浅井長政
【サマリー(リード文)】
浅井長政は、スラッとした高身長で美男子の、若くして死んでしまった戦国武将です。
女性に優しく愛妻家で、戦に敗れて自害する直前に、妻と3人の娘たちを脱出させたというエピソードがあります。
性格はとても義理堅く、同盟を組んだ信長をとるか、古くから親交のある朝倉氏をとるかで悩み、長年の義理を優先させた結果、29才で滅びてしまったという悲しい結末に終わりました。
そんな浅井長政の魅力について、紹介していきます。
【プロフィール】
浅井長政(あざい ながまさ)は、天文14年(1545年)生まれ。血液型は不明。
幼い頃は「猿夜叉丸(さるやしゃまる)」と呼ばれ、15才で元服して「賢政(かたまさ)」と名づけられた後、17才で「長政」に改名しました。
浅井を「あざい」と読むか「あさい」と読むかについては諸説あって、どちらが正しいかはわかっていません。テレビの大河ドラマで「あざい」として放送された影響からか、現代では「あざい」と思っている人が多いようです。
ゲームで美男子キャラで描かれることが多い長政ですが、現実世界でも見た目がイケメンだったといわれています。身長も約180cmと、かなりの長身でした。
【家紋】
浅井長政の家紋は、「三つ森亀甲に花角(みつもりきっこうにはなかく)」、もしくはひとつだけの「亀甲に花角(きっこうにはなかく)」。
亀の甲羅のもようは、「玄武(げんぶ)」という亀の神様を意味する紋章です。
浅井家に代々伝わる家紋、というよりは長政の代だけで使っていた家紋のようで、長政もこの玄武の加護を受けようとして使用していたんじゃないか、といわれています。
玄武は中国の神様ですが、「鶴は千年、亀は万年」といって、日本でも亀は長寿の生き物とされていたので、そういう意味でも縁起のいいもようです。
若くして死んでしまった長政ですが、誰よりも長寿を願っていたのかもしれません。
【刀】
長政の刀は、「浅井一文字(あざいいちもんじ)」。
信長から長政に送られたというこの刀。名前はもちろん、浅井長政から取っています。
長政の死後は、娘である茶々が形見として持っていましたが、大坂の陣で行方不明になり、のちに徳川家の手に渡りました。
長政は武勇に優れていた、といわれていますから、その刀も実戦向きの名刀だったに違いありません。
【兜】
長政の兜に関する情報は特に残っておらず、兜にはあんまりこだわりがなかったんじゃないかと思われます。
【甲冑、鎧】
「黒漆塗紺色威胴丸(くろうるしぬりこんいろおどしどうまる)」という鎧が滋賀県指定文化財として残っていて、もしかしたら長政の着ていた鎧かもしれない、という説があります。
しかし確信を持てるほどの情報ではなく、エピソードなども特に残っていないようです。
【最後】
長年の仲だった朝倉氏が一乗谷の戦いで滅亡したあと、長政の本拠地である小谷城は信長の軍に包囲され、長政は29才の若さで自害しました。
長政は自害する前に、正室である「お市の方」と、その娘たち3人を逃がした、というエピソードがあります。
しかし、実は逃がしたのではなく、信長に引き渡したという説があります。
お市はもともと信長の妹ですから、信長に捕まっても命だけは助けてくれるだろう、と考えたんじゃないでしょうか。
自分は死んでも、妻と娘たちの命だけは守りたい。長政の武士道ならぬ騎士道精神が表れていますね。
【正室「お市」】
長政は、正室であるお市の方と、とても夫婦仲がよかったといわれています。
20才前後の頃に結婚したのですが、それは織田家と浅井家が同盟を結ぶための、政略結婚でした。
25才のときに信長との同盟が破棄され、そのままお市とも離婚するのかと思われましたが、もはや政治抜きに仲のよかった二人は、そのまま夫婦でいつづけました。
同盟が破棄されたことを信長に伝えるために、お市が小豆の入った袋を縄でくくり、「陣中見舞い」として送った、というエピソードがあります。
「このままでは袋の中の小豆のように、あなたは包囲されてしまいますよ」というメッセージです。
ネズミ小豆という名前の小豆があることから、このエピソードは「袋のネズミ」と呼ばれています。
兄を殺されてしまうのもつらいし、かといって大切な長政を裏切るわけにもいかず、お市が悩んだ末に思いついた策でした。
ただ、この袋のネズミ話は創作だといわれています。
【子孫とその後】
のちに「浅井三姉妹」と呼ばれる3人の娘たちは無事に生き延び、信長から受けたのは処刑どころか厚待遇でした。
浅井三姉妹は超美人だったといわれていて、それが関係あったかどうかはわかりませんが、かなり贅沢な暮らしができたということです。
しかし、長政の息子たちの扱いはまったくの逆。嫡男(ちゃくなん)の「万福丸」は処刑され、次男の「万寿丸」は処刑こそされなかったものの、出家させられるはめになりました。
これによって、浅井家の男子は断絶してしまい、残ったのは女子のみ。女系の子孫は現代も続いています。
女性を大事にするイメージのある長政ですが、時代が時代なだけに、男子の血が断絶してしまったことを知ったら嘆いたに違いありません。
【居城「小谷城」】
長政の居城は「小谷城(おだにじょう)」。長政の最後の戦いの舞台になったのがこの城です。
かなり強固な山城で、信長も無理に攻めることは断念し、近くに城を作るなどして包囲作戦を取るしかありませんでした。
祖父の亮政が作った小谷城でしたが、亮政の代には六角定頼に攻められて退城した歴史があり、長政の代になって父の久政がこの城で自害、長政も数日後にこの城で自害しました。
親子3代のうち1人は退城、2人がその場で自害するという、なんともいわくつきの城になってしまったという話です。
【浅井長政について】
浅井長政は家臣や女性など、自分より下の人間にも気遣いを忘れなかった武将です。
どんなときでも筋を通し、それが自分の運命を左右する結果にもなりました。
エピソードをいくつか紹介します。
・義理堅い性格
弱腰な外交で家臣たちから不信がられていた父、久政を追放し、家督を継いだ長政。
戦死した家臣の娘へ安堵状を送ったり、死ぬ直前に家臣に感謝状を送るなど、とても義理を大事にする性格でした。
そして、こんな話があります。
長政は15才のとき、父のせいで主従関係になってしまった六角家の、家臣の娘と結婚することを強要されました。
その主従関係に耐えられず、家督を継いでからすぐに六角家を破り、結婚相手だった六角家家臣の娘と離婚しました。
結婚していた期間は1年もありませんでしたが、押し付けられたこの結婚に不本意だった長政は、一切手を出さずに六角家に返しました。
その理由は、むりやり政略結婚させられた相手の娘に同情していたからではないか、といわれています。
返すつもりだったとはいえ、嫁に来た女性に一切手を出さないというのも、なかなか出来ることではありません。
単純に容姿が好みじゃなかった等の理由がもしかしたらあるのかも知れませんが、長政の義理堅い性格を表しているエピソードだと思います。
・信長の裏切りにより滅亡の道へ
長政は信長と同盟を組む条件として、朝倉氏と戦わないことを約束させていました。しかし、信長はその約束を破り、朝倉氏を攻め始めました。
妻のお市の方の兄である信長につくか、古くから親交がある朝倉氏につくか悩みぬいた末、長政は朝倉氏との仲を優先させて、信長と戦うことを決意しました。
信長は、お市との婚礼資金を全額出して祝ったほど長政のことを気に入っていたので、中立になることはあってもまさか自分を攻めてくるとは思っていませんでした。
あえて相談なしに朝倉氏を攻めることで、信長は長政が中立を貫けるように配慮した、という説もあり、信長側から見れば長政に裏切られた形です。
これがきっかけで織田家と浅井家の同盟は崩れ、のちに信長に滅ぼされる結果になってしまいました。
親友をとるか、親族をとるか、板ばさみになってしまった長政の苦悩は計り知れないと思います。命がかかった選択で、長い付き合いである親友を選んだ長政は、やはり義理を大事にする性格でした。
・浅井親子の頭蓋骨が金箔に塗られて酒宴の場に
小谷城で信長の軍に敗北し、自害した長政と久政の頭蓋骨が漆塗りにされたうえで金箔で飾られ、織田軍の酒宴の席で披露されたというエピソードがあります。
長政の裏切りに怒った信長が、さらし者にするためにやったと思われがちですが、これは戦国時代の死んだ人間を供養するための風習だった、ともいわれています。
この頭蓋骨に酒を入れて信長が飲んだなんていう話もありますが、信長はそもそも酒嫌いだったので、真偽は定かではありません。
もし長政が信長側について朝倉氏を攻めていたら、朝倉義景の頭蓋骨を金箔で飾った宴の席に、信長と一緒についていたかもしれません。
供養するための風習ではなかったとしたら、義理堅い性格の長政ですから、きっとそれをきっかけに怒り、結局信長と戦うことになったと思います。