朝鮮出兵の島津家と聞けば、多くの人はまず島津義弘(しまづよしひろ)の名を思い浮かべるだろう。泗川の城に籠もって明・朝鮮の大軍を打ち破り、敵から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられた猛将である。その武名はあまりに鮮やかで、同じころ兄の島津義久(しまづよしひさ)がどこで何をしていたのかは、ほとんど語られることがない。
島津家の当主は義久だった。それなのに、この戦いの物語に当主の姿は見えない。海を渡ったのは弟であり、甥であり、家臣たちであって、義久その人は一度も朝鮮の土を踏んでいない。
では、義久は何をしていたのか。なぜ行かなかったのか。その問いをたどっていくと、華々しい戦場の話とはまるで違う、もう一つの朝鮮出兵が姿を現す。
渡海しなかった当主
義久が朝鮮へ渡らなかったことは、はっきりしている。ただ、その理由については、少し立ち止まって考える必要がある。
一般向けの読み物では、義久は「病気を理由に」出兵しなかった、と書かれることが多い。もっともらしい説明だが、朝鮮出兵のころの義久が病に伏していたことを示す記録は、今のところ見当たらない。人名辞典は、義久は弟の義弘を派遣し、自身は太閤検地などへの対応にあたった、と記すにとどまる。
病で行けなかったのではなく、国元に残らねばならなかった。そう読むほうが、残された出来事とよくかみ合う。実際、義弘が朝鮮で戦っていた数年のあいだ、薩摩では当主でなければ引き受けられない難事が次々と起こっていた。軍船と兵の工面、領内で起きた一揆、弟の成敗、そして検地である。
義久の朝鮮出兵は、戦場ではなく国元にあった。そのことを確かめるには、まず五年前、島津家が豊臣秀吉の前に膝を屈した日まで遡らなければならない。
竜伯と名乗った日
天正15年(1587年)、秀吉は大軍を率いて九州に乗り込んできた。島津家はそれまで、九州のほぼ全域を手中に収めようかという勢いにあった。義久はそれ以前、大友氏との和議を勧める秀吉の求めを退けており、秀吉を「由来なき仁」と評して、その返書を笑止としたと伝わる。素性の知れぬ成り上がりに、南九州を長く治めてきた名家が頭を下げる理由はない――そういう誇りが、島津の当主にはあった。
しかし、圧倒的な兵力の差は、誇りだけでは埋まらない。日向の根白坂で、島津勢は羽柴秀長の軍に敗れた。この一戦で、もはや勝ち目のないことが誰の目にも明らかになった。
5月、義久は髪を下ろし、「竜伯」と号した。そして薩摩川内の泰平寺に本営を構えていた秀吉のもとへ出向き、降伏した。
髪を下ろすことは、ただの儀礼ではない。戦国の大名にとって、それは俗世の権勢を捨てるという意思の表明であり、ときに命乞いの姿でもあった。かつて九州の覇者を目前にした男が、墨染めの衣で成り上がりの天下人の前に進み出る。そのときの義久の胸中を語る記録はないが、屈辱を飲み下すのに必要だった覚悟の重さは、想像に難くない。
家中のすべてが降伏に納得していたわけではなかった。弟の義弘は、はじめ抗戦を主張したという。それを説き伏せたのは兄の義久だった。義弘は兄に従い、我が子の久保を人質として差し出している。
降伏の代わりに、義久は薩摩・大隅・日向諸県郡などを安堵され、7月には上洛した。家は残った。だが、残った家はもはや自分たちだけのものではなかった。秀吉の命があれば兵を出し、船を出し、海の向こうへ人を送らねばならない。その日が来るまでに、五年とかからなかった。
船も兵も足りなかった
天正20年(1592年)、秀吉は朝鮮への出兵を諸大名に命じた。後に文禄の役と呼ばれる戦いである。島津家は軍の四番隊に組み込まれ、約1万人の軍役を課された。その兵を率いる役目を担ったのが、義弘だった。
2月、義弘は島津家を代表して栗野城を発ち、出兵の拠点となる肥前名護屋へ向かった。ところが、義弘の手元にはほとんど兵がいなかった。義弘は23騎で期日までに名護屋に着いたものの、国元から送られるはずの軍勢と軍船が届かない。自分が遅陣になってしまったことを嘆く義弘の書状が残っている。
近年の研究では、義弘は朝鮮へ渡る船さえ満足に用意できず、5月3日、わずか1隻の船で釜山に上陸したとされる。1万人を出すはずの家が、当主の弟をたった1隻の船で送り出したのである。島津家の動員の遅れは、のちに「日本一の遅陣」とまで言われることになる。
なぜ、これほどまでに兵が集まらなかったのか。「戦国最強」と語られる島津家には、意外な素顔があった。
近年の研究では、島津家は家臣を十分に束ねきれない「弱い」大名として理解されてきたという。豊臣政権のもとでも、義久はいわば一族や有力家臣たちの盟主であり、その権限は、彼らとの微妙な釣り合いの上にかろうじて成り立っていた。当主が命じれば家臣が一斉に動く、という家ではなかったのである。
国元の家臣たちにしてみれば、秀吉の戦はつい先日まで敵だった男の戦である。しかも行き先は海の向こうの見知らぬ国だ。降伏の傷も癒えぬうちに、命を懸けて渡海せよと言われても、すぐに腰が上がるものではない。義久はその空気を誰よりもよく知っていたはずだ。当主として秀吉の命に応えねばならない一方で、家臣を力ずくで追い立てれば、家そのものが内側から崩れかねない。
軍費もまた、島津家を締め上げた。義久は薩摩・大隅・日向諸県郡の社寺領の3分の2を徴収し、これを戦費に充てたとされる。寺社の領地に手をつけるのは、領国の秩序の根に触れることである。そこまでしなければ、戦の費用を賄えなかった。
この年、秀吉は琉球を、島津家の軍役を支える与力として付けてもいる。外からの支えを足してもなお、島津家の台所は苦しかった。
海の向こうで遅れを嘆く弟と、国元で兵と金をかき集める兄。二人は同じ家の存続を願いながら、それぞれの場所で、それぞれの無力と向き合っていた。
佐敷城の煙
兵の動きが鈍かった理由は、家の構造だけではなかった。その不満が、最悪の形で噴き出したのである。
天正20年(1592年)6月15日、島津家の家臣、梅北国兼が兵を率いて、肥後の佐敷城を奪った。梅北は大隅の湯之尾などの地頭を務めた男で、本来は朝鮮へ向かう途上にあった。佐敷城は加藤清正(かとうきよまさ)の城だが、清正はすでに朝鮮へ渡っており、城は手薄になっていた。
一揆には薩摩の軍勢の一部に加え、肥後の町人や農民も加わったとされる。梅北は翌16日には小西行長(こにしゆきなが)の八代城へも兵を差し向けた。肥後の南部に火を広げようとしたのである。
だが、火は燃え広がらなかった。17日、梅北は佐敷城の留守を預かっていた清正の家臣たちに討たれた。一揆はあっけなくついえた。梅北の首は名護屋城へ送られ、さらされたとされる。なお、城が占拠されていた期間については、従来の3日とする見方のほかに、15日に及んだとする近年の説もある。
出兵の拠点である名護屋には、秀吉その人がいた。その目と鼻の先で、島津の家臣が反旗を翻したのである。朝鮮で戦っている最中に、背後の九州で一揆が起これば、出兵の全体が揺らぎかねない。島津家にとって、これほど危うい事態はなかった。
そして調べが進むうちに、さらに重大なことが明らかになる。一揆の中に、義久の弟、歳久の家臣が加わっていたのである。
秀吉は激怒した。
弟を討つ決断
歳久は、島津四兄弟の三男である。九州征伐の前、家中でただ一人、秀吉との和睦を唱えた男だったとされる。ところが降伏したあとは、かえって秀吉に従おうとしなかったという。
文禄の役に際して、歳久は中風を理由に参陣しなかった。秀吉は義久や義弘には朱印状を出したが、歳久には出さなかったとされる。秀吉の目は、とうに歳久に向けられていた。その歳久の家臣が、梅北の一揆に加わっていたのである。
秀吉は、歳久が以前から自分に対して不正を働いていたが、義久と義弘が降伏したことに免じて見逃してきたのだ、と述べたとされる。もはや見逃すことはない、という宣告にほかならなかった。
義久は決断を迫られた。弟をかばえば、島津家そのものが秀吉の疑いの的になる。弟を差し出せば、家は残るかもしれない。
義久は追討の軍を送った。率いたのは町田久倍である。
天正20年(1592年)7月18日、歳久は鹿児島の、いま平松神社が建つ地の鳥居のあたりで自刃した。享年56。
歳久は、兄の義久に宛てた遺書を残したとされる。秀吉の前に出られなかったのは病のためであり、やましいところは何もない。けれども謀反の疑いを受けた以上は、島津家の安泰のために腹を切る。そうした趣旨の文面だったという。
弟は、兄を責めなかった。家を守るために死ぬのだと、自ら書き残して逝った。それを受け取った兄の心がどうであったか、記録は何も語らない。ただ、その後の義久の振る舞いが、わずかにその胸の内を映している。
歳久の首は京都の一条戻橋にさらされた。その首は、のちに京から取り戻されて丁重に葬られたと伝わる。義久は歳久の館の跡を訪ね、追悼の歌を詠んだともいわれる。そして秀吉が世を去ったあと、歳久が最期を迎えた地には心岳寺が建てられた。この寺の名は明治の廃仏毀釈まで受け継がれ、旧暦の7月18日には「心岳寺詣り」が営まれた。
秀吉が生きているあいだ、義久は弟を表立って弔うことさえできなかった。天下人が死んでようやく、弟のための寺を建てることができたのである。家を残すために弟を切り、その弟の死を悼むことすら許されない年月を、義久は黙って過ごした。朝鮮へ渡らなかった当主が国元で引き受けたのは、こういう痛みだった。
唐島に消えた娘婿
戦は、海の向こうでも島津家から大切なものを奪っていった。
文禄2年(1593年)9月、朝鮮の唐島、いまの巨済島で、島津久保が病に倒れて亡くなった。まだ21歳だった。
久保は義弘の次男で、九州征伐の降伏の際に人質として差し出された、あの子である。そして義久にとっては、三女の亀寿の夫、つまり娘婿でもあった。久保は家を継ぐべき若者であり、伯父の義久と父の義弘の双方から、早くから後継者と目されていた。
父の義弘は、すぐ近くの戦場で我が子を失った。伯父であり義父でもある義久は、遠い薩摩でその知らせを受け取った。同じ一人の若者の死が、海を挟んだ二人の兄弟を、それぞれ別の場所で打ちのめしたのである。
義久は久保の死を弔い、「南無阿弥陀仏」の六文字を、歌の頭に一字ずつ置いた和歌を詠んだとされる。念仏の一字一字に歌を重ねていくその行いには、言葉にしきれない悲しみを、形を整えることでようやく受け止めようとする人の姿が見える。
けれども、当主は悲しんでばかりもいられなかった。家の跡継ぎを決めなければならない。義久は、久保の弟にあたる忠恒、のちの家久に亀寿を再び嫁がせ、後継者とした。娘の行く末と家の行く末を、一つの縁組で同時に結び直したのである。
歳久を失い、久保を失った。朝鮮出兵が始まってわずか一年あまりのうちに、義久は弟と娘婿を相次いで見送ったことになる。
数字の重さ
国元の難事は、まだ終わらない。次に島津家の前に立ちはだかったのは、刀でも槍でもなく、数字だった。
文禄3年(1594年)、義弘は石田三成に、島津領の検地を求めた。軍役を果たせない家の実情を立て直すには、領国の実態を把握し直すしかなかったのだろう。検地は三成が中心となって進め、島津家からは筆頭家老の伊集院忠棟が加わった。
この太閤検地によって、島津領の石高は大きく膨らんだ。どれほど増えたのかは、伝える記録によって表現が異なる。22万石あまりから56万石あまりになったとするものもあれば、決められた石高が当時の生産高のほぼ2倍に達したとするものもある。いずれにせよ、帳面の上の数字が、土地が実際に生み出す力を大きく上回ったことは確かなようだ。
石高は、そのまま軍役の重さになる。帳面の上で豊かになった家は、それに見合う兵と金を求められる。数字が膨らむほど、領国の暮らしは締め上げられていった。この検地は、島津家の領国運営に大きな影を落としたとされる。
検地のあと、義久と義弘には、それぞれ10万石が割り当てられた。義久は大隅と日向に直轄の地を置き、隼人の富隈城へ移った。一方、検地に関わった伊集院忠棟は、日向諸県郡の庄内に8万石を与えられている。島津の家臣でありながら、豊臣の奉行衆と親しく結びついた忠棟の存在は、のちに家中に深い亀裂を生むことになる。
朝鮮の戦場では、義弘が槍を振るっていた。国元の義久が向き合っていたのは、帳面に記された数字と、それが領国にもたらす重みだった。どちらも、家を残すための戦いであったことに変わりはない。
泗川の勝利のあとに
慶長3年(1598年)、再び朝鮮へ渡っていた義弘は、泗川で明・朝鮮の大軍を迎え撃った。島津勢はおよそ7,000人で泗川の新城にこもり、大軍を打ち破った。島津側の記録では、討ち取った首は38,717にのぼったとされる。「鬼石曼子」の名は、こうして海の向こうにとどろいた。
かつて1隻の船で釜山に渡った弟が、ついに天下に名を響かせる戦果を挙げたのである。この年、秀吉が世を去り、朝鮮出兵は終わりを迎えた。
だが、義久の苦労は終わらなかった。むしろ秀吉亡きあと、島津家はさらに危うい道を歩むことになる。
慶長4年(1599年)、忠恒が京都の伏見で伊集院忠棟を殺害した。忠棟の子の忠真は、これに抗して庄内の乱を起こす。この殺害の黒幕が誰であったかは、記録によっても研究者によっても見方が分かれ、確かなことは分からない。ただ、義久が事件のあと、石田三成に宛てて自らの関与を否定する手紙を送ったことは伝えられている。
そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。義弘は西軍に加わったが、義久と忠恒は援軍を送らなかったとされる。そして西軍は敗れた。
ここからが、義久の最後の戦いだった。近年の研究によれば、義久は西軍への加担を義弘一人の判断によるものとして、徳川家康との講和の交渉を進めた。交渉は約2年に及んだ。その間、家康から上洛を求められても、義久は繰り返しこれを断ったという。病気であるとか、金がないとか、道を直している最中だとか、支度が整っていないとか、さまざまな理由を挙げたとされる。
弟の責任にしたことを、冷たいと見る向きもあるだろう。しかし、弟を守りながら家を守る道は、それしかなかったのかもしれない。かつて歳久の一件で、義久は家のために弟を失った。今度は、弟を生かしたまま家を残す道を、粘り強く探り続けたのである。のらりくらりと上洛を拒み続ける老当主の姿には、敗者の側に立たされてもなお屈しない、島津の当主の意地がにじんでいる。
慶長7年(1602年)12月、忠恒が名代として上洛し、島津家の所領の安堵が確定した。義久はこの年、家宝の「御重物」とともに当主の座を忠恒に譲り、隠居したとされる。家督が誰にいつ譲られたかについては、記録によって異なる記述もあるが、義久が身を引いたのはこのころのことだった。
慶長9年(1604年)、義久は大隅の国分に城を築いて移った。そして慶長16年(1611年)1月21日、その国分城で静かに息を引き取った。享年79。
後世の記録は、義久の辞世として次の歌を伝えている。
「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
世の中の米と水をくみ尽くし、尽くし果てたそのあとは、天の大空へかえるばかり。米を「よね」と読むこの歌には、領国の米の一粒、水の一滴にまで心を砕いて生きた人の、肩の荷を下ろすような響きがある。検地の数字に苦しみ、軍費を工面し、家臣と領民の暮らしをつなぎとめてきた当主が、最後に詠んだのが米と水であったというのは、いかにも義久らしい。
国元で家を持ちこたえさせた当主
朝鮮出兵の物語において、義久はしばしば「行かなかった当主」として、わずかに名を挙げられるにすぎない。海を渡って戦った義弘の武勇に比べれば、国元に留まった兄の姿は、どうしても色あせて見える。
しかし、義久が国元で引き受けたものを一つずつ並べてみると、その印象は大きく変わる。
弟を1隻の船で送り出さねばならなかった無念。寺社の領地にまで手をつけて軍費をかき集めた苦しさ。秀吉の膝元で起きた梅北の一揆と、それに連なって弟の歳久を討たねばならなかった痛み。朝鮮で病に倒れた娘婿の久保への哀惜。帳面の上で膨れ上がった石高の重み。そして秀吉が去ったのち、関ヶ原の敗北から家を救い出すまでの、長く粘り強い交渉。
どれ一つとして、戦場の華々しさとは縁がない。けれども、そのどれか一つでも取り落としていれば、島津家は今日まで続いていなかったかもしれない。
義久は、海を渡らなかったのではない。海を渡る者たちの背後で、崩れかけた家を支え続けていたのである。弟が戦場で名を上げることができたのも、帰るべき家が国元にあったからだ。
戦わずに守る、ということがある。それは剣を振るうよりもはるかに地味で、はるかに孤独な仕事だ。義弘が「鬼石曼子」として海の向こうに名をとどろかせたその陰で、義久は誰にもたたえられることなく、家という重い荷を背負い続けた。米と水とをくみ尽くし、尽くし果てて天の大空へかえっていったこの当主の生き方に、朝鮮出兵のもう一つの姿がある。