目次
腹中の激痛と越前北ノ庄の夕闇
天正十三年(一五八五年)卯月、日本海からの冷たい風が吹きつける越前北ノ庄城の奥深くで、一人の武将が病床に伏せっていた。名は丹羽長秀(にわながひで)。かつて織田信長の天下布武を最前線で支え、織田家臣団の誰からも敬意を払われた男である。
長秀の体を苦しめていたのは、「積聚(しゃくじゅ)」あるいは「寸白(すばく)」と呼ばれる腹の病であった。当時の医師たちにも治療の手立てはなく、激痛は日ごとに増し、五臓六腑を内側から刃で削り取られるかのような責め苦が昼夜を問わず続いた。長秀は脂汗を流しながら、痛む腹を両手で固く抱え込み、ときには「無念じゃ、無念じゃ」と声を絞り出しては寝所から跳び起き、暗い闇を見つめて涙を流したと伝えられる。
越前・若狭、そして加賀の半国を合わせ、都合百二十三万石。北陸の空を覆うほどの巨大な太守でありながら、長秀の魂は救いようのない暗い孤独に沈んでいた。
彼の脳裏をよぎるのは、遠い日の記憶であった。若き信長とともに尾張の野を駆け巡った熱き日々、そして、自らの背中をまぶしそうに見上げ、へつらうように笑いかけていた一人の小柄な男の面影である。かつて木下藤吉郎と名乗り、やがて長秀の名から一字を取って「羽柴」と名乗った男――今や関白への階段を駆け上がり、天下の頂に手をかけようとしている羽柴秀吉であった。
秀吉の存在は、いつから長秀にとってこれほどまでに重く、そして息苦しいものになってしまったのか。仰ぎ見られる巨星であったはずの長秀が、なぜ秀吉の覇権を支え、かつての同胞を討ち滅ぼし、最後にはすべてをあの男に委ねるに至ったのか。二人の間に紡がれた三十年近い歳月は、戦国乱世における主家の崩壊と権力移動の残酷さを、余すところなく物語っていた。
覇王の右腕と「羽柴」の名に込められた敬仰
天文四年(一五三五年)、尾張国児玉村に生まれた丹羽長秀は、わずか十五歳の若さで信長に仕え始めた。信長とは一歳しか違わず、尾張の小領主から身を起こした若き虎が、四面楚歌の乱世へと躍り出ていく黎明期を、文字通り二人三脚で駆け抜けた古参中の古参であった。
信長は気性が激しく、臣下に過酷なまでの成果を求める主君として恐れられていたが、長秀に対してだけは別格の情愛を注ぎ続けた。「友であり、兄弟のようなものだ」――信長自らがそう公言してはばからなかった存在こそが長秀であった。その証として、信長は自らの養女(庶兄・織田信広の娘)である桂峯院を長秀の正室として嫁がせた。主君の姪を妻に迎えた長秀は、単なる家臣の枠を越え、織田一門と同等の格式と信頼を一身に背負うこととなったのである。
長秀の家中における評判は、「米五郎左」という親しみと敬意に満ちた異名に集約されていた。通称の五郎左衛門から取られたその呼び名は、「米のように、毎日どれほどあっても飽きることがなく、生きていくために絶対に欠かすことができない人物」という意味であった。
戦場にあっては堅実無比な軍勢を率い、後方にあっては兵糧の調達や輸送を滞りなく仕切る。外交においては諸大名との交渉を誠実に取りまとめ、土木建築においては小牧山城や岐阜城の普請(ふしん)を鮮やかに指揮する。天正四年(一五七六年)から始まった安土城の築城においても、信長は長秀を普請奉行の総責任者に抜擢した。巨大な石垣を積み上げ、絢爛たる天主を現出させる大工事の最中、長秀はいち早く信長のための仮屋敷を整えて主君を喜ばせるなど、信長の意図を誰よりも深く汲み取る能力に長けていた。
だが、長秀は単なる実務肌の能吏にとどまる男ではなかった。永禄十一年(一五六八年)の上洛戦において、近江の六角氏が誇る堅城・箕作城を攻めた際、長秀は夜襲を敢行して城壁を駆け登り、たった一日でこの難攻不落の要害を叩き落としてみせた。その猛烈な戦いぶりに、人々は畏怖を込めて「鬼五郎左」とも呼んだ。剛柔を兼ね備え、人格は温厚篤実でありながら、いざ抜いた白刃は誰よりも鋭い。信長家臣団の誰もが、柴田勝家と並ぶ柱石として長秀に信を置いたのは当然のことであった。
天正元年(一五七三年)、朝倉氏を滅ぼした功により、長秀は若狭一国を与えられる。織田家臣団の中で、一国の主となった国持大名の第一号は長秀であった。秀吉や明智光秀、柴田勝家よりも早く、長秀は頂点に立っていたのである。天正三年(一五七五年)には朝廷より「惟住」という古代の名門の姓を賜った。光秀が「惟任」の姓を賜ったのと並び、織田政権の東西を支える絶対的な権威の象徴であった。
この長秀の圧倒的な輝きを、目を奪われる思いで見上げていたのが、尾張の中村から這い上がってきた秀吉であった。
足軽同然の身分から信長の信頼を勝ち取り、浅井氏討伐後に北近江長浜城主となった秀吉は、元亀四年(天正元年)頃、それまでの「木下」の姓を改め、「羽柴」と名乗るようになった。
この姓の由来は、織田家の二大重臣であった丹羽長秀の「羽」と、柴田勝家の「柴」を拝借したものである。信長による家臣団秩序の演出という側面もあったが、何よりも秀吉自身が、長秀の持つ清廉な権威と家中の絶大な信頼にあやかろうとした結果であった。
当時の秀吉にとって、長秀は雲の上の巨星であり、仰ぎ見るべき理想の武将であった。秀吉は長秀の屋敷に足繁く通い、へりくだって教えを乞い、長秀を後ろ盾とすることで、自らの出自の低さを補おうとした。長秀もまた、才気あふれるこの後輩を温かく遇し、信長への取りなしや軍事面での助力を惜しまなかった。
秀吉の養子・羽柴秀勝(はしばひでかつ)(信長の四男)を迎えるに際しても、長秀は後見として心を砕いた。さらに後年、長秀は自らの三男である仙丸(のちの藤堂高吉)を、秀吉の実弟・羽柴秀長の養子に出している。二人の結びつきは、名代の重臣と若き新鋭という上下の枠を越え、深い親交と連帯で結ばれていたはずであった。
しかし、戦国の歯車は、誰も予想し得ない速度で狂い始めていく。
天正十年六月、大坂湾の暗転とぬぐえぬ血の傷
天正十年(一五八二年)六月、長秀は自らの武将人生において、もっとも濃密な死臭と混乱が渦巻く極限状態に叩き込まれた。
当時、長秀は信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)を総大将とする四国征伐軍の副将として、摂津大坂の地に滞陣していた。長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を討つため、大坂湾には無数の兵船が並び、一万四千に及ぶ将兵が渡海の号令を今か今かと待ちわびていた。初夏のさわやかな潮風が吹き抜ける港は、新たな領土獲得に胸を躍らせる武者たちの熱気に包まれていた。
だが、六月二日の夜明け、京都本能寺において明智光秀の謀反が勃発する。信長自刃、そして二条御所において嫡男・織田信忠(おだのぶただ)討死。
その凶報が大坂に届いた瞬間、四国征伐軍は未曾有の大混乱に陥った。総大将の信孝は若く動転し、長秀の眼前で、昨日まで統制を保っていた軍隊という巨大な組織が、音を立てて瓦解していった。
「明智の軍勢がこちらへ押し寄せてくる」「もはや織田の世は終わった」
根も葉もない噂が兵たちの間に伝染病のように広がり、夜のとばりが下りるたびに、陣営から足軽や武士たちが甲冑を脱ぎ捨てて逃亡していった。一万四千を誇った軍勢は、数日のうちに四千、あるいは二千にまで激減した。信長という絶対的な太陽を失った瞬間、人はこれほどまでに脆く、浅ましく散り散りになるものなのか。長秀は陣中で、かつて味わったことのない底知れぬ無力感に打ちのめされていた。
さらに彼らを狂気に追い詰めたのは、味方の中に潜む「裏切り者」への恐怖であった。大坂城二の丸の千貫矢倉には、織田一門の逸材であり、信長から深く愛されていた津田信澄が駐屯していた。信澄は信長の弟・信行(信勝)の遺児であり、父が謀反で殺された後、信長自らが引き取って育て上げた英才であった。長秀の娘を妻に迎えていたともいわれ、血縁の上でも極めて近い間柄であった。
しかし、信澄のもう一人の妻は、反逆者・明智光秀の娘であった。
「信澄殿は、光秀と通じているのではないか」
疑心暗鬼に駆られた兵たちのささやきは、やがて大坂の陣営全体を覆う強迫観念となった。信孝は信澄の討伐を強く主張した。長秀は苦悩した。信澄が光秀の陰謀に関与していた確たる証拠など、どこにもなかった。信澄自身も本能寺の凶報に驚愕し、大坂で身動きを封じられていたに過ぎない。
だが、背後に明智の内通者を抱えたままでは、大坂に残ったわずかな兵すら完全に四散してしまう。軍を保ち、信長の仇を討つためには、誰かを犠牲にして秩序を取り戻さねばならなかった。
六月五日、重い梅雨空の下、長秀と信孝の兵は千貫矢倉を取り囲んだ。突然の襲撃に驚く信澄に対し、矢倉の階段を駆け上がった兵たちが槍を突き出す。信澄は無実を叫びながら、血煙の中に倒れた。享年二十八。
静まり返った矢倉の中で、血塗られた信澄の遺骸を見つめた長秀の胸を去来したものは何であったか。主君を失った極限の混乱の中で、無実の可能性が高い旧主の甥を、保身と軍の維持のために命を奪わねばならなかった事実。それは、誠実をもって生きてきた長秀の武士の誇りに、生涯消えることのない暗い傷を刻みつけることとなった。
軍の瓦解を食い止められず、一門の青年を手にかけ、立ち尽くす長秀。そこへ、西国街道の地平を揺るがす轟音が響き渡った。
羽柴秀吉の「中国大返し」であった。
泥まみれの電光石火と主導権の交代
備中高松城の包囲を電光石火の和睦で解き、二百キロを超える過酷な道のりを昼夜兼行で駆け抜けてきた秀吉の軍勢が、摂津富田に姿を現した。本能寺の変からわずか数日。その神速の行軍は、常人の想像を絶する奇跡であった。
合流の場に現れた秀吉の姿を、長秀は息を呑んで凝視した。
泥にまみれ、埃にまみれ、甲冑の端々は擦り切れながらも、秀吉の両の瞳だけは異様なまでの野心と決意に燃え盛っていた。秀吉は動転する信孝と長秀の前に進み出ると、恭しく頭を下げ、信長の仇討ちの正当性を熱烈に説いた。しかし、その場の空気は、誰の目にも明白であった。
兵を失い、精神的に疲弊しきった織田家の重臣・丹羽長秀と総大将・信孝。それに対し、軍紀厳正にして士気天を衝く二万の大軍を率いる羽柴秀吉。
かつて自分を仰ぎ見ていた後輩が、今や自分たちの命運を握る巨人に変貌していた。このとき、長秀は人生の重大な岐路に立たされた。自分が織田家の宿老(しゅくろう)としての誇りを振りかざし、軍の主導権を主張することも形式上は可能であった。だが、それでは明智光秀に対抗するための統率が乱れる。
長秀は、自らの自我を完璧に殺す決断を下した。名目上の総大将には信孝を据えつつも、軍事作戦の全権を秀吉に委ね、自らは秀吉の指揮下の一武将として戦うことを受け入れたのである。
天正十年六月十三日、山崎の戦い。円明寺川を挟んで布陣した織田軍と明智軍が激突した。梅雨の重い雨が降りしきる中、秀吉の的確な用兵のもと、長秀は池田恒興(いけだつねおき)や中川清秀(なかがわきよひで)らとともに戦線を支え、光秀の軍勢を完膚なきまでに打ち破った。
天王山を制し、光秀を敗走させた勝ち鬨(かちどき)が山崎の谷にこだましたとき、長秀は確信した。信長が築き上げた巨大な軍事機構を動かし、天下の乱れを収拾できる器量は、もはや柴田勝家でも自分でもなく、この羽柴秀吉をおいて他にないのだと。
それは冷徹な現実認識であると同時に、織田家の重臣としての一つの時代の終わりを意味していた。
清須会議の密談と織田家を繋ぐ苦渋の妥協
山崎の勝利の余韻も冷めやらぬ六月二十七日、尾張清須城において、織田家の今後の方針と領地再配分を決めるための歴史的な会合が開かれた。「清須会議」である。
集まったのは、織田家の宿老四人――筆頭の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、そして池田恒興であった(滝川一益(たきがわかずます)は関東での敗戦により間に合わず)。
会議の最大の争点は、信長亡き後の織田家の家督を誰が継ぐかであった。
柴田勝家は、信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)を嫌い、三男であり武勇に優れた信孝を推した。勝家から見れば、血筋と実力の上からも信孝こそが織田家を背負って立つにふさわしく、また自らがその補佐として主導権を握る青写真を描いていた。
これに対し、秀吉は驚くべき妙手を突きつけた。本能寺の変で信長とともに命を落とした信忠の遺児、わずか三歳の三法師(のちの織田秀信(おだひでのぶ))の擁立である。
「信忠様の直系である三法師様こそが正統なる後継者。我ら宿老が合議して三法師様をお支えすることこそ、上様への最大の忠義ではないか」
秀吉の主張は、血統の正統性という観点から反論の余地がない正論であった。しかし、その本質が「幼君を傀儡(かいらい)として自らが実権を握る」ための策略であることは、その場にいた誰もが看破していた。
勝家と秀吉の視線が激しく交錯し、清須城の広間は息が詰まるほどの緊張感に包まれた。勝家は古くからの盟友である長秀に助けを求めた。勝家と長秀が手を組めば、新参の秀吉を抑え込むことができるはずであった。
だが、長秀の口から出たのは、秀吉を全面的に支持する言葉であった。
「秀吉殿の申される通り。三法師様を擁立することこそ、道理にかなっておる」
勝家の顔に走った驚愕と落胆を、長秀は見逃さなかった。勝家は長年、ともに苦楽を共にしてきた無二の戦友であった。武骨で実直、信長への忠義に生きる勝家の心情を、長秀は痛いほど理解していた。
それでも長秀は秀吉に与した。なぜか。
もしここで勝家について信孝を立てれば、山崎で天下の軍権を握った秀吉との全面衝突は避けられない。それは織田家を二分する破滅的な内乱を意味していた。背後には徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、北条氏政(ほうじょううじまさ)といった強大な外様勢力が虎視眈々と畿内をうかがっている。織田家臣団が内輪揉めで血を流し合えば、信長が一代で築き上げた天下布武の偉業は、瞬く間に瓦解し、日本は再び群雄割拠の泥沼へと逆戻りしてしまう。
信長の創り出した統一への歩みを止めてはならない。そのためには、現実の軍事力と政治力を握る秀吉を首班とし、織田家をその庇護の下に置くしかない。長秀は、自らが「緩衝材」となることで、組織の破滅を防ごうとしたのである。
清須会議の結果、三法師が後継者と定まり、長秀には近江の志賀郡や高島郡など十五万石が加増された。秀吉の覇権を是認したことに対する「政治的報酬」であった。秀吉は満面の笑みで長秀の手を取り、感謝を述べたが、長秀の胸中には冷たい風が吹き抜けていた。自分は信長の友であり、織田家の柱石であったはずだ。それが今や、秀吉という巨大な怪物の天下取りの階段を、自らの手で一段一段組み上げているのではないか。その拭いがたい疑念が、長秀の心を蝕み始めていた。
寒風の琵琶湖渡海と同胞・勝家との決別
妥協によって保たれた平穏は、わずか数か月で脆くも崩れ去った。
秀吉の急速な権力集中と、三法師を私物化する振る舞いに激怒した柴田勝家は、信長の三男である美濃岐阜城の信孝や、伊勢の滝川一益らと結び、反秀吉の兵を挙げた。天正十一年(一五八三年)、「賤ヶ岳の戦い」の幕開けである。
かつて秀吉がその名を敬慕し、「羽」と「柴」の字を分かち合った丹羽長秀と柴田勝家。二人の織田家最高幹部が、今や敵と味方に分かれて雌雄を決しなければならないという、あまりにも残酷な現実が訪れた。
長秀はこの戦いにおいても、秀吉陣営の中核として動いた。秀吉から琵琶湖沿岸の警備と後方支援を命じられた長秀は、近江坂本城や大溝城を拠点とし、勝家軍の進路を塞ぐ重責を担った。
戦局が大きく動いたのは四月二十日のことであった。勝家軍の猛将・佐久間盛政(さくまもりまさ)が、秀吉の隙を突いて賤ヶ岳の大岩山砦を奇襲し、守将の中川清秀を討ち取ったのである。勢いに乗る盛政の軍勢は、隣接する岩崎山砦をも落とし、さらに桑山重晴が守る賤ヶ岳砦へと迫った。
前線の崩壊に動転した桑山重晴が、持ちこたえられず撤退を開始したという急報が長秀のもとに届く。賤ヶ岳砦が落ちれば、秀吉方の防衛線は完全に瓦解し、勝家軍が畿内へと雪崩れ込んでくるのは必至であった。美濃大垣にいた秀吉の本隊が駆けつけるには、まだ時間がかかる。
「殿、ここは自重し、本隊の到着を待つべきです」
部下たちは長秀を必死に制止した。湖上を渡って前線に駆けつけるのは、敵の挟撃を受ける極めて危険な賭けであった。
だが、長秀の目の奥に宿ったのは、かつて「鬼五郎左」と恐れられた猛将の闘志であった。
「賤ヶ岳を失えば、戦の勝敗は決する。何をためらうことがあろうか!」
四月二十日の未明、早春の冷たい夜風が吹き荒れる琵琶湖。波しぶきをあげて揺れる軍船に全軍を乗り込ませた長秀は、漆黒の湖面を切り裂いて対岸へと渡海した。かがり火に照らされた賤ヶ岳の尾根では、佐久間盛政の兵たちが勝ち鬨をあげていた。
長秀は船を接岸させるや否や、全軍を率いて山駆けを敢行した。撤退しかけていた桑山重晴の軍勢を叱咤激励して押し留め、長秀の軍勢と合流して砦を死守したのである。長秀のこの果断な渡海と迎撃がなければ、賤ヶ岳砦は間違いなく落城していた。
やがて夜明けとともに、大垣からわずか数時間で五十余キロを駆け戻ってきた秀吉の軍勢――「美濃大返し」が戦場に雪崩れ込んできた。佐久間盛政の軍は挟撃されて壊滅し、戦局は一瞬にして決した。
敗走した柴田勝家を追って、秀吉軍は越前へと怒涛の進撃を開始した。長秀もまた、その進軍の列に加わっていた。
越前北ノ庄城。四面を秀吉の大軍に包囲された勝家は、信長の妹であり自らの妻となったお市の方とともに天守に籠もり、華々しく最後の酒宴を開いた後、城に火を放って自刃した。天守が轟音を立てて崩れ落ち、黒煙が越前の空を覆い尽くしていくさまを、長秀は遠くから見つめていた。
信長に仕えて三十余年。幾多の修羅場を背中合わせで戦い抜いてきた勝家が、煙となって消えていく。その死を招いたのは、他ならぬ自分自身の決断であった。もし自分が清須で勝家を支持していれば、もし自分が賤ヶ岳砦を救援していなければ、歴史は違う結末を迎えていたかもしれない。
戦後、勝家の旧領である越前、ならびに加賀の江沼・能美の二郡が長秀に与えられた。若狭と合わせて百二十三万石。長秀は北陸を統べる空前の大大名となった。
しかし、その領地目録に記された花押は、主君・織田信長のものではなく、かつて自分の庇護を受けていた羽柴秀吉のものであった。
「長秀殿、まことにかたじけない。この秀吉、貴殿の忠節を決して忘れはいたしませぬ」
深々と頭を下げる秀吉の笑顔の奥に、長秀は抗いがたい冷徹な覇者の冷気を見た。自分は勝家を裏切り、同胞の屍を踏み越えて、百二十三万石の領主となった。しかしそれは、織田家の宿老としての名誉ある領国ではなく、天下人・秀吉にかしずく「一介の家来」へと格下げされたことの証左に過ぎなかったのである。
蝕まれる五臓六腑と「腫瘍切り出し」の凄絶
越前北ノ庄城に入った長秀を待っていたのは、安寧とはほど遠い、精神の摩耗と肉体の崩壊であった。
賤ヶ岳の勝利ののち、秀吉の行動はさらに冷酷さを増していった。織田信孝を尾張野間において切腹に追い込み、やがて信長の次男・信雄とも対立して小牧・長久手の戦いを引き起こした。清須で擁立したはずの三法師は岐阜城に押し込められ、名ばかりの存在に成り下がっていた。織田家の血脈は、秀吉が天下の階段を登るための単なる踏み台として利用され、次々と切り捨てられていった。
「儂は何のために、あの男を支えたのだ」
長秀の自責の念は、日を追うごとに深くなっていった。信長の恩顧に報いるため、織田の家を守るために下したはずの数々の妥協が、結果として信長の愛した者たちを根絶やしにし、織田の天下を完全に奪い取る手助けとなってしまった。
自らの過ちへの怒りと、秀吉に対する言葉にならぬ怨嗟(えんさ)。その激しい精神的苦痛と呼応するかのように、長秀の肉体は病魔に侵されていった。
激しい腹痛が長秀を襲い始めたのは、北ノ庄に入って間もないころであった。腹の中に硬いしこりができ、それが日ごとに肥大化して、呼吸をすることすら困難な激痛をもたらした。食事は喉を通らず、肌は土気色に変わり、かつて「鬼五郎左」と恐れられた屈強な武将の面影は見る影もなく痩せ衰えていった。
この長秀の凄絶な最期について、江戸時代初期に成立した『秀吉譜』や丹羽家の記録は、恐るべき伝承を今に伝えている。
死期を悟った長秀は、病に倒れて無念のまま死ぬことを武士の恥辱と考えた。ある夜、激痛に耐えかねた長秀は、枕元にあった脇差を抜き放つと、自らの腹へと突き立て、一文字にかき切ったという。
そして、血煙をあげる自らの腹腔の中に手を突っ込み、内臓に巣食っていた異様な塊――鳥のくちばしのような形をした、あるいは亀のような異形の腫瘍を力任せに引きずり出した。
長秀は息も絶え絶えになりながら、血塗られたその腫瘍を小箱に収めさせ、側近にこう命じたという。
「これを大坂の秀吉に見せよ。我が無念の魂が形となったものじゃとな」
この「腫瘍切り出し伝説」は、後世の軍記物が好んで描いた脚色である可能性が高い。しかし、なぜこのような凄惨極まる逸話が、丹羽長秀という温厚篤実な武将の最期に結びつけられ、人々の記憶に刻まれることとなったのか。
それは、長秀の秀吉に対する鬱屈(うっくつ)した怒りと、自らの選択に対する引き裂かれるような悔恨の深さを、当時の人々が生々しく感じ取っていたからに他ならない。言葉で抗議することも、刃を向けて反乱を起こすことも許されぬ立場で、己の腹を引き裂いて怨嗟の塊を投げつけるほかに、この男の無念を表現する術がなかったのだと、後世の人々は信じたのである。
卯月十四日の遺言――己を殺し家を繋ぐ祈り
だが、凄惨な伝説の覆いを剥ぎ取った先に残された史実の記録は、伝説以上に残酷で、そして息を呑むほどに気高い長秀の「理性の強さ」を物語っている。
天正十三年四月十四日。息を引き取るわずか二日前、長秀は病床から秀吉に向けて最後の手紙を書き送った。
その手紙の文面には、秀吉への呪詛や恨み言など一片も存在しない。そこにあったのは、冷徹なまでに己の感情を押し殺し、従順な家臣としての礼を尽くした、哀切極まる遺言であった。
「拙者の病気のことについて、種々と御懇篤なる御見舞と御注意を賜り、しかとかたじけなく承り候。先の便りにも申し上げた通り、この病はもはや療養の甲斐もなく、大坂へ罷り上って御挨拶申し上げることは到底叶いませぬ……」
秀吉からの度重なる上洛要請に対し、もはや体が動かない非礼を詫びる言葉から始まるその手紙は、続いて残される一族の運命へと話を進める。
「跡継ぎのことに候ては、倅の長重や家中の者どもの器量を御覧の上、秀吉様の思し召しのまま、御指図下されたく存じ候」
当時、長秀の嫡男・長重はわずか十五歳であった。百二十三万石という途方もない所領を背負うには、あまりに幼く、未熟であった。長秀が死ねば、秀吉がこの巨大な遺領をそのまま長重に継がせるはずがないことを、長秀は百も承知していた。
だからこそ、長秀は「領地を安堵してくれ」と懇願することすら避けた。「息子の器量を見て、秀吉様のお好きなように処分してください」と、生殺与奪の権を完全に秀吉に委ねることで、一族の命脈だけは繋ぎ止めようとしたのである。
そして手紙の最後で、長秀は自らが所持する天下の名宝を秀吉に献上することを申し出ている。
「このような物が御意に叶うか心許なく候えども、秘蔵の『あらみ藤四郎』の脇差、ならびに『大郷』の太刀、そして『虎の絵』を遺物として進上いたしたく候。何卒、拙者と思召し、生涯お側にて御愛玩くだされたく候……」
粟田口藤四郎吉光の作である名刀「新身藤四郎(あらみ藤四郎)」と、郷義弘の「大郷」。いずれも武士ならば命にも代えがたい天下の業物であり、長秀が生涯の友として愛してきた名品であった。
「この刀を、拙者と思って愛玩してほしい」
その言葉に込められた長秀の胸中は、察するにあまりある。かつては自分が頭を撫でるようにして接していた後輩に対し、己の命の象徴である名刀を差し出し、臣下としてかしずき、息子の命を乞う。武士の矜持(きょうじ)も、織田家宿老としての誇りも、すべてを粉々に砕いて呑み込まねば、このような手紙を書くことはできなかったはずである。
天正十三年四月十六日、丹羽長秀、北ノ庄城にて死去。享年五十一。
信長の死からわずか三年。織田家の落日とともに、長秀の波乱に満ちた生涯は静かに幕を閉じた。
削がれた巨城と受け継がれた忍耐の美学
長秀の死後、彼が懸念していた通りの非情な現実が、長重と丹羽家を襲った。
秀吉は長秀の遺言を容れて長重の家督相続を認めたものの、そのわずか数か月後の富山の役(佐々成政(さっさなりまさ)征伐)において、丹羽家の家臣が成政と内通していたという嫌疑をかけ、長重の領地を徹底的に削り取ったのである。
百二十三万石を誇った北陸の覇者の所領は、一瞬にして若狭一国十五万石へと縮小された。さらに天正十五年(一五八七年)の九州征伐の後には、長秀以来の重臣たちを秀吉直属の家臣として引き抜かれ、長重の所領は加賀松任四万石にまで削ぎ落とされた。
かつて信長の筆頭重臣として君臨した丹羽家の力は、秀吉の周到な権力集中策によって完全に解体されたのである。長秀があれほどまでに身を削って秀吉を支えた結末が、この冷酷な仕打ちであった。
だが、物語はここで終わらない。
父・長秀の壮絶な生き様と、屈辱に耐えて家を守ろうとした最期の祈りは、幼き長重の魂に深く刻み込まれていた。長重は秀吉の理不尽な減封に耐え、小田原征伐や文禄・慶長の役で黙々と武功を重ねていった。
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いにおいて、長重は西軍に与して東軍の前田利長(まえだとしなが)軍と激突(浅井畷の戦い)し、改易の憂き目に遭う。しかし、長重は決して腐らなかった。浪人の身に落ちても父から受け継いだ剛毅と誠実さを失わず、やがて徳川家康・秀忠の信任を勝ち取り、常陸古渡一万石から大名への復活を果たしたのである。
そして寛永四年(一六二七年)、長重は陸奥白河十万石の太守に封ぜられ、壮麗な白河小峰城の改修を成し遂げた。江戸幕府において、関ヶ原で改易された武将が十万石の大名にまで返り咲いた例は、極めてまれである。丹羽家はその後も二本松十万石の藩主として明治維新まで脈々と生き残り、武門の誇りを後世に伝えた。
もし長秀が本能寺の変ののち、意地に任せて秀吉と武力で激突していれば、丹羽家は柴田勝家と同じく、一族もろとも歴史の闇へと消え去っていたに違いない。
長秀が下した数々の苦渋の決断――秀吉の風下に立ち、緩衝材となり、病床で名刀を献上して頭を下げた屈辱の数々は、決して弱さによるものではなかった。それは、荒れ狂う時代の激流を見据え、自らの誇りという名の虚飾を削ぎ落とし、家と血脈を未来へと繋ぐための、最も過酷で気高い「戦い」であった。
激流を呑み込み、新時代の礎石となった男
丹羽長秀と豊臣秀吉の関係。それは、単純な主従やライバルという言葉では到底括ることのできない、戦国という時代の力学が凝縮された人間ドラマであった。
かつて秀吉が背中を追いかけた憧れの巨星であり、秀吉の台頭を支える強力な後ろ盾となった長秀。その長秀の存在があったからこそ、秀吉は山崎の戦いで主導権を握り、清須会議で正統性を勝ち取り、賤ヶ岳で勝利を収めて天下人への道を切り拓くことができた。秀吉が駆け上がった栄光の階段の、もっとも重要な最初の数段を形作ったのは、間違いなく丹羽長秀という巨大な礎石であった。
そして、その礎石となった代償として、長秀は織田家の衰退を目の当たりにする絶望を味わい、腹中の激痛とともに凄惨な伝説を残して逝った。
人は長秀を「米五郎左」と呼び、誰にでも重宝される穏やかな名脇役として記憶しがちである。しかし、その生涯を丹念にひもとくとき、浮かび上がってくるのは、決して無難に生きた男の姿ではない。
信長への無償の忠誠と友愛。津田信澄を討った心のうずき。盟友・柴田勝家を滅ぼす側に回った非情な現実。そして、天下人となった秀吉に対する愛憎こもごも至る複雑な情念と、家を存続させるための命がけの恭順。
激動の戦乱を生き抜くとは、己の正義や感情を貫き通すことだけではない。時に激流に身を任せ、理不尽を一身に引き受け、自らを殺してでも守るべきもののために頭を下げることである――丹羽長秀の生き様は、四百年の時を超えて今なお、耐え忍ぶ者の持つ静かなる凄みと、武将の真の誇りを我々の胸に静かに問いかけている。