大友宗麟は、外国人のキリスト教布教を奨励した、キリシタン大名です。
酒好きで血の気の多い性格で、剣の試合でも真剣を使った勝負を要求していました。
キリスト教をきっかけにして海外から輸入した武器をあやつり、日本で初めて大砲を使った武将でもあります。
皮肉なことに、鉄砲や大砲を大いに使って戦った宗麟の人生を終わらせたのもまた、海外から来た病原菌でした。
そんな大友宗麟の魅力について、紹介していきます。
【プロフィール】
大友宗麟(おおとも そうりん)は、1530年1月31日生まれ。身長、血液型は不明。
幼い頃の名は「塩法師丸(しおほうしまる)」といい、10才で元服して「五郎」に改名しましたが、1年後に「義鎮(よししげ)」になりました。宗麟というのは出家したときの法号で、11才以降の本名はこの義鎮です。
性格はかなりわがままなうえに乱暴で、それを不安に思った父親が、嫡男(ちゃくなん)である宗麟ではなく異母弟に家督を継がせようとしたほどでした。
結局家臣らの大反対にあって、家督を継いだのは宗麟でしたが、大人になってからも酒癖と女癖が悪く、周囲を困らせていました。
【家紋】
大友家の家紋は、「大友抱き杏葉(おおともだきぎょうよう)」。一族や家臣は「大友花杏葉(おおともはなぎょうよう)」。
杏葉とは、中国から来た馬の装飾に使う道具のことです。のちに宗麟の軍に勝利した龍造寺隆信が、勝利記念に家紋を「抱き杏葉」に変え、さらに鍋島氏にも受け継がれたほど、杏葉紋は人気のあるものでした。
また、宗麟は独占紋として「算木(さんぎ)」を使っていたという説もあります。
算木も中国のもので、占いにも使われた計算器具です。このあたりからも、宗麟が海外のものを好んでいた、というのがわかります。
【刀】
宗麟の刀は、「骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)」。製作者は藤四郎吉光(とうしろうよしみつ)。
なぎなたを改造して刀に作り変えたもので、斬るまねをするだけで骨ごと粉砕するほど強烈な切れ味だったことから、この名前がつきました。
宗麟の剣の流派は活殺剣法タイシャ流で、試合をするときも真剣を使用することを要求したといいます。骨喰藤四郎は、そんな血の気の多い宗麟にぴったりの刀です。
【兜】
宗麟の兜は「白檀塗二十二間椎実形兜(びゃくだんぬりにじゅうにけんしいのみがたかぶと)」。
西国の武将に多く見られた兜で、どちらかというと西洋スタイルに近い形の兜です。ここにも宗麟の海外好きが表れています。
【甲冑、鎧】
宗麟の甲冑、鎧は「白檀塗浅葱糸威腹巻鎧(はくだんぬりあさぎいとおどしはらまきよろい)」。
海戦や歩行戦に有利な鎧で、兜と同じく、西洋スタイルに近い形の甲冑です。キリシタン大名である宗麟の、西洋好きの傾向が表れています。
【死因と最後】
豊臣傘下に入っていた宗麟は、島津義久との戦いに勝利目前というところで、病死してしまいました。58才でした。
敗北寸前の大ピンチから秀吉の援軍で逆転した宗麟でしたが、死因は海外の伝染病だったといわれています。
武器の輸入など、海外との貿易に力を入れていた宗麟は外国人との交流が多く、海外から来る船に乗っていたネズミが原因で、病気に感染したということです。
九州で1番の勢力になり、大友家を最盛期にのし上げた宗麟が、力を入れていた海外貿易が原因で死を招いてしまうとは、皮肉というか、相当な無念だったに違いありません。
イエズス会のキリスト教布教を許し、キリシタン大名として神に祈りながら戦った宗麟。
勝利の女神は微笑んでくれましたが、最後の最後に試練を与えられてしまいました。
【墓】
キリスト教信者だった宗麟の墓は、十字架が入ったキリスト教式の墓でしたが、宗麟が死んだ後バテレン追放令が出たため、仏教式の墓に作り変えられました。
江戸時代になってから家臣の末裔がキリスト教式の墓を作り直し、現在2つの墓が残っています。
キリスト教式の墓の方には、宗麟のキリスト教名である「ドン・フランシスコ」が入っています。
【子孫・末裔】
宗麟の死後、息子である大友吉統(よしむね)は、戦場での敵前逃亡が原因で改易され、秀吉が死ぬまで5年間幽閉されてしまいました。秀吉が死んで解放されたあと、戦に負けて再び幽閉。
敵前逃亡したのはそもそも間違った情報が来てしまったせいなんですが、その後の人生はほとんど牢屋の中で過ごすことになった吉統。
その嫡男の大友義乗(よしのり)は家康に仕えたことで、3300石の領地が与えられ、高家の旗本として大友家を持ち直させました。
義乗のおかげで江戸時代も大友家は存続しましたが、次の大友義親(よしちか)の代で一旦断絶。細川家に仕えていた義乗の異母弟のほうの家系で再興する事が許され、高家として復活しました。
元総理大臣の細川もりひろも末裔といわれていますが、正式な大友家は一旦断絶しているので、厳密には子孫ではないのかもしれません。
【居城「臼杵城(うすきじょう)」】
酒好きの宗麟が、家督を継いでから篭もり、毎日宴会をしていたという臼杵城。
もともとは、宗麟の扱いが原因で起こった家臣の反乱を避けるために、それまでの拠点だった大友館を捨てて移り住んだ城でした。
島に作られたことで、周りが海で敵に攻められにくく、守りの強固な城です。
吉統の代で改易されるまでのあいだ、大友家の本拠地として存在し、取引相手の外国人も多く訪れました。
城下町にはキリスト教の施設、城内には礼拝堂が設置されていたという話からも、宗麟がキリスト教徒を歓迎していたことがわかります。
【大友宗麟について】
大友宗麟は軍事利用するためにキリスト教徒に近づき、海外の武器を輸入して戦いました。
しかし、徐々に本気でキリスト教にはまっていき、それがきっかけとなって衰退していきます。
そんな宗麟のエピソードをいくつか紹介します。
・戦のためにキリシタン大名に
宗麟はイエズス会の布教活動を容認し、外国人と多く交流を持つことで、西洋の武器や技術を輸入して、軍事力を高めていきました。
当時鉄砲が日本に普及し始めたころで、宗麟はいち早くこれに目をつけて、
「毛利氏はキリスト教を敵対視しているから、火薬の原料を輸入させないようにしてください」
という内容の手紙を書き、勢力を伸ばしてきていた毛利元就が鉄砲を海外から導入できないように根回しした、といいます。
このように、最初は軍事力の増強のために、イエズス会を利用していたのでした。
新しいものにいち早く目をつけて、戦いに導入するために改宗までするところに、宗麟の勝利への執念が感じられますね。
・入れ込みすぎてキリスト教王国を目指したのが衰退の原因?
最初は利用する目的だったキリスト教に、宗麟は徐々に惹かれていきました。48才のときにキリスト教の洗礼を受け、名前をドン・フランシスコに変えています。
この頃から様子がおかしくなりました。戦場でも戦いにいかずに後方陣地で礼拝ばかりするようになって家臣たちの不信感を買い、キリスト教に反対する領民からは反乱が起こり、島津氏との戦いにも敗れて領土を失っていきます。
改名までしてキリスト王国を作ろうとした宗麟でしたが、もはや単独で戦う力は残っておらず、豊臣傘下に入ることでなんとか生き長らえました。
しかし、その後すぐに病死。他のキリシタン大名とともにローマに送った、少年使節団が帰国する前に亡くなってしまいました。
幼少期から父親と仲が悪く、性格が不安定だった宗麟にとって、宗教というのは救いだったのかもしれません。
・大砲・国崩し(フランキ砲)
亡くなる直前の島津氏との戦で活躍したのが、日本最初の大砲、「国崩し」です。
敗北寸前だった宗麟は、本拠地である臼杵城に篭もり、大砲を打ち続けることでなんとか攻め込まれずに耐え、豊臣の援軍が来るのを待ちました。
その威力はすさまじく、「国をも崩す」といわれたことが名前の由来です。
結果的に島津氏との勝負に負けなかったのは、この国崩しがあったからとみて間違いありません。
輸入したものをそのまま使うのではなく、技術だけ盗んで自分たちで製造し、小さな弾丸をたくさんつめて撃つなど、使い方も工夫していました。
海外の文化に強い興味を示した宗麟には、武器の研究もぴったりはまったんだと思います。現在でいうところのショットガンを先取りしていますね。