斉藤道三

歴史上の人物の中でも極悪非道な武将の一人としていまでも語り継がれている斎藤道三。「美濃のマムシ」とも呼ばれ恐れられていますが、非常に頭の切れる優秀な武将であったともいわれています。一介の油商人だったところから、一国一城の主にまで登りつめた斎藤道三の人生に迫ります。

■プロフィール
斎藤道三は、諸説ありますが有力なものとして、明応3年に山城乙訓郡西岡で生まれたという説があります。北面武士と呼ばれる院の北面を警護する武士の家系であり、当時は峰丸という幼名で呼ばれていました。11歳になると京都妙覚寺にて出家の儀式を受け、法蓮房という名前の僧侶として過ごした経歴があります。

□家紋
斉藤家の家紋は「二頭立波」と呼ばれる家紋で、なんと道三自身が作った紋といわれています。もともと美濃斎藤氏では、大和撫子をイメージした「撫子」と呼ばれる家紋が使われていましたが、道三は自分が城主となり斉藤を受け継いだ際、この家紋から「二頭立波」に変更しました。見た目通り、荒々しく立った波をそのままデザインとして取り入れたもので、波の紋は力強さをイメージしたものだといわれています。また、武家で多く使用されてきた紋であることから取り入れられたともいわれています。

□居城「稲葉山城」
斉藤道三は僧侶時代から油商人を経て美濃の有力者の一人である長井氏に仕えることになります。しかし自身の出世により不仲となってしまったことをきっかけに道三は長井氏を殺害。そこで長井氏の居住であった「稲葉山城」の乗っ取りに成功します。
その後道三は稲葉山城の大改修を行い、領国支配の拠点として固めました。稲葉山城は一朝一夕では落ちない難攻不落の城といわれ、道三はこれをきっかけに主人であった土岐頼芸を殺害、一気に美濃の国を自分の手中へと収めていきます。土岐頼芸に仕えた当時は多大な信頼を勝ち取っていたとされており、幾人を裏切ってでも稲葉山城を拠点としようとする道三の悪人ぶりがわかるエピソードです。

□死因と最後
斉藤道三は嫡男である義龍との「長良川の戦い」にて最期を迎えます。1554年、自身が国主を務めた美濃の国を義龍に譲った後、斉藤道三は一線を退き隠居します。しかし義龍は道三とは真逆といっても良い性格であったことから、次第に「この耄者に任せられん」と考えるようになり、長男である義龍を差し置いて弟たちを溺愛し始めます。それに伴い、道三と義龍の不仲となったことから2人は対立。ただの親子喧嘩が長良川の戦いという合戦となってしまったわけです。
道三の性格もあって、より兵が集まっていた義龍軍が優勢。最期は攻め立てられ、義龍の部下によって首を切り落とされたことが道三の死因といわれています。
これをきっかけに義龍は自身を父を殺したはんか者と名乗りますが、道三は死に際に「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかし当面、斉藤家は安泰」という言葉を残して亡くなったといわれています。最初から最後まで相容れなかった道三と義龍ですが、死ぬ間際の最期の瞬間に道三の父としての一面を見ることができる言葉ともいえますね。

□娘「帰蝶」
斉藤道三の娘で有名な人物に三女の帰蝶がいます。その名ではあまり知られていませんが、後に濃姫と名乗って信長の正室となる歴史上の女性の中でも名の知れた人物です。道三の息子である義龍とは異母兄弟であり、一説によると、かの明智光秀と従兄弟関係にあるのではないかといわれています。
有名な人物ですが史料が少なく、謎も多く残っています。信長に嫁いだときは弱冠15歳であったといわれており、政略結婚でありながらもあの信長の正室を務めあげただけに肝の据わった女性として描かれることが多い人物です。

□息子「斉藤 義龍」
斉藤道三を語るのに避けられないのが息子である斉藤義龍です。義龍は道三の隠居により美濃の国の国主として稲葉山城の主となりました。しかしこの交代は道三が進んで行ったものではなく、道三の経営のやり方についていけなかった家臣によって行われたものであるという見方もあります。
そういった経緯にくわえ、義龍自身が戦に対し好戦的でないおとなしい性格だったことから、道三は義龍を「耄者」として見るようになります。幼いころは僧侶であった自身が油商人を経て武将にまで上り詰めた経験もあって、行動を起こさない義龍にもどかしい思いを抱いていたのかも知れません。
この当時の道三と義龍の不仲が後の長良川の戦いに繋がるのですから驚きですね。

□子孫、末裔
道三の子は義龍、帰蝶を含め7人いたとされています。その下の代については帰蝶と信長の間にも子どもはいなかったとされており、他の兄弟にも子どもがいたかどうかは不明といわれています。
道三の末子であった斉藤利治は後に織田家に亡命したことで長男の義龍と美濃斉藤家当主を争うこととなります。そういった交戦で信長との戦いが続くなか、義龍は35という若さで急死したといわれています。
義龍の後は子である斉藤龍興が跡を継ぎますが、道三と同じく家臣からの信頼は薄かったとされており、織田軍との一戦で戦死したといわれています。

■斉藤道三について
壮大な親子喧嘩の元死んでいった斉藤道三。自ら下剋上を果たしながらも、周りからの信頼を勝ち取れなかった道三ですが、ここから彼の本当の姿を暴いていきます。

□道三の異称「美濃のマムシ」
斉藤道三の別名ともいえる「美濃のマムシ」。美濃の国の領主となるまでの下剋上精神が親の腹を食いちぎって生まれてくるとされるマムシにたとえられこう呼ばれています。道三は幼いころは僧侶として粛々とした日々を送っていましたが、美濃へ渡った後、油商人としてパフォーマンスを見せながら油を売り歩きます。その仕事の出来と人間的な魅力から美濃の有力者である長井家に仕えますが、恩人であった長井氏を殺害し乗っ取りを起こします。その後自分の主人であった土岐頼芸の城をも奪うという、まさにマムシのような行動を度々起こすわけです。恩人であれ、主人であれ、出世のためなら裏切りを起こすといったところが美濃のマムシと呼ばれる所以でしょう。

□油売りだった経歴は実はウソ?
美濃のマムシとしての下剋上ストーリーが有名な斉藤道三ですが、実は油売りから戦国大名になった経歴は嘘だったのではないかという説があります。そのもととなったのが後に発見された古文書「六角承禎条書写」です。
六角承禎条書写によるとそもそも僧侶であったのは道三ではなく道三の父であり、長井氏に仕えたのもこの父だったと述べられています。つまり美濃の国盗りは道三だけによるものではなく、道三の父と親子二代によるものだったといわれているのです。
ちなみにこの六角承禎条書写には油売りというフレーズはひとことも出てこないとのこと。どちらにしてももともと僧侶の息子であった経歴から戦国大名にまでなりあがったという説は残っているのですから、下剋上になる素質はもともと備わっていたのかもしれません。

□名言
「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」

斉藤道三がうつけと評判であった織田信長と初めて対面した際、多くの兵士を率いている信長の姿を見て「評判どおりのうつけだった」と述べた家臣へ「自分達の息子はそのうつけの下に就くことになる」と告げた言葉です。
誰から見てもうつけにしか見えない信長でしたが、道三はその才能を見抜いていたともいえます。戦国の地で下剋上を果たした道三の一流さがわかる一言ですね。

「捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつひの すみかなりけむ」

戦国の武将の中でも特殊な人生を送った斉藤道三の辞世の句です。何もかも捨て去り身一つとなったいま、自分の身が行きつく先はどこなのか、という意味を持つ言葉で、道三自身の弱さや寂しさを感じさせる一句となっています。裏切りが常に傍に付き添っていたかのような人生であったために、彼自身も最期に行きつく安息の地はどこなのかという思いがあったのかもしれません。また最期くらいは、と道三自身本当は安息の地を求めていたともいえる言葉ですね。

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