慶長五年九月十五日、濃霧が立ち込める美濃関ヶ原の盆地に、天下の趨勢を決する銃声が轟き渡った。東軍十万、西軍十万。列島を二分する未曽有の大会戦において、西軍の頂点に君臨していた男の名は、石田三成ではない。安芸広島百二十万石を領し、太閤豊臣秀吉の遺命を受けた五大老の重鎮、毛利輝元であった。
しかし、歴史の皮肉というべきか。この決戦の当日、西軍総大将であるはずの輝元は、主戦場となった美濃の野にその姿を現すことはなかった。彼は豊臣秀頼(とよとみひでより)の膝元、大坂城西の丸に座したまま、一歩も動かなかったのである。戦後、毛利家は領国を四分の一以下に削ぎ落とされ、周防・長門三十七万石の防長二か国へと押し込められた。長きにわたり、後世の歴史家や物語作家たちは、輝元を「石田三成や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の甘言に乗せられた凡庸な神輿」「決断力に欠け、好機を逃し続けた暗愚な将」として描いてきた。
だが、残された書状や当時の記録を紐解くと、そうした単純な暗君像とはまったく異なる姿が浮かび上がる。輝元は大坂城で無為に過ごしていたのではない。むしろ彼こそが、関ヶ原の戦いを主導し、西日本全域に毛利の覇権を打ち立てる「西国政権」の樹立を夢見て、極めて能動的に謀略と軍事の糸を引いていた張本人であった。
偉大すぎる祖父・毛利元就が残した「天下を競望せず」という呪縛。その教えを破り、自らの野心に火を灯した瞬間に訪れた、身内からの冷酷な裏切りと、己の器への悔恨。関ヶ原という巨大な渦の中で、毛利輝元は何を望み、いかにして敗れ去ったのか。一族の命運を背負わされた三代目の葛藤と、沈黙の果てに流された血の涙の軌跡に迫る。
三代目の孤独と「天下を競望せず」の呪縛
戦国乱世における毛利家の軌跡は、奇跡的なまでの急拡大の歴史であった。安芸の一国人領主にすぎなかった毛利家を、わずか一代で中国地方十か国を制する巨大勢力へと押し上げたのが、稀代の智将・毛利元就である。
その元就の嫡孫として、天文二十二年(1553年)に安芸国吉田郡山城で生を受けたのが、幼名を幸鶴丸と名乗った輝元であった。毛利家の将来を一身に背負うはずであった父・毛利隆元は、温厚実直な名将であったが、永禄六年(1563年)、出雲出陣の途上で三十二歳の若さで急死してしまう。わずか十一歳で巨大な家督を継ぐこととなった幸鶴丸に対し、老年を迎えていた元就は並々ならぬ愛情と庇護を注いだ。
元就は陣中から幼い孫へ幾度も手紙を送り、筆まめに健康を気遣い、菓子や衣服を贈り続けた。しかし、その慈愛の裏には、戦国の修羅を生き抜いてきた冷徹な現実主義者のまなざしがあった。元就は自らの死後を見据え、二人の息子、すなわち吉川家を継いだ吉川元春(きっかわもとはる)と、小早川家を継いだ小早川隆景に対し、有名な「三子教訓状」を残す。毛利宗家を両翼から支え、一本の矢では折れるが三本の矢束ならば折れぬという結束の教えである。これがいわゆる「毛利両川」体制の原点であった。
そして、元就が子孫に遺した最も重く、かつ厳格な家訓こそが「天下を競望せず」という言葉であった。
「毛利の領国は中国地方で十分である。いたずらに天下の覇権を争い、中央の争乱に巻き込まれるような野心を持つな。ただ領国を堅守し、家名を万代に伝えることのみを願え」
この言葉は、権力の頂点を目指した者がことごとく滅び去っていった戦国の無常を骨の髄まで知る元就が、愛する孫と毛利の家を守るために張り巡らせた結界であった。
元就が没した元亀二年(1571年)、輝元は十九歳で名実ともに毛利家の当主となった。軍事を担う猛将の伯父・吉川元春、政治と外交を司る智謀の叔父・小早川隆景。二人の巨人に守られた輝元は、育ちの良い貴公子特有の鷹揚さと気品を備えて成長した。周囲の意向をよく聞き、家中の調和を重んじる美徳を持つ反面、自らの手で血を流し、泥をかぶって危機を突破するような修羅場の経験に乏しかった。
その輝元が直面した最初の巨大な試練が、天下統一へと突き進む織田信長との激突であった。京都を追われた将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を庇護した毛利家は、信長包囲網の主軸として戦うことを余儀なくされる。播磨国上月城を巡る攻防では、羽柴秀吉や黒田官兵衛(くろだかんべえ)率いる織田軍と対峙し、毛利軍は尼子再興軍を滅ぼしたものの、中央政権が繰り出す圧倒的な軍事力と、縦横無尽の調略の前に、毛利の旧弊な国人連合体制は激しく揺さぶられた。
天正十年(1582年)、本能寺の変が勃発すると、小早川隆景の決断により毛利家は秀吉と電撃的に和睦を結んだ。秀吉が天下人へ駆け上がると、毛利家は豊臣政権に恭順し、中国地方百二十万石を安堵される。輝元は五大老の一角として遇され、豊臣政権の重鎮として中央政治に関与していった。
だが、運命の歯車は無情に回転する。輝元の最大の精神的支柱であった小早川隆景が、慶長二年(1597年)に息を引き取ったのである。政治外交のすべてを差配し、豊臣政権との太い架け橋であり続けた隆景の死は、輝元から進むべき道標を奪い去るに等しかった。
隆景を失った直後、輝元が一族の吉川広家に書き送った自筆の書状が今に残されている。
「隆景殿を失い、我らごとき若輩ばかりが取り残されてしまい、途方に暮れるばかりである」
当時すでに四十代半ばに達していた大名が、自らを「若輩」と称し、心細さを赤裸々に吐露したこの一文には、偉大な先代たちの影に守られ続けてきた三代目の、拭い去れぬ孤独と重圧が凝縮されていた。そして翌慶長三年(1598年)、太閤秀吉がこの世を去った。毛利家という大船の舵を一人で取らねばならない荒波の海へ、輝元はたった一人で放り出されたのである。
豊臣の落日と芽生えた西国の野望
秀吉の死は、豊臣政権の脆弱な均衡を一瞬にして崩壊させた。筆頭大老である徳川家康が、豊臣家の掟を無視して諸大名との婚姻を独断で結び、露骨に覇権を握ろうと動き始める。これに反発する石田三成ら五奉行との対立は深まり、大名たちは徳川派と反徳川派に二分されていった。
従来の通説では、この危機の中で毛利輝元は、主戦派である外交僧・安国寺恵瓊や石田三成に口車に乗せられ、総大将という名ばかりの座に祭り上げられた受動的な存在と語られてきた。しかし、近年の研究や残された書状の綿密な調査は、この通俗的なイメージを根底から覆している。
輝元は決して、三成の操り人形ではなかった。彼を動かしていたのは、秀吉存命のころから胸の内に芽生えていた「西国の統括者」としての強烈な自負と、独自の権力意志であった。
文禄年間の記録や秀吉の遺言において、天下の政道は東国を家康が、西国を輝元が管轄するという二大巨頭体制が構想されていた。輝元にとって、五大老の序列第二位という地位は名目上の飾りではなく、西日本全域を自らの勢力圏として差配する正当な根拠であった。家康が東国において専横を極めるならば、自らは西国の王として君臨し、これに対抗する。その自尊心が、輝元の胸中で静かにくすぶっていた。
慶長五年七月、家康が会津の上杉景勝を討つべく大軍を率いて東下した隙を突き、大坂では反徳川の火の手が上がった。世にいう「内府ちかひの条々」と呼ばれる十三か条の家康弾劾状が、前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の三奉行連署によって出されたのは七月十七日のことである。
だが、驚くべきことに、輝元はその弾劾状が出される二日前の七月十五日、すでに居城である広島城を六万もの大軍を率いて進発していたのである。これは、大坂からの急報を聞いて慌てて駆けつけたような速度ではない。三成や奉行衆と綿密な事前協議を重ね、家康が上方(かみがた)を留守にした絶好の機会を見計らって、計画的に軍事行動を起こした動かぬ証拠である。七月十九日、輝元は大坂城西の丸に入城し、幼き豊臣秀頼を擁立して西軍の総大将の座に就いた。
大坂城に入った輝元が描いていた構想は、関ヶ原での単なる決戦ではなかった。彼は、この戦いが長期戦に発展することを見越していた。東国で家康と上杉が争い、美濃や近江で東西の軍勢が対峙している間に、西日本に残る東軍方の領国を一挙に武力で併合し、毛利を中心とする盤石な「西国政権」を樹立することこそが、輝元の真の狙いであった。
その証拠に、輝元は大坂城の書院において、西日本各地へ向けて猛烈な勢いで軍勢を派遣している。四国においては伊予や阿波へ軍を差し向け、阿波の蜂須賀領をまたたく間に占領下に置いた。さらに九州においては、豊臣政権下で没落していた名門・大友義統(おおともよしむね)に大量の武具、鉄砲三百挺、白銀千枚を与えて豊後へと送り込み、東軍についた黒田如水(くろだじょすい)の拠点を攻めさせた。
祖父・元就が遺した「天下を競望せず」という訓戒の枷は、このとき、完全に外れていた。目の前に広がる広大な権力の空白と、西国の覇王という甘美な響き。偉大なる祖父や叔父たちでさえ成し得なかった「毛利による天下の二分」という夢が、四十代半ばを迎えた御曹司の目をくらませていた。
しかし、この壮大な野望の根底には、致命的な脆さが潜んでいた。輝元は軍事上の大勝負に出ながら、自ら陣頭に立って血を浴びる覚悟を欠いていた。大坂城の豪壮な書院に座り、花押を据えた書状を次々と飛脚に持たせることで天下を動かしていると錯覚していた輝元の足元で、毛利家を二つに裂く破滅の亀裂が、音もなく広がっていたのである。
南宮山の静寂と「宰相殿の空弁当」
慶長五年九月十五日。美濃国関ヶ原の盆地は、前夜からの冷たい雨がやみ、底知れぬ濃霧に包まれていた。早朝、霧の切れ間から放たれた銃声を皮切りに、東西両軍合わせて十五万の将兵が激突した。
主戦場となった関ヶ原の西端には石田三成や宇喜多秀家、小西行長(こにしゆきなが)らが陣を敷き、迎え撃つ東軍の福島正則(ふくしままさのり)、黒田長政(くろだながまさ)らが死闘を繰り広げている。そして、関ヶ原の盆地を東から見下ろす要衝・南宮山には、家康の本陣の背後を突く形で、毛利軍の精鋭一万五千が布陣していた。
この軍勢を率いていたのは、輝元の従弟であり、毛利宗家の陣代として出陣した若き猛将・毛利秀元(もうりひでもと)であった。秀元は当時、参議の官職にあったことから、唐名で「宰相」と呼ばれていた。南宮山の山頂近くに陣取った秀元からは、霧が晴れゆく関ヶ原の戦況が一目瞭然であった。眼下を行き交う東軍の後方部隊、手薄になった家康の背中。今、この山を駆け下りて東軍の背後を突けば、徳川の軍勢は挟み撃ちとなり、一瞬にして壊滅することは明白であった。
「全軍、突撃の用意をせよ!」
秀元は幾度も下知を飛ばした。しかし、毛利軍は一歩たりとも前へ進むことができなかった。南宮山の山麓、登山道を塞ぐ最前線に布陣していた吉川広家率いる三千の部隊が、まるで大地に根を生やした巨岩のように沈黙を保ち、道を固く塞いでいたからである。
吉川元春の三男であり、武勇に優れ、家中きっての実力者であった広家。彼はなぜ、眼前で繰り広げられる天下分け目の決戦を前にして、凍りついたように動かなかったのか。
そこには、毛利家存続を巡る、広家の凄惨なまでの苦衷と冷徹な打算があった。広家は早くから、この合戦の行方を冷静に見極めていた。秀吉亡き後の豊臣政権はもはや瓦解寸前であり、石田三成らの即席の連合軍に、結束の固い東軍と老練な家康を打ち破る力はない。もし西軍が敗れれば、総大将を担いだ毛利家は、間違いなく天下の謀叛人として処刑され、家名は地上から消滅する。
「毛利の家を滅ぼしてはならぬ。たとえ裏切り者と罵られようとも、家さえ残ればよい」
そう確信した広家は、合戦に先立ち、親交の深かった東軍の武将・黒田長政を通じて、徳川家康と極秘の起請文(きしょうもん)を交わしていたのである。その条件は「関ヶ原において毛利軍が徳川軍に敵対行動を取らぬならば、戦後、毛利宗家の本領百二十万石を完全に安堵する」というものであった。
広家にとって、南宮山の坂道は、毛利家滅亡の奈落を塞ぐ防波堤であった。山頂の毛利秀元や、さらに東に布陣していた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、長束正家らの軍勢が家康に向かって突撃すれば、この密約は水泡に帰す。広家は自軍の兵に武器を構えさせ、味方であるはずの秀元軍の進路を力づくで遮断したのである。
激戦が続く関ヶ原の中央から、石田三成の陣が打ち上げる攻撃命令の狼煙(のろし)が幾重にも立ち昇った。やがて、しびれを切らした西軍の使者が、馬の息を乱しながら南宮山の秀元の本陣へと駆け込んでくる。
「なぜ動かぬのか! 毛利の大軍が背後を突けば、東軍はひとたまりもない! 直ちに出撃されたし!」
使者の鋭い詰問を受け、秀元は額に青筋を立てて焦燥に身を震わせた。山麓の広家に向けて「道を開けよ」「速やかに出陣せよ」と幾度も使者を送るが、広家は頑として首を縦に振らない。広家が動かない以上、山上の大軍が動けば味方同士の同士討ちになりかねない。しかし、西軍の使者を前にして「先陣が命令を聞かない」などと口が裂けても言えなかった。
進退きわまった秀元は、冷汗を拭いながら、苦し紛れにこう答えるしかなかった。
「今、兵卒たちに弁当を食わせている最中である。腹が減っては戦はできぬ。いましばらく、いましばらくお待ちいただきたい」
これが、世に名高い「宰相殿の空弁当」の真相である。
天下の命運を分ける血みどろの合戦のただ中にあって、「兵が弁当を食べているから出撃できない」という滑稽極まりない言い訳。その言葉の滑稽さとは裏腹に、秀元の腹の底には煮え湯を飲まされるような屈辱が渦巻き、山麓の広家の胸中には、露見すれば即座に一族から誅殺されるという、死と隣り合わせの極限の緊張が張り詰めていた。
南宮山の一万五千が静止し、背後の長宗我部や長束も疑心暗鬼に陥って動けないまま、正午が過ぎた。そして運命の午後一時、松尾山に布陣していた小早川秀秋(こばやかわひであき)が一万五千の兵を率いて山を駆け下り、西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)の陣へ襲いかかった。
西軍の戦線は一瞬にして崩壊した。関ヶ原の勝敗は、わずか半日で決したのである。南宮山の毛利秀元は、一発の銃声も鳴らすことなく、ただ敗走する味方の悲鳴を聞きながら、屈辱の撤退戦を開始するしかなかった。
巨大城郭の黄昏と砕かれた抗戦の気骨
関ヶ原における西軍壊滅の凶報は、早馬によってまたたく間に大坂城へと届けられた。
大坂城西の丸。黄金の茶室を備え、豪壮華麗な障壁画が連なる大広間で敗報を受け取った輝元は、頭上から冷水を浴びせられたかのように凍りついた。わずか一日。十万を超える大軍が激突したはずの決戦が、たった数時間の乱戦で、跡形もなく消滅したという。
大坂城内は蜂の巣をつついたような大混乱に陥った。逃げ戻ってきた敗残兵や、事態の急変に動揺する諸大名の叫び声が城郭にこだまする。その喧騒の中、血煙を上げながら輝元の御座所へと踏み込んできた男たちがいた。
大津城を攻め落としたのちに大坂へ駆けつけていた剛勇の士・立花宗茂(たちばなむねしげ)、そして南宮山から無傷の軍勢を率いて退却してきた毛利秀元である。二人は青ざめる輝元を取り囲み、膝を屈して声を大にして訴えかけた。
「総大将、気を落とされるな! 戦いはまだ終わってはおりませぬ!」
立花宗茂が眼を血走らせて言った。秀元もまた、南宮山での悔し涙を拭いながら言葉を継ぐ。
「城内には豊臣秀頼様がおわす。これ以上の大義名分が天下のどこにありましょうか! 我ら毛利の本隊は無傷、立花勢も精鋭がそろっております。大坂城は太閤殿下が築かれた天下無双の要塞。ここに籠城して家康を迎え撃てば、三倍の敵とて容易に落とすことはできませぬ!」
彼らの主張は、単なる敗者の悪あがきではなかった。軍事的に見れば、極めて的を射た戦略であった。大坂城には数年を支える兵糧と膨大な金銀が蓄えられており、巨石を積み上げた総構えの堀は鉄壁を誇っていた。何より、幼き豊臣秀頼を手元に置く毛利は「官軍」であり、家康は一歩間違えれば「豊臣に弓引く逆賊」へと転落する。ここで輝元が不退転の覚悟を示し、大坂城に籠もって徹底抗戦の旗を掲げれば、東国の上杉や佐竹、地方の反徳川勢力が再び呼応し、家康を長期戦の泥沼に引きずり込むことは十分に可能であった。
輝元の胸中は、激しく千々に乱れた。
祖父・元就の血筋を引く武将としての誇りが、戦えと叫ぶ。自らが夢見た西国政権の野望が、ここで退いてなるものかと背中を押す。
しかし、その武辺の気骨を無残に叩き折ったのは、城外から迫る徳川の軍勢ではなく、一通の密書であった。南宮山で毛利軍を縛り付けた吉川広家から、大坂城の輝元へ宛てて矢のように使者が放たれたのである。
「決して軽挙妄動に及ばれるな。すでに内府殿(家康)との間には、黒田長政殿を通じて固き約定が結ばれております。毛利が城を明け渡して恭順の意を示せば、毛利宗家の領国百二十万石は一片たりとも削られることなく安堵される手はずとなっております。もし今、大坂城に籠もって一矢でも報いるならば、その約定は破棄され、毛利家は根絶やしにされましょうぞ」
広家の言葉は、悪魔のささやきのように輝元の耳に突き刺さった。
戦えば、勝てるかもしれない。だが、負ければ毛利の血脈は完全に途絶える。一方で、戦いを放棄して大坂城を出れば、百二十万石の領地と富はそのまま残るという。
その瞬間、輝元の脳裏によみがえったのは、幼き日から叩き込まれ続けてきた祖父・元就のあの遺訓であった。
「天下を競望せず」
自らの器は、天下を争う覇王の器ではなかったのだ。元就が遺した警告を無視して身の丈に合わぬ野心を描いたからこそ、このような修羅場に追い込まれたのだ。輝元の中で、何かが音を立てて崩れ去った。もはや血を流す恐怖に立ち向かう気力は、名門の貴公子には残されていなかった。
「城を出る」
輝元は静かに告げた。立花宗茂は天を仰いで嘆息し、毛利秀元は唇をかみしめて血をにじませた。
九月二十五日、毛利輝元は大坂城西の丸を退去し、木津川の毛利屋敷へと引き揚げた。何一つ戦うことなく、天下の巨城と秀頼という最大の武器を自ら手放したのである。それは、武将としての誇りを捨て去り、一族の保全という現実的な妥協に逃げ込んだ瞬間であった。
剥がされた約束と萩の指月山に誓う執念
だが、戦国乱世の権力闘争において、血の通わぬ妥協を選んだ者に待っているのは、無慈悲な裏切りだけであった。
大坂城を明け渡し、恭順の姿勢を示した輝元を待っていたのは、百戦錬磨の老練な勝者・徳川家康の冷酷な宣告であった。
十月に入り、大坂に入城した家康のもとへ、吉川広家は胸を張って領地安堵の確認に向かった。しかし、家康が突きつけてきたのは、安堵の書状ではなく、輝元が西軍総大将として発給した大量の自筆の書状の束であった。
四国出兵を命じる輝元の花押入りの書状。九州の大友義統に鉄砲や資金を与えて決起させ、黒田如水と戦わせた軍令の数々。家康の諜報網は、輝元が繰り広げた「西国政権樹立」のための軍事行動を、最初からすべて克明に把握していたのである。
「輝元殿はただ担ぎ上げられた神輿などではない。自らの野心をもって西国を侵略し、天下を覆そうとした大逆の首謀者ではないか。かかる重罪人を、いかにして不問に付すことができようか」
家康は冷然と言い放った。そして、広家との密約を紙屑のように握り潰し、「毛利宗家は改易、領地はすべて没収」という最悪の処分を下したのである。
輝元にとって、それはまさに思いもよらぬ衝撃であった。大坂城を無血開城すれば百二十万石は守られると信じ切っていた輝元は、奈落の底へ突き落とされた。戦うべき城も兵も、すでに手元にはない。すべてを奪われ、路頭に迷う敗軍の将として、切腹を待つばかりの身となったのである。
この絶体絶命の危機において、身を挺して泥水をすすったのが、他ならぬ吉川広家であった。
家康は、関ヶ原で内通の功績を挙げた広家に対し、「毛利宗家を潰す代わりに、広家殿に周防・長門の二か国を与える」と持ちかけてきた。自分一人だけが生き残り、大名として出世できる道が開かれたのである。
しかし、広家はその恩賞を断固として拒絶した。
「私が願ったのは、毛利宗家の存続だけでございます。本家が取り潰され、分家の私が領国を頂いては、天下に対して顔向けが立ちませぬ。どうか、私に下さるはずの防長二か国を、宗家の輝元様に下し置かれますよう」
広家は家康の宿老(しゅくろう)たちに対し、凄絶な覚悟を綴った起請文を差し出した。その書状の中で、広家は主君である輝元を、極限まで罵倒し、おとしめてみせた。
「輝元殿が心底から人間が練れておらず、分別を欠いた愚か者であることは、皆様方もよくご存知の通りではありませんか」
「すべては悪僧・安国寺恵瓊の謀略にだまされたゆえの過ち。もし今後、輝元殿が再び徳川様に少しでも弓引くような気配を見せたならば、この広家が自らの手で輝元殿の首をはね、差し出す覚悟でございます」
主君を「分別のない暗愚」と呼び捨てにして天下の笑いものにし、いざとなればその首を差し出すと誓う。それは、武士としての矜持(きょうじ)を完全に踏みにじる、屈辱の極みともいうべき嘆願であった。しかし、そこまでして主君を徹底的に無力化し、無害な存在として描き出さなければ、家康の冷酷な猜疑心を解くことはできなかったのである。
広家の決死の嘆願と、自らの領地の差し出しによって、家康はついに毛利家の取り潰しを撤回した。
しかし、下された処分は過酷を極めた。
安芸、備後、周防、長門、出雲、石見、伯耆、隠岐――中国八か国百二十万石を誇った西国の覇王・毛利家は、わずかに周防・長門の二か国、三十七万石へと叩き落とされたのである。領国は四分の一以下に縮小し、何万もの家臣やその家族が路頭に迷うこととなった。
輝元は出家し、宗瑞と号した。自らが築き上げ、栄華を誇った広島城は没収され、福島正則へと引き渡された。輝元は防府や山口といった交通の便の良い内陸の城地を望んだが、幕府はそれを断じて許さなかった。徳川が指定したのは、三方を山に囲まれ、北は荒れ狂う日本海に面した寒村、長門国の萩であった。背後を海に塞がれた袋小路の地に、毛利を封じ込め、二度と中央へ這い上がれぬよう監視するという、幕府の冷徹な意図であった。
慶長九年(1604年)、日本海から吹き付ける寒風の中、輝元は萩の指月山麓に新たな居城・萩城の築城を開始した。
百二十万石の太守から、辺境の小大名への転落。己の身の丈に合わぬ野心を描き、決断の土壇場で命を惜しんで妥協した結果が、この寒々とした潮騒の地であった。広島の絢爛たる城を追われ、粗末な小屋で冬を越した輝元の胸中に去来したのは、骨を削るような悔恨であったに違いない。
だが、輝元はただ絶望して朽ち果てたわけではなかった。
萩城の縄張りを巡らせるにあたり、輝元は平城としての居館を指月山の麓に構える一方で、背後の険しい山頂に、堅固な石垣と天守を備えた「詰丸」を築かせた。幕府の厳しい目を盗みながら、万が一の事態において死力を尽くして籠城するための要塞を、密かに山上に維持し続けたのである。
表向きは徳川の泰平に恭順を装いながら、心の奥底では決して屈服しない。己の失策によって失った広大な領土と一族の誇りを、いつの日か取り戻すのだという静かな執念。その執念は、萩城の冷たい石垣に深く刻み込まれた。
そして、吉川広家との関係は、決定的な亀裂となって残った。広家は岩国三万石の領主として毛利家を支え続けたが、戦うことを望んでいた毛利秀元らをはじめとする家臣団は、広家を「関ヶ原で毛利を裏切り、領国を縮小させた元凶」として終生許さなかった。主君を愚弄してまで家を救った広家の悲劇的な忠義は、毛利家の中に二百年以上にわたる暗い確執の影を落とし続けることとなる。
元和九年(1623年)、輝元は七十一歳で波乱の生涯を閉じた。
祖父・元就の遺訓に縛られ、小早川隆景という巨星を失って孤独にさいなまれ、関ヶ原の激流の中で野心と恐怖の狭間に揺れ動いた男。彼の人生は、戦国から泰平へと移り変わる時代の巨大な力に翻弄された、哀しき三代目の肖像そのものであった。
しかし、輝元が萩の指月山に残した屈辱と執念の種子は、枯れ果てることはなかった。領地を四分の一に減らされながらも、毛利家は徹底した検地と新田開発、長州三白(米・塩・紙)の産業育成によって実高百数万石の国力を秘密裏に蓄え続けた。
そして関ヶ原から二百六十余年の歳月が流れた幕末。日本海の寒村・萩から立ち上がった長州藩の志士たちは、かつて祖先からすべてを奪い去った徳川幕府を、ついに武力をもって打ち倒すこととなる。その歴史の巨大な奔流の源流には、関ヶ原の戦いにおいて天下を夢見、そして敗れ去った毛利輝元が流した、痛恨の血の涙があったのである。