片桐且元は無能だったのか――豊臣を守ろうとして砕けた、最後の忠臣の真実

片桐且元

近江の山あいに生まれた一人の男が、やがて天下人の懐刀となり、その遺児を託され、そして最後には「無能」の烙印を押されて城を追われた。片桐且元。賤ヶ岳七本槍に数えられた武勇の持ち主でありながら、後世に伝わるその像は、どこか頼りなく、どこか不器用で、時代の奔流に翻弄された小人物のように語られることが少なくない。

だが、果たしてこの男は本当に無能だったのだろうか。

歴史の敗者に貼られた符牒を一枚ずつ剥がしてゆくと、そこに浮かび上がるのは、誰よりも豊臣家を愛し、誰よりもその存続に命を懸け、そして誰よりも深い孤独の中で朽ちていった一人の忠義者の姿である。

須賀谷の子、秀吉に見出される

弘治二年(一五五六年)、片桐且元は近江国浅井郡須賀谷に産声を上げた。父・片桐直貞は浅井氏に仕える国人領主であり、片桐家はもともと信濃源氏の支族、鎌倉御家人に連なる由緒ある血筋を持っていた。しかし、その支流が近江に移り住んで久しく、且元が生まれた頃には地方の小豪族に過ぎなかった。

近江という土地は、琵琶湖を中心に水運と街道が交差する戦略の要衝であった。戦国の世にあって、この地に生きる者は否応なく大名たちの争いに巻き込まれる宿命を背負っていた。且元の少年時代は、主家である浅井長政が織田信長と同盟を結び、やがてそれを破り、そして滅びゆく激動の渦中にあった。

天正元年(一五七三年)、浅井氏は織田信長によって滅ぼされた。このとき且元は十七歳。主家を失った若者は、弟の貞隆とともに、北近江を新たに支配することとなった羽柴秀吉のもとに身を寄せた。小姓として仕え始めたこの出逢いが、且元の生涯を決定づけることになる。

秀吉は人を見る目に長けた男であった。百姓の子から天下人へと駆け上がるその過程で、彼は無数の人材を見出し、適材適所に配した。且元もまた、秀吉の慧眼によって見出された一人であった。若き且元がどのような才覚を見せたのか、詳細な記録は乏しい。だが、やがて訪れる賤ヶ岳の合戦において、この無名の若武者が天下にその名を轟かせることになる。

血槍の栄光――賤ヶ岳七本槍の真実

天正十一年(一五八三年)四月、近江国賤ヶ岳。秀吉と柴田勝家の天下分け目の決戦が、この険しい山地で繰り広げられた。

この戦いで且元は、敵陣への突撃において目覚ましい武功を挙げた。後にその活躍は、福島正則、加藤清正、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元、平野長泰、加藤嘉明の七人をもって「賤ヶ岳の七本槍」と称えられ、戦国史に刻まれることとなった。

この戦功により、且元には摂津国内に三千石が与えられた。二十七歳の若武者にとって、それは華々しい出世の第一歩であった。

しかし、ここで注目すべきは、「七本槍」という顕彰それ自体の性質である。この称号は、秀吉が自らの勝利を喧伝するために、若い家臣たちの武功を意図的に顕彰した側面が強い。実際の合戦で最も功績があったのは別の武将たちであったという指摘もあり、七本槍の栄誉は、秀吉による「英雄の創造」としての色合いを持っていた。

とはいえ、且元が槍を振るい、血を流し、戦場で命を賭したこと自体は疑いようがない。後に「無能」と嘲られることになるこの男が、かつては最前線で敵に切り込む猛者であったという事実は、彼の人物像を考える上で忘れてはならない一面である。

槍を置き、筆を取った男

賤ヶ岳以後、且元の活躍の舞台は戦場から政務へと移ってゆく。秀吉が天下統一事業を推し進める中で、且元は検地奉行、作事奉行として、各地の街道整備や兵站管理、寺社の造営といった膨大な実務を一手に引き受けた。

これは、秀吉が且元の本質を見抜いていた証左にほかならない。武勇で名を馳せた七本槍の面々の中で、且元だけが戦場の功から離れ、政務の世界へと転じた。福島正則が猛将として名を上げ、加藤清正が築城の名手として知られるようになる中で、且元はひたすら帳面と向き合い、算盤を弾き、人を動かし、物を運んだ。

地味な仕事であった。華やかさとは無縁の、しかし政権運営には不可欠な仕事であった。

且元が茨木城主に任ぜられ、摂津国茨木に一万石を与えられたのもこの時期のことである。茶の湯にも親しみ、利休の高弟に学んだという記録もある。武の世界から文の世界へ、且元は静かに、しかし着実にその領分を広げていった。

やがて秀吉の晩年、且元は豊臣秀頼の傅役に任ぜられる。太閤が最も信頼する家臣の一人として、幼き嫡子の未来を託されたのである。このとき且元はまだ知らなかった。この重責が、やがて自らの命を削る鎖となることを。

秀吉亡き後の暗雲――豊臣家の柱として

慶長三年(一五九八年)八月、太閤秀吉が伏見城にて没した。享年六十二。天下人の死は、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権に深い亀裂をもたらした。

秀頼はわずか六歳であった。幼い主君を支えるべき家臣団は、武断派と文治派に分裂し、やがてそれは関ヶ原の戦いへと繋がってゆく。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原において、豊臣政権は事実上崩壊した。徳川家康が天下の実権を握り、豊臣家は摂津・河内・和泉の六十五万石を領するのみの一大名へと転落した。

この激変の中で、且元は豊臣家の家老として、徳川と豊臣の間に立つ調停者の役割を担い続けた。大坂城の中で秀頼と淀殿を補佐し、同時に駿府の家康との外交窓口として、両家の平和的共存を模索した。

しかし、それは到底一人の人間が背負えるような荷ではなかった。

徳川家康は、豊臣家を完全に服従させるか、さもなくば滅ぼすかの二択を既に心に決めていた。一方、大坂城内の淀殿や大野治長ら主戦派は、豊臣家の誇りと威信を守ることに固執し、家康への妥協を許さなかった。且元は、和解を望む自らの信念と、両陣営の強硬な姿勢との間で、日々すり減っていった。

後世の人間が且元を「無能」と呼ぶとき、その多くはこの時期の彼の対応を指している。だが、冷静に考えてみれば、徳川の権謀術数と豊臣の面子、その両方を満たす解など、この世に存在しなかったのである。

国家安康の罠――方広寺鐘銘事件の深淵

慶長十九年(一六一四年)、運命の歯車が最後の回転を始めた。

豊臣秀頼は、亡き秀吉の遺志を継ぎ、京都の方広寺大仏殿の再建を進めていた。且元はこの大事業の総奉行として、設計から施工、そして完成に至るまでの全工程を統括した。それは彼の実務家としての真骨頂を発揮する仕事であった。

ところが、いよいよ完成を迎えた大仏殿に奉納される梵鐘の銘文が、思わぬ火種となった。銘文に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の八文字。家康はこれを取り上げ、「国家安康は家康の名を分断して呪詛するものであり、君臣豊楽は豊臣を君として楽しむと読める」と主張した。

言いがかりであった。少なくとも、銘文を起草した禅僧・清韓には、そのような意図はなかった。しかし、家康にとってはそれで十分だった。豊臣家を追い詰めるための口実が、ようやく手に入ったのである。

且元は直ちに駿府へ赴き、家康との交渉に臨んだ。だが、家康は且元を冷遇した。対面の機会を与えず、待たせ続けた。一方で、淀殿の乳母である大蔵卿局が別途使者として駿府を訪れた際には、家康は打って変わって丁重に応対した。

これは家康の深謀遠慮であった。有能な且元を冷遇し、政治に疎い大蔵卿局を厚遇することで、大坂城内に「且元は無能だが、大蔵卿局は家康から信頼されている」という印象を植え付ける。古代中国の兵法にある「敵の有能な使者は冷遇し、無能な使者は優遇せよ。そうすれば無能な者が重用され、敵国は自ずと衰える」という謀略の、まさに教科書通りの実践であった。

且元が駿府から持ち帰ったのは、家康から突きつけられた三箇条の要求であった。

一、秀頼が人質として江戸へ下ること。

二、淀殿が人質として江戸へ下ること。

三、秀頼が大坂を離れ、他国へ国替えに応じること。

いずれも豊臣家の事実上の降伏を意味する、苛烈な条件であった。

大蔵卿局との暗闘――城内で孤立する忠義の家老

且元がこの三箇条を大坂城に持ち帰り、秀頼と淀殿に報告したとき、城内は騒然となった。

淀殿は激怒した。大蔵卿局は「家康様は私に対してはあのように優しく接してくださったのに、且元殿が交渉を台無しにしたに違いない」と声を上げた。大野治長ら側近たちも且元を糾弾した。「且元は徳川に通じている」「裏切り者だ」という声が、城内に渦巻いた。

且元は弁明した。家康の真意を、その恐るべき謀略の構造を、懸命に説いた。だが、聞き入れる者はいなかった。権力の中枢にいた淀殿と大蔵卿局にとって、且元の言葉は自分たちの判断の誤りを突きつけられることと同義であり、それは受け入れがたいものであった。

ここに、且元の悲劇の本質がある。

彼は有能であった。家康の狙いを正確に見抜いていた。豊臣家が生き残るためには、屈辱的であっても一時の妥協を受け入れ、時を稼ぐしかないことを理解していた。だが、その「正しさ」こそが、彼を孤立させた。正論は、追い詰められた者にとって最も残酷な刃となる。

且元の周囲には、もはや味方と呼べる者はいなかった。城内では暗殺の噂すら囁かれ始めた。大野治長が且元を討つべしと進言したという記録もある。

かつて賤ヶ岳で槍を振るい、太閤の天下統一を支え、幼き秀頼を膝に抱いた男が、いまや城内の反逆者として追い詰められていた。

追放の朝、大坂城を去る

慶長十九年(一六一四年)十月一日の朝。

片桐且元は、大坂城を退去した。

正確に言えば、追放されたのである。三十年以上にわたって仕えた豊臣家から、裏切り者の汚名を着せられ、命の危険を感じての脱出であった。且元は自らの居城である茨木城へと引き籠った。

この退去の報せを受けた徳川家康は、待っていたとばかりに宣言した。「片桐且元は豊臣家の取次役であった。その且元を追放したということは、豊臣家が徳川との外交関係を断絶したことを意味する。これは宣戦布告に等しい」と。

且元の退去が、大坂冬の陣の開戦の直接的な引き金となったのである。

皮肉としか言いようがない。豊臣家を守るために奔走した男が城を追われ、その追放が豊臣家滅亡への最後の扉を開いた。且元が城に留まっていれば、あるいは戦は避けられたかもしれない。だが、城に留まれば且元は殺されていただろう。どちらを選んでも、結末は同じであった。

家康がこの構図を最初から設計していたとすれば、その政治的手腕は恐るべきものである。且元を冷遇し、大蔵卿局を優遇することで豊臣家内部の分断を誘い、最も有能な家臣を追放させ、それを開戦の口実とする。且元は、家康という巨大な謀略の歯車の中に組み込まれた、一つの駒に過ぎなかったのかもしれない。

だが、それでも且元は最後まで豊臣家のために動こうとした。茨木城に退去した後も、大坂冬の陣において彼は徳川方の先鋒として戦場に立った。それは裏切りではなく、戦の早期終結を図ることで、秀頼と淀殿の命だけは救おうという、最後の望みを賭した行動であったと解釈する歴史家もいる。

三七日の死――豊臣滅亡に殉じた魂

慶長二十年(一六一五年)五月八日、大坂夏の陣にて大坂城は陥落した。秀頼と淀殿は炎の中で自害。豊臣家は滅亡した。

その報せを受けた且元の胸中を、いったい誰が推し量ることができるだろうか。

三十年以上にわたって仕えた主家が滅びた。自分が守ろうとしたものが、すべて灰燼に帰した。もし自分があのとき違う言葉を選んでいれば。もし自分がもっと巧みに立ち回れていれば。もし自分が城を出なければ。そうした問いが、老いた且元の心を、鋭い氷のように貫いたに違いない。

大坂城陥落からわずか二十日後の五月二十八日、片桐且元は京都の自邸において世を去った。享年六十。

記録上の死因は「病死」とされている。だが、あまりにも出来すぎたその時期に、後世の人々は疑念を抱いた。豊臣滅亡の三七日(二十一日目)に死すとは、あまりにも符号が合いすぎる。古来、三七日は死者の魂が次の世に旅立つ節目とされた。且元は、主家の魂を見届けてから、自らも旅立ったのではないか。

「病死を装った追腹ではないか」という声は、徳川家臣団の中からも上がった。殉死説は、且元の死後まもなくからまことしやかに囁かれ、今日に至るまで決着を見ていない。

真実がどちらであったにせよ、一つだけ確かなことがある。片桐且元は、豊臣家を最後まで愛していた。その愛し方が不器用で、報われず、周囲に理解されなかっただけである。

「無能」という言葉は、勝者が敗者に貼る最も安易な符牒である。だが、徳川家康という戦国最高の政治家を相手に、一介の調停者が完璧な解を導き出せなかったことを、果たして「無能」と呼ぶことが正当であろうか。

片桐且元は、無能ではなかった。ただ、有能であるがゆえに正しいことを言い、正しいがゆえに疎まれ、疎まれたがゆえに城を追われ、城を追われたがゆえに主家の滅亡を止められなかった。彼の悲劇は、能力の欠如から生まれたのではない。あまりにも巨大な時代の力の前に、一人の誠実な人間が為し得ることの限界から生まれたのである。

須賀谷に生まれ、賤ヶ岳で名を上げ、太閤の天下を支え、秀頼に仕え、そして最後は大坂城の炎を遠くから見つめて死んでいった男。片桐且元の生涯は、忠義とは何か、有能とは何か、そして無能とは何かを、四百年の時を超えて我々に問いかけている。

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