福島市松正則
【サマリー(リード文)】
福島正則は、「秀吉の一番槍」といわれた、猪突猛進型の戦国武将です。
秀吉の従兄弟として生まれ、豊臣家に仕えていましたが、天下分け目の戦いといわれる関が原の戦いでは、徳川につきました。
酒の席での失敗が多く、家宝の槍を取られてしまったこともありましたが、家臣を想う気持ちの人一倍強い、親分肌の人物でもあります。
そんな福島正則の魅力について、紹介していきます。
【プロフィール】
福島正則(ふくしま まさのり)は、永禄4年(1561年)生まれ。身長、血液型は不明。
武家ではなく桶屋の息子として生まれ、幼い頃は「市松(いちまつ)」と呼ばれていました。
酒癖が非常に悪く、泥酔状態で家臣に切腹を命じて、翌朝切断された首を見て泣きながら後悔した、というエピソードがあります。
やっていることはとんでもないし、切腹させられた家臣はどんな思いだっただろう、と思いますが、酒が抜けたあとは斬った首に泣いて謝る優しさもあるんですよね。
一般的に「乱暴者」のイメージが強い正則。でも、それはすべて酒が原因で、酒さえ飲まなければ意外といい人だったのかもしれません。
【家紋】
正則の家紋は、「福島沢瀉(ふくしまおもだか)」。
福島家は武家ではないので、代々の家紋はなく、この家紋は豊臣秀吉から贈られたものです。
秀吉の家臣たちは、みんなこの「沢瀉紋」を使用していましたが、最後まで使い続けたのは正則だけでした。名前に「福島」とついているのはそのためです。
そのほか、「島津牡丹(しまづぼたん)」、「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」、「五七桐(ごしちぎり)」があります。
これら3つもすべて秀吉の家紋で、正則は秀吉の家紋を最初から最後まで順番に使い続けていたことになります。
桶屋の出身だった自分を武将としてイチから育ててくれた秀吉に、恩義を感じていたことがわかりますね。
【刀・槍】
正則の刀は「福島兼光(ふくしまかねみつ)」。
製作者は備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)という、南北朝時代の刀工です。
正則が39才のときに、統治下である広島の本覚寺から手に入れ、正則の苗字をとって福島兼光の名がつきました。
そして、もう1つの武器は、秀吉から贈られた「日本号」という槍。
のちに天下三名槍と呼ばれる槍のひとつです。
この槍を正則は大事にしていましたが、酒の席で母里友信に、
「この酒を全部飲めたら、好きな褒美をあげるよ」
と持ちかけ、最初は断っていた友信も、正則の挑発にイラッときて全部飲み干し、褒美に日本号を指定しました。
友信が実は酒豪だった、ということを知らなかった正則は、激しく後悔しながら日本号を受け渡した、というエピソードです。
またも酒で失敗した正則ですが、後悔しながらもきちんと約束を守るところは、やはり武士ですね。
【兜】
正則の兜は、「黒漆塗桃形大水牛脇立兜(くろうるしぬりももなりだいすいぎゅうわきだてかぶと)」。
その名の通り、水牛の角のような飾りが付いた兜で、朝鮮出兵から帰国したときに、黒田長政からもらった兜です。
角飾りがかなり大きいので、目立つうえに重くてすぐにズレてしまいそうですが、正則は関が原の戦いにもこれを装備して参戦した、ということで、実際にかぶってみるとそんなに動きにくくないのかもしれません。
長政と兜を交換する前は、「銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)」という兜を使っていました。
頭の上に大きな鉄板がついていて、水牛飾りの兜よりさらに目立ち、鉄砲隊の格好の標的になってしまいそうです。
【甲冑、鎧】
正則の鎧や甲冑に関するエピソードはあまり残っておらず、武器や兜にくらべてそんなにこだわりがなかったんじゃないかと思います。
かなり大きな兜を選んでいたことから、鎧も軽量で動きやすいものより、特に重くてがっしりしたものを好んだんじゃないでしょうか。
【墓】
正則の墓は、長野県の岩松院という寺に建てられています。
長野は正則が64才で死亡するまで、晩年の5年間を過ごした地です。
【子孫とその後】
正則の晩年、出家した父から家督を受け継いだ嫡男(ちゃくなん)の福島忠勝(ただかつ)は、22才の若さで父よりも早く亡くなってしまいました。
弟である福島正利(まさとし)が跡をついで、旗本としてなんとか福島家を存続させましたが、息子が生まれることはなく、福島家は一旦断絶。
しかし忠勝の孫の正勝(まさかつ)が復活させ、御書院番として代々江戸幕府に仕えました。御書院番とは江戸幕府の親衛隊のことで、当時の出世コースです。
忠勝が亡くなる1年前に家督を譲って隠居した正則の、判断がもう少し遅れていたら、もしかしたら福島家は断絶したまま御書院番にはなれなかったかもしれません。正則の判断は冷静でした。
【福島正則について】
後方で守りに徹するより、戦場の最前線に飛び込んで敵をなぎ倒すのが得意な正則。戦場でしか生きられない、戦場こそが彼の居場所でした。
そんな正則のエピソードをいくつか紹介します。
・戦闘指揮官として一流で秀吉の一番槍と呼ばれる
23才のとき、賤ヶ岳の戦いでの活躍によって「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれ、他の6人の褒美が3000石だったのに対して、一番槍として排郷家嘉を討ち取った正則は、5000石与えられました。
正則の勇猛果敢な性格は、先陣切って敵に突っ込んでいくのにぴったりで、その後の戦も一番槍として真っ先に戦場を突き進んでいきました。
33才のときの朝鮮出兵では、軍船に自ら乗り込んで指揮を担当し、朝鮮の船を焼き討ちするなど、偉くなっても最前線で戦うスタイルは変わりません。
子孫たちはのちに御書院番になりましたが、後方の陣に控えて要人警護、というのは正則にとっては柄じゃなかったんですね。
・親分肌として家臣を愛するために起きた「伊奈図書事件」
関が原合戦後、正則が嫡子の正之に出した使者が、途中の道で家康の旗本である伊奈図書(いなずしょ)に通行を遮られて、足軽7~8人にボコボコにされて帰ってきた、という事件がありました。
使者は、
「伊奈図書にやられました」
と言い残して切腹。正則は怒り狂い、使者の首を家康に送りつけて抗議しました。
家康は、すぐに当事者の足軽たちを処刑して、その首を正則に送りましたが、
「足軽の首なんかじゃ納得いかないよ。伊奈図書の首を出せ」
と言い、伊奈図書の首を斬って送らせました。これが伊奈図書事件です。
正則の気の短い性格が、家臣を守る気持ちに火をつけたエピソードです。
権力者の家康を恐れず、愛する部下の仇討ちを実行する正則の行動は、人の上に立つ親分としての行動でした。
また、正則は、仕える主君を7人もころころ変えていた可児才蔵が、最後に主君に選んだ武将でもあります。
このことからも、正則が酒癖は悪くても、家臣に対する普段の行いがよかったことがわかります。
・豊臣恩顧でありながら、関が原の合戦に東軍についた正則
昔から秀吉に世話になっていた正則は、関が原の合戦でも当然豊臣側である西軍につくと思われていましたが、予想に反して徳川側の東軍に味方しました。
「これは徳川と豊臣の争いではなく、石田三成に騙されてる豊臣秀頼を救う戦いなんだよ」
という家康の説得を受けて、三成と仲の悪い正則は、
「そうか、徳川側につくことこそ秀吉への恩返しなんだ」
と考えるようになりました。
正則が徳川の軍に味方したのは、豊臣を裏切ったわけではなく、豊臣に恩義を感じていたからこそ取った行動だったんです。
結果的にこの行動が功を奏して、合戦後も生き残った正則は、49万8000石を得ることになりました。
・大坂の陣では、合戦に参加せず
大坂の陣の前、家康と秀頼が二条城で会見できるように、正則は秀頼の母であり秀吉の側室の、淀殿を説得しました。
もはや豊臣家を存続させるには、徳川の臣下に入るしかない状況でしたが、それはイヤだという淀殿に対し、
「臣下に入るかどうかは別として、とりあえず会見だけでもさせましょう」
という説得でした。
会見は実現しましたが、豊臣家の家臣はその後次々と死んでいき、大坂夏の陣でとうとう徳川に滅ぼされてしまいました。
どんどん力を失っていった豊臣家に最初から勝ち目はなく、それを察していた正則は大坂の陣には参加しませんでした。
正則はすでに50才を過ぎていて、病気を理由に隠居したがっていましたから、いくら豊臣家に恩を感じていても、戦いに参加すればみすみす死ににいくようなものです。
59才で忠勝に家督を譲った正則でしたが、もっと早くに譲りたかったんだと思います。
・広島城の無断修復で改易される
家督を譲る直前のころ、台風で故障した広島城を修復したことがルール違反だと幕府からいわれ、直した箇所を元に戻すよう、命令がくだりました。
「ココ以外の修復箇所を元に戻せ」
と指定されたのですが、正則はなぜか指定された部分ではないところだけを元に戻します。
さらに、
「人質として江戸に来させろ」
と言われていた息子の忠勝の出発を遅らせて、弁明もしなかったので、徳川秀忠の怒りを買い、安芸広島の49万8000石は信濃川中島4万5000石に改易されてしまいます。
もう無理だと悟った正則は、家督を忠勝に譲って隠居、出家しました。
「我は弓なり、乱世の用なり。今治世なれば、川中島の土蔵に入らるるなり」
これは改易されたときに正則が残した言葉です。
私は弓で、弓は戦いに使う道具だ。戦いの終わったいま、私の活躍する場はもうない。川中島の土蔵に入ろう。
という意味です。
武士としてしか生きられない正則にとって、平和な世の中は、居場所がない窮屈なものだったのかもしれません。