織田信秀(おだのぶひで)と家臣団――銭の覇者が遺した天下への礎

織田信秀

尾張の虎。その異名で呼ばれた男の生涯は、血と黄金に彩られていた。織田信秀。天下人・織田信長の父として語られることの多いこの武将は、しかしただの「偉大な父親」ではなかった。守護代の家臣という低い身分から身を起こし、銭の力で家臣団を鍛え上げ、朝廷をも動かし、東海の雄・今川義元や美濃の蝮・斎藤道三と死力を尽くして渡り合った。彼が四十余年の短い生涯で築き上げたものは、そのまま息子が天下に手を伸ばすための巨大な土台となった。その土台のうえで最も輝いていたのが、信秀が生涯をかけて育て上げた家臣団の存在であった。

銭の覇者、勝幡から立つ

戦国の世にあって、織田弾正忠家の出自は決して華やかなものではなかった。室町幕府が任じた尾張守護は斯波氏であり、その下で実権を握る守護代として織田大和守家と織田伊勢守家が南北の尾張を分け合っていた。信秀の生家はその守護代・織田大和守家にさらに仕える「清洲三奉行」の一つに過ぎない。いわば家臣の家臣であり、本来ならば歴史の表舞台に立つはずのない存在であった。

その弾正忠家が尾張の覇者へと躍り出た理由は、一にも二にも「銭」であった。

信秀の父・織田信定の代に、伊勢湾に面し木曽川の水運で栄える港町・津島を支配下に置いた。津島は全国から参詣者が押し寄せる津島神社の門前町でもあり、廻船が行き交う一大商業拠点として莫大な富を生み出していた。そして信秀の代になると、東海道の要衝であり熱田神宮の門前町として栄える熱田をも手中に収める。伊勢湾の潮風と、行き交う廻船が運ぶ木材や絹織物の匂いが混ざり合う港には関所がなく、豪商たちが巨額の銭貨をやり取りしていた。その流通のすべてを握る弾正忠家の威勢は、主家の清洲織田氏をすでに凌いでいた。

この潤沢な資金力が、信秀の家臣団を根本から変質させた。当時の戦国大名の多くは、半農半士の国衆に軍役を課す形で兵を集めていた。田植えや収穫の時期には戦ができない。だが信秀は違った。豊かな商業収入を背景に、常備軍的な性格を持つ直臣団を養うことができたのである。

林秀貞、平手政秀(ひらてまさひで)、青山与三右衛門、内藤勝介。この四人は、のちに信秀が嫡男・信長に那古野城を与えた際に付けられた「四家老」として知られるが、彼らはもともと信秀が手塩にかけて育てた家臣団の中核であった。筆頭家老の林秀貞は内政に通じ、平手政秀は京都の公家たちとの外交折衝を一手に引き受けた。青山与三右衛門は前線の指揮官として合戦の先陣を切り、内藤勝介は信長の身辺警護を任された。そして、のちに「鬼柴田」と呼ばれることになる柴田勝家もまた、信秀の代から織田家に仕えた譜代の武将であった。

彼ら一人ひとりに与えられた役割は明確であり、その配置には信秀の冷徹な計算が貫かれていた。武辺者には戦場を、教養人には外交を、忠実な者には嫡男の守護を。銭の力で集め、銭の力で養い、そして適材適所に配する。その手法は、のちに信長が実力本位の人材登用で天下を席巻する原型そのものであった。

「器用の仁」が抱いた矜持(きょうじ)

太田牛一(おおたぎゅういち)が著した『信長公記』は、信秀を「取分け器用の仁」と評している。ひときわ優れた器量人という賛辞である。この評価は、信秀が単なる武辺者ではなく、京の公卿をも唸らせる文化人であったことを物語っている。

天文二年(一五三三年)七月、信秀は京都から蹴鞠の宗家である飛鳥井雅綱と、公卿の山科言継(やましなときつぐ)を本拠の勝幡城に招いた。山科言継の日記『言継卿記』には、そのときの情景が生々しく記されている。信秀や平手政秀らが公家衆と連日のように蹴鞠の会を催し、信秀自らが切麺を振る舞って酒宴を開いた。言継は信秀の教養の深さと、平手政秀の邸宅の見事さに感嘆の筆を走らせている。

この文化交流は単なる趣味の域を超えていた。信秀にとって、公家衆との親交は朝廷に対する政治的な投資であった。天文十年(一五四一年)には伊勢神宮の式年遷宮のために七百貫文と材木を献上し、天文十二年(一五四三年)には内裏の築地修理費として四千貫文という途方もない額を朝廷に献金している。室町幕府ですら資金難に喘いでいた時代に、尾張の一武将がこれだけの金を京へ送ったのである。朝廷は驚き、そして感謝した。

この献金は、弾正忠家の家格を一気に引き上げた。形式上の主家である清洲織田氏を差し置いて、信秀は朝廷から直接の感謝と信頼を得る存在になったのである。公家との蹴鞠も、神宮への献金も、すべては「銭の力」を「権威の力」に変換する信秀の壮大な戦略であった。

そして、その戦略のすべてを現場で支えていたのが、外交の達人・平手政秀であった。政秀は単なる傅役ではない。信秀が最も信頼を置いた盟友であり、弾正忠家の「顔」として京の公家衆と渡り合う外交官であった。蹴鞠に通じ、和歌を嗜み、武辺の世にあって文化の力を武器に変えることのできる稀有な男。信秀と政秀の間には、主従というよりも、同じ志を分かち合う戦友としての絆があった。

木曽川を染めた落日

だが、銭と教養だけでは天下は取れない。信秀の前には、二人の巨大な敵が立ちはだかっていた。西の美濃に君臨する斎藤道三と、東の三河から圧力をかける今川義元である。

信秀の人生における最大の挫折は、美濃侵攻の末に起きた加納口の戦いであった。

尾張国中に動員をかけた信秀は、大軍を率いて美濃に侵入し、道三の居城・稲葉山城の山麓にまで迫った。方々に火を放ち、町口まで攻め入った信秀の軍勢は、その日の戦果に満足していた。申の刻、すなわち午後四時頃。夕暮れが近づくなか、信秀は陣を引き払うことを決めた。

その一瞬の油断を、蝮と呼ばれた男は見逃さなかった。

軍勢の半分が退いたところで、斎藤道三は稲葉山城から一気に兵を繰り出した。退却途中の織田軍は完全に不意を突かれ、隊列は崩壊した。逃げ場を失った兵士たちは木曽川の冷たい激流に飲み込まれ、道三方の記録によれば、二千から三千人が溺れ死んだという。信秀の弟・織田信康、信長付きの家老であった青山信昌、さらには熱田神宮の宮司・千秋季光まで含む約五千人の将兵がこの一戦で命を落とした。

木曽川の岸辺は織田兵の屍で埋め尽くされた。その地獄絵図のなかを、信秀はわずか数人の供回りだけを連れ、泥にまみれて駆け抜けた。

連歌師の谷宗牧が記した『東国紀行』には、この大敗の直後、天文十三年十月に那古野城を訪ねた宗牧が、傷つき憔悴した信秀と対面した記録が残されている。手塩にかけて育て上げた家臣団の精鋭たち、そして血を分けた弟を、たった一度の油断で失った。その悔恨が、尾張の虎の牙を深く折ったのである。

虎、牙を折られてなお

だが、信秀は折れなかった。「器用の仁」と呼ばれた男の真骨頂は、まさにこの挫折からの立ち直りにあった。

武力による美濃制圧が不可能であることを悟った信秀は、発想を根本から転換した。力で勝てぬ相手ならば、外交で懐に飛び込む。信秀は最も信頼する家老・平手政秀に命じ、かつての宿敵・斎藤道三との和睦交渉を開始させた。

戦場で何千もの兵を倒し合った者同士が、いかにして和解の道を探るか。その困難な交渉を、政秀はひとつひとつ丁寧に解きほぐしていった。蹴鞠と和歌で鍛え上げた交渉術が、このときほど輝いた局面はなかったであろう。

そして信秀は、一つの重大な決断を下す。嫡男・信長と、道三の娘・帰蝶を婚姻させるのである。

弟を殺した男の娘を、我が子の妻に迎える。その決断にどれほどの愛憎が渦巻いていたか、想像に難くない。加納口の戦場で木曽川に沈んだ兵たちの無念を思えば、道三と手を結ぶことは裏切りにも等しい。だが信秀は、私情を飲み込んだ。美濃国境の安定こそが弾正忠家の生存に不可欠であり、それは同時に東の今川義元に全力で対峙するための布石でもあった。

結果として、この政略結婚こそが歴史を動かした。信秀の死後、背後の美濃が安全であったからこそ、信長は桶狭間の戦いにおいて全軍を今川義元一点に集中させることができたのである。父が命懸けで結んだ和睦が、息子の天下取りの最初の一手を可能にした。

東の巨影、今川義元との死闘

美濃で手痛い敗北を喫した信秀は、東の三河方面でも強敵と激突し続けていた。駿河・遠江・三河に跨る大国・今川との戦いは、信秀の生涯を通じて最も長く、最も消耗する闘争であった。

天文九年(一五四〇年)、信秀は松平氏の重要拠点である安祥城を奪取し、庶長子の織田信広を城主に据えた。三河への足がかりを確保したのである。この大胆な進出に対し、今川義元は激しく反発した。

両軍が直接激突した代表的な合戦が、三河国小豆坂で繰り広げられた「小豆坂の戦い」である。この戦いで信秀の家臣団は、その精強さを遺憾なく発揮した。とりわけ信秀の弟・織田信光の奮戦はすさまじいものがあった。

『信長公記』は信光を「一段の武功者なり」と称えている。信光は岡田重善、織田信房、下方貞清、佐々政次らとともに「小豆坂七本槍」と呼ばれる武名を天下に轟かせ、押し寄せる今川軍に幾度も槍を突き入れて押し返した。信秀が銭の力で養い、実戦で鍛え上げた家臣団の勇猛さが、最も鮮烈に輝いた瞬間であった。

しかし、戦場での勝利は長期的な地政学の前に色褪せた。今川義元は駿河と遠江の圧倒的な国力を背景に、太原雪斎(たいげんせっさい)の軍略を得て着実に三河を少しずつ奪っていった。天文十八年(一五四九年)、今川軍の猛攻により安祥城は陥落し、城主であった信秀の庶長子・織田信広は捕虜となった。信広は、織田家が人質として預かっていた松平竹千代、すなわちのちの徳川家康と交換される形で帰還することになる。

西の美濃で大敗し、東の三河では今川に足場を奪われる。二正面作戦の限界が、信秀の肉体と精神を急速に蝕んでいった。だが、それでもなお信秀は三河からの撤退を完全には受け入れなかった。最前線の安祥城を失ってなお、弟の信光を守山城に置いて三河国衆とのつながりを維持させ続けた。信光の妻は松平信定の娘であり、松平一族とのこの姻戚関係もまた、信秀が仕掛けた外交の網の目の一つであった。

遺された城と、遺された者たち

晩年の信秀は、末森城へと居を移した。古渡城を破却し、東方約五キロの標高四十四メートルの丘陵に築いたこの城は、単なる隠居城ではない。三河方面からの今川軍の侵攻に備える防衛拠点であり、同時に東方への出撃基地としての戦略的な意図が込められていた。病を押してなお、信秀の目は東を向いていたのである。

だが、その身体はもはや限界を迎えていた。信秀が最も苦悩したのは、合戦でも外交でもなく、自らの死後に訪れるであろう家督争いの影であった。

嫡男の信長には、那古野城と四家老を与えて早くから当主としての権限を移譲していた。一方で、末森城に同居する次男の信勝にも一定の統治権を認めていた。信長派の家臣、信勝派の家臣。弾正忠家の家臣団は、信秀の存命中からすでに二つの陣営に分かれつつあったのである。

筆頭家老の林秀貞は、のちに信勝を擁立する側に回ることになる。柴田勝家もまた、最初は信勝の家老として仕えた。信秀がこの分裂の兆しに気づいていなかったはずがない。にもかかわらず、信勝への権限分散を止めなかったのは、信長の苛烈すぎる性格が家中の均衡を崩すことを恐れたためだとも言われる。嫡男の才を認めつつも、その制御しがたい激しさに一抹の不安を覚えていた。それは、息子の天才を誰よりも間近で見ていた父だからこその、切実な葛藤であったに違いない。

そして天文二十一年(一五五二年)三月三日、織田信秀は末森城で息を引き取った。『大雲和尚語録』の法語には「突然として一朝災疫にかかった」とあり、長年の闘病というよりは脳卒中のような急病に突然倒れた可能性が指摘されている。享年四十一、あるいは四十二。尾張の虎は、まだ戦い足りぬまま、その生涯を閉じた。

信秀の死は、彼が最も恐れていた事態を現実のものとした。主家の清洲織田氏は「大うつけ」と噂される信長を侮り、露骨に弾正忠家の排除に動き出す。家臣団は信長派と信勝派に分裂し、やがて兄弟は骨肉の争いに突入していくことになる。だが、その嵐を乗り越える力もまた、信秀が遺したものの中にあった。弟の信光は信長を一貫して支持し、清洲城の乗っ取りに貢献した。信秀が築いた経済基盤は健在であり、津島と熱田から流れ込む銭は信長に兵を養う力を与え続けた。

万松寺に舞い散る抹香

信秀の葬儀は、那古野城の南に信秀自らが建立した菩提寺・万松寺で執り行われた。寺には関東から上方まで、街道筋を行き来する修行僧を含め三百人もの僧侶が集められ、香煙がもうもうと立ち込めるなかで盛大な読経が響き渡った。導師を務めたのは万松寺の住職にして信秀の叔父でもある大雲永瑞である。

次男の信勝は「折目高なる肩衣、袴」という完璧な正装で儀式に臨み、悲嘆に暮れる家臣や僧侶たちの前で理想的な後継者としての振る舞いを見せた。誰もがこの青年こそ亡き信秀の跡を継ぐにふさわしい人物だと頷いた。

だが、そこに現れた嫡男・信長の姿は、すべての常識を覆すものであった。十九歳の信長は長柄の太刀と脇差を荒縄で腰に巻き、髪は茶筅のように結い上げ、袴すら穿いていなかった。参列者たちがざわめくなか、仏前に歩み出た信長は、抹香を片手にわしづかみにすると、父の位牌に向かって力任せに叩きつけたのである。

「例の大うつけよ」

家臣たちは囁き合い、首を横に振った。やはり信勝こそが当主にふさわしい、と。

だが、『信長公記』はもう一つの事実を記録している。この葬儀で信長は、三百人の僧侶たちに大量の銭を施したのである。旅の僧たちは懐に信長の銭を収め、尾張での出来事を全国に語り伝えた。大うつけの奇行と、底知れぬ弾正忠家の財力。その噂は、日本中の街道を伝わって広がっていった。

それは、まさに父・信秀が生涯をかけて磨き上げた「銭の力を情報の力に変える術」の継承であった。津島と熱田の富を朝廷への献金に注ぎ込み、公家衆を招いて名声を高めた信秀。その手法を、息子は僧侶への施しという形で受け継いだのである。

あの乱暴な抹香投げの裏に、冷徹な計算があったのかどうか。それは信長本人にしかわからない。しかし一つだけ確かなことがある。万松寺の堂内に舞い散った抹香の煙のなかに、信秀が築いた家臣団と経済基盤と外交戦略のすべてが、音もなく息子の手に渡った瞬間があったということである。

信秀が遺した家臣団は、やがてその一人ひとりが歴史の主役となっていく。柴田勝家は北陸の軍団長として雪深い越前を統べ、林秀貞は信長の成長とともに重臣の列に戻り、そして信秀の弟・信光は清洲を奪って信長の尾張統一への道を切り開いた。平手政秀は信秀の死後わずか一年で自刃して果てるが、信長はその魂を弔うために政秀寺を建立し、終生その恩を忘れなかった。

織田信長の「天下布武」は、尾張の片隅から突然変異のように生まれたのではない。それは、銭と文化と武力を三位一体で操り、精強な家臣団を鍛え上げ、東西の強敵と命懸けの綱渡りを演じ続けた父・織田信秀という巨大な土台の上にのみ咲くことができた、壮大な花であった。

尾張の虎は四十余年で逝った。だが、虎が育てた牙は、息子の時代に天下を切り裂いた。

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