蝮の異名と冷徹な権謀術数
戦国という時代は、昨日までの主従が明日には刃を交え、血族であっても相争う底なしの泥沼のような世であった。その群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の乱世において、自らの才覚ただ一つを頼りに、最も泥にまみれ、最も鮮やかに這い上がった男がいる。斎藤道三(さいとうどうさん)。かつては京都の油売りであったとも、あるいは還俗した僧侶であったとも伝わるこの男は、美濃国(みののくに)において下剋上(げこくじょう)の体現者となった。一介の素浪人に等しい身分から身を起こし、守護代や守護といった特権階級を次々と謀略にかけて追い落とし、ついには一国の主へと君臨したのである。
道三の成り上がりの歩みは、冷酷な計算と裏切りに彩られている。美濃の守護であった土岐氏に取り入ると、道三はその卓越した知略と弁舌で次第に実権を握っていった。恩義ある主家である土岐頼芸を容赦なく追い落とし、毒牙にかけるようなその権謀術数の凄まじさから、人々は彼を「美濃の蝮」と呼び、心の底から恐れた。蝮という忌み名には、親の腹を食い破って生まれてくるという恐ろしい迷信があり、主家を乗っ取った彼の振る舞いは、まさにその不吉な伝承に重なるものであった。
だが、道三の政は単なる無軌道な暴政ではなかった。治水や商業の保護に力を入れ、豊かな美濃の大地をさらに富ませる経済的な才にも長けていた。有能な者であれば身分を問わず重用する合理性を持つ一方で、彼に刃向かう者への処断は苛烈を極めた。罪人に対する牛裂きや釜茹でといった凄惨(せいさん)な刑罰を平然と下し、見せしめとすることで、自らの絶対的な権力を誇示したという。彼の周囲には常に血の匂いが漂い、疑心暗鬼の目が光っていた。
美濃の旧来の国衆や家臣団は、表面上は絶対的な権力者である道三に従いながらも、その心中には旧主である土岐氏への思慕と、成り上がり者に対する拭い難い怨嗟(えんさ)を抱え続けていたのである。道三自身、自らが築き上げた権力が薄氷の上に成り立っていることを、誰よりも深く理解していたに違いない。孤高の梟雄(きょうゆう)は、稲葉山城の奥深くでただ一人、誰も信用できない暗闇の中で天下の形勢を睨み続けていた。彼が真に求めていたのは、この美濃という小さな器に収まる安寧ではなく、乱世そのものを覆すような強烈な光であったのかもしれない。
奇妙な出会いと破格の才能
天文二十二年(一五五三年)、長きにわたる尾張国(おわりのくに)との争いに一区切りをつけるべく、道三は自らの愛娘である帰蝶を、織田信長(おだのぶなが)のもとへ嫁がせた。政略結婚は乱世の常であったが、この若き織田家の当主に関する噂は、およそ一国の主としては相応しくないものばかりであった。奇抜な身なりで町を練り歩き、柿や栗を食べながら歩き回るその姿は、近隣の国々から「尾張のうつけ」と軽蔑されていた。
道三は、この男の真の器量を見定めるべく、富田の正徳寺(しょうとくじ)にて会見の場を設けた。もし信長が噂通りの愚か者であれば、その場で暗殺するか、さもなくば娘を救い出し、力尽くで尾張を奪い取る。道三の腹中には、冷酷な打算が渦巻いていた。自らが手塩にかけて育てた美濃の強兵をもってすれば、うつけの治める国など容易に蹂躙(じゅうりん)できると考えていたのである。
会見の当日、道三は信長の行列を密かに観察するため、街道の古小屋に身を潜めた。やがて姿を現した信長は、噂に違わぬ異様な風体であった。髪を茶筅髷にし、湯帷子の袖を外し、腰には火打ち袋や瓢箪(ひょうたん)をいくつもぶら下げている。しかし、道三の眼を釘付けにしたのは、その奇抜な格好ではなかった。信長の背後に続く五百挺もの鉄砲隊と、長槍を揃えた屈強な兵たちの姿であった。まだ鉄砲という武器が戦場で主流でなかった時代に、これほどの数を揃え、見事に統率している。さらに信長は、行軍中でありながら微動だにせず、鋭い視線で周囲を睥睨(へいげい)していた。その整然とした行軍には、並の武将にはない底知れぬ威圧感が漂っていた。
そして、正徳寺に到着した信長は、先ほどの奇矯な姿から一転し、威儀を正した見事な正装で会見の場に現れたのである。その堂々たる振る舞いと、隙のない礼法を目の当たりにしたとき、道三の内にあった軽蔑は、静かな驚愕へと変わっていった。信長の眼の奥には、道三と同じ、あるいはそれ以上に冷徹で壮大な野望が炎のように燃え盛っていたのだ。
「見事なうつけだ」
道三の口から漏れたのは、最大限の賛辞であった。帰り道、重臣の猪子兵助が「やはり信長はうつけでしたな」と嘲笑したとき、道三は彼を鋭くねめつけ、こう言い放った。
「やがて、わが子たちはあの男の門前に馬をつなぐことになるであろう」
己の息子たちが、信長の家臣として傅くことになるという予言。それは、自らの血脈の限界を悟ると同時に、乱世を終わらせる真の才能の出現を確信した瞬間でもあった。蝮と呼ばれた冷酷な男の心に、初めて、自分を超える者への敬意と、奇妙な愛情が芽生えたのである。彼にとって信長は、単なる娘婿ではなく、自らの魂を受け継ぐ「真の息子」として映ったのかもしれない。
親子を分かつ凄絶な疑心
一方、道三の嫡男(ちゃくなん)である斎藤義龍(さいとうよしたつ)との関係は、年を追うごとに冷え切っていった。道三は弘治元年(一五五四年)に家督を義龍に譲り、自らは隠居の身となった。鷺山城へと退いた道三であったが、権力を譲り渡したからといって、二人の間の溝が埋まることはなかった。義龍には、出生にまつわる重大な疑惑が付き纏っていた。彼の実の父親は道三ではなく、かつて道三が追放した土岐頼芸ではないかという根強い噂である。
道三が頼芸の側室であった深芳野を譲り受けた際、彼女はすでに身籠っていたというのだ。この真偽不明の噂は、土岐氏の復権を望む国衆たちにとって、義龍を神輿として担ぎ上げるための格好の大義名分となった。血筋という古い価値観を打ち破ってのし上がったはずの道三が、皮肉にもその「血筋」という見えない刃によって足元をすくわれようとしていたのである。義龍自身もまた、その噂に翻弄され、自らの存在意義に対する激しい葛藤と、底知れぬ不安を抱えていたに違いない。
さらに道三は、義龍を「耄者(ぼけもの)」と呼んであからさまに見下すようになっていた。信長という途方もない才能に出会ってしまった道三の目には、土岐の血を重んじ、周囲の家臣団の顔色を窺う義龍の姿が、ひどく凡庸で退屈な男に映ったのだろう。道三の寵愛(ちょうあい)は、優秀であったとされる次男の孫四郎や三男の喜平次へと偏っていき、ついには義龍を廃嫡し、彼らに美濃を継がせようとする動きを見せ始めた。
父から愛されず、己の才能を全否定された義龍の心中はいかばかりであったか。彼の中には、名門の血を引く者としての矜持(きょうじ)と、自身を認めようとしない父に対する凄まじい憎悪、そして自らが排除されるかもしれないという切実な恐怖が渦巻いていた。信長という異能の存在が、図らずも斎藤家の内に眠っていた亀裂を決定的なものにしてしまったのである。権力への執着と、血の繋がりという不確かな呪縛が、親子の間に取り返しのつかない悲劇を呼び寄せていた。
戻れない凶行と決意の挙兵
弘治元年十一月。限界に達した義龍の鬱屈(うっくつ)は、ついに最悪の形で爆発する。義龍は自ら病に伏せったと偽り、見舞いに訪れた弟の孫四郎と喜平次を稲葉山城の奥深くへ誘い込んだ。そして、伏せていた刺客である日根野弘就らに命じて、自らの弟たちを無残に斬り捨てたのである。
それは、もはや弁明の余地もない身内の惨殺であり、父・道三に対する決定的な宣戦布告であった。血塗られた刃を手に、義龍はついに父の呪縛を断ち切り、自らの力で美濃の国主たることを宣言したのである。
弟殺しの報せを聞いた道三は激昂し、ただちに兵を挙げた。自らが手塩にかけて育てた国を、愚かな息子に奪われるわけにはいかない。しかし、事態は道三の予想をはるかに超えて悪化していた。長年にわたって道三の強圧的な支配に耐え忍んできた美濃の国衆たちは、これを好機とばかりに義龍の側へと次々に寝返っていったのである。道三の苛烈な粛清に震え上がっていた者たちは、土岐の血を引く(とされる)義龍の旗のもとに糾合(きゅうごう)し、道三を討ち果たすべく決起した。
道三の周囲に残ったのは、ごくわずかな側近と少数の兵のみであった。かつてはその知略で大軍を翻弄し、意のままに国を動かしていた男が、晩年にして完全に孤立無援の境地に立たされたのである。それは、力と恐怖によってのみ人を支配してきた梟雄の、必然的な帰結であったのかもしれない。
翌、弘治二年四月。道三は最後の決戦に臨むべく、長良川のほとりへと陣を進めた。道三の軍勢はおよそ二千七百。対する義龍の軍勢は一万七千余り。その圧倒的な兵力差は歴然としており、道三の敗北は誰の目にも明らかであった。静かに流れる長良川の水面は、近づく凄惨な殺戮の気配を映し出し、異様な静けさに包まれていた。
国譲り状と未来への託宣
この絶望的な状況のなか、死を覚悟した道三は、一つの驚くべき決断を下す。彼は陣中で密かに書状をしたため、それを尾張の信長へと送ったのである。その内容は、戦国の常識を根底から覆すものであった。
「美濃一国を、織田信長に譲る」
自らの血を引く実の息子を討ち果たし、美濃の地を他国者である娘婿の信長に託す。それは、道三が己の死を前提とし、自らの作り上げた国を解体してでも、新しい時代を信長に切り開かせようとする執念の表れであった。道三にとって、血統や家名などというものは、己を飾る虚妄にすぎなかった。真に天下を統べるべきは、義龍のような過去の権威にすがる者ではなく、信長のように旧習を打ち破り、未来を創造する力を持った者でなければならない。
この書状には、愚かな息子に対する冷酷な見切りと同時に、自分を凌駕する天才に対する、狂気にも似た深い愛情が込められていた。蝮は自らの命と引き換えに、信長という強烈な毒を、あるいは希望を、戦国の世に解き放とうとしていたのである。この大義名分を得たことで、信長はのちに美濃を攻め取る正当な理由を持つこととなる。道三の目は、自身の死後の世界において、信長が天下布武の旗を掲げて駆け抜ける姿を、はっきりと捉えていたに違いない。
蝮の最後、あるいは安住の地
弘治二年四月二十日。春の陽光が降り注ぐ長良川の岸辺で、ついに両軍は激突した。圧倒的な兵力で押し寄せる義龍軍に対し、道三軍は死に物狂いで抗戦した。老骨に鞭打ち、陣頭指揮を執る道三の姿には、かつての冷酷な策謀家の面影はなく、ただ純粋な武将としての凄絶な闘気がみなぎっていた。
舅の危機を知った信長もまた、大軍を率いて尾張から駆けつけていた。木曽川を渡り、美濃の地へと踏み込んだ信長は、義龍軍の背後を突くべく進軍を急いだ。しかし、無情にも戦局は一気に傾き、義龍軍の猛攻の前に道三軍は次々と崩れ去っていった。信長の援軍が間に合うことはなかったのである。
乱戦の最中、道三は義龍軍の先陣によって幾重にも取り囲まれた。長井道勝という屈強な武将が道三に組みかかり、激しいもみ合いとなる。老齢とはいえ、腐っても蝮である。道三は必死に抵抗したが、そこに小牧源太という若武者が駆けつけ、勢い余って道三の脛を薙ぎ払った。地に崩れ落ちた蝮の首は、ついにその場で無残に刎ね落とされたのである。伝承によれば、手柄の証として彼の鼻は削ぎ落とされ、その無残な首級(しるし)は、かつて彼が愛し、憎んだ義龍のもとへ届けられたという。
すべてを奪い、すべてを支配しようとした男の最期は、実の息子が差し向けた刃によって命を絶たれるという、あまりにも皮肉で凄惨なものであった。
道三は、決死の陣中で末子に宛てて一つの歌を遺している。
「捨ててだに この世のほかは なきものを いづくか終の すみかなりけむ」
己の地位も、国も、そして肉親の情すらもすべてを捨て去ろうとする今、この世のほかに自分が向かうべき場所などどこにもない。一体、私の最後の安住の地はどこにあるのだろうか。
油売りから身を起こし、数多の血を流して国を手に入れた男。その孤独な魂は、死を目前にして、己の生き様に対する虚無(きょむ)と寂寥を静かに歌い上げていた。戦国の世を誰よりも冷徹に見つめ、己の欲望のままに生きた男の、人間としての脆さと悲壮感が、この三十一文字に凝縮されている。
美濃の蝮は、長良川の冷たい流れとともに散った。しかし、彼の遺志は決して途絶えることはなかった。彼が遺した美濃という国、そして「国譲り状」という大義名分は、後に信長が天下へと飛躍するための最大の足掛かりとなったのである。蝮は自らの血と肉を贄として、稀代の「うつけ」を覇王へと羽ばたかせた。斎藤道三が探し求めた「終のすみか」は、来世の極楽浄土などではなく、彼が命を賭して愛した信長が創り上げる、天下布武という血風吹き荒れる歴史の中にこそあったのかもしれない。