豊後の冬の川で、味方の大軍を崩れさせた男がいる。長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の嫡男を死なせ、十河存保(そごうまさやす)を死なせ、自らは戦場を離れて海を渡った。主君の秀吉は烈火のごとく怒った。これだけの失態であれば、腹を切らされて当然だと思う人は多いだろう。「仙石秀久 切腹」と検索する人の胸にあるのも、おそらくその問いである。
けれども、仙石秀久(せんごくひでひさ)は切腹していない。秀吉から切腹を命じられたという記録も見当たらない。日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典、日本人名大辞典のいずれをひもといても、戸次川の敗戦のあとに書かれているのは「所領を没収された」「高野山に謹慎した」という処分であって、切腹や自害の文字はどこにもない。秀久はその後、天下の大名に返り咲き、信濃小諸の城主として二十年余りを生き、慶長19年(1614年)、江戸から領国へ帰る道中で病に倒れ、武蔵国の鴻巣で世を去った。畳の上とはいかないまでも、刃によらない最期であった。
切腹の印象がどこから来たのかは、はっきりしない。ただ、秀久が追われた高野山は、のちに豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が腹を切らされた山でもある。高野山と切腹という二つの言葉が、いつの間にか秀久の物語に混ざり込んだのかもしれない。そしてもう一つ、秀久と同じように秀吉の軍監を務め、同じように怒りを買い、ついに許されずに斬られた男がいた。切腹で終わった者と、終わらなかった者。その分かれ目をたどると、仙石秀久という人の、泥まみれの魅力が見えてくる。
最古参の家臣、洲本から讃岐へ
秀久は美濃国の人である。加茂郡黒岩、いまの岐阜県坂祝町のあたりに生まれたとされ、通称を権兵衛といった。生年は天文20年(1551年)とも翌21年(1552年)ともいわれ、辞典によっても揺れている。
若き権兵衛はまず織田信長に仕え、やがて木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、のちの秀吉の配下に付けられた。まだ藤吉郎が一城の主ですらなかった頃からの家臣であり、秀吉の家中では最も古い顔ぶれの一人に数えられる。馬廻衆として各地を転戦し、十文字の槍を自ら振るって「槍の権兵衛」と呼ばれたという話も伝わる。槍一本で道を切り開いていく、いかにも草創期の羽柴家らしい男であった。
秀吉が天下へ駆け上がるにつれて、秀久の身代も膨らんでいく。淡路の洲本を与えられ、五万石の城主となった。淡路は四国攻めの足場になる島であり、秀久は洲本城を石垣の城へと改め始めたとされる。主君の次の一手を見据えて、海の向こうへにらみを利かせる役目を託されたのである。
天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めが終わると、秀久はその功によって讃岐を与えられ、一国を預かる身となった。石高については十万石とする辞典もあるが、記述が一定せず、確かなところは分からない。それでも、美濃の小さな家の出の男が、海を隔てた一国を預かるまでになったことに変わりはない。ここまでの秀久は、主君とともに上り坂を駆けてきた、幸運な古参の一人であった。
その上り坂の頂で、彼は大きくつまずく。
冬の戸次川
天正14年(1586年)、九州では島津氏が豊後へ攻め込み、大友氏は秀吉に救いを求めた。秀吉は本格的な九州攻めに先立って先発の軍勢を送り出し、秀久をその軍監に任じた。率いるのは四国の諸将である。前年まで秀吉と戦っていた長宗我部元親と、その嫡男の信親。そして、阿波・讃岐で長宗我部と争ってきた十河存保。ついこの間まで敵味方だった者たちを束ね、豊後で大友義統(おおともよしむね)と合流して島津に当たる。かつての槍働きの男にとって、それは初めて背負う、あまりにも重い役目だった。
島津家久(しまづいえひさ)の軍は豊後の鶴賀城を囲んでいた。救援に向かった豊臣方の軍勢は、戸次川、いまの大野川のほとりに陣を敷く。
川を渡って攻めるか、援軍を待つか。軍議の場面は、のちの軍記物でよく語られる。秀久が渡河を主張し、元親は援軍を待つべきだと反対したが、十河存保が秀久に同調して、渡ることに決まった、と。『土佐物語』には、信親が秀久の策を批判して、こう述べたと記されている。
「明日は討死と定めたり」
胸に迫る言葉である。ただし、『土佐物語』や『元親記』はいずれも長宗我部の側から書かれた後世の記録で、軍議の模様を伝える同時代の史料は見つかっていない。誰が何を言い、どんな顔で黙り込んだのか、本当のところは分からないのだ。確かなのは、豊臣方が川を渡ったという結果だけである。
12月12日、西暦ではすでに年が明けた1587年1月の、凍えるような夕刻であった。島津勢は少数に見せかけて退き、豊臣方の軍勢が川を越えて追ったところで、潜んでいた伏兵がいっせいに襲いかかった。島津が得意とした「釣野伏(つりのぶせ)」である。鉄砲が火を噴き、豊臣方は後ろと横から崩された。冷たい川の中で足を取られ、敵に討たれる前に溺れた者も少なくなかったと伝わる。
この夜、長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)は中津留の川原で踏みとどまって戦い、討死した。二十二歳であった。信親に従った者たちも、およそ七百人が運命をともにしたという。十河存保もまた、この川で命を落とした。元親は最愛の嫡男を失い、日本大百科全書は、その後の元親の性格が一変したと書いている。戸次川は、ひとつの家の未来を根こそぎ奪った川でもあった。
そのとき秀久は、生き延びた。敗走ののち小倉の城に入り、守りを固めることなく、わずかな家臣を連れて讃岐へ引き揚げたと伝わる。軍監として諸将をまとめ、敗れた軍を立て直すべき男が、真っ先に戦場から遠ざかった。後世の人々が秀久を臆病者と呼んだのは、この背中を思い浮かべてのことだろう。
燃える川原に残された若者と、海を渡って逃れた軍監。その残酷な対照が、のちに「切腹して当然」という思いを人々の胸に植え付けたのかもしれない。
掟を破った男への処分
秀吉は、この敗戦の前から秀久の動きを案じていた。豊後の守りをしっかり固めよ、と事前に命じていたとされる。ところが秀久は、守りを固めないまま兵を他国へ動かした。旧暦11月13日の秀吉の書状は、そのことを厳しく叱っている。主君の言葉は届いていたのだ。届いていながら、秀久は自分の判断で前へ出た。
戸次川の知らせを受けた秀吉の怒りは、すさまじかったはずである。研究者の村石正行氏がまとめた秀吉文書の年譜によれば、12月24日に秀久を「欠所」とする記録があり、さらに12月28日には、秀久がたびたび「置目」、つまり定めた掟を破ったので、讃岐を召し上げて別の者に与える、という趣旨の文書が確かめられるという。
ここで目を留めたいのは、処分の中身である。秀吉が奪ったのは領地であって、命ではなかった。書状に切腹を命じる文言は見えず、辞典もそろって「所領の没収」と書く。讃岐は尾藤知宣に与えられ、秀久は一介の浪人として高野山へ追われた。
秀吉は、ためらわずに家臣の首を飛ばすこともある主君である。それでも、この古参の男の首は落とさなかった。藤吉郎と名乗っていた頃から自分の背中を追ってきた権兵衛への、捨てきれない情けがあったのか。それとも、罰としては家を失わせるだけで十分だと考えたのか。秀吉の胸の内を語る記録はない。ただ、命が残されたことで、秀久の物語はここで終わらずに済んだ。
高野山に追われた秀久は、山の奥で身を縮めて過ごしていた、と思われがちである。ところが、『北野日記』を引く村石氏の年譜には、天正16年(1588年)から翌17年(1589年)にかけて、秀久が京や大坂で北野社の能閑と会い、北野社にも参詣していた記録があるという。罪を得た身でありながら、山を下り、都の空気の中を歩いていた。そこにはおそらく、うなだれて沙汰を待つだけの男とは違う姿がある。人と会い、話を聞き、時の流れを読もうとする。何かを待っていたのか、それとも探していたのか。いずれにせよ、秀久は世の中から目を離してはいなかった。
切腹で終わった者、終わらなかった者
秀久のあとに軍監の座に就いたのは、讃岐を与えられた尾藤知宣である。尾藤もまた、墨俣の一夜城の頃に秀吉のもとへはせ参じた古参の家臣で、草創期の家中では最も戦に通じた一人ともいわれた。秀久と尾藤は、同じ時代に同じ主君の背を追った、いわば同じ根から伸びた枝だった。
その尾藤が、九州攻めの本番でつまずく。天正15年(1587年)、日向の根白坂の砦が島津の大軍に攻められたとき、尾藤は慎重策を唱えて救援を止め、さらに崩れた島津勢を追うことにも反対したとされる。結果として豊臣方は勝ったものの、秀吉はその消極ぶりに激怒し、尾藤は丸亀の所領を没収されて追放された。秀久が戸次川で前へ出すぎて罰せられ、尾藤は根白坂で前へ出なさすぎて罰せられた。皮肉な巡り合わせである。
軍監の失態で領地を失った古参の家臣が、二人。ここまでは、二人の歩みはほとんど重なっている。分かれたのは、その先だった。
尾藤は伊勢の朝熊山に潜んだとも、後北条氏を頼ったともいわれ、行方ははっきりしない。最もよく知られた話は、江戸時代の『藩翰譜』が伝えるものだ。天正18年(1590年)、小田原の陣が終わって奥州へ向かう秀吉の前に、尾藤は頭を丸めて現れ、許しを請うた。かつて北条に仕えた者でさえ許されたのだから、と自らの赦免を訴えたが、その言葉がかえって秀吉の怒りに火をつけ、尾藤はその場で斬られたという。のちに新井白石は、それほどの罪ではなかった、と書き残している。
一方の秀久は、同じ小田原の陣で、主君の前に再び姿を現していた。ただし、許しを請うてではない。槍を手にして、である。
二人を分けたのは、失敗の大きさではなかった。戸次川で多くの将兵を死なせた秀久の罪は、根白坂で好機を逃した尾藤のそれより、むしろ重いともいえる。分けたのは、失敗のあと、どう動いたかだった。言葉で許しを求めた者は斬られ、戦場で働きを見せた者は許された。もちろん、それだけで秀吉の心のすべてを説き明かせるわけではない。それでも、この対照は、秀久という男の生き方を鮮やかに照らしている。
浪人の陣借り
天正18年(1590年)、秀吉は小田原の北条氏を攻めるため、日本中の大名を動かした。浪人となって三年余り、秀久はこの戦を逃さなかった。散り散りになっていた旧臣およそ二十人を呼び集め、三男の忠政を伴って、徳川家康のもとを訪ねたのである。家譜を引く年譜によれば、旧暦3月に参陣を願い出て、家康に会ったという。
浪人には、戦に加わる正式な持ち場がない。秀久は家康のとりなしを得て、いわば陣を借りる形で小田原の戦に加わった。かつて讃岐一国を預かった男が、わずか二十人ほどの手勢を率いて、他家の陣の片隅を借りる。その身の低さは、誇りを捨てたようにも見える。だが、誇りにしがみついて機会を逃すより、頭を下げてでも戦場に立つことを選んだ。そこに、秀久という男の骨の太さがある。
小田原城の早川口で、秀久は重要な虎口の一つを奪い取ったとされる。城の出入り口を押さえるという、命懸けの働きであった。小諸の観光局の紹介によれば、この功によって秀久は五万石で小諸に封じられた。ブリタニカ国際大百科事典は、小田原の戦に加わって罪を許された、と書く。
この再起の場面には、色鮮やかな逸話がいくつも添えられている。秀久は鈴を縫い付けた陣羽織をまとい、戦場を駆けるたびに鈴が鳴ったので「鈴鳴り武者」と呼ばれた。掲げた馬印には「無」の一字があった。戦のあと、秀吉から金の団扇を授かった。いずれも『改選仙石家譜』などに由来する話とされ、同時代の記録で確かめることは難しく、後世に語り継がれた伝承と見るのがよいだろう。
それでも、こうした話が生まれ、語り継がれたこと自体に、人々の思いがにじんでいる。一度すべてを失った男が、鈴の音を響かせて戦場に戻ってくる。何もない「無」の旗を掲げて、もう一度はじめから積み上げる。それは、人々が秀久という人に見たかった姿そのものだったのではないか。臆病者とそしられた男は、同時に、転んでもはい上がる男の象徴にもなったのである。
小諸の城主として
信濃の小諸は、浅間山のすそ野に広がる土地である。小諸城は城下町より低い場所に築かれた珍しい「穴城」で、浅間の火山灰の台地が雨に削られてできた深い谷を空堀に使い、西は千曲川の断崖が守りとなっていた。秀久はここに五万石の城主として入り、天正19年(1591年)正月19日に初めて城へ入ったとされる。
文禄元年(1592年)には従五位下・越前守に任じられた。高野山へ追われた浪人が、わずか数年で官位を持つ大名に戻ったのである。秀久は城と城下を整え、その手で建てられた大手門は、慶長17年(1612年)の建立とされ、いまも小諸に残って重要文化財となっている。四百年の風雪に耐えた門の前に立つと、二度目の人生をかみしめるように城を築いた男の気配が、ふと感じられるかもしれない。
小諸には、秀久にまつわるやわらかな話も残る。領民にそば切りを広め、「仙石さん」と親しまれたという。城下を見回るたびに祇園の宮へよく参り、その通った坂が「権兵衛坂」と呼ばれるようになったという。どちらも記録で裏付けられたものではなく、言い伝えにとどまる。けれども、戸次川で臆病者とそしられた男が、小諸の人々のあいだでは親しみを込めて名を呼ばれる殿様として記憶された。その落差に、人の評価というものの不思議さを思わずにいられない。
秀吉が世を去ると、秀久は家康に従った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍に加わって信濃の上田城を攻め、真田昌幸(さなだまさゆき)の守りに阻まれた。小田原で自分に道を開いてくれた家康への恩を、秀久は最後まで忘れなかったのだろう。
慶長19年(1614年)5月6日、江戸から小諸へ帰る途中で病に倒れ、武蔵国の鴻巣で息を引き取った。享年は六十三とも六十四ともいわれる。家督は、小田原へともに赴いた三男の忠政が継いだ。忠政はのち元和8年(1622年)に上田城へ移り、かつて父が攻めあぐねた真田の城を治めることになる。仙石の家は、秀久が拾い直した命の上に、次の代へと続いていったのである。
戸次川で腹を切っていれば、秀久はただの「責任を取った将」として、一行で語られて終わっただろう。彼はそうしなかった。命じられもしなかった。罪を背負ったまま生き、山を下り、旧臣を集め、他家の陣を借りて槍を振るった。その姿は決して潔くはない。けれども、潔く散ることよりも、恥にまみれて生き直すことのほうが、はるかに難しい。仙石秀久の生涯をたどると、そのことに思い至る。