの報恩であると信じたのである。
そして天正三年(一五七五年)五月、運命の長篠の戦いが訪れる。勝頼は三河の長篠城を囲み、救援に駆けつけた織田信長・徳川家康の連合軍と設楽原で激突した。虎綱は上杉への備えとして海津城に留まり、この戦いに加わっていない。代わりに出陣したのは、彼の嫡男・昌澄であった。
結果は、武田家にとって歴史的な大敗であった。馬柵の向こうから放たれる鉄砲の前に、武田の精鋭は次々と倒れていった。馬場信春、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌秀。ともに信玄の時代を支え、四名臣と並び称された同輩たちが、この一日でことごとく討ち死にした。そして虎綱の嫡男・昌澄もまた、長篠城を囲む陣にあって織田・徳川方の奇襲を受け、帰らぬ人となった。
海津城にもたらされた凶報を、虎綱はどのような思いで聞いたのか。
かつて「臆病分別」と笑われながら訴えた懸念は、最悪の形で現実となった。ともに戦場を駆けた友は皆、設楽原の土となった。我が子もまた、父の代わりに出陣し、父の知らぬ地で命を散らした。そして自分だけが、遠く北信濃の城で生き残ってしまったのである。
行かなかった者の悔い。それは、戦場で傷を負うよりもはるかに深く、癒えることのない痛みであったに違いない。
だが、虎綱は悲嘆に沈むことを自らに許さなかった。彼は八千の兵を率いて信濃の駒場まで出向き、敗走してくる勝頼を出迎えた。『甲陽軍鑑』によれば、虎綱は傷つき疲れ果てた敗残の将兵のために、新しい衣服や武具を用意していたという。敗軍の姿のまま甲斐へ戻れば、武田家の威信は地に落ち、領国の動揺は止められない。せめて主君と将兵が、胸を張って国へ帰れるように。
それは、まさしく「逃げ弾正」の真骨頂であった。崩れゆく軍を立て直し、敗北の傷を最小限にとどめて、家中を次の日へとつなぐ。戦場で殿を務めるように、虎綱は武田家そのものの殿を引き受けたのである。
筆に託した遺言と、最後の務め
長篠の敗戦の後、虎綱は自らの死期が遠くないことを悟っていたのかもしれない。彼は猿楽師の大蔵彦十郎や甥の春日惣次郎を傍らに呼び、信玄の時代の軍法や合戦、家臣たちの言行を語り聞かせ、書き留めさせた。これが、のちに『甲陽軍鑑』として世に広まる軍学書の原型となったとされる。
かつて『甲陽軍鑑』は、江戸時代の軍学者による偽書と見なされた時期もあった。しかし近年、国語学の立場から用いられた言葉づかいの丹念な検証が進み、さらに同時代の文書との照合も重ねられたことで、その価値は大きく見直されている。そこに刻まれているのは、滅びに向かう武田家への痛切な危機感と、若き勝頼に何としても伝えたいという、老臣の切実な願いであった。
虎綱が勝頼に向けた言葉は、ときに口うるさいほどに細やかである。家老に任せきりにせず、自ら動け。小さな功も忘れず、わずかな働きも見捨てず、折々に褒美を与えて励ませ。功を積んでも取り上げず、労を尽くしても賞さなければ、人の心は離れていく。いざ戦というときになって甘い言葉をかけても、もう誰も聞きはしない。
それは、信玄のもとで人の心のつかみ方を学び、農民の子として下々の者の痛みを知る男が、命を削って書き遺した遺言であった。
天正六年(一五七八年)三月、虎綱が二十年近くにらみ合い続けた宿敵・上杉謙信が急死する。越後では、謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎(うえすぎかげとら)との間で家督争いが起こった。世に言う御館の乱である。
虎綱は武田信豊とともに、景勝方との和睦交渉の最前線に立った。かつて霧の川中島で刃を交えた越後と手を結び、傾きかけた武田家の命脈を保とうとしたのである。宿敵の家と盟約を結ぶ。それは、勝ち負けの意地よりも家の存続を選ぶ、最後の「逃げ弾正」の采配であった。
しかし、その盟約が結ばれるのを見届けることなく、天正六年五月七日、虎綱は海津城で静かに息を引き取った。享年五十二。謙信の死から、わずか二か月足らずのことであった。
退く勇気が教えるもの
虎綱の亡き後、武田家の命運は長くは続かなかった。天正十年(一五八二年)、織田・徳川の大軍が甲斐へ攻め入り、勝頼は天目山の麓で自害して果てる。虎綱が命を賭して守ろうとした武田家は、ここに滅び去った。
虎綱の墓は、いまも海津城の南東、松代の明徳寺に眠っている。彼自身が再興に力を尽くしたとされるこの寺の静けさの中で、かつて川中島の霧を見つめ続けた男は、何を思っているのだろうか。
「逃げ弾正」。その異名は、虎綱の生涯を見事に言い当てている。だが、彼が逃げたことは一度もなかった。肉親に裏切られた少年は、自らを拾い上げた主君から逃げなかった。友と我が子を失った老臣は、崩れゆく武田家から逃げなかった。嘲笑を浴びながらも、彼は自らの信じる道から、ただの一度も逃げることはなかったのである。
前へ進むことだけが勇気ではない。退くべきときに退き、守るべきものを守り抜くこと。散りゆく命を一つでも多く救おうとすること。戦国という苛烈な時代にあって、高坂昌信は、もう一つの勇気のかたちを、その生涯をもって示してみせた。
信玄の言葉として伝わる「人は城、人は石垣、人は堀」。その言葉を誰よりも深く胸に刻み、人の命と心を何よりも重んじた男こそ、「逃げ弾正」高坂昌信であった。