鳴くまで待った男――徳川家康とホトトギスが教える忍耐の果実

徳川家康

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。この一句ほど、徳川家康という人間の本質を鮮やかに切り取った言葉はない。織田信長が「殺してしまえ」と吠え、豊臣秀吉が「鳴かせてみせよう」と笑ったのに対し、家康はただ「待とう」と呟いた。しかし、その「待つ」という行為の内実を知る者は、どれほどいるだろうか。

この句は家康自身が詠んだものではない。江戸時代後期、肥前平戸藩主であった松浦静山が随筆『甲子夜話』の中で、三英傑の気質を対比するために創作したものである。静山自身も「人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く協へり」と記しており、後世の誰かが作ったものではあるが、三人それぞれの本質をこれ以上なく的確に捉えていると認めている。

では、家康の「待つ」とは何だったのか。それは決して、座して好機を待ちわびる怠惰な受け身ではなかった。自分より圧倒的に強い者たちに囲まれた過酷な世界で、致命傷だけは避けながら、時流が味方するその一瞬まで布石を打ち続ける、極めて能動的な忍耐であった。その忍耐がどのように育まれ、何を犠牲にして磨かれたのかをたどれば、一人の人間の生涯が途方もない重さをもって迫ってくる。

竹千代という名の人質

天文十一年(一五四二年)、三河国岡崎に生まれた竹千代――後の徳川家康は、幼くして父と母の双方から引き離された。父・松平広忠は今川家の庇護を求めて竹千代を人質に差し出したが、護送を任された戸田康光の裏切りにより、六歳の少年はまず敵国である織田信秀(おだのぶひで)のもとへ送られてしまう。数年後、人質交換によって今川家へ移ると、今度は八歳から十九歳までの長い青春を駿府の地で過ごすこととなった。

かつてこの人質時代は、暗く孤独な幽閉生活として語られることが多かった。しかし近年の研究では、今川家にとって三河の松平家は織田氏への防衛拠点として不可欠な存在であり、その当主の跡取りである竹千代を丁重に扱っていたと考えられている。事実、軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)のもとで学問と兵法を学び、祖母の源応尼が駿府で生活を支えたとも伝えられている。教育の質だけを見れば、むしろ恵まれていたとすら言えよう。

だが、たとえ衣食住が整っていたとしても、人質であるという事実そのものが少年の魂に刻んだものは計り知れない。常に他者の顔色をうかがい、自分の感情を表に出すことが許されない日々。一つの失言が家の存亡に直結しかねない緊張の中で、竹千代は「感情の抑制」と「大局観」を否応なしに学んでいった。やがて桶狭間の戦いで今川義元が討死し、混乱の中で岡崎に帰還した時、二十歳の青年は表に出さぬ静かな覚悟をその胸の奥にたたえていた。

鳴かぬホトトギスの前で、少年はまず「待つ」ことを覚えた。

三方ヶ原に散った命、生き残った覚悟

元亀三年(一五七二年)十二月。戦国最強とうたわれた武田信玄が、ついに西上作戦を発動した。遠江国の三方ヶ原台地には凍てつく冬の風が吹きすさび、夕闇が迫る中、家康は生涯最大の失敗を犯す。

信玄の狙いは明白だった。家康の居城・浜松城をあえて素通りして進軍する姿勢を見せ、挑発に乗った家康を野戦に引きずり出すことである。そしてまさにその通りになった。自領を蹂躙(じゅうりん)されることへの領主としての意地、そして同盟者である織田信長への面子。家康は城を飛び出し、背後から武田軍を追撃するという無謀な決断を下してしまう。

結果は壊滅的だった。武田の精鋭が展開した鶴翼の陣に包み込まれ、徳川軍は総崩れとなる。家康自身も討死の寸前まで追い詰められた。その時、五十五歳の老臣・夏目吉信が主君の馬の向きを力づくで変え、「殿のお命は天下のためにございます」と叫んで、身代わりとして敵陣へ突撃していった。

吉信には重い過去があった。九年前の三河一向一揆で、彼は家康に背き、敵方の武将として主君に銃口を向けた男である。しかし一揆鎮圧後、その武勇を惜しまれて許され、帰参していた。以来、吉信は毎朝仏前で「どうか主君のお役に立たせたまえ」と祈り続けていたという。三方ヶ原の落日の中で、その祈りは果たされた。吉信は兜を交換する暇すらなく「我こそは徳川家康なり」と名乗りを上げ、壮絶な討死を遂げたのである。

同じ退却戦の中で、徳川四天王の一人・本多忠勝の叔父にあたる本多忠真もまた殿(しんがり)を買って出た。忠真は道端に旗指物を突き立て、「ここより後ろには一歩も退かぬ」と宣言して武田の大軍に単騎で斬り込み、命を散らした。

恐怖に駆られながら浜松城へ逃げ帰った家康の脳裏に、彼らの最期はどのように刻まれただろうか。『三河物語』は、敗走中の家康が馬上で恐慌状態にありながらも、暗闇の中で自分を護衛する家臣たちの刀に唾を吐きかけて印をつけ、後で城に戻った際に「誰が最後まで自分を見捨てずにいたか」を確認したと伝えている。極限の恐怖の中にあってなお、人を見極めようとする執念。そして何より、「これほどの犠牲の上に生き延びた命を、二度と無駄にはすまい」という贖罪にも似た決意。三方ヶ原の雪と血は、家康という人間を根底から作り変えた。

以後、家康は二度と己の血気に身を任せることをしなかった。

かつて背いた者を友と呼んだ男

三河一向一揆は、家康にとって三方ヶ原とはまた異なる種類の深傷を負わせた事件であった。永禄六年(一五六三年)、浄土真宗の門徒が一斉に蜂起し、絶対の忠誠を誓っているはずの三河武士団が、信仰を理由に真っ二つに割れたのである。

吉信だけではない。後に家康の最も重要な参謀となる本多正信もまた、この一揆で家康に背いた一人であった。正信は一揆側の軍師として家康を徹底的に苦しめ、鎮圧後もすぐには帰参せず、大和国の松永久秀などに仕えながら十数年にわたって諸国を流浪している。

並の主君であれば、裏切り者として永久に追放するか、殺していただろう。しかし家康は違った。一揆鎮圧後、離反した家臣たちの罪をことごとく許し、帰参を許したのである。さらに後年には、正信のような帰り新参の者を最も近い位置に据え、「佐渡殿」と呼んで何でも相談する仲にまでなった。

三河武士団の中で、武功こそが最高の価値とされていた時代に、知略に長けた正信は異質な存在だった。かつて主君を裏切った過去もあり、他の家臣たちからは蛇のように嫌われた。しかし家康は、感情や過去の遺恨に一切とらわれず、人材の真の能力を冷徹に見極め、適材適所に配した。正信の智謀が天下経営において不可欠であると見抜いたからこそ、周囲の反発など気に留めなかったのである。

「裏切り」という傷は、普通の人間であれば一生癒えない怨恨となる。しかし家康は、その傷すらも組織の力に変えてしまった。かつて背いた者たちが命がけで忠節を尽くすようになった時、三河武士団の結束は他に類を見ない強固なものへと昇華していた。許すことが、最も深い忍耐であったのかもしれない。

血を分けた者すら切り捨てた闇

天正七年(一五七九年)。家康の生涯において最も暗い影が落ちる。正室の築山殿と、将来を嘱望されていた嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)を、自らの手で死に追い込んだ事件である。

旧来の通説では、信康の妻である徳姫が父・織田信長に「十二箇条の書状」を送り、築山殿や信康の非道を訴えたため、激怒した信長が家康に処刑を命じたとされてきた。しかし最近の研究では、この事件は家康自身の意思であったとする見方が有力である。

当時、徳川家は岡崎城の信康派と浜松城の家康派に分裂し、深刻な派閥対立が生じていた。外交路線においても、織田との同盟を堅持する家康に対し、信康や岡崎城の一部家臣には武田勝頼と結ぶべきだとする動きがあったとも指摘されている。家中の統制を回復し、織田との命綱とも言うべき同盟関係を守り抜くためには、血を分けた妻子すら切り捨てなければならない。その結論に至った時、家康の心中には、いかなる嵐が吹き荒れていたのだろうか。

大局のために身内を犠牲にするという、戦国武将としては珍しくもない決断であったのかもしれない。しかし、それが自らの手で行われたものである以上、家康の胸の内に一生消えない傷を残したことは想像に難くない。後に「信長の命令であった」という形が強調されて語り継がれたのも、あるいは家康自身が、その罪の重さから目を背けたかったのかもしれない。

この暗闇を経て、家康の中で何かが決定的に変わった。人間としての温かさと、君主としての冷徹さ。その二つを同時に抱えながら生きていくことを、家康は覚悟した。そしてその覚悟こそが、彼を天下人へと近づけていく。

鳴かぬなら、まだ鳴かぬのだ

天正十二年(一五八四年)、小牧・長久手の戦い。本能寺の変後に急速に台頭した羽柴秀吉と、家康は初めて直接刃を交えた。

この戦いにおいて、家康は戦術的な天才ぶりを余すことなく発揮する。秀吉方の別働隊が三河への「中入り」を図った際、白山林において奇襲攻撃を仕掛け、池田恒興・森長可(もりながよし)という名だたる武将を討ち取る大戦果を挙げた。局地戦において、家康は秀吉を完全に凌駕していた。

しかし、戦争とは戦場だけで決するものではない。秀吉は圧倒的な経済力と外交手腕を駆使し、共に戦っていた織田信雄(おだのぶかつ)を調略によって単独で講和させてしまう。大義名分を失った家康は、局地的な勝利をいくら重ねても大局を覆せないことを痛感する。

秀吉はさらに強硬な手段に出た。自身の妹・朝日姫を夫と無理やり離縁させて家康の正室として送り込み、さらには実母・大政所までをも人質として岡崎へ差し出したのである。ここまでされて頭を下げねば、今度こそ全面戦争となり、徳川家は潰される。

家康は武将としての誇りを飲み込み、上洛して秀吉に臣従した。

この瞬間、家康は「ホトトギスが鳴くまで待つ」という生き方を、完全に自覚的に選び取ったのではないか。三方ヶ原で血気に任せて突撃した若き日の自分はもういない。勝てる戦いだけを選び、勝てない相手には膝を屈してでも生き延びる。豊臣政権下で五大老筆頭という最大の有力者として力を蓄え、時が満ちるのをひたすら待ち続ける。

以後、家康は秀吉の死を待った。関ヶ原の戦いでは、豊臣政権内部の構造的な矛盾を冷徹に利用し、西軍の諸将に寝返りの密約を結ばせて勝利をつかみ取った。さらに大坂冬の陣・夏の陣では、方広寺鐘銘事件を口実に豊臣家を追い詰めた。この鐘銘事件もまた、最近の研究では言いがかりではなく、貴人の実名を無断で銘文に使用するという当時の常識に照らせば正当な抗議であったとされている。

すべては、鳴かぬホトトギスが鳴くその時のためであった。

暁の空に見た夢

慶長十二年(一六〇七年)、将軍職を息子の秀忠に譲った家康は、駿府城に移り、「大御所」として政治の舵を取り続けた。隠居とは名ばかりの精力的な日々である。

家康が晩年もっとも愛したのは鷹狩りであった。駿府から志太平野や田中城の周辺へ繰り出しては、野山を駆け回った。しかし鷹狩りは単なる道楽ではない。足腰を鍛えて健康を維持し、自ら農村に出向いて民情を視察し、鳥見という役人を通じて諸国の情報を収集する。さらには家臣たちの軍事教練をも兼ねた、極めて高度な総合的政治行動であった。

家康の健康への執着は、しばしば常軌を逸していた。美食を極端に警戒し、生涯を通じて質素な麦飯を好んだ。ある時、家臣が気を利かせたつもりで、椀の底に白米を忍ばせてその上に麦飯を少しだけ盛って配膳したことがあった。これを見た家康は「汝等は我が心を知らざるな。やぶさかで麦を食うとおもうか」と激怒したと伝えられている。家康にとって麦飯は、戦場を生き抜くための胃腸を整える糧であり、忍耐の哲学を体現する食そのものであった。

さらに薬学にも深く通じ、和漢の薬学書を読破して自ら薬を調合した。「万病円」「寛中散」「銀液丹」と名付けられた独自の処方を持ち、晩年の腹痛に際しても侍医の進言を退けて自家薬を飲み続けたという。己の知識と経験に対する頑固なまでの自負。ホトトギスが鳴くまで待つには、まず己の肉体を保たせなければならない。そのことを家康は、誰よりも深く理解していた。

一方で、家康は駿府の城の奥で、もう一つの壮大な仕事を推し進めていた。銅活字による日本初の本格的な活版印刷事業――駿河版の刊行である。林羅山や金地院崇伝(こんちいんすうでん)に命じて約十万個もの銅活字を鋳造させ、『群書治要』や『大蔵一覧集』といった帝王学の古典を出版した。大坂夏の陣の準備を進めながら、同時に書物を刷らせていたというこの事実は、家康の視線が戦場の向こう側、すなわち「武」から「文」への転換を見据えていたことを雄弁に物語っている。

元和二年(一六一六年)四月十七日、駿府城において家康は七十五年の生涯を閉じた。その辞世の句は、こう詠まれている。

「嬉やと再び醒めて一眠り 浮世の夢は暁の空」

目を閉じたが、再び目が覚めて嬉しい。この世で見る夢は、夜明け前の空のように希望に満ちている。さあ、もう一眠りしよう。

信長が「人間五十年」と虚無を叫び、秀吉が「夢のまた夢」と無常に沈んだのに対し、家康の最期の言葉には驚くほどの楽天性と、生の充足感があふれている。幾多の敗北、近親者の死、裏切りと許し、屈辱と忍従。そのすべてを経てなお、家康にとってこの世は夜明けを迎える希望の光であった。

そしてもう一つ、家康は家臣に向けてこんな歌を残している。

「先に行くあとに残るも同じこと 連れてゆけぬをわかれぞと思う」

これは殉死を固く禁じるためのものであった。自分が死んでも、有能な家臣たちは生き残り、次の世代を支えて太平の世を盤石にしてほしい。最後の最後まで、家康の目は「自分の死後」を見据えていた。

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。この句が家康の本質をどれほど正確に射抜いていたか、彼の七十五年をたどった今なら、その重みが胸に迫る。家康の忍耐とは、ただ耐えることではなかった。人質の少年が学んだ感情の抑制。三方ヶ原で命を捧げた家臣たちへの贖罪。裏切り者すら許し、友と呼んだ器量。妻子を断つ非情の中で磨かれた冷徹さ。秀吉の前に膝を屈してなお、己の誇りを守り抜いた矜持(きょうじ)。そのすべてが積み重なって初めて、「待つ」ことは可能になった。

ホトトギスはやがて鳴いた。その声を聴いた時、暁の空には二百六十余年続く太平の幕が静かに上がり始めていたのである。

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ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。