日本人に「戦国時代の好きな武将は誰ですか?」と質問すると、その答えで「毛利元就」と答える人はそれ程いませんよね。
それは、他の有名な戦国武将よりも早く生まれてしまった事が関係してるかもしれません。信長が活躍した時代より約50年ほど前の武将です。
毛利元就が生誕した1497年頃、毛利氏は中国地方「安芸」の単なる小領主でした。天下に無名の毛利氏が如何にして弱肉強食の戦国時代を生き抜き、中国地方一帯を治める大大名になっていったかは、非常に興味のあるところです。
毛利元就の人物像や戦略、一族や家臣団との関係などから中国地方の覇者になった理由を解き明かしていきます。
目次
毛利元就のプロフィール
毛利元就 | |||
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読み方 | もうり もとなり | ||
別名・ あだ名 |
謀神(ぼうしん) 稀代の謀将(きたいのぼうしょう) |
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生年月日 | 1497年(明応6年)3月14日 | ||
身長 | (不明) | 血液型 | A型 |
毛利元就は1497(明応6)年に毛利弘元の次男として生誕、1571(元亀2)年に没しました。享年75歳。
血液型はA型(毛利元就の細部にこだわる性格と、広島地方の血液型はA型人間が多いことから推定して)、B型という説もあります。
毛利弘元の次男として生誕した毛利元就が毛利家の家督を継ぐことになったのは幸運としか言いようがありません。
毛利家の長男興元は「お酒が原因」で亡くなっています。そして家督は興元の嫡男(元就からみると甥)である幸松丸が継ぐのですが、幸松丸もその後なくなるという不幸が続きます。
そして、ついに毛利家当主の座が元就に転がり込んできたのです。
幼名「松寿丸」
幼名は松寿丸。
松は「いつまでも元気で長生きすることを象徴する文字」で縁起が良く、「末永く生きてほしい」という親の願いが込められた名前です。
当時の武将はわが子の名前に長生きを意味する言葉を好んで使っています。
松寿丸は親の願い通り75歳まで生きています。当時の武将は平均寿命が50歳位で、元就の75歳は非常に長生きと言えます。
死因と最後
1560年代前半(元就60歳の前半)、毛利元就は何度も体調を壊し、足利将軍家の医師による治療を幾度となく受けています。その後の1571年6月老衰(食堂癌との説もある)により死去。享年75歳。
毛利元就は中国地方を平定後には天下を取る野望は持っていませんでした。
元就も当時の他の大名と同じように天下取りよりも、どちらかと言うとお家存続を第一に考えていたようです。信長や秀吉は例外的存在と考えた方がわかり易いと思います。
従って毛利元就も当時の常識であるお家存続を忠実に実行し、天下を望まないという姿勢がハッキリとしています。
天下統一には、だれにも負けないという強い意思とエネルギーが必要で、繰り返して軍事行動を起こす為には経済的な優位性を備えていなければなりません。
しかし「天下は望まず」と言ったのは中国地方を平定してからのことであり、若いころは「天下を望んでいた」のではないだろうかと推測しています。
中国地方を平定する過程で、自分の力量を見極め「天下を望まず」の心境になったのでしょう。
家系
妻
元就は吉川家から妻(正室)を迎えています。いつ結婚したかは定かではなく、初陣(20歳)から嫡男誕生(27歳)までの間に吉川国経の娘と結婚したのは確かです。
元就27歳の時、毛利家の当主である甥の毛利幸松丸が急死し、元就が家臣からの推挙により毛利家を引き継ぎました。
元就には側室が4人。正室との間に隆元を含む3男1女を設けています。
側室「乃美の大方」との間には3男を、側室「三吉氏の娘」との間には3男1女、側室「中の丸」との間に子供はいませんでした。
子供
子供の数を合計すると元就は「9男2女」の11人を設けたことになります。その中でも有名な三兄弟を紹介します。
長男「隆元」
元就の嫡男で毛利家第14代当主。1523年、多治比猿掛城で生誕。幼名は少輔太郎。
1537年、大内義隆の元に人質として送られ、人質ではあるが端整な容姿に恵まれ義隆からは厚遇されました。同年、義隆が烏帽子親となり元服、義隆の一字「隆」をいただき、隆元と名乗ります。
隆元は大内家での人質時代に大内家の家臣である陶隆房や弘中隆包と親交を深め、帰国後も連絡を取り合っていました。1540年、人質生活から解放されて安芸に戻ります。
同年の尼子氏との戦いが隆元の初陣と言われています(隆元、17歳)一説には第一次月山富田上の戦い(1542年、隆元19歳)が初陣と言われています。
1564年隆元が41歳の時、毛利宗家の家督を継承します。
次男「元春」
毛利元春(吉川元春)は毛利元就の次男として1530年、吉田郡山城で生れ、幼名は少輔次郎。実の兄である隆元とは7歳違い。
後に藤原家の流れをくむ吉川家の養子として送り込まれました。
1540年、尼子氏との戦、吉田郡山合戦では、10歳の幼少にもかかわらず元就の反対を押し切って参戦、初陣を飾りました。1543年13歳の時、兄の一字をもらい「元春」と名乗りました。
1547年吉川家当主、興経の養子となりました。これは吉川家の内紛を上手く利用した元就の戦略でした。
興経はしぶしぶ養子縁組を受けざるを得なかったのです。そして2年後の1549年元就は力ずくで興経を隠居させました。
これで吉川家の実権を毛利家が握ることになります。
三男「隆景」
1533年、元就の三男として生誕。隆元とは10歳違い、元春とは3歳違いです。幼名は徳寿丸。1541年竹原小早川家の当主が死去。
後継ぎがいなかったため、重臣たちは後継者として徳寿丸に白羽の矢を立てました。大内家の後押しもあり元就もこれを快諾しました。
徳寿丸は元服し、大内義隆の「隆」の字をいただき「隆景」と名乗りました。この養子縁組は小早川家内でもスムーズに進みました。
1544年隆景は竹原小早川家の当主となりました。
元就の家臣団
元就の家臣団は武田信玄の家臣団と似ています。
国人衆という半ば独立した集団を組織化していました。信長は権力を集中した「中央集権体制」を採っていたのに対し、元就は国人や地方勢力を巻き込んだ「地方分権」「集団指導体制」をとっていました。
どちらかと言うと、当時の戦国大名はこの国人衆の集まりというパターンが多かったのです。
桂 元澄 (かつら もとずみ)
1500年、桂広澄の嫡男として誕生。1569年没。享年69歳。
1524年伯父の坂広秀が毛利元就の弟である相合元綱を擁して元就に反旗を翻したとき、元澄も父と共に自刃しようとしました。
しかし毛利元就の説得を受け入れて自刃を思い留まりました。そのことを恩儀に感じたのか元澄は終生にわたり元就に対して忠君を貫き通します。
また厳島の戦いでは陶氏に「お味方する」と言う偽手紙を送って、厳島に陶の大軍をおびき寄せることに成功しています。
元澄の子孫には桂小五郎、桂太郎など明治を支えた人物がいます。
国志 元助 (くにし もとすけ)
1492年、毛利家の家臣である国志有相の嫡男として生を受ける。元就の5歳年上であり、嫡男隆元の教育係を拝命していました。
従って隆元の信認は厚く、毛利家3代にわたって家臣として仕えました。
なかでも1540年、尼子氏との戦(吉田 郡山城の戦)では局地戦ながら尼子軍を粉砕した功績があります。1550年、井上一派を一掃した元就は、5奉行制度を導入し、国志元助を5奉行に任命しました。
1560年には上洛し将軍義輝に拝謁しています。奉行職を嫡男の元武に引き継いでからも、毛利家の重要な人物として処遇されていました。1592年没、享年なんと100歳。
志道 広良(しじ ひろよし)
1467年生れで元就の30歳年上である。志道家は毛利氏の一族で代々の当主を補佐していました。毛利興元に仕えていましたが、弟の元就とも親交がありました。
広良は元就の才能を見抜いていたと言われています。
当主の興元とその嫡子、幸松丸が相次いで亡くなると、元就とその腹違いの弟、相合元綱の間で争いが起きました。その時に他の14人の重鎮と共に元就を支持し、将軍家のお墨付きをも獲得し、元就の家督相続に大きな役割を担いました。
元就の軍師的な役割と、隆元の後見役を果たしました。1558年没、享年91歳。
井上 元兼 (いのうえ もとかね)
1486年生れで元就の11歳年上。安芸井上氏は清和源氏の流れをくむ家柄です。
最初は毛利氏と対等な国人でしたが、姻戚関係を結ぶ中で家臣として仕えるようになりました。また元就の家督相続に当たっては、一門で元就を支持しています。
ところが家中における専横が目に余り、元就によって粛清されました。1550年死去、享年64歳。
福原 広俊 (ふくばら ひろとし)
福原 広俊を名乗った人物は4人いますが、元就との関係で10代当主に関して記述します。
福原氏は毛利氏の一族で生誕は不詳。毛利家の家老を務め元就の家督相続では他の14人の重鎮と共に元就を支持しました。
1540年の尼子氏との戦において自身は鈴尾城に籠城し、子供の貞俊を郡山城に向かわせています。親子で戦いに臨みました。1557年死去。享年は不詳。
元就の居城
元就は鈴尾城で生誕し1500年、興元の家督相続により父と共に猿掛城に移ります。しかし家臣の謀反で城から追い出されました。その後1523年元就は吉田郡山城に入城しました。
吉田郡山城
元就が入城する前は小さな砦であったが、尼子との戦に備えて城域を拡張していきました。
1540年から1541年に尼子氏の30,000の大軍と対峙します。対する毛利軍は2,400あまり、大内の援軍10,000と合わせても、12,400で戦いは不利だと思われていた。
毛利軍は農民を入城させて、かがり火をたき尼子軍を撹乱しました。この戦いで尼子軍は安芸地方での勢力を失い、毛利氏は戦国大名への道を進むことになりました。
元就は城内に自身が住む館を初め、嫡男の隆元や重臣たちの住居も建設しました。従来の山城とは違う「平時の生活と戦いの守り」を兼ね備えた城になっています。
元就の孫である輝元の時代には天守閣を増築し三層三階にしました。
多治比 猿掛城
元就が父の弘元と暮らした城。1500年毛利家当主の座を長男である興元に譲り、次男の元就を引き連れて住んだ城です。多治比猿掛城の役割は本城である吉田郡山城の支城として建築されました。
築城年、廃城年共に不詳。一説には隠居した弘元の為に築城されたという話もあります。毛利隆元や御龍局が生誕した城と言われています。
毛利元就について
毛利元就は信長や秀吉の様に派手な行動はとらない武将です。全ての時間を「お家の存続、子孫繁栄」についやし、弱肉強食の戦国時代を生き抜いた武将でした。
元就の性格
元就14歳の時、父の広元と多治比猿掛城に移り住んでいますが、家臣の反乱で所領を失い困窮生活に陥ってしまいました。この苦しい経験が毛利元就の性格を形成していったのでしょう。
父と兄が「酒が原因」で亡くなっている教訓を生かして、酒は飲まずに下戸で通していました。一族を大切にし、家臣団には身分の上下にかかわらず親しく接していました。
正室に3人の男子が誕生したのも幸いでした。その結果、長男は毛利家を継承し、次男は吉川家をのっとり、三男は請われて小早川家を継承することになったのです。
「毛利―小早川―吉川」の毛利両川体制を築くことに成功したのは元就の大きな功績と言えるでしょう。
三本の矢
誰でも一度は聞いたことがある有名な逸話ですね。
元就が3人の子供に1本の矢は簡単に折れるが、3本纏めれば折れる事は無いと兄弟の結束を訴えた話です。
しかし長男の隆元は早世していて元就の枕元には居なかったという事実から、この話は後世に作られた話だろうと言われています。
この逸話が生れた背景は毛利元就の「三子教訓状」を元に作られた可能性が大きいのです。また逆説的に言うと「毛利3兄弟は仲が悪かった」とも言えるでしょう。
仲が良ければこの様な逸話は生れてこないと推測します。
稀代の謀将、策謀家
毛利家の次男として生れ、父と共に猿掛城で生活していた時に家臣の反乱で領地を無くしてしまいます。そうした中から中国地方を平定するには権謀術数にたけた人物でなければ達成できないでしょう。
毛利元就は調略が得意でした。戦国時代では如何に効率的に敵を滅ぼすかが大変重要です。敵軍と全面的に対決して勝利したとしても、自軍も大きな痛手を受けます。そのような消耗戦を何度も続ける事は不可能です。
連戦連勝は不可能で、いつかは負けてしまいます。負けは死を意味します。
敵を調略すること、暗殺することは卑怯でも何でもない戦の高等戦術です。孫子曰く「戦わずして勝つ」事が最善の戦です。家臣に戦死者を出さずに、戦いの物資を使わず、味方の勢力を温存できるからです。
元就は敵の家臣団や一族の仲たがいを利用して「嘘の情報」を流して疑心暗鬼を掻き立てて、内紛を起こさせる戦略を用いました。敵地に嘘の情報を流布する専門集団を抱えていたと言うことです。
有田中井手の戦い
毛利元就の初陣となった有田中井手の戦いは「西の桶狭間」とも呼ばれ、5,000の軍勢を要する安芸武田氏と毛利・吉川連合軍、1,150の戦いでした。
この戦いは大内氏の勢力下にあった安芸武田氏が大内義興の不在中に反旗を翻し、大内氏から独立しようとしたために勃発しました。
武田氏は尼子氏の支援を受けて、大内領内に攻め入ります。京都に居た大内義興は毛利氏に命じて反乱を鎮圧しようとしました。
初陣で武田元繁を破った毛利元就の名は一躍有名になり、毛利氏の繁栄と安芸武田氏の没落が決定的になった戦いでした。
厳島の戦い
安芸地方に強い影響力を持っていた大内義隆は尼子氏との戦いに敗れてから政治に興味を示さないようになりました。そして家臣の団結力が弱まり反目する様になっていました。
その結果、大内義隆は1551年、家臣の陶晴賢(すえ はるたか)によって殺害されてしまいます。そして大内氏の勢力圏は実質的に陶氏の影響下に置かれました。
しかし陶氏は大内領内での反乱に四苦八苦していました。
例えば大内義隆の義兄である三本木城(現在の津和野城)の吉見正頼が1554年に陶氏に反旗を翻したのです。陶氏は毛利氏に出兵する様に要請しますが毛利元就はこれを拒絶し、陶氏と戦うことを決意します。
陶氏と毛利氏は一触即発状態となりました。小競り合いを繰り返し、調略戦をお互いに展開しながら、「陶VS毛利」の戦は続きます。
しかし陶氏は吉見氏との和睦を成立させ、ついに全面対決の時が来ました。厳島の戦いです。
戦いの準備工作
毛利軍は厳島にある宮尾城が無防備であり、今攻撃されるとひとたまりもないと言う嘘の噂を陶側に流して、陶の大軍20,000を狭くて身動きの取れない厳島におびき寄せる作戦を立てていました。
陶氏との戦いを見据え毛利元就の婚姻作戦で、戦いの1年ほど前に、毛利一族である宍戸隆家の娘を村上水軍の一族である来島村上氏に嫁がせていました。この戦略が功を奏して村上水軍を見方にすることができたのです。
戦いは毛利氏の大勝利
陶軍20,000は厳島の宮尾城攻撃作戦を決行しました。
緒戦は陶軍が有利に展開したものの、暴風雨に乗じて毛利軍は海を渡り厳島の陶軍を背後から急襲します。この時に村上水軍は毛利方に見方をします。
毛利軍の軍勢4,000と水軍200艙に不意をつかれた陶軍は敗走して陶氏は自刃します。
戦いの結果
厳島の戦いで勝利した毛利氏は中国地方で確固たる地位を獲得しました。
一方、陶氏は没落し一族崩壊への道をたどることになりました。陶氏の奢りと、毛利氏の周到な計画が勝敗を決したと言えるでしょう。
陶氏は大軍を直接、陸路経由で毛利氏を攻撃していれば圧倒的に有利だったでしょう。狭い厳島に上陸したのが運のつきでした。
元就の謀略にまんまとハマり込んだ陶氏の失敗と言える戦いでした。
毛利元就の手紙
毛利元就は筆まめで有名な武将です。1767年に毛利家で編纂した元就の訓戒集には多くの言葉が残されています。また側室達にも戦場から手紙を出していました。
元就の手紙には「同じ事が繰り返し書いてある」という批判もありますが、人間は一度聞いた言葉で行動は起こしません。
何回も同じ言葉を繰り返し聞いて、初めて自分の物になるのです。元就はそのことを知っていて、わざと同じ言葉を何度も書いているように思えてなりません。
毛利元就の名言
元就の名言3つを取り上げ、その意味を考えてみましょう。
一芸もいらず、能もいらず、遊びもいらず、履歴もいらない。ただ日夜ともに武略、調略の工夫をすることこそ肝要である
大内氏や今川氏のように貴族の遊びを戒めています。大内氏は政治に関心を寄せずに家臣の陶氏に殺害されます。今川氏も桶狭間にて織田信長に討たれました。
戦国時代にあって、国内政治や軍事と違うことに、うつつを抜かすのは武士の本分ではないと元就は考えていました。大内氏、尼子氏の圧力を受けながら毛利家を存続、拡大させるのに元就は粉骨砕身するのです。
すべてについて、いい加減のことをしてはならぬ
「一事が万事」という諺があります。人間は小さなことに手抜きをすると、大きな事でも手抜きをしてしまうことになります。
国を治めるのも同じで、小さなことを積み重ねてこそ、大きな事を成し遂げることができるのです。元就はそう考えて、家臣団や一族に接していました。
百万一心
「皆(国人)が力を合わせれば何でもできる」と言う意味です。百の字を「一日」万を「一力」と読むと、一日一力一心となります。力を合わせてというのは毛利元就の専売特許であり、三本の矢にも通じる考え方なのです。
だから毛利、小早川、吉川が一致協力して中国地方を治める事が出来たのでしょう。