白く輝く姫路城を見上げるとき、その城を今の姿に築いた男の名を思い浮かべる人は、どれほどいるだろうか。池田輝政(いけだてるまさ)。播磨五十二万石の主となり、後世「西国の将軍」と呼ばれた大名である。
だが、関ヶ原の戦いで輝政が何をしたのかと問われると、答えに詰まる人が多いのではないか。福島正則(ふくしままさのり)のように先陣を駆けたわけでも、小早川秀秋(こばやかわひであき)のように戦の行方を変えたわけでもない。それなのに、戦が終わってみれば、彼は東軍の諸将のなかでも指折りの大領を手にしていた。
その答えは、関ヶ原の本戦よりも半月以上前、美濃の岐阜城をめぐる一日の攻防にある。そしてその城は、輝政にとって、ただの敵の城ではなかった。
父と兄を同じ日に失った若者
天正12年(1584年)4月、尾張の長久手。羽柴秀吉と徳川家康がにらみ合った小牧・長久手の戦いで、池田家は一日のうちに当主とその跡継ぎを失った。父の池田恒興(いけだつねおき)と、兄の元助である。
恒興は、織田信長の乳兄弟にあたる人物だった。同じ乳を分け合って育った間柄であり、信長がもっとも信を置いた家臣の一人である。本能寺の変ののちは秀吉の側につき、美濃に領地を得た。恒興は大垣城に入り、岐阜城には元助が置かれた。かつて信長が天下取りの拠点とした城を、池田家が預かることになったのである。
その父と兄が、そろって戦場に倒れた。家を継いだのは、まだ二十歳そこそこの次男、輝政だった。
その日、輝政は何を思っただろうか。戦国の世では、身内の死はありふれた出来事だったかもしれない。だが、一族の柱が二本同時に折れるということは、家そのものが倒れかねない危機を意味する。若い輝政の肩に、池田という家の重みがいきなりのしかかった。
秀吉は、この池田家を見捨てなかった。輝政に家督を継がせて大垣城主とし、翌年には岐阜城主に移したと事典は記す。兄が守っていた城を、今度は弟が預かったのである。秀吉は輝政に羽柴の姓も与えている。自らの戦で家の柱を失わせた池田家への、秀吉なりの思いがあったのだろう。この喪失に秀吉が深い思いを抱いていた、と見る書き手もいる。
岐阜城は、父が治めた美濃の要であり、兄が守り、そして自分自身が城主として過ごした城だった。この城のことを、輝政は胸のどこかにずっと抱えていたにちがいない。十六年後、彼はこの城を攻め落とす側に回ることになる。
家康の娘を迎えるということ
天正18年(1590年)、小田原の北条氏が滅びると、輝政は三河の吉田城主となり、十五万二千石を領した。かつて家康が治めていた東海の地である。
そして文禄3年(1594年)、輝政の人生を大きく変える婚姻が結ばれる。妻として迎えたのは、徳川家康の次女・督姫(とくひめ)だった。
督姫は、もとは北条氏直(ほうじょううじなお)の正室だった。北条家が滅び、夫と引き離された督姫を輝政に嫁がせたのは、秀吉の肝いりだったという。
秀吉にとって、これは家康を豊臣の網のなかにつなぎとめるための一手だったのだろう。一方の輝政にとっては、天下で二番目に力を持つ男の娘婿になるということだった。
督姫は輝政との間に、忠継をはじめ五人の男子を産んだ。この婚姻によって池田家と徳川家は血でつながった。この結びつきが、のちに池田家を大きく押し上げることになる。
一方で、輝政は豊臣家ともつながっていた。輝政の妹は、秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に嫁いでいたのである。文禄4年(1595年)、秀次が切腹に追い込まれると、その妻子は次々に処刑された。輝政の妹は助けられて別の所へ移ったとも伝わるが、その行方には諸説がある。豊臣と徳川、二つの家のあいだに身を置いた輝政は、権力の冷たさを間近で見たはずだ。
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、輝政は家康へと近づいていく。娘婿という立場を考えれば自然な流れだが、それは同時に、自分を取り立ててくれた豊臣家から一歩離れることでもあった。
岐阜城を一日で落とす
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝を討つため東へ向かった。その留守を突いて、石田三成らが兵を挙げる。下野の小山で知らせを受けた家康は、軍勢を西へ返すことを決めた。
このとき、家康は先に上方へ向かっていた福島正則や黒田長政(くろだながまさ)らのもとへ、輝政らを送り、新しい指示を伝えさせている。黒田長政に宛てた家康の書状には、詳しいことは輝政に申し渡した、という趣旨のことが書かれている。家康は、自分の意を正しく伝える役を、この娘婿に託したのである。
東軍の先手衆は清須に集まり、家康の到着を待たずに動き出した。目指すは岐阜城。城主は、信長の孫・織田秀信(おだひでのぶ)である。
秀信は、幼い頃には三法師(さんぼうし)と呼ばれた。本能寺の変で父の織田信忠(おだのぶただ)を失い、清須の会議で織田家の跡継ぎに立てられた、あの幼子である。その秀信が成長して岐阜城の主となり、この戦では西軍に付いていた。
信長の乳兄弟の子が、信長の孫を攻める。しかもその城は、自分の父が治めた美濃の要であり、兄が守り、自らも城主を務めた城だった。輝政の胸中を記した記録は残っていない。だが、木曽川の流れを前にして、何も感じなかったとは思えない。
8月22日、東軍の先手衆は木曽川を渡った。輝政の軍勢は浅野幸長(あさのよしなが)や山内一豊(やまうちかずとよ)らとともに川を越え、対岸の米野で岐阜方の軍勢とぶつかった。数で勝る東軍が押し切り、この日の戦いは東軍の大勝に終わる。飛脚の報告では、敵の首を五百ほど討ち取ったと伝えられている。
戦いを終えた輝政の軍勢は、岐阜城へ向かう途中、八剣神社で休息したと伝わる。輝政はそこで松に鎧を掛けて体を休めたといい、その松は「鎧かけ松」と呼ばれている。夏の終わりの日差しのなか、汗に濡れた鎧を松の枝に掛け、目の前にそびえる金華山を仰ぐ。その山の上には、かつて自分が預かった城があった。
岐阜城攻めの日付は、書く人によって揺れがある。井伊直政(いいなおまさ)が家康の側近に宛てた報告の書状によれば、岐阜城が攻められたのは翌23日のことだった。
その書状には、攻め手の役割がはっきり記されている。福島正則の組が岐阜の城下へ押し詰め、輝政の組は岐阜城の惣構え、つまり城下町を囲む外側の防御を打ち壊す役を受け持った。輝政の組には、浅野幸長、山内一豊、池田長吉、堀尾忠氏(ほりおただうじ)らが名を連ねていた。
岐阜城は、ただ一日で落ちた。
後世の観光案内などでは、輝政が二の丸に一番乗りを果たしたと紹介されることがある。だが、井伊直政の書状に従うなら、二の丸まで一気に攻め落としたのは福島正則や長岡忠興、加藤茂勝らで、輝政の組は惣構えを崩す役目だった。華やかな一番乗りの功は他の者の手に渡り、輝政は道を切り開く地道な仕事を引き受けていたことになる。
そして、城が落ちたあと、もう一つ大事な役目が輝政に回ってきた。秀信は輝政を通じて降伏し、清須へ送られたのである。
秀信は、なぜ輝政を通して降ったのか。その理由は書状には書かれていない。だが、祖父の乳兄弟の子であり、かつてこの城の主でもあった男だからこそ、命を預ける相手として選んだのではないか。そう想像したくなる。秀信はこののち髪をおろして高野山に入り、数年後に世を去った。
輝政はこの日、手柄を誇る役ではなく、敗れた者の身柄を受け止める役を務めた。勝者のなかにあって、敗者のもっとも近くに立っていたのが輝政だった。
戦わなかった本戦
岐阜城が落ちたという知らせは、すぐに家康のもとへ届いた。9月2日、家康は相模の藤沢から、福島正則と輝政の二人に宛てて書状を送っている。そこには、
「さっそくおびただしい数の鼻を送ってくれて、上下万民が喜んでいます」
という趣旨のことが書かれていた。戦場で討ち取った敵の証として、首の代わりに鼻を切り取って送る。それが当時の習いだった。現代の目には凄惨な光景だが、家康にとってそれは、先手衆が本気で戦っているという何よりの証拠だった。同じ書状で家康は、自分が藤沢に着いたこと、息子の秀忠が前日に信濃の諏訪に着陣したことも知らせ、油断はしていないと伝えている。
注目したいのは、この書状の宛名である。家康は正則と輝政を並べて書いた。家康の目から見て、二人は東軍の先手衆を率いる組頭として、肩を並べる存在だったのである。
それから半月ほどのち、9月15日。関ヶ原で天下分け目の戦いが始まった。
ところが、この本戦の日の輝政の動きを、確かな史料ではっきりとたどることはできない。岐阜県の観光案内は、輝政は南宮山に陣取った毛利勢らの軍勢に備えて布陣したと紹介している。垂井町には今も輝政の陣跡を示す石碑が残り、室町時代の春王・安王の墓と同じ敷地に建っている。一方で、家康の本陣が置かれた桃配山の、そのいちばん後ろに池田勢が布陣したとする解説もある。
いずれにしても、輝政が関ヶ原の野でどれほど戦ったのかを伝える確かな記録は見当たらない。南宮山の大軍は結局動かず、東軍は一日で勝利をつかんだ。南宮山の抑えに回ったという伝えが正しければ、輝政は戦場のどよめきを遠くに聞きながら、動かない敵をじっとにらみ続けていたことになる。
先陣を切った正則や、西軍の主力とぶつかった諸将に比べれば、輝政の関ヶ原は地味に見える。だが、戦の勝ち負けは、目立つ場所だけで決まるわけではない。本戦の前に美濃の要を一日で奪い、西軍の足場を崩していたこと。家康の意を伝える使いとして動いていたこと。そして家康の娘婿という揺るがない立場。それらがすべて合わさって、戦後の評価につながっていった。
輝政が力を振るったのは前哨戦であり、本戦での働きは伝わっていない。それでも、輝政は関ヶ原の勝者の一人だった。
西国をにらむ白鷺の城
関ヶ原の戦功によって、輝政は播磨一国、五十二万石を与えられた。山川出版社の『日本史小辞典』によれば、一族の所領を合わせると九十二万石に達したという。慶長8年(1603年)には、督姫との子・忠継が備前二十八万石を領している。池田家は「姫路宰相百万石」と呼ばれたと記す事典もある。小牧・長久手で家の柱を失ってから、わずか十六年。池田家は、かつてない高みに立った。
輝政が拠点としたのは、播磨の姫路だった。関ヶ原の翌年、慶長6年(1601年)、輝政は姫路城の大改修に取りかかる。工事は八年に及び、大天守が完成したのは慶長14年(1609年)頃とされる。今、私たちが目にする白い城の大部分は、輝政が築いたものである。
なぜ、これほど大きな城が必要だったのか。姫路は、大坂より西の大名たちをにらむ要の地にあった。関ヶ原で敗れた毛利家をはじめ、西国にはまだ徳川に心から従ったとはいえない大名が多くいた。大坂城には、豊臣秀頼(とよとみひでより)がいる。輝政の姫路城は、そうした西国への備えとしての役割を担っていた。
輝政は姫路城を中心に、赤穂、利神、明石など六カ所に支城を置き、城下町の基礎を整えたとされる。播磨の国全体を一つの守りとして組み上げたのである。
後世、輝政は「西国の将軍」と呼ばれるようになった。これは幕府が与えた正式な役職ではなく、のちの人々が付けた呼び名である。家康から西国の大名ににらみを利かせる役を託されたからだとも、家康の娘婿という立場からだともいわれる。いずれにせよ、それだけの重みを持つ大名と見られていたことは確かだろう。
白鷺が羽を広げたような城の姿は、輝政という人そのものとは、少し違う印象を与えるかもしれない。華やかさよりも、口数少なく黙々と役目を果たす。輝政は、そういう人物だったと伝わるからである。
運に恵まれた男の最期
江戸時代に編まれた『名将言行録』には、輝政が幼い頃は快活で、成長すると剛直になり、口数が少なかったと記されているという。
同じ書には、こんな話も載る。武将にとっての三つの宝は何か、と問われた輝政は、農民、代々仕える家臣、そして鶏を挙げたという。鶏は、陣中で時を告げ、合図の役に立つからだ。農民と家臣はわかるとしても、鶏を挙げるところに、この男の飾らない実直さがにじむ。
輝政の出世を、並外れた才覚によるものではなく、運に恵まれた巡り合わせによる面が大きいと見る書き手もいる。たしかに、父と兄の死によって家督を継ぎ、秀吉の取り計らいで家康の娘を迎え、その家康が天下を取った。巡り合わせだけを並べれば、輝政は時代の流れにうまく乗った人に見える。
だが、運はつかむ者にしか味方しない。家康の意を伝える使いを任され、岐阜城では目立たない役を引き受け、敗れた秀信の降伏を受け止めた。派手さはなくとも、任された役目を確実に果たす。その積み重ねがあったからこそ、巡ってきた運を生かすことができたのではないか。
慶長14年(1609年)の暮れ、完成したばかりの姫路城に、寺を建てるよう求める不思議な書状が届いたが、輝政はこれを取り合わなかった、という怪異の話も残る。真偽はともかく、城に宿る怪しい噂を黙って退けるあたりに、剛直な武人らしさが感じられる。
慶長18年(1613年)1月25日、輝政は姫路城で世を去った。五十歳だった。死因は中風とされるのが通説だが、記録に吐血の記述があることから、別の病だった可能性を指摘する見方もある。大坂の陣を前にして、西国の守りの要が倒れたのである。
輝政の跡は、長男の利隆が継いだ。督姫は夫の死後も徳川と池田のあいだを結び、大坂の陣の講和ののちに家康を見舞い、その翌年に病で亡くなった。寛永8年(1631年)、督姫を弔うため、子の忠雄が京都の知恩院に良正院を建てている。
輝政の血は、その後も長く続いた。忠雄の子・光仲は鳥取藩の初代藩主となり、利隆の子・光政は岡山藩の名君として名を残した。池田家は、江戸時代を通じて西国の大大名として生き続けたのである。
父と兄を同じ日に失った若者は、信長の孫の城を自らの手で落とし、戦わなかった本戦ののちに、白く輝く城の主となった。その城は、四百年以上の時を越えて、今も播磨の空にそびえている。華々しい武勇伝の少ない輝政の生涯は、目立たない役目を黙って果たし続けた者が、最後に何を手にするのかを静かに語っているように思える。