佐々成政とさらさら越え――白銀の山嶺を駆けた武将の覚悟

佐々成政

天正十二年、十二月。越中富山の空は鉛色に沈み、北風が容赦なく城下を叩いていた。富山城の奥座敷で、佐々成政(さっさなりまさ)はひとり、燭台の灯りに照らされた地図を見つめていた。地図には、越中から信州へと至る山越えの道筋が墨で引かれている。立山連峰の、あの白い壁のような峰々を、真冬に越える。常人であれば一笑に付す計画を、成政は本気で考えていた。

それは、ただの軍事行動ではなかった。佐々成政という男の全存在を賭けた、祈りにも似た決断だったのである。

信長の懐刀――黒母衣の若武者

佐々成政が歴史の表舞台に姿を現すのは、尾張国の小さな武家の子としてではない。織田信長という稀代の覇王に見出された瞬間からである。

成政の生まれは天文五年ごろ、尾張国比良の地と伝わる。佐々家は代々織田家に仕える譜代の家柄であったが、決して大身ではなかった。しかし若き成政には、生まれながらの戦場の嗅覚と、何ものにも屈しない芯の強さが備わっていた。

永禄年間、信長が尾張統一を果たし、天下への野望を露わにしはじめた頃、成政はその側近として頭角を現す。やがて彼は、信長が精鋭中の精鋭として選び抜いた親衛隊「黒母衣衆」の筆頭に任じられた。黒母衣衆とは、背中に黒い母衣をなびかせて戦場を駆ける信長直属の騎馬武者であり、その筆頭に選ばれるということは、信長が成政の武勇と忠義を誰よりも高く買っていた証にほかならない。

同じ頃、赤い母衣をなびかせる「赤母衣衆」の筆頭には、のちに成政と深い因縁を結ぶことになる前田利家が立っていた。黒と赤の二人の若武者は、互いに武功を競い合い、信長の天下布武を支える両翼となっていく。

成政はとりわけ鉄砲の扱いに長けていた。天正三年の長篠の戦いでは、鉄砲奉行として前田利家らとともに織田軍の鉄砲隊を指揮し、武田勝頼の騎馬軍団を撃破する。三千挺の轟音が設楽原の谷を震わせたあの日、成政は火薬の煙の中で、自らが信長の剣となり盾となる覚悟を新たにしたに違いない。

越中の守護者――荒廃した国を救う

天正八年、信長は北陸方面の軍団を編成し、その大将に柴田勝家を据えた。成政は前田利家、不破光治とともに勝家の与力として配属され、越前府中に入る。世にいう「府中三人衆」である。三者はそれぞれの持ち味を発揮しながら、一向一揆の残党や上杉勢と戦い、北陸の平定に血を流した。

やがて天正九年、信長の信任を得た成政は越中一国を任される。富山城に入った成政が見たものは、長年の戦乱と一揆によって荒れ果てた大地だった。田畑は放棄され、堤は決壊し、常願寺川は暴れ川として領民の暮らしを脅かしていた。

成政はまず治水に取り組んだ。常願寺川に堤防を築き、いたち川の流路を整え、農地への水害を防ぐ工事を指揮した。後に「佐々堤」「済民堤」と呼ばれるこの堤防は、成政が越中の民に残した最大の遺産となる。成政は富山城を「安住城」と呼び改め、民が安んじて暮らせる国づくりを志した。戦場でこそ猛々しい武人であったが、治世においては驚くほど繊細で、民の声に耳を傾ける領主であったのだ。

越中の民は、この武骨で不器用な領主を心から慕った。のちにこの地を去ることになったとき、成政を惜しむ声は絶えなかったという。

本能寺の炎、そして亀裂

天正十年六月二日、本能寺の変。信長横死の報は、越中の成政にも衝撃をもって届いた。主君を失った成政にとって、この日から世界は一変する。

信長亡き後、織田家中は分裂した。清洲会議で実権を握ったのは羽柴秀吉であり、成政が長年ともに戦ってきた柴田勝家は次第に追い詰められていく。天正十一年、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗れ、北ノ庄城で自害した。

この時、成政はなぜ勝家の救援に間に合わなかったのか。越中から北陸路を急いだものの、上杉景勝の攻勢に阻まれ、越中の防衛から動くことができなかったのである。かつて「府中三人衆」として肩を並べた前田利家は、賤ヶ岳の戦いの最中に柴田軍から離脱し、秀吉側に寝返っていた。成政にとって、それは裏切り以外の何ものでもなかった。

利家への怒りは、しかし、もっと深い感情と絡み合っていた。信長に忠実であるということは、信長の遺志を守ることだと成政は信じていた。秀吉が織田家をないがしろにして天下を簒奪しようとしているのなら、それに抗うことこそ武士の道である。成政の眼には、秀吉になびいた利家も、時勢に迎合した他の武将たちも、信長への忠義を捨てた者に映ったに違いない。

末森城の決戦――利家との訣別

天正十二年、小牧・長久手の戦いが勃発した。織田信雄(おだのぶかつ)と徳川家康が秀吉に対抗して挙兵したこの戦いに、成政は呼応する。秀吉包囲網の一角を担おうとしたのだ。

成政は、前田利家の領地である加賀と能登を分断するため、能登の末森城を急襲した。末森城は小さな山城であったが、ここを落とせば利家の背後を突くことができる。成政は精鋭を率いて猛攻をかけ、末森城は陥落寸前まで追い込まれた。

しかし、前田利家自らが率いる援軍が駆けつけ、激戦の末に成政軍は退却を余儀なくされる。末森城の攻防は、かつて黒と赤の母衣をなびかせて信長のもとで戦功を競い合った二人の決定的な決別であった。

この敗北ののち、成政の周囲はいよいよ暗くなっていく。秀吉の勢力は北陸にも及び、上杉景勝は越後から圧力をかけ、利家は加賀・能登から越中をうかがう。四方を敵に囲まれた成政に残された選択肢は、わずかだった。

白銀の壁を越えて――さらさら越え

十二月。越中には深い雪が降り積もっていた。

成政が決断したのは、徳川家康のもとへ直接赴き、再挙兵を説得することだった。しかし北陸路は敵の領地に塞がれている。東の越後も上杉の支配下にある。残された道は一つ。立山連峰を越え、信州を経て遠江の浜松に至るという、常識では考えられない山越えの道であった。

天正十二年十一月末、成政は百名ほどの家臣を連れて富山城を出発した。常願寺川をさかのぼり、まずは立山温泉を目指す。案内に立ったのは、立山信仰の修験道場として知られる芦峅寺の山伏たちだった。彼らは厳冬の山を知り尽くした者たちであり、成政はその知識と技術に一行の命を託した。

立山温泉から先は、人の住む世界が終わる場所であった。標高二千三百メートルを超えるザラ峠は、夏でさえ険しい岩場が続く難所である。それが今は、数メートルの積雪と吹き荒れる烈風に覆われている。一歩ごとに膝まで沈む雪の中を、一行は這うように進んだ。

「矢玉繁き所に立つよりは、はるかに易き道なるぞ」

成政がそう叫んで家臣たちを鼓舞したと伝えられる。戦場の弾雨よりもましだと言い切るその声に、凍えた体を引きずる家臣たちは、なおも主君の背中を追い続けた。

だが、山は容赦なかった。凍傷で指を失う者、雪崩に巻き込まれて命を落とす者が相次いだ。一行の人数は日を追うごとに減っていく。それでも成政は足を止めなかった。止まれば死ぬ。しかしそれ以上に、止まれば信長への忠義が、越中の民への責任が、すべてがついえてしまうのだ。

ザラ峠を越えると、眼前に広がったのは五色ヶ原の白い平原であった。晴れ間がのぞいた瞬間、北アルプスの峰々が朝陽に染まり、その荘厳な美しさに一行は息をのんだという。しかし感慨に浸る間もなく、次なる難関が待っていた。黒部川の深い谷を渡り、さらに標高二千五百メートルの針ノ木峠を越えなければならない。

芦峅寺の案内人たちは、この道中で「大姥尊像」と呼ばれる守り仏を背負っていたと伝わる。山中で方角を見失ったとき、一羽の鳩が現れて一行を正しい道へ導いた。そしてその鳩が止まった峰は、後に「鳩峰」と呼ばれるようになったという。伝説か史実かは定かでない。しかしこの物語は、極限の中にあってなお天に祈りを捧げ、人知を超えた何かに導かれようとした人々の切実な心を映し出している。

針ノ木峠を越え、信州大町の里に降り立ったとき、成政の一行は出発時の半数にも満たなかったとされる。生き延びた者たちは、互いの無事を確認し合い、声もなく涙を流したであろう。

成政はそこから松本を経て、さらに南下し、ついに十二月二十五日、浜松に到着した。富山を出発してから、およそ一か月。厳冬の日本列島を縦断するという前代未聞の行軍は、こうして成し遂げられた。

万事、すでに決す

浜松城で成政を迎えた徳川家康は、この決死の来訪に深い感銘を受けたという。しかし、家康が成政に告げたのは、成政が望んでいた言葉ではなかった。

実は成政がザラ峠と格闘している間に、情勢は大きく動いていた。十一月十一日、織田信雄が秀吉と単独で和睦を結んでいたのである。信雄との同盟を大義名分としていた家康にとって、もはや秀吉と戦う理由は失われていた。

成政が命をかけて越えた白銀の山々。その険路のすべてが、すでに意味を失っていた。万事は、決していたのだ。

成政の胸中を、いかなる言葉で表すことができるだろう。凍傷に苦しむ手足、雪崩で失った家臣たちの顔、芦峅寺の案内人たちの献身。そのすべてが、水泡に帰した。しかし成政は、家康の前で取り乱すことはなかったと伝えられる。武人として、ただうなずき、富山への帰路についた。

帰りの道もまた、同じ峰々を越えなければならなかった。往路で失った仲間のなきがらが、雪の下に眠っているかもしれない道を。成政は何を思いながら、その雪を踏みしめたのだろうか。

越中との別れ、肥後への道

富山に戻った成政を待っていたのは、さらなる苦境であった。天正十三年、秀吉は十万ともいわれる大軍を率いて越中に侵攻する。「富山の役」と呼ばれるこの戦いで、成政はもはや抗するすべを持たなかった。

成政は秀吉に降伏した。かつて信長の黒母衣衆筆頭として天下に武名をとどろかせた男が、剃髪して頭を丸め、秀吉の前に膝を折った。越中の領地は召し上げられ、成政は一介の御伽衆として秀吉のもとに置かれることとなった。

だが、運命は成政に最後の試練を用意していた。天正十五年、九州征伐の功により、秀吉は成政に肥後一国を与える。越中に匹敵する大国であり、秀吉なりの温情だったのかもしれない。しかし肥後は、薩摩の島津氏の影響が色濃く残り、強固な国人衆がひしめく難治の地であった。

秀吉は成政に「検地は急ぐな」と忠告したとも伝えられる。しかし成政は、越中での成功体験があった。荒れた土地を治水と善政で立て直した経験が、肥後でも通じると信じたのだろう。成政は着任早々、検地を強行した。

結果は、壊滅的だった。肥後の国人衆が一斉に蜂起し、大規模な「肥後国衆一揆」が発生した。成政は自力で鎮圧を試みるが果たせず、周辺大名の援軍を仰いでようやく事態を収拾する。この失態は、秀吉の逆鱗に触れた。

天正十六年、成政は大坂に召還される。秀吉への弁明を試みるが、面会すら許されなかった。摂津国尼崎の法園寺において、成政は切腹を命じられる。

最期の瞬間、成政が何を思ったかを知る者はいない。信長への忠義を貫こうとした日々か。越中の民が堤のほとりで微笑む光景か。あるいは、あの厳冬の立山連峰で、白い息を吐きながら一歩一歩雪を踏みしめた、あの道の記憶であったか。

さらさら越えが語り継ぐもの

佐々成政の「さらさら越え」は、四百年以上を経た今なお、北アルプスの山々に伝説として息づいている。現代の登山技術と装備をもってしても、厳冬期の立山連峰縦走は極めて困難な行為である。戦国時代の装備で、わずかな案内人と家臣たちだけで、成政はそれを成し遂げた。

しかも、その壮挙は報われなかった。家康からの援軍は得られず、越中は失われ、最後は切腹という結末を迎える。客観的に見れば、さらさら越えは無謀な賭けであり、結果として無駄だったと言えるかもしれない。

だが、それでもなお、人はこの物語に心を動かされる。

なぜなら、佐々成政は「報われなくてもよい」と覚悟の上で雪山に挑んだのではないからだ。彼は本気で信じていたのである。家康を説得できれば、秀吉の横暴を止められる。越中の民を守れる。信長が目指した天下の秩序を取り戻せる。その信念があったからこそ、極寒の山嶺を越えられた。

結果は伴わなかった。しかし、信念を持って行動し、全身全霊をもって道を切り開こうとしたその姿は、時代を超えて人の胸を打つ。富山の人々が今も成政の名を語り、佐々堤のほとりで成政の遺徳をしのぶのは、彼が越中の地と民を心から愛した領主であったからだ。

立山連峰の峰々は、今日も白い雪をまとって越中の空にそびえている。あの厳冬の日、その白銀の壁に挑んだ男がいた。彼の名は佐々成政。報われぬ忠義を抱き、凍える手で雪をかき分け、ただ前だけを見つめて歩き続けた武将の物語は、北アルプスの風とともに、これからも語り継がれていくだろう。

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ウェブプロデューサー、ディレクター。このサイトの企画・運営をしてます。戦争もの、戦国が大好きです。軍師や戦略などが好きなので、智謀の武将「毛利元就」がお気に入り。武将たちそれぞれの人間ドラマがあるところに歴史の魅力とロマンを感じます。個人ブログ「プライマリーテキスト」でITやサイト運営ネタを書いてます。