戦国時代がまさに終焉を迎えようとしていた慶長二十年(一六一五年)。大坂の空を黒々と覆う戦火の中、ひとりの武将が、己の死に場所を見据えるかのように静かに微笑んでいた。その男の名は後藤基次、世に「後藤又兵衛」として畏怖された猛将である。
彼が探し求めたのは、広大な領地でもなければ、安楽な老後でもなかった。ただ一つ、己の魂を燃やし尽くし、武士としての誇りを証明するための「戦場」であった。数奇な運命に翻弄され、天下の孤児となりながらも、決して己の信念を曲げなかった男。大坂夏の陣、道明寺の戦いにおける後藤又兵衛の最期は、単なる一武将の戦死ではなく、戦国という時代の精神そのものが壮絶に散りゆく瞬間であった。その武勲と悲劇に満ちた生涯を、いまここにひもといていく。
目次
黒田家を支えた若武者と、癒えぬ確執の萌芽
後藤又兵衛の武将としての原点は、播磨国(現在の兵庫県)にある。幼くして一族が没落するという数奇な運命をたどった彼は、希代の軍師・黒田官兵衛(如水)にその才能を見出され、黒田家で育てられた。官兵衛は又兵衛の鋭い眼光と内に秘めた闘志を深く愛し、実の子である黒田長政と共に、次代を担う武将として厳しくも温かく鍛え上げた。
又兵衛は長じるにつれ、その期待に違わぬ、いや期待をはるかに超える武功を挙げ続ける。「黒田二十四騎」さらには「黒田八虎」の筆頭として名を連ね、小田原征伐、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、そして天下分け目の関ヶ原の戦いにおいても、常に最前線で槍を振るった。彼の振るう十文字槍は敵を震え上がらせ、「槍の又兵衛」の異名は天下にとどろくこととなる。
しかし、武功を重ね、黒田家内でぬきんでた存在となるにつれ、主君である長政との間には目に見えない深い溝が生まれ始めていた。長政もまた優秀な武将であったが、偉大すぎる父・官兵衛への劣など感、そして家臣からの信望を一身に集める又兵衛への複雑な感情があったことは想像にかたくない。又兵衛からすれば、幼い頃から共に育ち、時には兄弟のように肩を並べて戦った長政に対する率直すぎる物言いが、君臣の礼を失していると映ったのかもしれない。
官兵衛が存命の間は、その圧倒的な存在感によって二人の関係は辛うじて保たれていた。だが、慶長九年(一六〇四年)に官兵衛がこの世を去ると、両者を結びつけていた最後のくさびが外れてしまう。ささいな意見の対立は修復不可能な亀裂となり、ついに又兵衛は黒田家を出奔するという決断を下す。それは、一万六千石という大名にも匹敵する知行を捨て、果てしない流浪の旅へと足を踏み入れることを意味していた。
奉公構の鎖と、死に場所を求める流浪の魂
黒田家を去った又兵衛を待っていたのは、想像を絶する苦難の日々であった。長政の又兵衛に対する怒りはすさまじく、「奉公構(ほうこうかまい)」という厳罰を処した。これは「他家への仕官を禁ずる」という、武士にとってこと実上の社会的な死を意味するものである。
しかし、又兵衛の武名はあまりにも高かった。細川忠興(ほそかわただおき)、池田輝政、前田利長など、名だたる大名たちがこの希代の猛将を召し抱えようと密かに手を差し伸べた。だが、その度に長政の執拗な妨害が入り、仕官の話はことごとく潰されてしまう。天下人である徳川家康でさえも又兵衛の才能を惜しみ、長政をなだめようとしたという逸話が残るほどである。だが長政は頑として首を縦に振らず、又兵衛は京や大和の地で、惨めな浪人生活を強いられることになった。
日々を食いつなぐことさえ困難な中、又兵衛の胸中に去来したものは何であったか。武士として戦場に立ち、槍を振るうこと以外に己の存在価値を見いだせない男にとって、戦のない平和な世で、ただ老いさらばえていくことは耐え難い苦痛であったに違いない。「己の命を燃やし尽くすに足る、真の戦場はどこにあるのか」。夜ごと杯を傾けながら、見えない敵に向かって静かに殺気を研ぎ澄ませていた又兵衛の耳に、ある日、運命の報せが届く。
豊臣家と徳川家の関係が悪化し、大坂城が全国の浪人をかき集めているというのだ。
それは又兵衛にとって、天からの啓示であった。徳川家康という巨大な権力に弓を引くことの無謀さは、百戦錬磨の彼には痛いほど分かっていた。だが、勝敗などすでに彼にはどうでもよかった。大坂城には、自分を縛り付けた「奉公構」など意に介さない、圧倒的な戦の気配があった。そして何より、そこは己の死に場所として不足のない、天下最高の死地であった。
「我、ついに死に場所を得たり」
又兵衛は大坂城へ向かう。そこには、真田信繁(幸村)、毛利勝永(もうりかつなが)、長宗我部盛親、明石全登(あかしてるずみ / たけのり)といった、彼と同じように世に認められず、自らの誇りを懸けて最後の戦いに臨もうとする男たちが集っていた。
大坂城入城、歴戦の将が魅せた覚悟と冬の陣
大坂城に入った又兵衛は、水を得た魚のように生き生きとした表情を取り戻した。豊臣秀頼からの信頼も篤く、又兵衛はまたたく間に大坂城における軍こと的な支柱の一人となる。
慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣。又兵衛は今福の戦いなどで徳川方の上杉軍らと激突し、その武勇がいささかも衰えていないことを天下に知らしめた。銃弾が飛び交い、怒号が響き渡る戦場にあって、又兵衛は常に冷静沈着であった。部下を巧みに指揮し、自らも槍を取って敵陣を突き崩すその姿は、味方には絶大な安心感を、敵には底知れぬ恐怖を与えた。
しかし、戦局は大坂方にとって厳しいものであった。家康の老練な戦略と大砲による心理戦によって、大坂方は和睦を受け入れざるを得なくなる。和睦の条件として、大坂城の頼みの綱であった外堀は埋め立てられ、城は丸裸同然となってしまった。
和睦はかりそめのものに過ぎない。徳川家が豊臣家を完全に滅ぼすつもりであることは、誰の目にも明らかであった。翌慶長二十年(一六一五年)、再び戦端が開かれる。大坂夏の陣である。
堀を失った大坂城に籠城の選択肢はない。又兵衛は真田信繁らと共に、城を出て野戦で徳川の大軍を迎撃する作戦を立案する。その決戦の地として選ばれたのが、大和口から大坂へと至る要衝、道明寺であった。
濃霧の道明寺、孤立無援の死地へ赴く
五月五日の夜、又兵衛は先鋒部隊二千八百を率いて大坂城を出陣した。翌朝の夜明けとともに道明寺付近の国分村を制圧し、狭い地形を利用して徳川軍の大軍を足止めする。その後、真田信繁や薄田兼相らが率いる後続部隊と合流し、一気に敵を押し返す。それが又兵衛の描いた作戦であった。
しかし、運命は彼に味方しなかった。
五月六日の未明、道明寺一帯は前夜からの雨によって生じた深い霧に包まれていた。一寸先も見えない濃霧の中、慣れない土地を進軍する大坂方の部隊は次々と道に迷い、行軍が遅れに遅れた。真田信繁ら後続の到着は絶望的な状況であった。
夜が明け、霧が薄れ始めたとき、又兵衛の目に飛び込んできたのは、予想をはるかに超える徳川方の威容であった。伊達政宗、水野勝成、松平忠輝(まつだいらただてる)ら、名だたる大名が率いるその数は三万以上。対する又兵衛の兵はわずか二千八百。その差は十倍以上である。
常識的に考えれば、ここは一旦退却し、後続の到着を待つか、陣を立て直すのが戦の定石である。しかし、又兵衛の心に「退却」の二文字はなかった。ここで退けば、徳川の大軍は大坂へなだれ込み、豊臣の命運は今日にも尽きる。
又兵衛は静かに周囲を見渡した。供回りたちの緊張した顔。その一つ一つにうなずきかけると、彼は迷うことなく命を下した。
「小松山へ向かえ。我らが盾となり、敵を食い止める」
それは、死への行軍であった。又兵衛は自らの命を捨石にしてでも、徳川軍の進撃を遅らせることを選んだのである。小松山という小高い丘を占拠することで、少しでも有利な地形で戦おうという算段であった。
朝日が差し込み、霧が完全に晴れたとき、小松山の山頂にひるがえる後藤の旗印を見た徳川軍は、一斉に猛然と進撃を開始した。道明寺の戦い、又兵衛にとっての最後の戦いが、ここに幕を開けたのである。
名槍が血に染まるとき――後藤又兵衛の最期
小松山を包囲する三万の徳川軍に対し、又兵衛の部隊は鬼神のごとき奮戦を見せた。
「敵は数におごっている。怯むな! 突き崩せ!」
又兵衛自らも陣頭に立ち、愛用の十文字槍を振るった。彼の槍が閃くたびに、徳川方の兵が次々と血しぶきを上げて倒れ伏していく。又兵衛の部隊は、斜面を駆け上がってくる敵兵を何度も何度も撃退した。そのすさまじい戦いぶりは、後世の記録に「源平以来の激戦」と称賛されるほどであった。
しかし、多勢に無勢。八時間にも及ぶ死闘の末、又兵衛の部隊も疲労の色を隠せなくなっていた。次々と討ち取られていく仲間たち。又兵衛自身の身体も、数え切れないほどの傷を負っていた。
正午を回る頃、伊達政宗軍の鉄砲隊が放った凶弾が、又兵衛の体を貫いた。
「ぐっ……!」
その場に膝をつく又兵衛。周囲の兵たちが慌てて駆け寄る。激しい痛みが全身を駆け巡る中、又兵衛は自身の命がすでに尽きかけていることを悟った。もはや立ち上がり、槍を振るう力は残されていない。
近年発見された又兵衛の配下・金万平右衛門の記録「後藤又兵衛討死之時」によれば、このとき、又兵衛は豊臣秀頼から拝領した大切な脇差を抜き放ったという。
彼は傍らにいた家臣に、静かに、しかし断固とした口調で命じた。
「わしの首を討て。敵にこの首を渡すな」
それは、誇り高き武士としての最後の願いであった。敵の手に落ち、見世物にされることだけは断じて許されなかった。家臣は涙を流しながら主君の首に刃を当てた。
「又兵衛、これにて御免!」
鈍い音が響き、後藤又兵衛基次という希代の猛将は、五十六年の波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。その顔は、長きにわたる苦悩からついに解放され、念願の死に場所を得た満足感に満ちていたとも伝えられている。
彼の首は、混乱する戦場の中で密かに土中深く埋められ、ついに徳川方の手に渡ることはなかった。又兵衛の死を見届けた残存兵たちは、主君の後を追うように敵陣へ突撃し、玉砕した。
残された武士の美学と後世への記憶
又兵衛が討死してほどなく、真田信繁率いる後続部隊が道明寺に到着した。霧の晴れた戦場には、おびただしい数の遺体と、血に染まった大地だけが残されていた。又兵衛の死を知った信繁は、「もはや戦の勝敗は決した。共に討死せん」と深く嘆き悲しんだという。
又兵衛の討死の報は、またたく間に大坂の陣の戦場を駆け巡った。それは大坂方にとっては絶望の知らせであり、徳川方にとっては最大の脅威が去ったことを意味していた。かつての主君である黒田長政は、この知らせを聞いて何を思っただろうか。安堵か、それとも幼き日より共に戦った友を失った悲哀か。その心中は歴史の闇に包まれている。
大坂城はその後落城し、豊臣家は滅亡した。戦国の世は完全に終わりを告げ、徳川家による泰平の江戸時代が幕を開けた。
しかし、後藤又兵衛の名は消えることはなかった。彼の勇猛さ、そして何よりも己の信念を貫き通し、最も武士らしく散っていったその最期は、軍記物語や講談を通じて後世の人々に語り継がれた。「もし又兵衛が生きていれば」「もし真田軍が間に合っていれば」。人々は彼の悲劇的な運命に涙し、各地に「又兵衛は生き延びた」とする生存伝説を生み出すほどに彼を愛した。
現代の大阪府柏原市、かつての小松山古戦場には「後藤又兵衛基次の碑」がひっそりとたたずみ、道明寺の地を見下ろしている。
後藤又兵衛は、己を世に合わせることをよしとしなかった不器用な男である。だが、その不器用さこそが彼の美学であり、戦国武将としての真の姿であった。時代がどのように変わろうとも、自らの誇りを懸けて戦い抜き、己の美学に殉じた後藤又兵衛の魂は、いまもなお歴史の闇の中でまばゆいほどの光を放ち続けている。彼の最期は、私たちに「いかに生きるか」ではなく「いかに死ぬか」という、武士としての究極の問いを投げかけているのである。