長束正家と関ヶ原の戦い 算盤の奉行が軍勢を率いた夏

長束正家

戦国の世を語るとき、人はまず槍の名手や一騎駆けの猛将を思い浮かべる。けれども、何万という兵が国を越えて動くには、その兵たちが食べる米があり、米を運ぶ舟と馬があり、それを数え、割り振り、帳面に記す者がいた。刀を振るう者の背後には、必ず算盤をはじく者がいたのである。

長束正家(なつかまさいえ)は、その算盤の側にいた人だった。豊臣政権の五奉行の一人として、兵糧と財政を預かった男。華々しい武功の逸話はほとんど伝わらず、大河ドラマでも素通りされがちな名前である。

ところが、慶長5年(1600年)の夏、この数字の人は、自ら軍勢を率いて伊勢の城を攻めている。そして、豊臣家の財布を握っていたはずの彼は、天下の実力者・徳川家康に背く側に名を連ねた。関ヶ原の戦いへと流れ込むその季節を、長束正家の足跡からたどってみたい。

算盤を手にした官吏

正家の生まれた年は分かっていない。出自についても、尾張とも近江ともいわれ、確かなことは言えない。歴史の舞台にはっきりと姿を現すのは、織田家の宿老(しゅくろう)・丹羽長秀(にわながひで)の家臣としてである。

天正13年(1585年)、その長秀が世を去った。正家はこのあと、羽柴秀吉に仕えることになる。

この主君替えには、一つの話が伝わっている。長秀の死後、秀吉は跡を継いだ丹羽長重(にわながしげ)の領地を削り、丹羽家の有力な家臣を自分のもとへ引き抜いた。そのとき正家は、無実の罪を着せられた長重を見捨てることはできないと、一度は秀吉の誘いを断ったという。秀吉が長重の疑いを解くことを条件に、ようやく仕官を受け入れた、と伝わる。

史料の名が示されない話であり、そのまま信じることはできない。ただ、こうした逸話が語り継がれること自体に、人々が正家という人物に見たものが映っている。数字に強く、冷たく割り切る人。そう思われがちな官吏に、旧主の家への義理を重んじる顔があってほしいと、後の人は願ったのかもしれない。

事典は、正家を理財に明るい人と記す。茶の湯をたしなむ人としても知られていた。通称は新三郎。丹羽家の遺臣から抜き出された有能な官吏、という説明もある。天下人となりつつあった秀吉にとって、戦の才に勝る武将はいくらでもいた。しかし、帳簿の上で国を動かせる者は、そう多くはなかったはずである。

兵糧を運ぶという戦

秀吉の天下統一の戦は、すさまじい規模で進んだ。天正15年(1587年)の九州攻め、天正18年(1590年)の小田原攻め、そして文禄元年(1592年)に始まる朝鮮出兵。正家はそのいずれでも、兵糧の調達と輸送を担ったとされる。

十万を超える軍勢が、ひと月、ふた月と陣を張る。そのあいだ、毎日欠かさず米が届かなければならない。どの国からどれだけ集め、どの港からどの舟に積み、どの道をどれほどの日数で運ぶか。一つでも狂えば、前線の兵は飢え、戦は内側から崩れる。

槍を交える戦場の熱とは別の、もう一つの戦がそこにあった。勝ち鬨(かちどき)を上げるのは前線の武将たちであり、兵糧を運ぶ者の名が軍記に大きく残ることはない。それでも秀吉が正家を使い続けたことに、その仕事ぶりへの信頼がよく表れている。

正家の手は、城造りにも及んだ。朝鮮出兵の拠点となった肥前の名護屋城(1592年)、秀吉の晩年の居城となる伏見城(1594年)の工事でも、その一部を受け持っている。数字を扱う人は、石と材木と人足を動かす人でもあった。

やがて正家は、五奉行の一人に数えられる。五奉行がいつ置かれたかは辞書によって説が分かれ、確かな史料で確かめられるのは秀吉の死の直前、慶長3年(1598年)の頃とする見方もある。いずれにせよ、その中での正家の持ち場ははっきりしていた。兵糧と財政である。

五奉行は、豊臣家の直轄地である蔵入地の収支に責任を負い、幼い豊臣秀頼(とよとみひでより)が成人したあかつきには、その報告をする務めがあったと説明される。つまり正家は、豊臣家の金庫の鍵を預かり、いつか秀頼にその中身を差し出す日のために、一文の狂いもなく帳面を守る立場にあった。慶長3年には越前の検地にも関わっている。

山の上の城

文禄4年(1595年)、正家は近江の水口に城を与えられた。はじめ5万石、のちに加増され、12万石とする記録もある。

その居城、水口岡山城の姿を思い描くと、算盤の人という印象は少し揺らぐ。城は古城山と呼ばれる山の上にあり、麓からの高さはおよそ100メートル。山頂に東西に細長い本丸を構え、その東に二ノ丸、三ノ丸を連ねた。規模は甲賀郡で並ぶものがなく、滋賀県内でも最大級とされる。本丸は総石垣だったと推定され、北側に残る石垣は、下の曲輪から立ち上がっていたとすれば高さ16メートルほどに及ぶという。

この城は、正家が一から築いたものではない。中村一氏(なかむらかずうじ)が城主となり、増田長盛(ましたながもり)を経て、正家の手に渡った。増田も正家も近江に縁のある五奉行である。

山の上に立てば、眼下を東海道が走る。東へ行けば鈴鹿の峠を越えて伊勢へ、西へ行けば京・大坂へ。この城は、豊臣政権が甲賀の地を押さえるための要であり、天下の大動脈を見下ろす関所でもあった。

正家が城主となってのち、琵琶湖の西岸にあった大溝城の天守を解体し、その部材を水口岡山城に用いたことが文献に見える。近年の発掘では、大溝城から運ばれたと考えられる軒瓦が出土し、記録の確かさが土の中から裏付けられた。もっとも、部材が移された時期については研究者のあいだでも議論があり、まだ決着を見ていない。

それでも、湖のほとりの城を解き、その木と瓦を山を越えて運び、甲賀の山上に組み上げる光景を思うと、正家という人の仕事の質が見えてくる気がする。必要なものを、必要な場所へ、必要なだけ運ぶ。兵糧を前線に届けてきた人の手際が、この城にも宿っていたのではないか。

寛永期の絵図には、本丸の東の端に天守と記されている。だが西の端もやぐらの台座のように描かれ、どちらが天守だったのか、決め手はない。山頂には今も瓦が散らばり、礎石らしい石が点在するという。かつてそこから東海道を見下ろした城主の姿を、それらの石は黙って記憶している。

財布を握る者が、家康に背いた日

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死んだ。五大老の筆頭・徳川家康は、次第にその重みを増していく。事典は、五奉行が家康に圧され、権限を失っていったと記す。秀頼の成人の日まで帳面を守るはずだった正家の務めも、足元から揺らぎはじめた。

この頃、正家と家康のあいだには不穏なうわさも流れたと語られる。正家が水口の城で家康を討とうとしている、といううわさである。ただ、これは通俗的な読み物に見える話で、正家がこうした企てに本当に関わったのかは確かめられていない。うわさはうわさとして、そういう空気の中に正家が置かれていた、ということだけを受け取っておきたい。

慶長5年(1600年)6月、家康は会津の上杉景勝を討つため、大軍を率いて東へ向かった。そして7月17日、大坂で、毛利輝元・宇喜多秀家(うきたひでいえ)らの動きと呼応して、長束正家・増田長盛・前田玄以(まえだげんい)が名を連ねる家康弾劾の書状が出され、兵が集められる。西軍の挙兵である。

関ヶ原の戦いといえば、石田三成が家康打倒を掲げて兵を挙げ、そこに諸将が加わった、と語られることが多い。だが近年、関ヶ原の研究を進める高橋陽介氏は、上方で家康に背いて兵を挙げた主体は、増田・長束・前田の三奉行だったと整理している。三奉行は、家康が上方を離れ、東海道の諸将がまだ自分の領地を発っていない時期をうかがって挙兵を計画し、広島から毛利輝元を呼び寄せた。三成の参加を大谷吉継(おおたによしつぐ)が取り付けたという報が届いたのは、7月12日だったという。

この説がどこまで受け入れられているかは、なお議論の途中にある。しかし、高橋氏の整理には、もう一つ見逃せない指摘がある。家康の会津攻めで兵糧や物資の輸送を担っていたのは、ほかならぬ正家だった、というのである。

家康の大軍が東へ進むための米を、正家は手配していた。その同じ手で、正家は家康を弾劾する書状に名を連ねた。軍勢の腹を満たす者が、その軍勢の主に背を向ける。これほどの皮肉があるだろうか。

正家にとって、守るべきものは何だったのか。帳面の向こうにいたのは、家康ではなく、幼い秀頼だったはずである。蔵入地の算用を、いつか秀頼に差し出す。その務めを果たすには、家康の手に政権の財布を渡すわけにはいかなかった。そう考えれば、数字の人の決断にも、一本の筋が通って見えてくる。

翌7月18日、三奉行は連名で、家康に従って東へ向かった細川忠興(ほそかわただおき)の罪を責め、忠興の父・細川幽斎(ほそかわゆうさい)が籠る丹後の田辺城を攻めるよう命じている。帳簿を閉じた奉行たちは、もう後戻りのできない道に踏み出していた。

伊勢の野で、城を攻める

正家の戦は、帳面の上だけでは終わらなかった。

8月18日、西軍は正家に軍勢をつけ、伊勢の三つの城を受け取らせようとした。安濃津の富田、松坂の古田、岩出の稲葉。いずれも会津攻めに従って東へ出ていた大名の城である。主のいない城を、使者として穏やかに受け取る。算盤の人にふさわしい、交渉の役回りだったのかもしれない。

ところが、思惑は外れる。三城の城主たちは、会津へ向かう道から船で急ぎ帰国し、それぞれの城に籠もってしまったのである。この経緯は、同じ時代に書かれた書状に記されている。受け取るはずの城は、攻め落とさねばならない城に変わった。

正家は、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とともに伊勢の椋本に陣を取った。関の宿から津へ下る道筋にある土地である。一時は関の地蔵まで退き、そこで吉川広家(きっかわひろいえ)と合流して、津の城を攻める手はずを整えた。このあたりの動きは、吉川広家自身が書き残した覚書から追うことができる。

津の城、安濃津城は平城で、守りは決して堅くなかった。城主は富田信高。城兵はおよそ1,700人とも伝わる。対する西軍は、毛利秀元(もうりひでもと)らの軍勢を加えて、およそ3万に膨れ上がっていた。

8月24日から25日にかけて、毛利勢は津城方の首182を挙げた。一方で吉川広家の手勢だけでも、75人が討ち死にし、227人が傷を負った。首の数を書き上げた帳面と、死傷した者の書き上げが、今もそれぞれの家の文書に残っている。

数字の人である正家にとって、この数はどう映ったのだろう。兵糧の俵の数なら、帳面の上で増やしも減らしもできる。だが、討ち取られた首、倒れた兵の数は、二度と書き直すことができない。算盤の玉をはじいてきた指が、初めて人の命の重さを数えた夏だったのかもしれない。

二の丸、三の丸が落ち、城は追い詰められた。佐賀藩が後に編んだ記録によれば、和議を持ちかけたのは正家だったという。富田信高は降伏し、城を開いた。降伏の日を、この記録は8月25日とし、別の解説は26日に開城したとする。どちらが正しいのか、一日の違いは決めがたい。

ただ、最後に城方へ和を説いたのが正家だったという記録には、どこか腑に落ちるものがある。力で押し潰すより、条件を示して城を開かせる。勘定に明るい者の戦い方は、最後まで交渉の形をとったのではないか。開城した富田信高は、高野山へと去っていった。

南宮山の沈黙

伊勢での戦いを終えた西軍は、美濃へと向かう。そして9月15日、関ヶ原で東西両軍が激突した。

この日、正家がどこで何をしていたのか。実は、確かな史料でははっきりしない。岐阜県の観光案内などでは、正家は伊勢から美濃へ転じ、南宮山に陣を構えたものの、吉川広家に阻まれて戦いに加われず、領地の水口へ退いたと説明されている。南宮山の麓、今の垂井町には長束正家の陣跡とされる場所も伝わる。

南宮山には、毛利秀元を中心とする毛利勢が布陣していた。そしてこの毛利勢は、合戦のあいだ、ついに山を下りなかった。その最大の理由は、吉川広家が東軍の黒田長政(くろだながまさ)を通じて、ひそかに家康に内通していたことにある、と研究者の渡邊大門氏は解説している。もっとも、その解説の中に長束正家の名は出てこない。

だから、ここから先は、確かに言えることだけを並べるしかない。伊勢で肩を並べて城を攻めた吉川広家は、すでに家康の側に心を寄せていた。その広家を含む毛利勢が陣取った南宮山は、動かなかった。そして、南宮山の一角にいたとされる正家もまた、合戦の行方を左右する場面に姿を見せていない。

遠く西の方角から、鉄砲の音と鬨の声が風に乗って届いてきたかもしれない。前に出ようにも、前を塞ぐ味方が動かない。算盤で積み上げてきた見通しが、目の前で音もなく崩れていく。そのときの正家の胸の内を記した言葉は、何一つ残っていない。

たった一日で、天下の行方は決した。西軍は敗れ、南宮山の諸隊も、戦わぬまま山を下りることになる。

水口への帰路と最期

正家は、近江の水口へと戻ったと見られている。東海道を見下ろすあの山の上の城へ。

だが、その後の経緯は霧の中にある。事典の記述からして、すでに食い違っている。ある事典は敗れて所領に戻ったと書き、別の事典は池田輝政(いけだてるまさ)に攻められて自決したと書き、また別の辞書は西軍に属して戦死したとまとめる。

亡くなった日については、複数の事典が慶長5年(1600年)9月30日とする。関ヶ原の合戦から、わずか半月ののちである。ところが、その場所となると、近江の日野とする事典と、近江の桜井谷とする事典に分かれている。

城を開いて自ら命を絶ったとも語られるが、誰に攻められ、どのような約束があり、誰と共に最期を迎えたのか。伝わる話はいくつかあっても、確かな記録で確かめられるものはほとんどない。本人の書状も、辞世の歌も、今のところ見つかっていない。

一文の狂いもなく帳面をつけてきた人の最期が、日付も場所も、記録ごとに食い違っている。そのことに、言いようのない寂しさを覚える。正家が生涯かけて守ろうとした正確さを、歴史は彼自身には与えなかった。

正家の死後、水口を直接治めた家康は、水口岡山城を廃城とした。しかし皮肉なことに、城跡はその後、幕府や水口藩の手で守られ、明治以降も公の土地として受け継がれた。そのおかげで、山上の遺構は極めて良い状態で今に残っている。

古城山の頂に立てば、今も眼下を東海道の名残が通っているという。兵糧を数え、城を築き、家康の軍勢の米を手配し、そしてその家康に背いた男。数字の人として生き、最後に一度だけ、数字では割り切れない道を選んだ男。

長束正家が帳面に書き残した無数の数字は、ほとんどが失われた。けれども、彼が守ろうとしたものの重さは、山の上の石垣のように、今も静かにそこにある。

よろしければ他の方にもご紹介ください

ABOUTこの記事をかいた人

アバター画像

ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。