前田利家は尾張国海東郡荒子村(今の名古屋市中川区荒子)の荒子城の主、前田利春の四男として生まれました。又左衛門の別名も有名です。
15歳で織田信長に小姓として仕えた利家は、けんか好きで名高く「槍の又左」と呼ばれ、まわりの人々に恐れられていましたが、まっすぐで裏表のない性格で、信長にはとてもかわいがられました。
もしかすると破天荒で知られる信長の性格となにか通ずるものがあったのでしょう。
その後何度も死線を味わうこととなる母衣衆(ほろしゅう)として務めあげ桶狭間の戦い、越前国攻めに参陣しました。
後に利家は豊臣家臣団の筆頭として秀吉の信任を受けます。
慶長3年(1598年)には五大老・五奉公制が敷かれ、利家は従二位権大納言に就任。その1ヵ月後、秀吉がこの世を去り、利家は秀吉の遺言に従いまだ小さかった秀頼を連れ大阪城へ入りました。
ですがその1ヵ月後、幼い秀頼の将来を案じながらこの世を去りました。
遺言書には、利長へ3年は大阪にとどまるようにと書かれてありましたが、利長は大阪を去ることに。ですがそのおかげもあり前田家は生き残り、加賀百万石の伝統文化を開いた結果となったのです。
そんな利家の激動の人生を、大きなポイントに分けてまとめてみました。
目次
プロフィール
前田利家 | |||
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読み方 | まえだ としいえ | ||
別名・ あだ名 |
犬千代(いぬちよ) 又左衛門(またざえもん) 又左(またざ) 槍の又左(やりのまたざ) 加賀大納言(かがだいなごん) |
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生年月日 | 1538年(天文7年)12月25日 | ||
身長 | 182cm | 血液型 | AB型 |
前田利家は、天文7年12月25日(1538年1月15日)生まれですが、天文5年(1536年)や天文6年(1537年)生まれという説も残っています。
血液型はAB型で、若い頃は血の気の多い、荒くれ者な性格だったそうです。一方、苦労人の倹約家で、歳を重ねるごとに妻のまつの支えもあり人徳に恵まれていったといわれています。
利家は当時の男性(平均157cm)と比べて身長がとても高く、182cmもあったといわれています。残された鎧の大きさから計算すると178cm前後という数字が出ていますので、この情報はあながち間違っていないようですね。
幼名「犬千代(いぬちよ)」
戌年生まれからその名が付けられたということですが、犬のようにまっすぐに賢く、そして前田家が千代先まで長く続くことを願って付けられたのでしょうか。
その名の通り、けんか早い男ではありましたが筋の通った性格から晩年は豊臣家にとってはなくてはならない存在へとなっていきました。
最後と死因
晩年、利家は癌を患っていたといわれます。死の十日ほど前の3月22日、妻のまつを枕頭に呼び、11箇条の遺言を書かせました。
長男の利長に宛てたもので、その一部を紹介します。
「遺骸(いがい)は長持(ながもち)に入れて金沢に下し、野田山に塚を築いて埋葬せよ。大坂にいるまつなど女たちも、儂の遺骸と一緒に加賀へ下すように」
自分の葬儀を理由に、長年人質として働いてきた妻のまつや家族を、自分の死後の波乱に巻き込まれることのないよう、自由を奪われた人質生活から解放されるよう、指示を出しました。
「次男である利政は金沢に置き、利長自身は、8千人をもって大坂に詰め、秀頼様に謀叛せんとする者がいたなら、利政も残りの軍勢をまとめて上洛すべし。」
前田家の兵力16,000のうちの8,000を利長が率いて大阪に残り、秀頼様を補佐しなさい。利政は残る8,000で金沢を守り、上方に謀反人が出たときは利長に合流しなさい。という細かい指示までありました。
秀頼様に謀反せんとする者、このとき名前はだしていませんが、利家の不安は徳川家康以外にいなかったと思われます。死を目の前にし、事細かに言い残さないといけなかった心のうちは計り知れませんね。
「利長は、3年間は加賀にくだらなくてよいが、そのうちに世に何事かあるであろう。」
長男の利長は大阪に3年はいるように、加賀に下ってはいけない。そのうち事態も解決するだろう。この遺言は守られることはありませんでした。
「右の条々、口上では前後忘れてしまうだろうから、不本意ながら書付けて進上する。われら相果て候ば、心持ち肝要に候」
自分が死んだら心持ちをしっかりと持て、と結ばれた遺言はきっと妻のまつに対する遺言でもあったと思います。
死ぬ二日前に、まつが自ら縫った経帷子(きょうかたびら)を持って利家の床にきました。
「殿は、お若い頃からいくさに出られ、戦場で大勢の人をお殺しあそばしたゆえに、後生がいかがおなりあそばすか、それのみが恐ろしゅうございます。この京帷子をととのえましたゆえ、これをお召しくださるように」
今までたくさんの合戦で多くの人を殺害してきた利家が、死後地獄へ落ちることを恐れてのことでした。
そんな不安に苦しむまつに利家は
「多くの人を殺めたとはいえ、わしは一度たりとも不義の戦をしたことはない。地獄に墜ちることはあるまい。されど、もし墜つればそれはそれ、先に戦死して逝った者どもを集めて、地獄の閻魔を相手にもう一合戦してくれるわ。」
と返し、京帷子を着ることを拒んだそうです。
「せめてあと5年秀頼様が天下を治めるのが見たかった」ともらし、苦しみ、傍らにあった脇差をさやのまま胸に抱き最期を迎えたといわれています。
慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、62歳でした。決して安らかとはいえない最期でしたが、命が終わってしまうそのときまで前を向き戦い続けた、利家らしい終わり方だったと思います。
墓
利家の遺言通り、利家の遺骸は長持ちに入れられて、亡くなった翌日大阪を出て、4月6日に金沢に着きました。
4月8日には宝円寺で葬儀がそれは盛大に執り行われました。こちらも遺言通り、遺骸は野田山の兄の利久のすぐ下に葬られ、のちに亡くなった妻のまつがその右隣、そしてその右隣に長男の利長の墓を作りました。
その一段下には加賀三代藩主前田利常の妻(二代将軍徳川秀忠の娘、玉姫・天徳院)の墓、そのさらに一段下に前田利常の墓があり死後も生前の身分を尊重した配慮が感じられます。
加賀藩主前田家墓所(野田山墓地内) | |
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住所 | 〒921-8104 石川県金沢市野田町 石川県金沢市野田町 |
電話 | 076-220-2194 |
家紋
前田家の家紋、利家が主に使用した定紋は「梅鉢」で、利家の肖像画にも残っています。加賀前田藩の独占紋の「加賀梅鉢」は梅鉢とよく似ていてほぼ同じに見えますが、軸の部分が剣になっており若干異なっています。
それに加え秀吉から五七桐や十六葉菊の紋を賜っていたけれどほぼ使用することはなく、前田家の定紋である梅鉢だけを使用していました。
梅は菊などと同じく、縁起がいいとされていたことから家紋として古くから使われてきました。
前田家の家紋になったのも、前田家が先祖と称する菅原道真が梅が好きだったということがその理由だといわれています。菅原道真(天神さま)が祀られており、学問の神様でも知られる太宰府天満宮は「梅紋(梅花紋)」を使っているのも有名ですね。
刀
加賀前田家には、平安時代後期の筑後の刀工、典太光世が作った「大典太光世(おおでんたみつよ)」がありました。足利将軍家より伝わった宝刀です。
足利将軍家が没落したのち豊臣秀吉の手へと渡り、そこから前田利家へ渡ると前田家の家宝として代々伝えられました。
伏見城の千畳敷を夜中に歩くと、何者かに背後から掴まれ身動きが取れなくなるという噂が、当時の大名の間で囁かれていました。そんな噂を聞いた前田利家は「武士がそんなことで恐れてはいけない。自分がことの真相を究明する」といいました。
これを聞いた秀吉が、利家に持たせてくれたのが魔除けの刀、大典太光世でした。利家が夜中、千畳敷を訪れましたが何も起こりませんでした。それ以降、その不吉な噂は消え大典太光世には、魔を退治する能力があると伝えられています。
兜
利家は、長い大きな長烏帽子形兜ではなく、少し小ぶりでより実戦向きな烏帽子形兜を好んでいたそうです。小ぶりといっても、派手なものや格好が大好きだった利家は高さのある兜をかぶり、まわりを圧倒していたといいます。
そして、戦いを制す『勝ち虫』の蜻蛉(とんぼ)の前立てをつけていました。蜻蛉は自分よりも大きな獲物でも掴んで離さず飛ぶ、決して後ずさりすることなく敵を食う。
利家の性格そのものだと思います。そんな勇ましさが武将の心を蜻蛉に表したのでしょう。
槍の又左
利家が使っていた槍は、三間半(6m30cm)もあったといわれています。利家の身長は182cmもあったといいますから、槍の名手である彼であればそんな長い槍も扱うことができたのでしょう。
派手好きな利家はその槍を朱色に塗っていたという話もあり、戦場では相当目立っていたのではないでしょうか。
長い槍を振り回し、なぎ倒す。突いては斬るなど、槍の又左と呼ばれていました。戦いもないのに槍を持ち歩いていたという話もあるくらいですので、そう呼ばれていてもおかしくはないですよね。
甲冑・鎧
利家が所用した甲冑は「金小札白絲素懸威胴丸具足(きんこざね しろいとすがけおどし どうまる ぐそく)」といい、戦い方の変化、武器の進歩や西洋の甲冑の影響など、さまざまな要因から室町後期~安土桃山時代に作られた鎧の形です。
しかし、普段から腰に赤鞘の太刀を下げて、ど派手な着物に身を包む傾奇者だった利家は、末森城の戦いに勝利した際、加賀の金箔工芸技術の高さを天下に知らしめるために、卯の花糸でつづった鎧も、先を細長く扁平に仕立てた鯰尾の兜もすべてに金箔を施し、戦国武将としての力を見せつけました。
居城「金沢城」
永禄12年(1569年)に、利家は信長の指示により兄の利久に代わって前田家を相続することになりました。天正9年(1581年)には能登23万石を領する大名になり、七尾城の城主となりました。
しかしその後の賤ヶ岳の戦いの際、秀吉の対立相手の柴田勝家につきましたが、妻・まつのお陰もあり和睦を受けた利家はそれまでの小丸山城から尾山城(のちの金沢城)へと本拠地を移しました。天正8年(1580年)に建てられたその3年後のことでした。
利家は金沢城へ移ると客将として招いた高山右近(たかやまうこん)の力を借り、金沢城の大改修をはじめました。
曲輪や堀の広げ、5重の天守や櫓を建て、瓦を交互に敷き詰めたなまこ壁とよばれる壁は、当時非常に多かった火事と銃弾防止だったそうです。
加賀100万石を築き上げた前田家の戦国大名としての思い、そして加賀藩の熱い思いが感じられる城だといえるでしょう。
年表
天文7年 (1538年) |
0歳 | 前田利昌の四男として生まれる |
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天文20年 (1551年) |
13歳 | 信長に小姓として仕える |
天文21年 (1552年) |
14歳 | 萱津の戦いで初陣、敵の首を上げる 元服し、「又左衛門利家」を名乗る |
永禄元年 (1558年) |
20歳 | 赤母衣衆筆頭に抜擢 |
永禄2年 (1559年) |
21歳 | 拾阿弥を斬り殺し、出仕停止処分 |
永禄3年 (1560年) |
22歳 | 桶狭間の戦いに勝手に参戦、武功を上げる |
永禄4年 (1561年) |
23歳 | 森部の戦いにも勝手に参戦、武功を上げ、帰参を許される |
永禄12年 (1569年) |
31歳 | 前田家の家督を継ぐ |
天正2年 (1574年) |
36歳 | 柴田勝家の与力になり「府中三人衆」と呼ばれ、三人で10万石を与えられる |
天正9年 (1581年) |
43歳 | 能登一国、23万石を与えられ、七尾城主となる |
天正10年 (1582年) |
44歳 | 本能寺の変 |
天正11年 (1583年) |
45歳 | 賤ヶ岳の戦いで勝家側で参戦、秀吉と対峙するが戦わずに撤退。尾張、越前、能登、加賀の4カ国、38万石に加増 |
天正13年 (1585年) |
47歳 | 秀吉10万軍の先導役を果たし佐々成政を降伏させる。加賀、能登、越中の3カ国で83万石に加増 |
慶長3年 (1598年) |
60歳 | 五大老の一人に命じられ、秀頼の傅役に |
慶長4年 (1599年) |
61歳 | 大阪にて病死 |
家系と家系図
利家の父母・兄弟 | |||
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父 | 前田利昌 | 母 | 長齢院 |
兄 | 前田利久、前田利玄、前田安勝 | ||
弟 | 佐脇良之、前田秀継 |
利家の妻・子 | |||
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正室 | まつ | ||
子(男子) | 利長(嫡男、初代加賀藩主) 利政(関が原で出陣せず、所領没収) |
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子(女子) | 幸姫、蕭姫、摩阿姫(秀吉側室)、豪姫、与免、千世 | ||
側室 | 寿福院など | ||
子(男子) | 知好 利常(加賀藩2代藩主) 利孝(上野七日市藩初代藩主) 利貞 |
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子(女子) | 菊、保智、福など |
妻「まつ」
戦国一の妻とも呼ばれた利家の妻・まつは天文16年7月9日(1547年7月25日)に、尾張国海東部(現在の愛知県あま市)に、篠原一計の娘として生まれました。
天文19年(1550年)父の死後、母親が再婚するとまつは母の妹が嫁いでいる尾張荒子城主・前田利昌(利家の父)に教養されることとなりました。そして若干12歳という若さで10歳違いの利家に嫁いだのです。
とても若い花嫁でしたが、肝がすわっているだけでなく、容姿はとても美しく、明るく社交的で、読み書きやそろばん、和歌や武芸などをこなす才色兼備の女性でした。
このまつが、この先の前田家にはなくてはならない存在へとなっていくのです。そのひとつに、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で、柴田勝家と豊臣秀吉が戦った際、利家は柴田側につきました。
そして敗戦。敵側についた前田家のことなど、気に入るはずがないのですが、まつは秀吉に直接会い、話しをし丸くおさめたといいます。
これも、大親友であった秀吉の正妻・高台院(こうだいいん)と仲があったからこそなせたことだったでしょう。そしてまつは、秀吉の母とも親交があったという話もあります。
慶長4年(1599年)に利家が病死すると、髪をおろし出家しました。その際、芳春院と号します。
そしてもうひとつ大変有名な話ですが、前田家に徳川家康から謀反の疑惑がかけられたときには、戦をしようとする長男の利長をなだめ、それを解消させるため自らが江戸に入り14年間人質として過ごしました。
まつは前田家を何度も救い、平和な関係に重大な役割を果たしたのです。
側室
利家には正妻のまつの他に5人の側室がいました。まつは利家が側室を設けることに一切の不満をもらすことはなかったといいます。
当時は後継ぎの男の子を授かるため、複数の側室がいました。利家も前田家を残すためにたくさんの側室がいたのでしょう。中には利家の身の回りの世話をしていたものが、その美貌を見初められ側室になった者もいます。
子孫・末裔
利家にはたくさんの子供がいました。その中でも利長、利常の二人はその後、加賀藩主となりました。
前田利長
長男の前田利長は、豊臣政権で五大老の一人だった父の利家の死後、跡を継ぐ形で五大老の一人となりました。
父・利家の遺言でもあった「3年は大阪にとどまるように」という言葉に従わず、家康のすすめで金沢へ帰国し、関ヶ原の戦いのあと、弟・利政の能登、七尾上の22万5千石と西加賀、小松領の12万石、大聖寺領の6万3千石が加領されて、加賀、越中、能登と3カ国あわせて122万5千石を支配する大大名に。
加賀100万石は、この利長の能力のおかげです。
加賀藩
利長が築いた日本最大の藩「加賀藩」が、家康とは敵対する外様の立場であったにも関わらず、ここまでの大藩を築けたのは、自らの母・まつを人質に出したということが大きかったと思います。
また加賀藩3代目である利常は、息子たちに富山藩、大聖寺藩そして七日市藩を与えていて、その後、幕末までこの前田家は続くことになります。
ただ、100万石を超える大藩なのに、幕末の活躍がなかったのはちょっと寂しいですね。
前田利家について
ここまで紹介してきた内容で分かるとおり、利家は若い頃から血の気の多い、けんか好きの大男。
信長に「肝に毛が生えている」といわせた利家は、大名一とも言われるほどの妻・まつに支えられ、生涯を熱く時には自分の気の赴くままに生きました。
ここでは、利家という人について、彼の歴史とともに少しふれていきたいと思います。
無断で戦に参戦
若い頃から信長に仕えてきた利家でしたが、永禄2年(1559年)に信長の同朋衆である拾阿弥(じゅうあみ)を斬ったのです。そこで信長から解雇されてしまったのです。
拾阿弥を斬った理由は髪を結うための道具を盗まれたり、侮辱を繰り返され耐えられなくなったとありますが、どんな理由であれ解雇されてしまった利家は信長の信頼を取り戻さなくてはなりません。
そこで、その後起きた桶狭間の戦いに、追放中の身であるにも関わらず勝手に、無断で参戦しました。敵の首をとってきましたが、信長に許してもらえませんでした。
それでも諦められなかった利家は。翌年の森部の戦いにも無断で参戦。ここでも敵の豪傑を討ちとり、やっとのことで許しを得ることができました。
信長にも利家の熱い気持ちが伝わったのだろうと思います。
賤ヶ岳の戦いで戦わずに退却
勝家と秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いで、勝家についた前田軍でしたが、いざ羽柴軍に反撃しようとした矢先、支援部隊となるはずの前田群が戦いを放棄して退却したといいます。
この戦い自体、ほかの大名との領土争いではなく、織田家内部の主導権をかけた抗争であったこと。
利家は勝家の部下でなければ秀吉と敵対していたわけでもありませんでした。多くの武将がそうだった様に、趨勢を見極めようと必死だったのではないでしょうか。
結果としてこの退却が、その後の豊臣政権で重要な柱となり重用され、前田家の繁栄の礎となっていくことになります。
信義に厚い男
秀吉亡き後の政権を支える五大老の一人であった利家は、秀吉への恩義を忘れず生涯、尽くした信義の人物と言われています。
秀頼がまだ幼少で、天下を治めることすら分からないの豊臣家を、五大老の一人として崩れてしまうことから守りました。
秀吉が生きているころから豊臣家の内部では石田三成を中心とする「官僚派(文治派)」と合戦で戦っている「武断派」の間で内部対立が起きていました。ですが、すぐに大きなトラブルになってしまうことはありませんでした。
それは、利家が仲裁役として動いていたからです。利家は五大老としての権力と、多くの大名や武将から信頼を受け慕われていました。大きなトラブルが起こらなかったのも利家の人徳の厚さゆえといえると思います。
それを証明するかのように、利家亡き後の豊臣政権は崩壊へと突き進みます。
家康の暗殺計画
秀吉の死後、家康は秀吉の法度を破り、無断で大名同士の婚姻政策を進めました。利家はこれに反発し、家康派と反家康派に分かれる事態となってしまいました。
反家康派の利家は四大老・五奉公の9人とで家康と誓紙を交換し合いました。家康も利家と対立することは不利になると思い、向島へ退去することで和解。
ですが、この直後、利家の病気が悪化し家康が利家を見舞いに来た際のこと、利家は布団の中に抜いた刀を忍ばせ、家康が説得に応じなければ斬るつもりでいたそうです。
病床についても、喧嘩っ早い性格は変わらず死ぬまで熱い男だったのでしょう。
そろばんをいち早く使いこなす
血の気の多い、荒くれ者。派手な格好が好きな「かぶき者」や「槍の又左」ともよばれた利家ですが、実は当時でも新しかったそろばんでの計算も得意としていました。
すぐに使いこなせるようになり、前田家の決済はすべて利家自信がおこなっていたくらいでした。いまでもそのそろばんが家宝として残っているそう。
信長に解雇された際、お金の大切さを身をもって知り、その後もお金に関しては「けち」だといわれるほどでした。
ですが、利家のお金に対してのしっかりした考え方があったからこそ、前田家は破綻することなく100万石を築けたのだと思います。
名言
利家はたくさんの名言を残しています。その中の2つを紹介しましょう。
『人間は不遇になった時、はじめて友情のなんたるかを知る』
人は逆境に陥った時こそ、友人のありがたさが分かる、というもの。
信長から可愛がられ、大事にされていたにも関わらず信長の親族に無礼なことをされたために斬ってしまいました。打ち首になるのではないかというところを、柴田勝家などの嘆願があり逃れられたものの、激怒した信長は利家を解雇しました。
だれも利家に寄り付かなくなり、お金にも困っていたとき助けてくれたのが秀吉だったのです。本当の友情というものはまさにこれなのです。
『戦場に出でては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し』
一度腹を決めて出た戦、出るなら他人の意見は聞かず自分の思うように動け。
まわりの意見は関係なく、自分の意思で、心できめたのなら自分のことを信じ、信念を貫き通せというもの。戦に出れば迷っている時間などなかったはずです。筋の通った男の中の男、利家らしい名言ですね。