薩摩の風は、いつも火薬の匂いを帯びていた。
天文四年(1535年)、島津貴久の次男として生を受けた義弘は、祖父・島津忠良(いしまづただよし)の膝元で武の道を叩き込まれた。忠良は「島津家の中興の祖」と仰がれる傑物であり、四人の孫をそれぞれ見極め、こう語ったと伝わる。長男・義久(よしひさ)には「三州の総大将たるの材徳あり」、次男・義弘には「雄武英略を以て傑出す」、三男・歳久(としひさ)には「始終の利害を察するの智計並びなし」、末弟・島津家久(しまづいえひさ)には「軍法戦術に妙を得たり」と。義弘の本質は、この幼き日の評のままに生涯を貫くことになる。
天文二十三年(1554年)、岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いで義弘は初陣を飾った。兄の義久、弟の歳久とともに三兄弟そろっての出陣であった。敵の砦へ攻め寄せる最中、鉄砲の弾丸が義弘のそばを掠めた。この戦いで島津勢は鉄砲を実戦に用いたとされ、種子島に伝来してわずか十年余りでの実用化であった。義弘はこの時十九歳。戦場の硝煙の中で、彼の血は滾った。
木崎原の鬼――三百で三千を屠った日
元亀三年(1572年)、義弘の名を九州に轟かせた戦いが訪れる。木崎原(きざきばる)の戦いである。
日向国を治める伊東義祐(いとうよしすけ)は、三千の大軍を率いて島津領へ侵攻した。対する義弘の手勢はわずか三百。十倍の敵を前にして、義弘は退くことなく、ひとつの策を練った。「釣り野伏せ」――島津家伝来の戦法である。
義弘はまず正面から小勢を出して伊東軍と交え、わざと敗走の姿を見せた。追撃に逸る伊東勢の眼前には、あちこちに打ち立てられた旗指物がはためいていた。あたかも大軍が潜んでいるかのような偽装であった。伊東軍が深く追い込まれたその刹那、左右の山中から伏兵が一斉に飛び出し、偽装退却していた義弘の本隊も反転して襲いかかった。三方から挟撃された伊東軍は総崩れとなり、有力な武将が次々に討たれた。
後にこの戦いは「九州の桶狭間」と呼ばれることになる。しかし義弘の心を捉えていたのは、勝利の高揚ではなかった。戦場に横たわる無数の遺骸を前にして、義弘は敵味方の区別なく戦死者を弔い、六地蔵塔を建立した。敵をも供養する武将――それは、鬼と呼ばれることになるこの男の、もうひとつの本質であった。
耳川の激流――九州の覇権を懸けた決戦
天正六年(1578年)、義弘にとってさらなる大戦が待ち受けていた。耳川(みみかわ)の戦いである。
大友宗麟(おおともそうりん)率いる三万とも四万ともいわれる大軍が日向へ南下し、島津方の要衝・高城を包囲した。大友軍は「国崩し」と呼ばれる大筒を据え、城壁を砕く猛攻を加えた。だが高城の守将たちは執拗に耐え抜き、その間に義弘は飯野から出陣して財部城に入り、兄・義久の本隊と合流を果たした。
十一月十二日、島津軍は再び得意の釣り野伏せを展開した。正面に義弘、側面に義久、そして高城から打って出た家久。三方からの連携攻撃を受けた大友軍は壊乱し、北へ向かって潰走した。島津の追撃は激しく、逃げる大友の兵は耳川の激流に阻まれ、多くが溺死あるいは討ち取られた。川の水が赤く染まったと伝わるほどの凄惨(せいさん)な光景であった。
この大勝によって大友氏の勢力は急速に衰退し、島津家は九州統一へ向けて大きく前進した。義弘と兄弟たちが一体となって戦う姿は、まさに忠良が育んだ「四兄弟の結束」の結実であった。義久が全体を統べ、義弘が矛先となり、歳久が裏を読み、家久が戦場で神がかりの采配を揮う。この四つの歯車が噛み合ったとき、島津は無敵であった。
海を渡った鬼――泗川(しせん)の戦いと「鬼石曼子」
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐によって島津家は降伏を余儀なくされる。しかし秀吉は島津兄弟の武勇を認め、本領安堵のうえで家臣に組み入れた。やがて文禄・慶長の役が始まり、義弘は海を渡って朝鮮半島に赴くことになる。
慶長三年(1598年)、秀吉の死を察知した明・朝鮮連合軍が各地の日本軍拠点に攻勢をかけた。泗川新城に籠もる義弘の手勢は約七千。対する敵軍は数万、島津方の記録では二十万とも伝わる。六十三歳の義弘にとって、それは生涯最大の戦いとなった。
義弘は城外に伏兵を配し、敵の食糧庫への焼き討ちを仕掛けて短期決戦へと引きずり込んだ。十月一日の総攻撃に際して、島津軍は鉄砲の一斉射撃で敵の第一波をひるませた。さらに敵陣営の火薬庫が爆発して大混乱に陥ったところへ、義弘は全軍で突撃を命じた。七千の兵が大地を蹴り、数万の敵軍を突き崩していく。戦場は阿鼻叫喚に包まれ、明・朝鮮連合軍は壊走した。
この戦いの後、敵は義弘を「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼んで恐れた。「石曼子」とは「島津」の中国語読みの当て字であり、「鬼」は人の域を超えた化け物を意味する。六十を超えてなお戦場に立ち、圧倒的不利をものともしない男に、敵国の兵は人ならざるものの影を見たのだろう。
この朝鮮出兵に際して、義弘は七匹の猫を連れていったという逸話が残る。猫の瞳孔の開き具合で時刻を測るためであったとされるが、帰国後、無事に戻った二匹の猫のために「猫神(ねこがみ)神社」を建立して供養している。戦場の鬼が、小さな命にまで心を配る。この対比の中にこそ、義弘という人間の深みがある。
関ヶ原、敵中突破――島津の退き口
慶長五年(1600年)九月十五日、天下分け目の関ヶ原。
義弘は西軍に属して参戦したが、率いる兵はわずか千五百ほどであった。畿内での兵の調達が思うように進まず、しかも開戦前夜に義弘が提案した夜襲策は石田三成に退けられたと伝わる。義弘の胸中に、どれほどの鬱屈(うっくつ)があったか。
戦いは西軍の総崩れに終わった。小早川秀秋の寝返りを契機に西軍は瓦解し、島津勢は戦場に取り残された。後方へ退くという選択肢は、もはやなかった。四方を敵に囲まれた義弘が選んだのは、前方への突破――すなわち、徳川家康の本陣を横切るようにして伊勢街道へ抜けるという、常軌を逸した作戦であった。
これが世に名高い「島津の退き口」である。
義弘の甥にあたる島津豊久(しまづとよひさ)が殿(しんがり)を志願した。豊久は島津家久の子であり、叔父を敬愛する若武者であった。島津軍は退却しながら「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦術を用いた。数名の兵をその場に留め、追手が来れば死ぬまで戦って足止めする。その間に本隊は進み、また次の地点で別の兵が命を捨てて踏みとどまる。人の命を楯にする非情な戦術――だがそこには、主君を生かすためならば己の命を差し出すという、薩摩隼人の矜持(きょうじ)が宿っていた。
烏頭坂(うとうざか)にて、豊久はわずか十三騎で東軍の大軍に立ちはだかった。井伊直政や松平忠吉といった徳川の精鋭が追撃する中、豊久は激しく斬り結び、ついに力尽きて自刃した。三十歳の若さであった。
川上忠兄(かわかみただえ)、川上久智(かわかみひさとも)、川上久林(かわかみひさしげ)、押川公近(おしかわきみちか)、久保之盛(くぼゆきもり)――彼らは後に「小返しの五本槍」と称えられることになるが、いずれも捨て奸の最前線で命を擲って義弘の退路を切り開いた者たちである。
義弘は血路を開き、堺から船で薩摩へと帰還した。出陣時に千五百を数えた兵は、帰国した時にはわずか八十余名にまで減っていたという。義弘の頬を伝ったものが涙であったか、それとも硝煙の残滓であったか――それを知る者はいない。
鬼の中の仏――晩年に見せた慈愛の姿
関ヶ原の敗戦後、島津家は改易の危機に瀕した。だが義弘と兄・義久は巧みな外交交渉を展開し、家康との直接的な武力衝突を避けつつ、最終的に本領安堵を勝ち取った。薩摩七十七万石は守られた。それは退き口で命を賭した家臣たちの犠牲の上に成り立つ、血の代償であった。
隠居後の義弘は、加治木(かじき)の地に落ち着いた。戦場の鬼は、穏やかな老将へと姿を変えていく。
義弘は晩年、戦で命を落とした家臣たちの遺族を手厚く援助した。関ヶ原で散った豊久をはじめ、退き口で捨て奸に殉じた将兵の名を生涯忘れることはなかったという。義弘の元には多くの家臣が慕って集まり、凍死や餓死する者を出さなかったと伝えられる。戦場においてさえ兵と苦楽をともにし、常に最前線に身を置いた男であったからこそ、家臣たちは義弘のためならば命を捨てることも厭わなかったのである。
また、義弘が朝鮮出兵から連れ帰った約八十名の朝鮮人陶工たちは、薩摩の各地で窯を開き、やがて「薩摩焼」の礎を築くことになる。義弘自身も茶の湯を嗜む風雅の士であり、茶器の製作を奨励した。鬼と呼ばれた手が、繊細な茶碗を愛でる。その矛盾の中にこそ、島津義弘という人物の奥深い魅力が息づいている。
義弘の精神は、薩摩藩独自の「郷中教育(ごじゅうきょういく)」の源流ともなった。年長の者が年少の者を導き、地域ごとに青少年が自主的に学び合う仕組みは、朝鮮出兵で義弘が留守の間に家臣たちが若者の規律を保つために設けた制度に端を発するとされる。この教育の土壌から、幕末には西郷隆盛や大久保利通といった維新の志士たちが輩出されることになる。義弘が蒔いた種は、二百五十年の時を経てなお、日本の歴史を動かした。
元和五年(1619年)七月二十一日、島津義弘は加治木の館で静かに息を引き取った。享年八十五。その訃報が伝わると、殉死する家臣が後を絶たなかったという。
「たとえ討たれるとも、敵に向かいて死すべし」――義弘が遺したとされるこの言葉は、単なる武人の遺訓ではない。退き口で背を見せず、捨て奸で前を向いて散った家臣たちの生き様そのものである。
鬼島津。その異名は、畏怖の象徴であると同時に、敬愛の証でもあった。敵を打ち砕く鬼の力と、味方を包み込む仏の慈悲。その両方を一身に宿した男の物語は、四百年を超えた今もなお、薩摩の風の中に響いている。