武田信虎追放 閉ざされた国境の向こうで、父は三十三年を生きた

武田信虎

天文10年(1541年)の夏、甲斐の守護・武田信虎(たけだのぶとら)は、駿河へ向かう道の上にいた。

行き先は娘婿の今川義元のもと。ひと月ほど前には信濃の佐久・小県へ兵を出し、村上義清(むらかみよしきよ)・諏訪頼重(すわよりしげ)と組んで海野氏を上野へ追い落としたばかりだった。戦から戻ったその足で、今度は娘の嫁ぎ先へ顔を出す。四十八歳の当主にとって、それは幾度も繰り返してきた外交の旅のひとつにすぎなかったはずである。

信虎が甲斐を発ったのは6月14日のことと伝わる。その数日後、留守の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に嫡男の武田晴信(たけだはるのぶ)が入り、足軽を甲斐と駿河の国境へ差し向けた。道は塞がれ、関は閉じられた。父が帰ってくるべき道は、息子の手で断たれたのである。

信虎はそれから三十三年を生きた。けれども、自らが一つにまとめあげた甲斐の土を、二度と踏むことはなかった。

のちに「武田信玄」と呼ばれる若者が、なぜ実の父を国から締め出したのか。信虎は本当に、追われて当然の暴君だったのか。そして国を失った男は、その後どのような日々を送ったのか。閉ざされた国境の両側に立つ父と子の姿を、残された記録からたどってみたい。

乱れた甲斐を一つにした男

信虎が家督を継いだのは永正4年(1507年)、父・信縄の死によってである。数えでわずか十四歳。若い当主を待っていたのは、一族と国人たちが入り乱れて争う、ばらばらの甲斐だった。

最初の敵は身内だった。叔父の油川信恵が家督を争って立ちはだかり、甲斐の有力な国人である大井氏・今井氏・小山田氏らもそれぞれの思惑で動いた。信虎は、少年の身で刃を取り、ひとつずつ相手を退けていく。永正17年(1520年)には、長く敵対してきた大井信達と和睦し、その娘を正室に迎えた。のちに晴信と、その弟の武田信繁(たけだのぶしげ)を産む大井夫人である。剣を交えた相手の家から妻をもらうことで、国内の争いを鎮める方向へかじを切ったのだ。そして天文の初めごろには、甲斐の国はほぼ信虎のもとにまとまった。

国をまとめるには、心臓となる場所がいる。永正16年(1519年)、信虎は居館を石和の川田から、甲府盆地の北、相川と藤川に挟まれた躑躅ヶ崎へ移した。8月15日に館づくりの始まりを告げる式を行い、12月20日には信虎自身が新しい館へ移ったと記録にある。翌年の春には館の姿が整っていたらしい。背後の要害山には、いざという時に籠もる詰めの城も築いた。

館は堀と土塁で囲まれ、主郭はおよそ二町四方。その南には、ほぼ等しい間隔で南北に道が通る城下町が設けられ、館と町はひと続きのものとして計画されたと考えられている。国人たちをこの城下に集め、甲斐の府中、すなわち「甲府」が生まれた。今の甲府という町の名と形の始まりは、信虎のこの決断にある。

外に向けては、同盟の糸を張った。天文6年(1537年)には娘の定恵院を今川義元に嫁がせて駿河と手を結び、天文9年(1540年)には娘の禰々を信濃の諏訪頼重に嫁がせた。南の今川、西の諏訪。二人の娘婿を両側に置き、ようやく固めた甲斐を外から守る。信虎が描いていたのは、そういう国の姿だっただろう。

後に信玄が「甲斐の虎」として天下に名をとどろかせる時、その足もとにあった館も、城下も、隣国との結びつきも、すべてこの父がつくったものだった。追放された男こそが、追放した息子の国の土台を据えていたのである。

「悪逆無道」と書き残された人

ところが、信虎の名には暗い影がつきまとう。

甲斐の寺で書き継がれた年代記『塩山向嶽禅庵小年代記』は、信虎のことを次のように記している。

「平生悪逆無道なり」

ふだんから悪逆で、道に外れた人であった、というのである。富士山麓の寺の記録として知られる『勝山記』『妙法寺記』も、信虎が国を追われたことを、領民や侍たちが喜んだと書き残しているとされる。同じ時代を生きた甲斐の人々の筆が、そろって冷たい。

時代が下ると、話はさらにおどろおどろしくなる。武田家の軍学を伝える『甲陽軍鑑』は、信虎が自分をいさめた家臣を手討ちにしたと語る。妊婦の腹を裂いたといった風聞まで、いつのまにか信虎の名に貼りつけられていった。可愛がっていた猿を殺した家臣を斬り捨て、恨みを買ったという逸話も残る。こうした話が積み重なり、「暴君を息子が正した」という物語ができあがった。

けれども、立ち止まって確かめると、奇妙なことに気づく。「悪逆無道」と書いた年代記は、具体的に何をしたのかを一つも挙げていないのだ。手討ちの話も、同じ時代の記録には裏づけが見当たらない。むしろ、信虎に殺されたとされる重臣の家名を、のちに信玄が再び立てた例もあるという。

近年の研究者の中には、信虎を悪逆非道の主君とする像は、追放した側、つまり息子の陣営が後の世に残した評価によって固まったものだ、と見る人がいる。実際の史料を探しても、それを裏づける中身は見つからない、と。また作家の砂原浩太朗氏は、妊婦の腹を裂くといった話について、敗れた者に暴君の顔を押しつける、古代中国以来おなじみの型をなぞったものだと述べている。倒された者はしばしば、倒されるにふさわしい怪物として描かれるものだ。

では、「領民が喜んだ」という記録はどうか。これは軽く扱えない。ただ、喜ばれたことと、残虐であったことは同じではない。人々が信虎を恨んでいたのは確かだとしても、その恨みは何から生まれたのか。そこに目を向けたとき、もうひとつの信虎の姿が浮かんでくる。

飢えた国と、終わらない戦

天文9年(1540年)、東海から甲信にかけて激しい風雨が襲った。台風だったと考えられている。田畑は荒れ、実りは失われた。凶作は翌年に持ち越され、天文10年、甲斐は大飢饉の年を迎える。信虎が追われた、まさにその年である。

信虎の治世には、それ以前から洪水や日照りといった天災が重なっていたとされる。そこへ戦が続いた。甲斐を一つにした後も、信虎は相模へ、信濃へと兵を出し続けた。兵を出すたびに、家臣は兵糧を用意し、人を引き連れて出陣しなければならない。田を耕すはずの男たちが戦場へ駆り出される。軍役の重さは、国のすみずみにのしかかっていった。

近年の研究では、この「国の疲れ」こそが追放の根にあったと考えられている。歴史家の平山優氏は、『勝山記』などに記された米や麦の値の動きに目をつけた。戦のたびに街道が封じられ、そこへ凶作が重なって、物の値が上がり続けていた。飢えと高値に苦しむ民の恨みが積もり、それを見た家臣たちが危機を感じて動いた、という見方である。

この見方に立つと、景色は大きく変わる。信虎が特別に残酷な人だったから追われたのではない。天が荒れ、民が飢える中で、それでもなお戦をやめなかった当主を、国を背負う家臣たちが見限ったのだ。信虎にしてみれば、外へ打って出ることこそが、ようやく固めた甲斐を守る道だったのかもしれない。だが、腹をすかせた国に、その理屈はもう届かなかった。

信虎の不幸は、悪人であったことではなく、国が限界を迎えた時に、その頂に立っていたことだったのではないか。

二十一歳の晴信が選んだ道

天文10年6月。晴信はこの時、二十一歳だった。

五年前の天文5年(1536年)、晴信は将軍・足利義晴(あしかがよしはる)から「晴」の一字を受け、晴信と名乗っていた。将軍に認められた武田家の跡継ぎ。けれども、父はまだ正式に家督を譲っていなかったと説明される。甲斐の主は、あくまで信虎だった。

晴信の周りには、板垣信方(いたがきのぶかた)や甘利虎泰(あまりとらやす)ら、武田家に代々仕えてきた重臣たちがいた。彼らは信虎の外征と物の値の高騰を目の当たりにし、このままでは国が持たないと考えたとされる。政変は晴信ひとりの思いつきではなく、こうした重臣たちの同意の上に組み立てられていた。家臣と国衆の支えを得て、晴信は当主の座に就いたのである。

だからといって、晴信の胸のうちが軽かったとは思えない。

父が国境の向こうへ去っていく。その背中を見送りながら、晴信は何を考えていただろう。父が戦から戻ったばかりであることを、晴信はよく知っていた。その戦が甲斐を守るためのものであったことも、たぶん分かっていた。それでも、田畑は荒れ、民は飢え、家臣たちは疲れ切っている。誰かがこの流れを止めなければ、父が築いた国そのものが崩れてしまう。

父を討つのではない。殺すのでもない。ただ、帰り道を閉ざす。それが、二十一歳の若者が選んだ、ぎりぎりの道だった。

平山氏は、これを、息子が父を追い出すという前例のない政変だったと見ている。下剋上の世とはいえ、家臣が主君を倒すのとは違い、跡継ぎが現役の当主である父を国から締め出すという形は、それまでに例がなかった。

甲斐から足軽が走り、国境の道が閉じられる。駿河に入った信虎のもとへ、その知らせが届いた時、彼はどのような顔をしたのだろうか。怒りに震えたのか、ただ黙ったのか。記録には何も残っていない。

なぜ追放に至ったのか、ほかにもさまざまな説が語られてきた。信虎が晴信を疎み、弟の信繁ばかりを可愛がって、跡継ぎを替えようとしていたという親子不和の話。今川義元が晴信と通じていて、はじめから信虎を引き取る段取りができていたという共謀の話。どれも人の心をくすぐる筋書きだが、確かな裏づけには乏しく、研究者の間でも扱いが分かれている。のちに義元が書状の中で使った「天道」という言葉を、天の道理にかなった行いとして追放を正当化したものと読む小和田哲男氏のような見方もあれば、平山氏のように、占いの結果を指す言葉にすぎないと読む見方もある。

ひとつだけはっきりしているのは、晴信が父の命を奪わなかったことだ。同じ戦国の世、美濃の斎藤義龍(さいとうよしたつ)は父・道三と戦い、その命を奪っている。それに比べれば、晴信のやり方は、ずっと穏やかなものだった。追い出しはしても、父は父として生かしておく。そこに、冷たい計算だけではない何かを見るのは、うがちすぎだろうか。

家督を継いだ晴信は、父の時代の外交を大きく塗り替えた。妹の嫁いだ諏訪氏との縁を断ち、信濃へと攻め込み、関東の山内上杉氏とも正面から争うようになる。父が娘を嫁がせて結んだ同盟を、息子はみずから断ち切った。甲斐の向かう先は、ここで大きく折れ曲がったのである。

追われた男の、長い長い余生

国を失った信虎を迎えたのは、娘婿の今川義元だった。

義元は信虎を保護し、その暮らしを支えた。天文11年(1542年)ごろ、義元が晴信に宛てて、信虎の隠居料を早く送るよう催促した書状が残っている。武田と今川の双方から、信虎のための給分や土地が出されていたと伝わる。そして晴信、のちの信玄は、追放した後も、父の暮らしの費用を今川方へ送り続けたという。

国境は閉ざしても、仕送りは絶やさない。そこに、信玄という人のもうひとつの顔がある。父を見捨てたのではない。父を国から離しただけなのだ。

信虎は、駿河でただ老いていったわけではなかった。天文12年(1543年)6月、信虎は京へ上り、都の南を見て回った。高野山にも登り、奈良も訪ねている。奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、この時の信虎の姿が書きとめられている。このころ信虎は出家し、無人斎道有と名乗った。

「無人斎」。人無き者、とも読めるこの名に、国も家臣も失った男のどんな思いがこめられていたのだろう。皮肉か、諦めか、それとも、何者でもなくなった身の軽さを楽しむ気持ちだったのか。

駿河での日々は二十年あまり続いた。永禄3年(1560年)、桶狭間で義元が討たれる。跡を継いだ今川氏真(いまがわうじざね)とは折り合いが悪く、信虎はやがて駿河を離れて京へ移った。のちには将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の求めに応じて、近江の甲賀で兵を集めたという記録もある。六十を過ぎ、七十を過ぎても、信虎は乱世のただ中で動き続けた。

その間に、甲斐では多くのものが失われていった。永禄4年(1561年)、川中島の戦いで次男の信繁が三十七歳で討ち死にする。信虎がかつて可愛がったとされる息子である。信繁は、父が追われた後も兄・信玄に仕え、その右腕として武田家を支え続けた。子の武田信豊(たけだのぶとよ)に残した家訓の中で、信繁は何事においても「堪忍」の二字を忘れるな、と教えている。父と兄の間に立たされた次男が、生涯をかけて胸に刻んだのは、こらえるということだった。

そして元亀4年(1573年)、信玄が病に倒れ、この世を去る。父を追った息子が、追われた父より先に逝った。

孫の武田勝頼(たけだかつより)の代になって、信虎は故国への帰りを願った。八十を越えた老人の、最後の望みである。だが、その願いはかなわなかった。家臣たちに阻まれ、信虎は甲斐の手前、信濃の高遠に留め置かれたのである。

天正2年(1574年)3月5日、信虎は高遠で息を引き取った。八十一歳。甲斐を追われてから三十三年の月日が流れていた。高遠は甲斐からそう遠くない。それでも、その山々の向こうにある躑躅ヶ崎の館を、信虎がもう一度目にすることはなかった。

信虎が亡くなった後、子の武田信廉(たけだのぶかど)は父の姿を絵に描き、その冥福を祈る賛を寺に頼んだと伝わる。追放された父の面影を、息子のひとりが筆に留めたのである。

閉ざした者と、閉ざされた者

武田信虎追放という出来事は、長いあいだ、暴君を賢い息子が退けた美談として語られてきた。けれども、残された記録を丁寧にたどると、そこにいるのは単純な悪人でも、単純な英雄でもない。

信虎は、十四歳から刃を振るって乱れた甲斐をまとめ、館を築き、町をつくり、娘たちを嫁がせて国の守りを固めた男だった。天が荒れ、民が飢えた時にも、彼は外へ打って出ることをやめなかった。そのかたくなさが、国を背負う者たちに見限られた。

晴信は、父が築いた国を守るために、父をその国から締め出した若者だった。命は奪わず、暮らしの費用を送り続けた。その胸に、ためらいがなかったはずはない。後に敵方は、父を追ったことを信玄を責める口実にたびたび持ち出したという。晴信は、その汚名ごと背負って生きたのである。

閉ざした者は先に逝き、閉ざされた者は三十三年を生き延びた。京を歩き、高野山に登り、乱世の渦にもう一度身を投じながら、信虎は最後まで信虎であり続けた。その生き方には、国を失ってもなお折れなかった人間の、したたかな強さがにじんでいる。

甲府の町を歩けば、武田神社の境内に、躑躅ヶ崎の館の堀と土塁が今も残る。人々がそこに思い浮かべるのは、たいてい信玄の姿だろう。けれども、その地を最初に切り開いたのは、国境の向こうへ追われた父のほうだった。信玄の武田は、信虎が据えた土台の上に立っていたのである。

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ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。