元亀元年(1570年)の秋、琵琶湖の西岸に一つの山城が立っていた。宇佐山城。湖面から一キロほどしか離れていない山の頂に、まだ新しい石垣を巡らせた城である。その城を預かっていたのは、織田信長が若いころから傍らに置いてきた古参の将、森可成(もりよしなり)だった。
この年、信長の天下は根もとから揺さぶられていた。春には妹婿の浅井長政(あざいながまさ)に背かれ、越前から命からがら逃げ戻った。夏には姉川で浅井・朝倉の軍勢と激突したものの、相手を滅ぼすには至らなかった。そして秋、信長が主力を率いて摂津へ向かい、野田・福島で三好勢と石山本願寺を相手に戦っているさなか、浅井・朝倉の大軍が北から近江へなだれ込んできた。
信長は遠い。京までの道筋に立ちはだかるのは、宇佐山の城と、その城主ただ一人である。
森可成は最後どうなったのか。結論から言えば、彼は九月二十日、坂本の地で信長の弟・織田信治(おだのぶはる)らとともに討死した。享年四十八。だが、その最期を「少数で大軍に挑み、華々しく散った」という一行だけで片づけてしまうと、可成という人の本当の値打ちが見えなくなる。彼が命と引き換えに守ったものは何だったのか。死んだあと、何が残ったのか。湖西の山城に立った男の、最後の数日間をたどってみたい。
宇佐山城は、比叡山延暦寺から南へ直線で五キロ足らず。標高三百三十六メートル、麓からの高さはおよそ百八十メートルの山頂にあった。北から湖岸を下ってくる軍勢にとって、ここは京へ抜ける喉もとにあたる。この城が落ちれば、坂本から山中越え、そして京の町まで、敵をさえぎるものはほとんどない。
奈良の興福寺の僧が書き継いだ『多聞院日記』は、この年の三月二十日の記事で宇佐山城に触れ、そのとき城はまだ工事の最中だったと記している。城を築いたのは可成とされる。しかも宇佐山城は、近江で初めて石垣を用いた城だったといわれる。のちに信長が築く安土城よりも前のことだ。いまも本丸の跡には石垣の一部が残り、虎口や石段、二の丸・三の丸の貯水槽の跡がその構えを伝えている。
自らの手で積んだ石垣の城で、自らの最期を迎えることになる。その秋、可成がそれを予感していたかどうかは分からない。
美濃の侍、信長の背を守る
可成は大永3年(1523年)の生まれ。通称は三左衛門。美濃と尾張の境、木曽川のほとりの生まれとされ、はじめは美濃の斎藤道三に仕えた。それがいつしか尾張の若き織田信長のもとへ移り、天文23年(1554年)までには信長に仕えていたとされる。
美濃のまむしと呼ばれた道三の家中から、尾張の大うつけと呼ばれた若者のもとへ。主を替えるというのは、当時の侍にとって珍しいことではない。それでも、天下の誰もがまだ信長の器量を測りかねていた時期に、あえてその背中についていった判断には、可成なりの見立てがあったのだろう。
信長の家臣としての可成は、早くから尾張統一の戦いに名を連ねる。弘治元年(1555年)の清洲城攻めでは、織田信友を討ち取る功を挙げたとされる。翌弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは、弟の信勝(のぶかつ)を担いだ柴田勝家・林秀貞(はやしひでさだ)らの大軍に対し、少ない手勢で信長を支えたと伝わる。尾張の家中がまっぷたつに割れたとき、可成は迷わず兄の側に立っていた。
やがて信長の目は、可成の故郷である美濃へ向かう。道三亡きあと、美濃を治める斎藤氏との戦いは長く続いた。可成はその美濃攻めのなかで堂洞城を攻め、恩賞として烏峰城を与えられた。のちの美濃金山城である。拝領の年は永禄7年(1564年)とも永禄8年(1565年)ともいわれ、記録によって揺れがあるが、いずれにせよこのとき可成は、一国一城とはいかずとも、木曽川を見下ろす山城の主となった。仕えた家を離れ、尾張の主君の下で働き、ふたたび美濃に戻ってきたのである。
永禄11年(1568年)九月、信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛の軍を起こす。行く手を阻む南近江の六角氏に対し、信長は箕作城を攻めさせた。その先陣に立ったのが可成である。後世、彼は槍の名手として知られ、「攻めの三左」とも呼ばれたと伝わる。この異名がいつ、誰によって付けられたのかは定かでない。ただ、主君の行く道の最も前に立つ役を、繰り返し任されてきたことは確かである。
戦うだけの男ではなかった。美濃の有力な国衆を味方につける働きかけや、のちに触れる朽木氏との交渉など、可成は人と人をつなぐ役目もこなしたとされる。美濃の事情に通じ、信長の気性もよく知る男だった。信長にとって可成は、槍の腕と同じくらい、その分別を頼れる家臣だったのだろう。
最前線の城を託されて
元亀元年は、信長にとって災厄の年として始まった。
四月、信長は越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を討つべく北へ攻め込んだ。手筒山城、金ヶ崎城を次々に落とし、勝利は目前に見えた。そこへ届いたのが、近江の浅井長政が背いたという知らせである。前に朝倉、背後に浅井。挟み撃ちを恐れた信長は、全軍を置き去りにするようにして京へ逃げ戻った。金ヶ崎の退き口である。
この撤退のとき、可成は近江朽木谷の領主・朽木元綱(くつきもとつな)に、京への帰り道で力を貸してくれるよう働きかけたとされる。朽木谷を抜ける道は、信長が生きて京へ戻れるかどうかを分ける細い糸だった。のちに語り継がれる撤退劇の陰で、可成もまた主君の命をつなぐ役を担っていたことになる。
六月、信長は浅井・朝倉への報復に動き、姉川で両軍とぶつかった。可成は第五陣として出陣している。織田・徳川の側が勝ちを収めたものの、浅井も朝倉も滅びはしなかった。そして同じころ、南近江では一度追い払ったはずの六角承禎らがふたたび兵を挙げていた。
近江は、敵だらけになった。信長は信頼のおける部将たちを近江の要所に配し、京への道を守らせる。可成に与えられたのが、宇佐山城、すなわち志賀の城だった。
坂本から湖西を北へ延びる道は、越前の朝倉にとって京へ攻め上る最短の道筋である。その入口に立つ城を預けるということは、もし敵が来れば、真っ先に、しかも援軍を待たずに受け止めよ、という意味になる。信長は可成にその役を与えた。若いころから背中を預けてきた男だからこそ、と考えるのは、決して深読みではないだろう。
夏が過ぎ、信長は摂津へ向かった。三好三人衆が野田・福島にとりでを築き、そこへ石山本願寺までが加わった。信長の主力は、遠く大坂の地で身動きが取れなくなっていく。
それを待っていたかのように、九月、浅井・朝倉の軍勢が湖西の道を南へ下り始めた。
九月二十日、坂本の戦い
九月十六日、浅井・朝倉の軍勢が坂本に迫る。可成は城に籠もらず、山を下りた。率いた兵は五百とも千ともいわれる。坂本の入口で敵を迎え撃ち、いくつかの首を挙げて押し返した。
城に籠もれば、しばらくは持ちこたえられたかもしれない。それでも可成は打って出た。坂本を素通りさせれば、敵は山を越えて京へなだれ込む。宇佐山城を守ることそのものが目的ではなく、京への道を閉じることこそが自分の役目だと、可成は分かっていたのだろう。
戦いは数日に及んだ。九月十九日の未明、京から信長の弟・織田信治が兵を率いて駆けつけたと、来迎寺に伝わる記録は記している。その数は二千ほどとされる。可成にとっては心強い援軍だったはずだ。
だが同じ十九日、戦いの形が大きく変わる。石山本願寺の顕如(けんにょ)の呼びかけに応じ、比叡山延暦寺の僧兵が浅井・朝倉の側に加わったのである。北からは浅井・朝倉の大軍、西の山からは僧兵。可成らは、二つの方向から挟まれる格好になった。
そして九月二十日。
可成は信治、そして近江の国衆である青地茂綱とともに、坂本で連合軍に立ち向かい、討死した。青地茂綱は蒲生定秀の子で、青地家を継いだ人物である。信長の弟、近江の国衆、そして美濃から信長に従ってきた古参の将。三人はこの日、そろって命を落とした。信治はまだ二十七歳だった。
可成がどれほどの兵で、どれほどの敵と戦ったのか。記録は一つにまとまらない。都にいた公家・山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』は、可成がわずか六百の手勢で三万の大軍に当たり、千人を討ち取ったと書きとめている。ただ、この数字にはいくらかの誇張が混じっている可能性があり、そのまま受け取ることはできない。一方、この戦いの翌日、九月二十一日付で、敵方にいた六角義賢(ろっかくよしかた)が書いた書状は、織田方の損害をこう伝えている。
「森三左衛門尉以下数百人討死」
勝った側の誇らしげな報告である。それでも、可成の名が真っ先に挙げられていることに、敵が彼をどれほど重く見ていたかがにじむ。
可成が討たれた場所についても、書き方は分かれる。宇佐山城で戦死したと記す事典もあれば、志賀の城と記すものもある。多くの解説は、城から打って出た先の坂本で討たれたと語っている。いずれにせよ、可成は城の中で守りに徹して死んだのではない。山を下り、敵の真っただ中へ出ていった末に倒れた。
江戸の終わり、慶応3年(1867年)に落合芳幾が描いた錦絵「太平記英勇伝」には、討たれた信治の亡骸を背に負い、なおも敵に立ち向かう可成の姿がある。これは三百年近くのちの絵師が思い描いた場面であり、そうした出来事が実際にあったと記録が伝えているわけではない。けれども、江戸の人々が可成の最期をそのように思い描いたこと自体が、この戦いがどう語り継がれてきたかを物語っている。主君の弟を一人で死なせはしない。最後の最後まで、主君の家のために戦う。可成は、そういう男として記憶されてきたのである。
主を失っても落ちなかった城
可成の最後を語るとき、多くの人は坂本での討死で話を終える。だが、可成の戦いの本当の意味は、その翌日からの出来事にこそある。
城主が死んだ。信長の弟も死んだ。山の上の宇佐山城に残されたのは、主を失った兵たちである。ふつうなら、ここで城は落ちる。浅井・朝倉の大軍は九月二十日のうちに城へ攻めかかった。
ところが、城は落ちなかった。
可成の家老格だった各務元正が、肥田直勝らとともに城を守り抜いたのである。主が築き、主が預かった石垣の城を、残された者たちが持ちこたえさせた。攻めあぐねた浅井・朝倉の軍は宇佐山城を後回しにし、大津の馬場や松本に火を放ち、翌二十一日には山科まで焼き払った。京の目と鼻の先である。
それでも、城は湖西の道にくさびとして残り続けた。背後に敵の城を抱えたまま、大軍が京へ深く踏み込むのは危うい。宇佐山城が健在であったことが、連合軍の足をわずかに鈍らせた。
可成の死の知らせを信長が受け取ったのは、九月二十二日とされる。信長は翌二十三日、摂津の陣を引き払って京へ戻り、二十四日には坂本へ兵を進めた。摂津の戦いを捨ててでも戻らねばならないほど、事態は切迫していたのだ。浅井・朝倉の軍は比叡山に逃げ込み、信長はこれを取り囲む。ここから志賀の陣と呼ばれる長いにらみ合いが、およそ三か月にわたって続いていく。
可成が坂本に出て戦い、命を落としてから、信長が坂本に姿を現すまで、わずか四日。この四日のあいだ、湖西の入口を閉じていたのは、可成が築き、可成の家臣たちが守り抜いた宇佐山城だった。
可成の最期は、ただの勇ましい討死ではない。信長が摂津から戻るまでの時を稼ぐために、自分と自分の城を、京への道に据え置いた。その役目は可成が倒れたあとも、城によって果たされ続けた。主が死んでも、主の果たすべき務めは終わらなかったのである。武人らしい死に方というものがあるなら、それはこういう死に方を指すのだろう。
志賀の陣はその後も長引いた。十一月には尾張の小木江城で信長の弟・織田信興が討たれ、堅田の戦いでは坂井政尚が命を落とした。信長は十二月になってようやく浅井・朝倉と和睦する。可成の死は、この苦しい戦いの最初の大きな犠牲だった。
敵の寺に葬られた亡骸
坂本で倒れた可成の亡骸は、どこへ行ったのか。
坂本からほど近い比叡辻に、聖衆来迎寺という天台宗の古い寺がある。比叡山延暦寺とつながりの深い寺である。つまり、可成にとっては敵方の寺だった。寺の伝えによれば、当時の住職・真雄は、敵の大将である可成の亡骸を夜ひそかに寺へ運び込み、葬ったという。
僧兵が可成を討つ側に回ったその山のふもとで、同じ宗門の僧が、討たれた将を弔った。敵味方の線を越えて死者を葬るというふるまいに、戦国の世にもなお生きていた、人としての情けを見る思いがする。
話はそこで終わらない。翌元亀2年(1571年)九月、信長は比叡山を焼き討ちにした。延暦寺はもちろん、ふもとの坂本の町も炎に包まれた。ところが聖衆来迎寺は、この火を免れたと伝わる。境内に可成の墓があったからだ、と寺は伝えている。住職は焼き討ちに先立って、仏像や仏具を船に積み、琵琶湖の対岸にある兵主大社へ逃がしていたともいう。
これが本当にあったことなのか、同じ時代の記録で確かめることはできない。あくまで寺に伝わる話である。けれども、信長に重んじられた家臣を、敵の寺が手厚く葬ったこと、そしてその墓が一年後に寺そのものを救ったという筋書きは、出来すぎていると感じるほど胸に迫る。可成は死んでなお、自分を葬ってくれた人々を守ったことになるからだ。
いまも聖衆来迎寺の境内には、可成の墓がある。湖西の町の静かな寺で、可成は自らが命を懸けて守った湖の岸辺に眠っている。
可成を弔う場所は、もう一つある。美濃の金山城の東、可児市兼山の地に、跡を継いだ子の長可(ながよし)が父の菩提を弔うために開いた可成寺である。本堂の裏には可成と長可の墓所として、二基の五輪塔が並ぶ。昭和42年(1967年)には、本能寺に散った蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟の供養塔もここへ移された。森家の家紋である鶴の丸が、父子の眠る寺を静かに見守っている。
残された子たち
可成が坂本に散ったとき、森家にはまだ幼い子らが残されていた。
妻は林通安の娘で、のちに妙向尼と呼ばれた人である。二人の間には可隆、長可、成利(のちの蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)、忠政らが生まれたとされる。
長男の可隆は、この年のうちに世を去っている。四月の越前攻め、手筒山城の戦いで討死したとする記録と、父とともに宇佐山で討たれたとする記録とがあり、どちらが正しいのかは定まっていない。いずれにしても、元亀元年という一年のうちに、森家は当主と嫡男をともに失ったことになる。
家督を継いだのは、次男の長可だった。永禄元年(1558年)生まれの長可は、このときわずか十三歳。父の遺した金山城と家臣たちを背負って、少年は戦国のただ中に立たされた。宇佐山城を守り抜いた各務元正は、その後この若い主に仕えている。父の城を最後まで守った家臣が、今度は子を支える側に回ったのである。
長可はやがて「鬼武蔵」と恐れられる猛将に育ち、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで討死する。三男の成利、すなわち蘭丸は、弟の坊丸・力丸とともに信長の小姓として仕え、本能寺の変で主君と運命をともにした。
森家の人々は、なぜこれほど多く戦場に倒れたのか。その答えは、もしかすると可成の生き方そのものにあるのかもしれない。主君の前に立ち、主君のために退かない。父が坂本で示したその姿を、子らは自分たちの生き方として受け継いだようにも見える。
信長が蘭丸ら兄弟を側近くに取り立てたことについて、系図の研究で知られる菊地浩之氏は、信長は家臣の家を無条件に世襲させる人ではなかったとしたうえで、父が悲惨な討死を遂げたからこそ兄弟を小姓に取り立てたのだろう、と推し量っている。確かめようのない推測ではある。それでも、湖西の城で自分の背中を守り抜いた男の子らを、信長が手元に置いて育てようとしたと考えると、主従の情けというものが、少しだけ形を持って見えてくる。
森家はその後、末子の忠政が家を継ぎ、のちに美作の津山で大名として続いていく。坂本で絶えかけた家は、可成の血を引く子らによってつながれていった。
可成の最後を思うとき、浮かび上がるのは一人の武将の勇ましい死に様だけではない。自らが築いた石垣の城、その城を守り抜いた家臣、亡骸を夜ひそかに運んだ敵方の僧、そして父の背中を追って戦場へ向かった子らの姿である。森可成という男は、坂本の野に散ったあとも、多くの人の手を通して生き続けた。
元亀元年九月二十日。琵琶湖の西岸に吹いた秋風のなかで、一人の古参の将が命を終えた。その死と、主を失ってなお落ちなかった城が、信長の戻るまでの日々を支えた。若き日から主君の前に立ち続けてきた男は、その務めを最期まで果たし抜いたのである。