天下人である徳川家康が、その生涯において最も恐れ、そして最後まで屈服させることができなかった男がいる。信濃国の小領主、真田昌幸(さなだまさゆき)である。
「表裏比興の者」――豊臣秀吉は昌幸をそう評した。裏表があり、食えない人物。昨日の友は今日の敵と言わんばかりに、大国同士の争いの狭間で主君を次々と変え、寝返りを繰り返したその生き様は、一見すると不義理で狡猾なものに映るかもしれない。しかし、その「狡猾さ」こそが、大軍が蹂躙(じゅうりん)する戦国の世において、真田という小さな一族を守り抜くためのたった一つの生存戦略であった。
彼の凄さは、単に戦場で奇策を用いて敵を打ち破ったことだけにとどまらない。己の知略と冷徹なまでの判断力を武器に、絶望的な兵力差を覆し、さらには愛する息子たちを敵味方に分かつという身を切るような決断を下してまで、真田の血と名を後世に繋ぎ止めたその執念にこそある。
戦国という非情な時代を、戦うこと、騙すこと、待つこと、そして耐え忍ぶことで生き抜いた知将の胸の内には、どのような景色が広がっていたのだろうか。
目次
甲斐の虎に愛された天才の原点――武田信玄の「両眼」
真田昌幸の戦術と知略の原点は、甲斐の虎・武田信玄のもとで過ごした青春時代にある。
天文十六年(一五四七年)、真田幸隆(さなだゆきたか)の三男として生まれた昌幸は、わずか七歳にして人質として甲斐の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)へと送られた。小豪族の三男坊という、本来ならば歴史の表舞台に出ることもなく埋もれていくはずの運命であったが、信玄はこの少年の奥底に眠る途方もない才能を見逃さなかった。
信玄は昌幸を自らの「奥近習衆」に抜擢し、側近として育て上げた。兵法、軍略、そして何より人心を掌握し動かすための「人心の機微」を、昌幸は信玄という希代の戦術家の傍らで息をするように吸収していった。「我が両眼の如し」――信玄は昌幸をそう呼び、自身の目と等しいほどの信頼を寄せたという。
十五歳で初陣を飾った第四次川中島の戦い。死闘が繰り広げられる血なまぐさい戦場の空気は、少年であった昌幸の心に戦の恐ろしさと、そして勝つための冷徹な計算を刻み込んだに違いない。彼はそこで、力押しだけではない、情報を操り、地形を味方につけ、敵の心理の虚を突く武田流の兵法を肌で学んでいった。
しかし、昌幸の青春を育んだ武田家は、信玄の死後、転がるように滅亡への道を歩み始める。天正十年(一五八二年)、織田信長・徳川家康の連合軍による甲州征伐である。昌幸は主君・武田勝頼に対し、険しい岩櫃城へ逃れ、そこで迎え撃つようにと進言する。それは、地形の利を最大限に活かし、時間を稼ぐことで状況の好転を待つという、後の昌幸の真骨頂とも言える戦略であった。
だが、勝頼はその策を退け、岩殿城へと向かい、やがて天目山で自刃して果てる。主家滅亡の報を聞いたとき、昌幸の胸をよぎったのは、恩師である信玄への申し訳なさか、それとも己の力不足への歯がゆさであったのか。
拠り所を失った昌幸は、ここから真田家という小さな船を操り、信長、北条、上杉、そして徳川といった巨大な波が渦巻く嵐の海へと漕ぎ出していくことになる。
大国を翻弄する蜘蛛の糸――「表裏比興」の生存戦略
武田家が滅びた直後、昌幸は即座に織田信長に臣従の意を示す。しかしその数か月後、本能寺の変で信長が横死すると、信濃・上野の情勢は一気に流動化した。「天正壬午の乱」と呼ばれる、旧武田領を巡る大国同士の草刈り場となったのである。
この絶望的な状況下で、昌幸の「凄さ」が遺憾なく発揮される。
彼はまず、相模の北条氏直に降り、その軍勢の先導役として信濃へ侵攻する。だが、北条と徳川が対峙すると、今度はあっさりと徳川家康へと寝返った。さらに、徳川と北条が和睦し、その条件として真田の領地である沼田城を北条へ引き渡すよう家康から理不尽な要求を突きつけられると、昌幸はこれを猛然と拒否。今度は越後の上杉景勝へと鞍替えを果たした。
わずか数年の間に、次々と主君を変え、大国を手玉に取るような動き。常識で考えれば、信用を失い、真っ先に討伐されてもおかしくない所業である。だが、昌幸は自らの地の利と、各大名の利害関係を冷酷なまでに計算し尽くしていた。どちらへ転べば自らが主導権を握れるのか。どう動けば、相手が自分を無下にはできないのか。
全体を見渡し、敵の思惑を読み切り、蜘蛛が巣を張るように罠を仕掛けていく。秀吉が彼を「表裏比興の者」と呼んだのは、あきれ半分、そしてその並外れた生存能力に対する感嘆の念が含まれていたに違いない。彼は決してむやみに裏切っていたわけではない。常に「真田という家が生き残る」という絶対の目的のために、最適解を選び続けていただけなのだ。
巨大な罠としての城――第一次上田合戦の奇跡
天正十三年(一五八五年)。沼田領の引き渡しを拒否した真田を討伐するため、徳川家康はついに七千の大軍を上田へと差し向けた。迎え撃つ真田の兵力は、農民などをかき集めてもわずか二千に満たない。誰もが徳川の圧勝を疑わなかった。
しかし、昌幸にとって、この戦いはすでに城を築き始めた段階から始まっていた。彼が居城とした上田城は、もともとは徳川家康の庇護下にあった時代に、家康からの資金援助も受けて築き上げたものである。敵の金で作った城で、その敵を迎え撃つ。これほど昌幸らしい皮肉な幕開けはない。
上田城は、千曲川とその支流を天然の要害とし、城下町そのものが迷路のように入り組んだ巨大な軍事要塞として設計されていた。昌幸は城下町に柵や土塁を築き、あえて守りを薄く見せかけることで、徳川軍を深く誘い込んだ。
「徳川勢など恐るるに足りず」
昌幸は兵たちをそう鼓舞し、将棋盤に向かって悠然と碁を打っていたという逸話すら残っている。圧倒的な兵力差を前にして見せたその余裕は、計算のすべてが整っているという自信の表れであった。
徳川軍が城の二の丸付近まで攻め込んだ瞬間、昌幸の罠が牙をむいた。城内からの一斉射撃。同時に、背後の砥石城から長男・信幸の部隊が側面を突き、さらには城下に潜ませていた伏兵たちが退路を断つ。千曲川の堰を切り、鉄砲水で溺れさせるという非情な一撃まで用意されていた。
大混乱に陥った徳川軍は、統制を失って敗走。二千の真田軍が、七千の徳川軍を完膚なきまでに打ち破ったのである。徳川方の死傷者が千三百人を超えたのに対し、真田方の被害はわずか数十人。戦国史に残る、完璧な戦術的勝利であった。
この一戦により、真田昌幸の名は天下に鳴り響き、徳川家康の心に「真田」という拭い去れない恐怖を植え付けることとなった。
犬伏の別れ――身を切るような親子の決断
天下は豊臣秀吉の統一を経て、慶長五年(一六〇〇年)、再び大きく割れようとしていた。徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いである。
家康に従い、会津の上杉討伐へと向かっていた昌幸のもとに、三成からの密書が届く。下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)の陣所で、昌幸は長男の信幸(信之)、次男の信繁(幸村)を呼び寄せた。
「どちらにつくべきか」
陣屋の戸を固く閉ざし、親子三人だけで行われた密議。これが、後に「犬伏の別れ」と呼ばれる悲劇的な決断の場であった。
真田のような小国が、どちらか一方に与して敗れれば、家そのものが消滅してしまう。昌幸が下した決断は、長男・信幸を東軍の徳川方へ残し、自身と次男・信繁は西軍の豊臣方につくという、家族を二つに引き裂くものであった。
信幸の正室は、家康の重臣・本多忠勝の娘、小松姫である。一方で昌幸の正室は西軍の拠点である大坂に人質として留め置かれており、信繁の正室は西軍の首脳である大谷吉継の娘であった。それぞれの姻戚関係を考えれば、この分断は極めて合理的であり、どちらが勝っても真田の血が残るという究極の危機回避の策であった。
しかし、それがどれほど合理的な判断であったとしても、父親が自らの口で「今日から我らは敵味方だ。戦場で会えば容赦なく討て」と息子たちに告げる苦しみはいかばかりであったろうか。
武将としての非情な計算と、愛する息子たちと永遠に分かたれるかもしれないという父としての情愛。盃を交わし、別れの酒を飲み干した夜、三人の目には言葉にならない感情が渦巻いていたに違いない。
犬伏での決別は、戦国を生き抜くための最も冷徹な戦術であると同時に、真田という家を守り抜くために家族の絆すら犠牲にする、痛切な情緒に満ちた人間のドラマであった。
第二次上田合戦――秀忠の大軍を釘付けにした魔術師
西軍に与することを決めた昌幸と信繁は、急ぎ上田城へと引き返した。そこへ押し寄せてきたのは、徳川家康の嫡男・秀忠が率いる三万八千という圧倒的な大軍である。真田の兵力は、その十分の一にも満たない三千弱に過ぎなかった。
普通に戦えば、ひとたまりもない。だが、ここでも昌幸の「戦術眼」という名の魔術が光り輝く。
秀忠からの降伏勧告に対し、昌幸はうやうやしい態度で「開城に応じます」と返答。安堵した秀忠の軍が気を緩めた隙に、昌幸は城の防備をさらに固め、数日後に「やはり降伏は取りやめる。一戦交えよう」と挑発したのである。
激怒した秀忠は上田城へと総攻撃を仕掛けるが、これは第一次上田合戦と同じく、完全に昌幸の掌の上での出来事であった。
昌幸はまたしても伏兵を巧妙に配置し、刈田狼藉(敵の田畑を荒らす行為)を行って徳川軍を誘い出した。狭い城下に大軍がなだれ込んだところで、信繁の部隊が側面から急襲。混乱する秀忠軍を徹底的に翻弄し、時間を稼ぎ続けた。
昌幸の真の目的は、秀忠の軍勢を打ち破ることではない。家康の本隊が待つ関ヶ原の決戦場へ、この三万八千の大軍の到着を遅らせることこそが彼の描いた絵図であった。
数日にわたる足止めの末、秀忠はついに上田城の攻略を諦め、関ヶ原へと向かう。しかし、時すでに遅し。九月十五日、秀忠の軍勢が到着する前に、関ヶ原の戦いは家康の勝利で幕を閉じていた。
徳川の主力軍なしで決戦を強いられた家康の冷や汗と、遅参した秀忠に対する激怒。これらはすべて、信濃の山奥でたった三千の兵を指揮した初老の武将・真田昌幸によって引き起こされたものであった。戦には敗れた西軍であったが、局地戦における昌幸の完全勝利は、再び天下にその名を刻み込んだのである。
九度山での流人生活と、筆まめな父の愛
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わったことで、西軍についた昌幸と信繁の運命は暗転する。本来ならば切腹は免れないところであったが、東軍で武功を立てた長男・信幸とその義父である本多忠勝の必死の嘆願により、死罪を免れ、紀伊国九度山(現在の和歌山県九度山町)への配流となった。
「犬伏の別れ」で仕掛けた命がけの備えが、ここで機能したのである。
しかし、九度山での生活は、かつて大軍を指揮した大名にとってはあまりにも惨めなものであった。生活費にも事欠く困窮した日々。昌幸はこの流人生活の中で、国許の長男・信幸に向けて数多くの手紙を書き送っている。
それらの手紙からは、「表裏比興の者」と呼ばれた恐るべき策士の姿とは異なる、生々しいまでの人間味と家族への愛が立ち上ってくる。
「大くたびれ候」
(非常に疲れ切ってしまった)
「金子を送ってほしい」
(お金を送ってくれないか)
時には信繁が代筆し、「焼酎を送ってほしい。こぼれないように壺の蓋をしっかり閉めてくれ」と細々とした頼み事を書き送ることもあった。遠く離れた信幸を気遣いながらも、自身の不自由な生活を愚痴り、無心をする。そこにあるのは、知将・真田昌幸ではなく、ただ老いていく一人の寂しい父親の姿であった。
だが、昌幸は決して牙を抜かれてはいなかった。彼は本多正信らを通じて幕府への赦免工作を諦めず、「近いうちに許されて、また上田に帰れるはずだ」と希望を捨ててはいなかった。いつか再び世に出る日のために、徳川の世の動静に目を光らせていたのである。
彼がここまで筆まめに手紙を書き続けたのは、単なる生活の無心だけが理由ではない。情報こそが弱者の最大の武器であることを誰よりも知っていた昌幸にとって、国許の信幸や家臣たちと文字で繋がり続けることは、彼に残された最後の「戦い」であったのかもしれない。
死してなお家康を震え上がらせた「凄さ」
しかし、昌幸の願いが叶うことはなかった。慶長十六年(一六一一年)、赦免の知らせを聞くことなく、昌幸は九度山の地で病に倒れ、六十五年の生涯を閉じた。
「自分が死んだ後、数年以内に徳川と豊臣の間で必ず大きな戦が起こる。その時は青野ヶ原(大垣市周辺)で徳川を迎え撃て」
死の床で信繁に遺したとされるこの言葉は、彼の戦略眼がいかに死の直前まで鋭く保たれていたかを物語っている。
昌幸の死から三年後、大坂冬の陣が勃発する。大坂城に入城した武将の中に「真田」の名があると聞いた徳川家康は、手にしていた采配を落とすほど動揺し、「親の方か、子の方か(昌幸か、それとも信繁か)」と恐れおののいて尋ねたという有名な逸話がある。
すでにこの世を去っていた昌幸であったが、その存在は依然として家康の心に底知れぬ恐怖の呪縛として絡みついていたのだ。
結果として、父の遺志を受け継いだ次男・信繁(幸村)は、大坂夏の陣で徳川本陣に決死の突撃を敢行し、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」として歴史にその名を刻むことになる。そして長男・信幸は、徳川政権下で松代藩十万石の基礎を築き、幕末まで真田の家名を存続させた。
二人の息子たちの輝かしい軌跡は、すべて父・昌幸がその命と知略を削って敷いた道筋の上に成り立っている。
「表裏比興の者」と嘲られようとも、主家を次々と変える節操のなさと非難されようとも、昌幸の眼は常に「真田家の存続」という一点だけを見つめていた。大国に囲まれた小国が生き残るためには、きれいごとだけでは済まされない。泥にまみれ、嘘をつき、時には家族をも切り離す。その壮絶な覚悟と、それを実行に移すだけの圧倒的な戦術眼。
それこそが、戦国という狂気の時代において、誰よりも人間らしく、誰よりも冷徹に家族を愛した真田昌幸という男の「凄さ」なのである。彼の残した無数の謀略の軌跡は、生きることへの執着が生み出した、血の通った芸術作品として今も語り継がれている。