豊臣秀長(とよとみ ひでなが)またの名、羽柴秀長(はしば ひでなが)は天文9年3月2日(1540年4月8日)に、父・竹阿弥と母・仲の子として尾張国愛知郡中村(今の名古屋市中村区)に生まれました。異父兄弟の兄に秀吉がいますが、幼少時に秀吉が家を飛び出したため、小さい頃のエピソードはほとんど残っていません。その後、永禄7年(1564年)ころ、23歳にして秀長は兄・秀吉に仕えることになります。兄の秀吉とは正反対の性格だったといわれていますが、秀吉からそうとう可愛がられ、兄の名補佐役でもあり大きな信頼を寄せられていました。最終的には約110余万石大大名にまでのぼりつめた秀長は、温厚で真面目、諸大名からも評価が高く多くの人から好かれていたようです。もし秀長が長生きしていたら、豊臣家は滅ぼされることはなかったとまでいわれるに秀長ついて、わかりやすくまとめてみましょう。
家紋…秀長は自身の家紋を持つことなく、兄の秀吉と同じ豊臣家の家紋を使っていました。豊臣家の家紋は通称『五七桐(ごしちのきり)』です。桐の紋は、元々天皇家の紋章です。天皇家の紋章といえば、現代もパスポートに描かれている菊家紋が有名ですが、桐紋も天皇家の紋として使えわれていました。それほど桐の紋は天下人として最高位を表すものだったといえます。
死因と最期…秀吉の家臣についてからというもの、秀長はとにかく兄の補佐役としてすばらしい功績を残してきました。秀吉が不在時は城を守り、怪我をし参戦できないときは自らが先頭にたち戦へ。そんな秀長も、天正14年(1586年)ころあたりには体調を崩し始め、有馬温泉で療養していたとされる記録が残っています。その後も何度も戦に参戦してはいるものの、天正18年(1590年)には病が悪化し、兄・秀吉の小田原攻めには参加できませんでした。そして翌年の天正19年(1591年)山と郡山城内で病死しました。52歳でした。秀長の死後、兄・秀吉の暴走を止める役がいなくなり、豊臣政権に暗い影が見え始めました。現代でも、秀長がもう少し長生きしていれば、徳川家康に豊臣家が滅ぼされることはなかったと言われる意味がよく分かります。
墓…秀長は大和国の国主で、大和大納言になったことから、秀長の墓は地元では『大納言塚』と呼ばれています。
妻…女性関係がとても派手だった兄・秀吉に対し、秀長は正室・智雲院(ちうんいん)の他に側室が1人のみいたそうです。何人もの側室がいたとされる戦国時代の武将としては、とても珍しいと言えます。正室の智雲院は、奈良は法華寺の興俊尼という尼をしていましたが、秀長が惚れ込み秀長が46歳のころ結婚しました。政治的な思惑もなく、とても意外な結婚とも思えますが、その年まで結婚せず本当に惚れ込んだ相手と結婚し、側室も1人のみ、とても真面目な秀長の性格が表れているのではないでしょうか。
娘…なかなか子宝に恵まれなかった秀長も、息子1人と娘2人をもうけました。ですが、息子・小一郎(こいちろう)は早世してしまいます。そして、長女の大善院(だいぜんいん)を毛利秀元の正室に。次女のおきくを、秀長の養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)へ嫁がせ、秀保を秀長の後継者としました。
家臣…秀長の家臣は三家老の横浜一庵、羽田正親、小川下野守がいました。そのほかには、藤堂高虎や宇多頼忠、桑山重晴、小堀正次、吉川平介、杉若無心、多賀秀種、本多俊政、黒田利則、黒田直之、木下昌利などもいました。特に、中井正清、小堀政一など築城や造園に長けた家臣をたくさん登用していたようです。
■年表
■豊臣秀長の逸話
秀吉の名補佐役…公私ともに派手だった兄・秀長とは正反対の性格の秀長は、とても温厚で真面目な人物でした。兄にとっての名補佐役、秀吉のブレーキ役として力を発揮しました。秀吉が天下人になれたのは、秀長がいたからこそであると誰もが口をそろえたといいます。秀吉が天下人になってからは100万石余の大大名となり、大和大納言と呼ばれるまでになりました。豊臣政権の安定の維持には欠かせない人となり、誰も口出しが出来なかった兄の秀吉に、唯一意見できた人物だったそうです。
人望抜群の仁将…秀吉からの信頼度が非常に高く、秀吉の右腕とも称されるようになりました。そんな秀長は、自身が秀吉の近親だということを鼻にかけたことがないといわれています。温厚で真面目な性格で、秀吉の縁の下の力持ちとしてとにかく補佐役に徹底しました。そんな秀長は他家からの評判もとても高く、抜群の人望を誇ったといいます。
内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候…大友宗麟(おおとも そうりん)が島津氏からの圧迫によって窮地に立たされた際、秀吉を頼って大阪城に来ました。そのとき、秀長が大友宗麟に言った言葉です。内密な話しは宗易(利休)へ、公的なことは私へ話してくれという意味。常に落ちついた判断ができるのは秀吉ではなく利休や自分である、ということの表れでしょう。実際に秀長が健在の間は、豊臣政権が揺らぐことは1度もありませんでした。
信頼の代名詞「小一郎」…ここまでに何度も記したように、秀長は兄の秀吉から兄弟ということを省いても、多大な信頼を寄せられていました。秀吉が、黒田官兵衛にあてた手紙の中には「其方の義は我ら弟の小一郎め同然に心やすく存候間」と気安い言葉をかけています。自分の1番の信頼を表した言葉だったのではないでしょうか。
補佐だけでなく大軍を率いる事ができる名将の面も…天正13年(1585年)に、秀吉は四国への出陣を決定しました、四国征伐です。が、病のため自身の出馬を諦め代わりに弟の秀長を総大将としました。翌年には秀長はまたも総大将として、今度は九州征伐に出陣します。常に秀吉の補佐として活躍し続けていた秀長でしたが、大軍勢を率い殿(しんがり)をも勤め上げたのです。豊臣政権は、秀長の政治的役目、そして強い武将としての役目を最期まで立派に務めた秀長のおかげで成し遂げられたのでした。