織田信長と聞いて思いつくのは、気性の荒さ・奇抜な戦略・情けなしという、暴虐武人ぶりではないでしょうか。しかし、実は心優しく民のために尽くした人間だったとしたら?!
本能寺の変で信長が亡くなるまでの軌跡を追いながら、織田信長という人物の謎に迫ってみます!信長を見る目がきっと変わるはず!
プロフィール
織田信長 | |||
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読み方 | おだ のぶなが | ||
別名・ あだ名 |
第六天魔王(だいろくてんまおう) 尾張の大うつけ(おわりのおおうつけ) 吉法師(きっぽうし) 右府様(うふさま) |
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生年月日 | 1534年(天文3年)5月12日 | ||
身長 | 170cm | 血液型 | B型 |
幼名「吉法師」は生まれながらのスーパースター?!
信長という名「高天原から使わされた長」というのが「信長」という名前に込められていることを知っている人は少ないのではないだろうか。
要は「天が使わした、周りが信じるべき道を作る長」=「信長」というから驚き!実は興味深いのが「幼名」です。幼いころの名前なのですが、信長は「吉法師」と言われていました。
当時「吉」というのは、「鬼の神・スサノオ」を表していました。
スサノオは天界の神でしたが、あまりにも素行が悪いため天界を追い出されて、地上へと降り立ちます。スサノオは、天界と地上で自分自身をがらっと変化させています。
幼いときにはわがままでマザコンで、成長していくと、お調子者で乱暴者になり、天界を追われてしまいます。地上に来てからは、ヤマタノオロチを倒した英雄の神となりました。怪物をも倒す、理想とされるリーダー像となったのです。
では信長はどうだったのでしょうか。母親を好きで愛情を欲していたが、十分に愛情を受けていなかったと言われています。
母親は二男の信行に愛情を注いでいました。信長は、ゆがんだ愛情を母親に持っていたようにも思えます。
そして、粗ぶり・勝手気ままで、父親の葬儀には焼香の灰を、父親の亡骸にぶちまけたとか・・・その反面、農民と相撲を楽しんだ遊び好きとも知られています。
それが、一転して天下統一を目指す強いリーダーとして、逆境にめげずに前を向く精神は、まさしく「スサノオ」のようですよね。
幼名の「吉法師」、成名「信長」も、どちらをとっても信長の生き様をみても、生まれながらのスーパースターだったのではないかと思ってしまうほどです。
名前の由来からみても、親の愛情と期待を一身に受けていたのも分かりますし、その名の通り期待に応えた人物だったのではないかと思います。
信長を守り続けた鎧・兜・刀とは
戦で手に入れた刀などは、臣下に譲ったりしています。
信長が愛用していた刀は、国次「長船景光(おさふねかげみつ)」と無銘刀「織田弾正忠信秀麿上之」の織田家伝来の刀です。
他にも、
- 義元左文字(よしもとさもんじ):今川義元を討ち取った刀
- 薬研藤四郎(やげんとうしろう):懐刀
- 圧切長谷部・藤鮫(へしきりはせべ・ふじざめ):家臣が信長の手打ちから逃げようとして棚に入り込んだが、信長が棚に差し込みそのまま押し切ったと言われている刀
これらの刀が有名です。刀の鞘も凝っているのが特徴です。
鎧・兜は、南蛮好きな信長らしく、インドから取り寄せたヤクという貴重な動物の毛を白黒交互に使い、銀の金具を使用していた。金箔も使われていた兜といい、デザインも見た目も華やかさが好きな信長にピッタリです。
織田家の家紋は七つあります
家紋一つとっても意味があり、込められた思いがあるのだと思ってしまいます。
家紋を頂いたことを感謝しきちんと後世に分かるようにしたり、楽市楽座によって民が楽になることを願った家紋あり、仏教に信仰心があったことも分かります。
家紋にまで人柄があらわれていて、どうしても荒ぶる武将とは感じにくいのです。
- 五つ木瓜(いつつもっこう):織田家の正式家紋
- 揚羽蝶(あげはちょう):残っている陣羽織に残っていた家紋
- 永楽通宝(えいらくつうほう):楽市楽座・関所の廃止のときに使われた
- 五三桐(ごさんのきり):足利義昭から拝領した家紋で、信長の肖像画の着物に描かれている
- 丸に二匹両(まるににひきりょう):五三桐と一緒に頂いた家紋
- 十六葉菊(じゅうろくようぎく):皇室から頂いた家紋で、後鳥羽上皇が愛用していたことがきっかけで皇室の家紋として定着したと言われている
- 無文字(むもじ):禅(仏教)を少なからず信仰していた表れ
織田信長の墓はあちこちにある?!
実は織田信長は、本能寺の変で死んでおらず、生きているという噂もありました。そのせいか、織田信長が逃げ延びたと言われるところに信長の墓ありです。
しかし、有力なのが京都の阿弥陀寺です。
阿弥陀寺の主・清玉上人が本能寺の変のことを聞きつけ、いち早く駆けつけ自害した信長を持ち帰り、阿弥陀寺で供養したと言われています。
さらに、秀吉が信長の葬儀を行うために、遺骨を引き渡してほしいと言ったのを断ったという話もあります。ここには、蘭丸・力丸・坊丸のお墓もあり、今でも供養されています。
信長が、歴史上の人物の通りに傍若無人で、破天荒、うつけなら、ここまで供養されていたでしょうか?
子供たちの行く末も心配でしたが、無事に過ごしている子供もいるということは、やはり信長の人柄が子供たちを生かし、あれこれ言われているような人物ではないという証のような気がしてなりません。
家系と家系図
信長の父母・兄弟 | |||
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父 | 織田信秀 | 母 | 土田御前 |
兄 | 織田信広 | ||
弟 | 織田信勝(信行)、織田信包、織田信治、織田信時、織田信興、織田秀孝、津田秀成、織田信照、織田長益(有楽斎)、津田長利 |
信長の妻・子 | |||
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正室 | 濃姫(鷺山殿、帰蝶、於濃、斎藤道三の娘) | ||
子 | なし | ||
側室 | 吉乃(生駒殿、生駒吉乃、事実上の正室) | ||
子(男子) | 信忠(嫡男、本能寺の変で討死) 信雄(北畠家10代当主、小牧・長久手の戦いで家康とともに秀吉と戦う) |
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子(女子) | 徳姫(岡崎殿、徳川家康嫡男「信康」正室) | ||
側室 | 坂氏、於鍋、養観院、慈徳院、他多数 | ||
子(男子) | 神戸信孝(伊勢神戸家養子) 羽柴秀勝(於次、豊臣秀吉養子) 他、信房、信高など多数 |
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子(女子) | 永姫(前田利家嫡男「利長」正室) 三の丸殿(豊臣秀吉側室) 他、相応院、報恩院など多数 |
織田家は父・信秀の活躍が大きい
織田家というと、信長が1代で築いたイメージがありますが、信長の父・信秀(のぶひで)がとにかく凄腕の武将で頭が切れる人でした。
元々、本家ではなかった信秀は、17歳で家督を継ぐと23歳で名古屋城を本拠にします。
築城しては引越しし、さらに朝廷や伊勢神宮など神社には献金をし、お金を使い、顔を売り、織田本家より地位も実力も上にしたのです。
さらに、 信秀は領地を広げるため、三河の松平清康(まつだいら きよやす)が亡くなった隙をついて攻め込みます。この隙をついたことがきっかけで、今川義元(いまがわ よしもと)と対立することになります。
そこに、武将として名高い斎藤道三(さいとう どうざん)との攻防もあったため、信長と帰蝶の結婚は、織田家にとって大きな出来事となりました。
父である政秀が織田家の地位を上げたことが、信長にとってトップへとのぼる大きな基盤となったのは間違いないようです。
信長は愛妻家だった!
信長の正室は斎藤道三の娘·帰蝶(きちょう、別名:濃姫)だと言うことは知られていることですが、側室が8人おり、子供の数も男女合わせて20人を越える大家族でした。
側室・生駒(いこま)のことは史記に残っていますが、帰蝶のことは余り残ってはいません。当時、信長の父・信秀が織田家の領地を守るために、斎藤道三や今川義元と攻防を繰り返していました。
このままでは織田家の存続が危ぶまれると、信秀の臣下・信長のお目付け役の平手政秀(ひらて まさひで)が、信長と斎藤道三の娘・帰蝶と結婚させ和睦をと、信秀を説得しました。
信秀は平手の意見を取り入れ、道三に交渉を持ちかけます。道三もこれを承諾し、信長と帰蝶の結婚へと繋がりました。信長と帰蝶は政略結婚だったのです。
政略結婚とはいえ、信長は帰蝶との結婚をとても喜びました。
信長はお酒に弱く飲めないのに宴を開き盛大に祝い、一緒に津島神社へ参拝したりと仲睦まじい様子は史記に残されています。
残念ながら帰蝶との間に子は授からなかったこともあり、側室を迎えました。
信長が本能寺で亡くなったあとに、信長が大事にしていた安土城を文字って帰蝶は「安土殿」と呼ばれ大事にされていたことも分かっています。
側室・生駒を寵愛したと言われていますが、信長死後の流れを見ていると、信長は愛妻家だったのだから、帰蝶は安土殿となり大事に扱われたのだと思っちゃいますね。
本当は今川家とも和睦をしたく、縁結びを試みたのですが、失敗に終わります。今川家とはとことん合わなかったのでしょうかね。
織田信長の子供たちと現在
信長には20人もの子供たちがいました。男子が11~12人、女子が12人というところまで分かっています。
というのは、実在していたか疑われる人物もいるからです。長男から始まり、末娘に至るまで、信長が子供を大事に思っていたエピソードもありと、信長の人柄がうかがえますね。
長男・信忠(のぶただ)
幼名は奇妙丸。信長の跡取りとして活躍したが、本能寺の変のあと二条城で自害。
次男・信雄(のぶかつ)
幼名は茶筅丸。織田家の家系を今に伝える織田家直系
三男・神戸信孝(のぶたか)
幼名は三七。錢ヶ兵の戦いで、秀吉に負け自害。神戸氏(かんべし)の養子になる。
秀吉に母・娘を人質に取られたこと、信長のこともあり、秀吉には強い恨みを残して亡くなっている。辞世の句にまで秀吉のことを唄っている
四男・羽柴秀勝(はしば ひでかつ)
幼名は於次。秀吉の養子となったが若くして亡くなっている。秀吉行った信長の葬儀の喪主をつとめている
五男・勝長(かつなが)、信房(のぶふさ)
幼名は坊丸。武田家の人質として甲斐にいた。本能寺の変で亡くなっている。
岩村城主の未亡人「おつやの方」の養子となる。しかし、おつやの方と新しい夫が、武田信玄との仲を取り持つために、坊丸を養子に出す。これに激怒した信長は、岩村城を落とし両者を罰した。
六男・信秀(のぶひで)
幼名は大洞。本能寺の変で生き延び清州会議に出席。のちに出家し、浦坊と名乗る。もともとはクリスチャンだったと言われている
七男・信高(のぶたか)
幼名は小洞。信長の死後、氏家行広(うじいえ ゆきひろ)のもとへ行く。兄の信秀が、羽柴姓を与えられたのをきっかけに「羽柴藤十郎」と名乗る。
子孫にあたる、高重は明治維新まで旗本として仕えた。ちなみに、プロスケーターの織田信成さんの先祖は、七男・信高と言われている。
八男・信吉(のぶよし)
幼名は酌。本能寺の変の後、母(興雲院)と一緒にいたが秀吉の元で働き、羽柴武蔵守と名乗る。豊臣家が滅んだのち出家し、道トと名乗る。
九男・信貞(のぶさだ)
幼名は人。関ヶ原の戦いで西軍にいたため自害。
十男・信好(のぶよし)
幼名は良好。本能寺の変のときには幼かったため、秀吉の養子となる。
十一男・長次(ながつぐ)
幼名は緑(えん)。関ヶ原の戦いで、兄(八男)・信吉と一緒に籍柄の戦いで西軍にて戦死。
実在??信正(のぶまさ)
幼名は於勝丸。信正に関しては、実在していないともされています。
長女・徳姫(とくひめ)
家康の長男・松平信康(まつだいら のぶやす)に嫁ぐ。信康は、徳姫との仲がこじれたことで切腹させられた??
次女・冬姫(ふゆひめ)、相応院(そうおういん)
蒲生氏郷(がもう うじさと)に嫁ぎ、子供は二人。
三女・秀子(ひでこ)
明智光秀の娘で信長の養女?織田家の有力家臣・筒井家に嫁ぐ。
四女・永姫(えいひめ)
前田利家の息子・利長に嫁ぐ。利家は小姓として信長に仕えていましたが信長といさかいを起こしたものの仲が良かったことで有名です。利長にとって信長は、主君であり、父の親友であり、舅でもありました。
五女・報恩院(ほうおういん)
丹羽家に嫁ぐ
六女・於振(おふり)
水野忠胤(みずの ただたね)に嫁ぐ。忠胤の父・忠重(ただしげ)は家康の叔父。
家康の動向を信長に伝えていた。その後継室として、信長の妹・犬がいる、佐治家に嫁ぐ。
七女・源光院(げんこういん)
公家の万里小路充房に嫁ぐ
八女・三の丸殿(さんのまるどの)
蒲生氏の養子となったのち、秀吉の側室となる。秀吉の死後、二条家に嫁ぐ
九女・鶴姫(つるひめ)
中川秀政(なかがわ ひでまさ)に嫁ぐが若くして亡くなっている
十女・慈眼院(じげんいん)
北条氏直(ほうじょう うじなお)の側室。
十一女・月明院(げつみょういん)
公家・徳大寺実久(とくだいじ さねひさ)に嫁ぐが、秀吉の命令によって足利義昭の側室となる。
こうしてみると、政略結婚が多かったのですね。
しかし、さすが信長、娘たちが困らないように根回しされています。秀吉がちょいちょい出てくるところをみると、本能寺の変の首謀者として後ろめたかったのかしらと思ってしまいます。
信長の家臣
柴田勝家(しばた かついえ)
信長に仕える重臣の中で最も重要な一人と言われていました。信長の妹・お市の夫としても知られています。
勝家の人生は波乱万丈なものでした。
織田家の家督相続で、信長と弟の信行で闘争がありましたが、信長が勝利します。このとき勝家は、信行側にいましたが、信長は弟・信行、勝家を許します。
ところが、信行が謀反をはかったため、清州城に呼び殺害しました。このときも勝家は信行の臣下でしたが、信長は勝家を許しました。
勝家は、信長の父・信秀のころからの臣下であること、一生仕えると泣いて懇願されたことから、信長は勝家を自分の手元におきます。
勝家の言葉に、嘘偽りがないかを見極めるため表舞台には出しませんでした。嘘偽りがないと見極めた時には、信長が信頼できる臣下となっていました。
明智光秀(あけち みつひで)
本能寺の変の実行者です。明智家は元々は信長の義理の父・斎藤道三に仕えていました。
明智光秀の叔母は、斉藤道三の側室だったこともあり、信長の正室・帰蝶とは血縁関係だということもあり、信長に仕えることになったのです。
本能寺の変の後、秀吉によって殺害されます。
羽柴秀吉(はしば ひでよし)
信長の死後、遺志を受け継ぎ天下統一を成しえた人物。信長の史記に初めて名前が出てきたときには、すでに信長に認められる武将となっています。
秀吉の「羽柴」は、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」から取ったものと言われています。
秀吉が、信長の臣下を憧れ尊敬していいたのがうかがえますよね。
池田恒興(いけだ つねおき)
信長に延暦寺の焼き討ち時間のアドバイスをしたり、要所要所で重要人物としてでてきます。
恒興の母は、信長の乳母であり、信長の父・信秀の側室もありました。恒興は、信長の小姓でもあり、義理の兄弟でもありました。
合理的な考えの持ち主で、慎重で、人情もある信長が、どうして本能寺の変で討たれてしまうことになったのか。
織田信長について
父の跡を継ぎ、織田家を最強の戦国大名へ
信長の初陣は、元服した翌年です。信長のお目付け役・平手政秀(ひらて まさひで)などが同行していました。
相手は今川勢で兵3,000に対し、信長の兵は800とどう見ても不利なことから、同行した臣下に反対されます。
ところが信長は戦を強行!風の強い日を選び、風の流れにのって一気に攻め入り火を放ち、見事な勝ち戦としました。
すでにトップとしての気質があったのですね。戦を仕掛けた翌日には、帰還していたというのも大物ぶりがうかがえます。
信長が凄腕の武将として、一気に名乗りを上げた戦いと言えば「桶狭間の戦い」です。
相手はやはり今川家です。今川家がどうして織田家の領地にこだわるか気になりますよね。今川家が、京都へ行くときには織田家の領地を通ります。お互いに火花を散らしている両者ですから、スムーズに京都へ行かせてもらえない。
それならば、織田家の領地を手中に治めて、京都へスムーズに行けるようにしたいということから、今川家は織田家の領地にこだわっていたのです。
今川義元は、織田勢の兵力が少ないのを狙い、一気に攻めこみます。その読み通り、3カ所を落とし、後は残る2カ所のみとなったところで、義元は「勝ち戦」となることを確信し、宴を開きます。
義元は完全に油断していました。自分の兵士の中に、信長のスパイが潜り込んでいたことに全く気付いていませんでした。
自分が送り込んだスパイによって細かく状況を知ることが出来た信長にとって、義元の油断は待ちに待ったタイミングでした。
このとき織田勢が優勢となるように働いたのが武田信玄の家臣・蜂須賀小六(はちすか ころく)です。小六が、事細かく戦況や陣の状況を信長側へ知らせ、ここだというタイミングで動き出します。
酔った義元は、信長の奇襲から逃げることが出来ずに、信長の臣下・服部小平太と毛利新介によって討死。
桶狭間の戦での織田勢の勝利は、このあと信長がトップへ君臨する道となり、強豪国に信長の存在を知らしめたのです。
信長は本当にうつけだったのか
信長は、マゲを結う紐の色がカラフルで、ツンツンと毛先を立て、入浴時に着る着物を普段着にし、袖を通さないという奇抜なファッションを好んでいました。
家督を引き継ぐ人物としてそぐわない行動・家臣へもたれかかりながら歩く・柿や瓜をがぶりとかじりながら歩くと、だれが見ても織田家の跡取りとして、不安になるような人物だったと言われています。
さらに、父親が亡くなったときには、葬儀で焼香の灰を父親の位牌にぶちまけた話は有名ですよね。
しかし、信長が本当にうつけだったのかというと疑問が残ります。
それを表すのが、信長の正室・帰蝶の父親の斎藤道三が残した言葉にあります。斎藤道三はマムシと恐れられていた武将です。
その斎藤道三が、
「いつか自分の息子たちが、信長の軍門に下ることになる」
と、信長の武将、トップとしての気質を認めていたことが分かっています。
この斎藤道三の言葉通り、信長はどんどんトップへの階段を上がっていきます。そしてやがて斎藤家を配下に収めます。
信長は、お酒に弱く飲めなかったということです。意外ですよね。お酒も飲み、周りに激を飛ばすのかなと思ったら、お酒を飲めないのに宴を開いて酒をふるまったり、帰蝶との結婚をよろこび、宴を盛大に行った信長には、やんちゃで素直さを感じます。
そして、新しいものが好きだった信長は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと仲が良く、ルイスからもらった金平糖を好んでいました。甘いものが好きで干し柿を良く好んで食べていたと言われています。
かと思えば、焼き味噌・お湯かけごはんが好きと素朴さもあり。何だか憎めない信長の可愛さが見えますね。
ルイスの影響もあり、新しいものを取りいれていたと考えると、マゲを結う紐がカラフルだったのも、着物の着崩しも、当時は先を行くファッションだったのではないかと思わせます。
豪快な信長は、柿や瓜を食べて歩くだけではなく、相撲を取ったりもしています。領主になるであろう殿が、一般市民と相撲を取ろうとするのですから、驚きですよね。
自陣の兵の士気を上げることにも相撲を取りいれてみたり。楽しいこと・新しいもの・甘いものが好きと、信長は破天荒でも荒ぶるでもなく、やんちゃだったのですね。
しかし、うつけという言葉が信長からなかなか離れませんでした。
うつけと言われていたほうが、自分には有利だと知っていて、信長がわざと見せた行動だとしたら?うつけと思わせといて実は違うのではないかと思ってしまうのです。
うつけ否定1
信長は、兵を常に準備していました。兵に褒美としてお金を与えることで、兵士の士気も上がり、戦で功績をあげようとする兵たちの準備を万全にしていました。
着々と兵を集め戦の準備をしていたことを斎藤道三は知っていたと言われています。それを知らない周りは、信長の見た目や行動を理解できず「うつけ」だと言われる。
うつけ否定2
信長は、武田信玄や上杉謙信にプレゼントをよくしていた。戦うことで相手をねじ伏せるイメージの信長ですが、実は根回しが上手だったと言われています。
武田信玄には「人生の先輩である武田信玄様には、馬の乗りこなし・兵の動かし方・戦の手法と、上に立つものとしての心構えを教えてほしい」と武田信玄とは戦う気ありませんとの手紙を送っていました。
うつけ否定3
魔王と言われたのは、ブラックジョークからきたもの。
武田信玄が信長に宛てた手紙に、武田信玄が自分のことを「天台座主沙門信玄」(てんだいざしゅ しゃもんしんげん、日本仏教の総代である天台宗の代表の信玄)との自署していたため、返事で、信玄が日本仏教の総代ならば、自分は仏教を敵とする魔王だが、日本仏教の主たる人物には手を出せない逃げ腰の魔王だと謙遜して「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と自署しました。
このブラックジョークの前の部分だけが先走りしてしまい、信長は魔王だという流れになっていきました。
うつけ否定4
敵対視している足利義輝の弟・義昭を京へと上洛させるために、周りからの弊害がないように、上杉・武田・徳川にも根回しをしていた。さらに、義昭にも恩を売ったのです。
うつけを装い、実は根回しをしっかりとする慎重者だったということがうかがえます。計画的に物事を進めようとしていた武将だったのですね。
信用してもらうには、まずは自分が誠意を見せて、相手を出方を待ち、万が一に備えておくような慎重な性格だったのではないかと思ってしまいます。
神をも恐れない、暴虐で荒ぶる武将だったのは本当か?!
傍若無人なイメージの信長ですが、いささか大げさに残っているものだと思います。
1571年に起きた「延暦寺(えんりゃくじ)の焼き討ち」が「暴虐な織田信長」を創り上げていたと思われます。当時の信長の状況までさかのぼって、延暦寺に火を放つしかなかった理由まで迫りましょう。
信長包囲網によって追いつめられていた
信長の勢いを抑えようと、三好(みよし)・六角(ろっかく)・浅井・朝倉・本願寺(ほんがんじ)・延暦寺の力で抑え込むことから始まり、足利義昭・武田信玄が加わった時期もあり、さらに毛利・上杉が加わるなど、信長包囲網は三度も行われていました。
信長包囲網によって信長は天下統一への道をたびたび阻まれることとなります。
信長が京を目指し突破しなければいけなかったのが「延暦寺」でした。信長にとって本拠地となっていた岐阜城から京都へ行き都を制すためには、延暦寺を通らなければならなかったのです。
信長にとっては無くなってほしいのが延暦寺でした。
しかし、当時は宗教に関係している建物や僧への攻撃は、神を冒涜するものとされていただけに、包囲網に悩まされた信長は、延暦寺を自分の味方につけたいと思っていました。
しかし、その延暦寺も信長包囲網に加担していたため難しい。そこでどうするかという戦略が必要になります。
信長は延暦寺と交渉をしようとしていた
信長は「邪魔だから延暦寺を焼き払ってしまえ!」と言ったのではなく、延暦寺が領地の民に対する横暴さをやめさせようと、交渉を始めます。
延暦寺の僧は、宗教の権力を我が力のように振る舞い、僧にとって禁じられていた酒を飲み「女人禁制」の寺に女を呼び込み、民には金銭を要求とやりたい放題で、目も当てられない状況だったのです。
信長は民の安全を取り戻すためと、僧の暴挙をやめさせようと交渉しようとしました。交渉内容は、先の戦いで信長が勝ち取った延暦寺の領地を返す、とことだったのですが、聞く耳を持たなかった延暦寺。
延暦寺は信長包囲網の同盟に参加していたので、負けるとは思っていませんでした。領地を返してもらわなくても今のままでいいと、信長の交渉を断ったのです。
そこで信長は、延暦寺のやりたい放題が収まらないことに怒りを覚え、延暦寺とゆかりのある城や領地を戦で落とし、延暦寺を追いこんでいきます。
宗教への信仰心がないから、延暦寺を焼き払ったと言われていますが、熱田神社への参拝・上納金は朝廷や寺社に寄付と、決して宗教を軽んじていたわけではなかったのです。
むしろ、領地返すし、これ以上のわがままな振る舞いはやめようよと持ちかけたくらいなのです。
武士が、勝ち取った領地を返すというのは、負けと同じことですから、信長にとっては決して軽い決断ではなかったのです。それだけ、自分の領地を守り民を守るという気持ちが強かったのだと思います。
延暦寺の焼き討ちは気を使っていた
延暦寺はゆかりのある城が落ち、領地を奪われていく状況を知って追い詰められ、信長に戦を仕掛けないようにと、金品を贈り懇願します。
しかし、始めに信長の交渉に応じず、自分の都合が悪くなると戦を仕掛けないでくれと交渉をと持ちかけた延暦寺の態度に怒り、信長は延暦寺の焼き討ちの実行を決めます。
本来ならすぐに行われていた「焼き討ち」ですが、信長の家臣・池田恒興のアドバイスで「無駄な血を流さず、罪のない命を絶たないように」との配慮から、延暦寺の焼き討ちは「人がいなくなる明け方」に行われました。
しかも、焼き討ちをする時間などの情報は延暦寺に流れていたと言います。信仰心がなかったわけではない信長も、さすがに敬意を払い気を使ったわけです。
歴史の記録で延暦寺の焼き討ちは、残虐で女・子供まで容赦なく殺し、大火事になったとありますが、延暦寺を完全に焼き払うと、山一つなくなることになります。
実は、延暦寺のある山の麓で攻防が行われていたのが事実です。確かに、女性や子供が亡くなってはいますが、焼き討ちまでには時間があったうえに情報が流れていたので、逃げられないわけではなかったと言われています。
逃げられたはずなのになぜ逃げなかったのか?
女性や子供がいたら、信長は手を出さないだろうと、女性や子供を巻き込んだのだとしたら、信長の暴挙が起こした結果ではなく、延暦寺が自ら招いた惨事ということでは??
延暦寺の焼き討ちが、暴虐「信長像」を創り上げた
延暦寺の出来事は瞬く間に、周りに知れ渡ります。
実際には交渉をもちかけ穏便にとしようとした信長を拒否したうえに、権力を使って好き放題したから、信長が怒って懲らしめたというものだったのです。
さらに、焼き討ちにするとは言っても情報を流し、気を使い敬意を払っていたのにも関わらず、延暦寺の自らの決断でおおごとになってしまいました。
しかし、延暦寺の出来事を、宣教師ルイス・フロイトによっておおごとに描かれたことも大きく関わり、信長の性格は荒々しく暴虐だと伝わります。
さらに、寺社・僧侶への攻撃などはタブーとされているが、信長は自分の敵は何者であろうと許さないという強さを周りに見せつけたものになりました。
当の信長というと、逆境をチャンスに変え、自分の評判や延暦寺の出来事をステップにして、寺社の領地も自分の領地とし、天下統一へと向かっていったのです。
延暦寺の焼き討ちが大きく広まったこともあり、信長包囲網は徐々にほころび始めます。
武田家との戦い・長篠の戦で信長包囲網が崩壊する
延暦寺の焼き討ちによって行き場をなくした者たちは、武田信玄を頼っていきます。武田信玄はこれを受け、信長と戦を始めるのですが、信玄は戦のさなかに亡くなってしまいます。
そこで、家督を受け継いだ勝頼(かつより)が信長と戦うことになりました。この武田勝頼と織田信長の戦いが「長篠の戦い」です。
いきなり信長と勝頼が戦うことになったのではなく、長篠の戦いに至るまでには流れがあり、やはり信長の根回しもありました。
手紙にプレゼントと、武田信玄には頭が上がらなかった信長も、勝頼が家督を継いだと知ると、自分から戦を仕掛けるようになります。
仲が悪かった足利義昭を京都から追い出し、信長包囲網に加担していた朝倉、浅井、三好を滅ぼしていきます。
信長包囲網の主軸になっていた者たちの断絶をしたことで、包囲網はもろくなっていきます。延暦寺の出来事での自分の評判と武田信玄の死を、チャンスとばかりに武将・織田信長の勢いをつけたのです。
信長包囲網を立て直すために、ここで何とかしなければと動いたのが武田勝頼です。
勝頼は信長の領地に攻め込みます。さらに、徳川家康の領地にも攻め込み勝利します。勝ち戦が続き自信がついた勝頼は、長篠城を自分の領地に取り戻すべく戦を仕掛けます。
▼武田軍
武田勝頼・馬場信春・山県昌景・内藤昌豊・真田家(兄弟)・原・土屋など、信長包囲網に加担し力のある武将が集まった
▼織田軍
織田信長・柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・佐久間信盛と名を連ねていました
織田包囲網を強固にしていた軍が集まった武田軍と、勢いのついた織田軍の戦いは、まさしく国の主を決める戦いとなったのです。
勝頼は最後まで戦いますが、信長と家康との連携、効率的な鉄砲隊の活躍によって、勝頼は戦に負け自害します。
このときの鉄砲隊の欠点を利用した戦法には、その後の戦にも大きな影響を与えました。
当時の銃は火縄銃で、火をつけてから発泡するまで時間がかかるものでした。そのタイムロスを減らすために、隊列を組んで順番に撃っていくという戦法はだれも思いつかないものでした。
鉄砲隊の存在と、鉄砲を効率よく使うことが戦いを決めたと言われているほどです。
長篠の戦いによって、信長包囲網は崩壊し、天下統一へとまた一歩近づくことになります。
裏切りにつぐ裏切りの本能寺の変
本能寺の変は、明智光秀が信長に反抗して起こしたのは事実なのですが、明智光秀の動向や信長が本能寺へと向かった目的を考えると、実行犯は明智光秀だけど後ろに黒幕の影がチラホラしています。
本能寺の変へと繋がった理由と、黒幕の存在に迫ってみます。諸説あるのですが、一番つじつまが合うのではないかと思うところを深く掘り下げていきます。
信長は、長篠の戦いで共に戦った徳川家康を危険な人物と見ていました。このままでは自分を脅かす存在にあると判断し、家康の暗殺を決断し、家康の友人でもある明智光秀に任せます。
なぜ、徳川家康を危険人物と見たのかは、信長の六女・於振の嫁ぎ先に関係があります。於振の嫁ぎ先は、家康のいとこにあたる水野忠胤(みずの ただたね)です。
家康を危険人物だと思いながらも、信長は中国への進出を計画し、秀吉を先発隊として送りました。信長は秀吉に加勢するため、京の本能寺を経由して秀吉の元へ向かうことに決めます。
ただ、信長は天下統一のために、朝廷での自分の立場を優位にする必要がありました。家康の力を抑え、朝廷での自分の立場を有利に持っていくことを中国の戦を前に済ませたかった信長はある計画を立てます。
本能寺で茶会を催し自分の茶器を見せ、もてなし、朝廷での自分の立場を優位にし、さらに危険人物の徳川家康を亡き者にしようとしたのです。
本能寺での滞在は5日間と決め、その間に自分の立場をゆるぎないものにしようとしたのです。徳川家康を亡き者にするのを依頼されたのが、家康の友人でもあった明智光秀でした。
長篠の戦いでの貢献をねぎらい、家康には観光しながらゆっくりと本能寺へ来るように伝え、わざと後から来るように仕向けた信長。
何も知らない家康は観光しながら、中国進出のために本能寺へ向かいました。家康の暗殺を依頼された光秀と光秀の家臣達は家康を討つのだと思い本能寺へ向かいます。
ところが、ここで誤算が!信長は光秀を中国征伐へ向かわせようとしていることを知ります。友人である家康を討つだけではなく、中国にも行くことになる自分の立場と明智家の行く末が不安になります。
実は先発隊として出かける前に、声をかけたのが「秀吉」でした。信長から家康を討つように言われたことを知った秀吉は、光秀に謀反を起こすなら手伝うよと誘います。
しかし、そこでは光秀は首を縦に振りませんでした。ただ、光秀は信長よりも家康を選び、信長に暗殺を頼まれたことを家康に打ち明けます。
そして、家康と共に信長を討とうと決めます。
光秀は、毛利に「信長を討つよ」と密書を送りますが、密書はなぜか「秀吉」のところへ。秀吉は光秀の動向を見張らせていたのです。
密書を持った者は、秀吉の手下に捕まり密書の中身をみられます。密書によって、信長が光秀と家康の手によって討たれることを知った秀吉ですが。。。見なかったことにしちゃうのです。はい、黒幕!
秀吉は先に行っていて、光秀は家康を討つし、自分の地位もこの茶会でゆるぎないものになると確信した信長は、小姓・森蘭丸、坊丸、力丸を連れて本能寺入りをします。
信長はここで油断したのかもしれません。今川義元を討ったときの義元のように、まだ勝ってもいない戦に確信を持ってしまったことが、本能寺での負けに繋がったのかもしれません。明智光秀はというと、家康が来るのを待ちます。
しかし、家康はなかなか来ず・・・焦った光秀は一人で踏み込んでしまいます。
家康を討つと思っていた光秀軍に向かって言い聞かせるかのように「敵は本能寺にあり!」と光秀がサインを送り対象が「家康」から「信長」に移ったことを知り一気に攻め込みます。
信長はというと、攻め込まれたときに自陣の前で喧嘩が始まったのだろうくらいにしか思っていなかったようで、自分の命が危ないと知るまでに時間がかかります。
さらに信長の手の内、手勢が少ないことも光秀は知っていたため、信長は本能寺で討たれてしまいます。
ここで、到着の遅れた家康に「家康黒幕説」が浮上します。家康はどうして来なかったのか?
これには二つの説がありますが、どちらにしても本能寺に行く前に観光を楽しんでいて、観光中に「信長の死」を知って焦ったということです。慌ててどう動いたらいいのか分からず、周りにアドバイスをもらったというほど狼狽していたそうです。
そうなると・・・信長が暗殺されるのを今か今かと待ちわびていて、本能寺の変を止めることが出来たのにも関わらず止めなかったのは「秀吉」です。
本当の黒幕は「秀吉」になるわけです。それを裏付けるかのように、秀吉は考えられないほどのスピードで本能寺へと戻り、光秀を討ち取り、信長の仇を取り、天下統一を成しえました。
信長の暗殺を待ちわびていたとしたら、考えらえないスピードで帰ってこられたことも納得なのです。
しかも「謀反を起こすなら、手を貸すよ」と光秀に言ったことが、信長の臣下にばれると自分の身が危ないこともあり、光秀の討伐に必死になったと言われています。
結果として、秀吉は自分がトップに立つために、光秀にすべての罪をなすりつけたことになるわけです。
こうなると気の毒なのが信長です。慎重に動き、臣下の動向に目を光らせていたのに、つまずいてしまったのです。
信用していた臣下達の、それぞれの裏切りによる裏切りで、亡くなったのだとしたら、一緒にいた小姓たちも気の毒になってしまいますね。
信長は本能寺の変で辞世の句を残したと言われています。
「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか」(人間の一生は50年にしか過ぎない。天上世界の時間の流れに比べたら、儚いもの。命あるものはいずれ滅びる)
というものですが、これは信長の辞世の句ではなく、のちに能の「敦盛」が信長の生きざまを唄ったものとされています。
いきなりの出来事に対処するほうが先で、辞世の句を詠み残すことは考えにくいですよね。しかし、
「是非に及はず 透をあらせず御殿で乗り入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」
と光秀の奇襲に対し、こちらも襲撃体制をと発した言葉が最後の言葉となりました。
このときに小姓・森蘭丸・坊丸・力丸も共に亡くなっています。これが辞世の句とは言い難いですよね。そこで敦盛が後付けしたと言われています。
個人的には辞世の句ではないものの、信長が常に言っていたとされる
「理想を持ち 信念に生きよ 理想や信念を見失った者は 戦う前から負けていると言えよう そのようなものは廃人と同じだ」
という言葉に惹かれますね。
本能寺の変でともに奮戦し討ち死にした小姓の森蘭丸についてですが、謎なのです。ちょっと調べてみましたが情報が少ないことに驚きました。
信長の寵愛を受けた小姓と言われていますが、一説には、寵愛ではなく、信長相手に間違いをズバッと指摘し、はっきりとものを言う性格だったところが気に入られて小姓として傍に置いたとも言われています。
ただ、出生など分からない部分が多く、実在していない説もあります。
ほんとの黒幕や、その理由も、また、人物の存在までもが謎の部分が多い本能寺の変。ただ、この事件がこの後の日本の歴史に大きな影響を与えてたのは事実です。
清州城と安土城で使用目的が違った
本能寺の変のあと、清州城(きよすじょう)にて家督相続の話し合いが行われます。
清州城は織田家の本拠地として重要な城でした。桶狭間への出陣・家康との同盟など、信長の大事な局面には清州城が使われました。清州城は、戦略・統治など軍事関連で使われる城だったと言えます。
もう一つ、信長が安土山に築いた安土城(あずちじょう)もあります。
こちらは、天皇を迎えるための準備として部屋を作り、瓦には菊の紋章(家紋にもなっている)を入れたり、内装の豪華絢爛さから、政治的に自分の権力を見せるために建てられたものと言えます。
まとめ
歴史で紹介される信長像は「創り上げられたもの」で、その裏に隠れた信長の人を大事に思う心と、武将としての機転・戦略、家族関係にもっとクローズアップしたいところですが、ヒートアップしそうなので、ここでそろそろ終わりにしたいと思います。
それに、信長は生まれてから亡くなるまで、名前の由来通りに生き、子供たちに繋げるものを残し、織田家のスーパースターとして存在し続けたことは確かなことなのです。
織田信長の素顔に迫ってみましたがどうでしたか?民のために延暦寺を排除し、自由に商売が出来るように、商人の組合を廃止し「楽市・楽座」を行い、安土城下を発展させようとした信長の大きな改革は、これ以後の、秀吉・家康にも大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
信長は、暴虐武人な魔王ではなかったということだけでも分かってもらえると嬉しいです。