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鬼と仏の顔をもつ男
島根県松江市。美しい湖のほとりに、黒々とそびえ立つ松江城がある。四百年の時を越えて残るこの壮麗な城を、己の血と汗と命を削って築き上げながら、ついに完成した姿を見ることなく世を去った男がいる。
松江開府の祖、堀尾吉晴である。
彼には、二つの相反する異名があった。普段は温厚で誰にでも優しく、人々の争いを丸く収める「仏の茂助」。しかし、ひとたび戦場に出れば、血飛沫を浴びて敵を討ち取る「鬼の茂助」。
底辺の浪人から身を起こし、豊臣秀吉の天下取りを最前線で支えた彼は、時代が大きく変わろうとする激流の中で、家を守るため、過酷な運命に立ち向かっていくこととなる。
運命を分けた十七の傷
吉晴の人生最大の危機であり、その凄まじい執念が爆発したのは、天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」の直前だった。
ある宿場町での酒宴の席でのことだ。天下の情勢について語り合う中、些細な口論から、同席していた一人の武将が突然狂乱し、刀を振り回し始めたのである。一人が理不尽に殺され、丸腰に近かった吉晴にもその狂刃が襲いかかった。
吉晴の体は、次々と刃でえぐり取られた。その数、実に十七箇所。老齢の肉体にそれだけの刃を受ければ、即死してもおかしくない致命傷である。
しかし、ここで温厚な「仏」の仮面がはがれ落ち、長年眠っていた「老鬼」が目を覚ます。全身からおびただしい血を流し、意識が遠のく中、吉晴は恐るべき気迫で刀を抜き放ち、狂乱する相手を真っ向から斬り伏せたのだ。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた者たちが見たのは、血の海に立つ吉晴の姿だった。一歩間違えれば、吉晴が最初の犠牲者を暗殺したと誤解され、堀尾の家は「謀反人」として一族もろとも滅ぼされていただろう。吉晴は薄れゆく命の炎を燃やして必死に真実を伝え、一触即発の危機から家を救い出した。
皮肉なことに、この瀕死の重傷が堀尾家を救うことになる。吉晴自身は動けなくなったが、代わりに若き息子が関ヶ原の戦いで活躍し、勝利の側に立つことができたのだ。老骨に刻まれた十七の傷は、一族を次の時代へ繋ぐための、痛ましいまでの代償であった。
泥にまみれた最後の夢
戦いの功績により、吉晴たちは広大な出雲の国(現在の島根県)を与えられ、大きな栄光を手にした。しかし、喜びも束の間、家を継ぐはずだった優秀な息子が、二十代の若さで突然この世を去ってしまう。
すでに隠居していた六十代の吉晴は、悲しみを抱える暇もなく、幼い孫を抱えて再び過酷な表舞台へと引きずり出されることになった。
彼が残りの命をすべて懸けたのが、亡き息子が夢見た新しい城、「松江城」の建設だった。
選んだ土地は地盤の緩い湿地帯。泥の沼を埋め立て、他国から運び込んだ巨大な石を組み上げる工事は困難を極めた。
この途方もない事業を支えたのは、長年連れ添った妻だった。彼女は、足場の悪い場所で重い石を運ぶ人々の苦労を思い、自らのお金で「石を一つ運ぶごとに、握り飯を一つ与える」という支援を行ったという。
華やかな大名としての暮らしなどそこにはない。老いた吉晴と妻は、泥と汗にまみれながら、領民たちと一緒になって未来の町の土台作りに自らの命を削っていったのだ。
受け継がれる水の都
しかし、天は残酷だった。城と町の完成を目前に控えた年、吉晴は長年の傷と過労により、静かに息を引き取る。
さらに悲劇は続く。彼の死後、大切に育てられた孫も若くして病死。跡継ぎを失った堀尾の家は、城の完成からわずかな期間で、歴史の表舞台から完全に消滅してしまったのだ。
ならば、吉晴の流した血と汗は、すべて徒労だったのだろうか。
決してそうではない。
彼が妻と共に泥にまみれ、祈るように築き上げた城と町は、確かな「礎」として大地に残り続けた。その後、治める者が次々と変わっても、吉晴が考え抜いた町の仕組みと水路は松江の繁栄を根底から支え続け、漆黒の美しい天守は四百年の風雪を耐え抜いて、今も国宝として堂々とそびえ立っている。
戦場では血濡れの鬼となり、政治の場では身を削る仏となった男。
彼の血族は途絶えてしまったかもしれない。しかし、争いのない平和な時代を願い、次代を生きる者たちへ美しい城と大地を残したその巨大で静かな魂は、夕陽に染まる宍道湖の輝きの中に、今も確かに息づいているのである。
島根県松江市。出雲の大地を潤す宍道湖(しんじこ)の静かな水面を吹き抜ける風が、黒々とそびえ立つ天守の威容を撫でていく。国宝・松江城。漆黒の下見板張り(したみいたばり)が美しいこの城郭は、別名「千鳥城」とも呼ばれ、水の都・松江の象徴として四百年の風雪に耐え、今なおその壮麗な姿を留めている。複雑に組み上げられた石垣の連なりと、空へと羽を広げるような入母屋破風(いりもやはふ)の造形は、戦国時代の実戦的な武骨さと、泰平の世を見据えた豪壮さを併せ持っている。しかし、この広大な城郭と、それを囲むように広がる水郷の城下町を、己の血と汗と命を削って築き上げながら、ついにその完成の姿を目にすることなく世を去った一人の男がいる。
松江開府の祖、堀尾吉晴(ほりお よしはる)である。
歴史の表舞台において、堀尾吉晴という武将を語る際、常に相反する二つの異名が付き纏う。一つは、温厚篤実にして情に厚く、諸将の対立を穏やかに丸く収める「仏の茂助(もすけ)」。そしてもう一つは、ひとたび戦場(いくさば)に立てば、血飛沫を浴びて敵を屠り、冷徹極まりない決断を下す「鬼の茂助」である。この矛盾に満ちた二面性こそが、下剋上の乱世から泰平の世へと移行する過酷な時代を生き抜くために彼が身につけた、極めて合理的な生存の術であり、彼の魂の形そのものであった。
尾張国の一介の小土豪から身を起こし、天下人・豊臣秀吉の股肱の臣として栄達を極めながら、豊臣政権崩壊の足音が響く中では、徳川家康と石田三成という巨大な二つの力の間に立って、胃の腑が煮え返るような孤独な調停に奔走した。さらには、天下分け目の大乱である関ヶ原の戦いの前夜、奇跡的とも言える凄惨な流血の凶事に巻き込まれながらも自家を存続させ、ついには出雲・隠岐二十四万石という広大な版図を手にするに至るのである。
刀の「鋭さ」よりも、抜いた刃を収めるための「鞘の深さ」を求められた男が、無嗣断絶という一族の悲劇の果てに、現代に何を遺したのか。その深淵なる歴史の暗がりへと、静かに足を踏み入れていく。
目次
夜陰の山を駆ける「鬼」――血塗られた立身と武の証明
堀尾吉晴、幼名あるいは通称を茂助。
天文十二年(1543年)、尾張国丹羽郡の小土豪・堀尾泰晴(ほりお やすはる)の長男として生を受けた。織田信長が尾張統一に向けて血みどろの闘争を繰り広げていた激動の時代である。
若き日の吉晴が最初に忠誠を誓ったのは、のちの主君となる信長ではなく、尾張上四郡を支配する岩倉織田氏であった。しかし永禄二年(1559年)、岩倉城の戦いにおいて主家は信長の苛烈な軍事力の前に為す術もなく攻め滅ぼされ、若き吉晴は敗軍の将として代々の所領を失い、冷たい浪人の身へと転落する。この泥を啜るような流浪と没落の経験こそが、後年、彼が誰に対しても驕らず、巨大な権力の狭間で理非の筋を通す「仏」としての深みを備えるに至る、過酷なる原体験となったのである。
その後、数奇な運命の糸に導かれて信長の下に身を寄せ、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の与力として配属された吉晴が、己の武を証明し歴史の激流にその名を深く刻み込むこととなる決定的な躍り出の舞台が、永禄十年(1567年)の美濃国・稲葉山城(後の岐阜城)の戦いであった。
当時、美濃平定を目指す織田信長は、斎藤龍興の居城である稲葉山城を幾度となく攻めながら、その要害堅固な地形の前に攻めあぐねていた。難攻不落を誇るこの山城を陥落させるため、信長の家臣であった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、城の背後にそびえる瑞龍寺(ずいりょうじ)山からの奇襲という、途方もない策を立案する。この時、藤吉郎の先導役として、夜陰に紛れて絶壁とも呼べる裏山の断崖を登攀したのが、弱冠二十四歳の吉晴であった。
鬱蒼と茂る木々、一歩足を踏み外せば谷底へ転落して命はない険しい岩肌を、吉晴は獣のような身体能力と研ぎ澄まされた感覚でよじ登っていく。『絵本太閤記』が伝える逸話によれば、この決死の行軍の途上、休息を取っていた藤吉郎たちの前に、暗闇の中から突如として巨大な猪が突進してきたという。同行していた手勢が恐怖に息を呑み、足がすくむ中、若き吉晴は瞬時に山刀を抜き放ち、一撃でこの猛獣を仕留めてみせた。驚くべき膂力と胆力である。藤吉郎がこの若者に名を問うと、旧知である堀尾忠右衛門の息子・茂助吉晴であることが知れ渡り、藤吉郎は大いに感嘆したと伝えられている。
搦め手(裏門)の城壁へと到達した彼らは、夜の闇に紛れて城内へと密かに侵入する。吉晴はかねてから藤吉郎と打ち合わせていた手筈通り、竹の先に結びつけた瓢箪(ひょうたん)を門の内側から夜空へと高く掲げた。これが麓の闇夜で息を殺して待機する藤吉郎本隊への突撃の合図となり、織田勢は怒涛の如く城内へとなだれ込んだ。内部からの攪乱と激しい放火により、長年織田軍を苦しめてきた堅城・稲葉山城はついに内部から瓦解し、斎藤龍興は闇夜に紛れて城を開き退散を余儀なくされる。この劇的な夜に吉晴が掲げた瓢箪こそが、後に秀吉の馬印として天下にその威厳を轟かせる「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」の起源となったと語り継がれている。この隠密行動の成功は、吉晴が単なる腕っぷしの強い武辺者ではなく、地形を的確に読み、絶好の機を図る知勇を兼ね備えた「鬼」であることを如実に証明していた。
その後も吉晴は、秀吉の覇業を支える軍事指揮官として、歴史の転換点となる数々の戦場で決定的な役割を果たしていく。彼の前半生における主要な軍事行動の軌跡は、秀吉の天下取りの歩みそのものであった。
| 年月 | 合戦・事象名 | 吉晴の主要な行動と戦術的意義 |
|---|---|---|
| 1567年(永禄10年) | 稲葉山城の戦い | 瑞龍寺山からの登攀路先導、城内侵入と瓢箪による合図。城の内部瓦解を誘発。 |
| 1582年(天正10年) | 備中高松城の戦い | 清水宗治の切腹時における検使任務。敵将の最期を見届ける精神的重圧を伴う役目。 |
| 1582年(天正10年) | 山崎の戦い | 中川清秀と連携し、戦局の要衝である天王山を事前占拠。明智軍の側面を制圧。 |
| 1583年(天正11年) | 賤ヶ岳の戦い | 大垣城の守備および、敵対の恐れがあった氏家直通(行広)を説得し、味方に引き入れる。 |
| 1590年(天正18年) | 小田原征伐 | 箱根山崎の関の突破、韮山城包囲への参陣。 |
天正十年(1582年)、毛利方との死闘となった備中高松城の水攻めにおいて、吉晴は城将・清水宗治の切腹の際、秀吉の代理として検使の任務を遂行している。水上に浮かぶ小舟の上で、潔く腹を召す敵将の壮絶な最期を冷徹に見届ける役目は、武将としての格の高さを示すと同時に、極めて重い精神的重圧を伴うものであった。
そして同年、本能寺の変で主君・信長を討った明智光秀との雌雄を決する「山崎の戦い」において、吉晴の軍事的才能は遺憾なく発揮される。淀川と山並みに挟まれた狭隘な地形での勝敗を分けるのは、高所である天王山(淀川側の丘陵)の確保であった。吉晴は自慢の鉄砲隊を率いてこの山頂を素早く占拠し、眼下の平野を埋め尽くす明智軍の側面に対して決定的な射界を確保するという、卓越した戦術眼を見せつけたのである。
さらに、翌天正十一年(1583年)の柴田勝家との決戦である「賤ヶ岳の戦い」において、吉晴は美濃国の大垣城守備を任される。ここで彼は、柴田方に与する可能性が高かった氏家行広(うじいえ ゆきひろ)の元へ赴き、利害と大義を説いて見事に説得し、自軍に引き入れて共に出陣するという多大な功績を挙げている。大垣城という戦略的要衝において、無用な武力衝突を回避しつつ自軍の戦力を増強したこの行動は、吉晴の中で単なる敵を殺傷する暴力としての「武」が、極めて高度な政治性を帯びた「交渉」や「調停」へと昇華しつつあることを如実に示していた。血塗られた立身の果てに、吉晴は少しずつ、政権の屋台骨を支える重鎮としての顔を覗かせ始めていたのである。
天下を支える「仏」――豊臣政権「三中老」の重圧と孤独
天正十八年(1590年)、北条氏を滅ぼした小田原征伐の論功行賞により、徳川家康が長年治めた東海地方から関東へと国替えを命じられた。その後を受けて、吉晴は家康の旧領の中核であった遠江国浜松城十二万石の領主として入封する。東海道の交通の要衝であり、かつて徳川の威光が隅々まで行き渡り、屈強な三河・遠江の土豪たちが蟠踞(ばんきょ)するこの地を治めることは、在地勢力の反発を抑え込み、新たな統治構造を構築するという極めて難易度の高い政治的任務であった。吉晴は旧徳川家臣の一部を召し抱え、反発を招かぬよう流麗に領国経営を安定させてみせた。ここに至り、天下人・秀吉が彼に求めたのは、もはや前線で敵を斬り伏せる「刃の鋭さ」ではなく、不平不満を呑み込み、巨大な権力構造を内側から保護し維持する「鞘の深さ」へと完全に移行していた。
その最たる証明が、豊臣政権末期における「三中老(小年寄、あるいは小宿老)」への抜擢である。老いを迎え、自身の死後の政権不安に苛まれる秀吉は、幼い後継者・秀頼を補佐するための強固な合議制として「五大老」と「五奉行」を設置した。しかし、広大な石高と強大な武力を背景に国政を牛耳ろうとする五大老(徳川家康や前田利家ら)と、実務と厳格な法による官僚統制を敷こうとする五奉行(石田三成ら)の間には、必然的に深刻な権力闘争と摩擦が生じる。この二層構造の間に走る深い亀裂を埋め、意見の対立を仲裁するという、胃の腑が爛(ただ)れるような役目を負わされたのが、生駒親正、中村一氏、そして堀尾吉晴からなる三中老であった。
あまたの諸将の中から、なぜ吉晴が選ばれたのか。それは彼が、武功派の大名からも一目置かれる「鬼の茂助」としての確固たる軍事的実績を持ちながら、同時に誰に対しても温和で理非の筋を通す「仏の茂助」としての顔を持っていたからに他ならない。特定の派閥に与することなく、偏りのない中立的な政治感覚を保ち続けること。それは権謀術数が渦巻く巨大権力の内部において、極めて稀有であり、かつ重宝される才能であった。
慶長三年(1598年)八月、絶対的な権力者であった豊臣秀吉が薨去する。巨星の死は、それまで水面下で燻っていた政権内の文治派(石田三成ら)と武断派(加藤清正、福島正則ら)の積年の怨念による対立、そして天下への野望を隠そうともしなくなった徳川家康の専横を、一気に表面化させた。大名同士の私婚の禁止など、秀吉の遺命を次々と破る家康に対し、三成ら奉行衆は激しい怒りを露わにする。この危急存亡の秋(とき)において、吉晴は家康と三成の間に立ち、泥臭く、そして極めて孤独な調停作業に奔走することとなる。
伏見城や大坂城の奥深く、両陣営の思惑が激突する密室において、吉晴は時に頭を下げ、時に理を説き、物理的な武力衝突を一日でも遅延させようと身を粉にして尽力した。この時期の吉晴の精神的疲労は、想像を絶するものがあっただろう。彼の行動は、新規の華々しい政策を打ち出すことではない。ただひたすらに、崩れゆく屋台骨を両手で押さえつけ、破滅への時を遅らせるだけの「現状維持のための足掻き」である。しかし、その献身こそが、政権内部における最大の権力均衡の要としての真骨頂であった。家門の存立を守りながら、己を高く評価してくれた豊臣家への恩義に報いようとする吉晴の姿勢は、乱世の終焉を前にした老将の、悲哀に満ちた美学すら感じさせる。
池鯉鮒の血飛沫――関ヶ原前夜、運命を分けた十七の創傷
慶長五年(1600年)夏。歴史の歯車はついに後戻りできない臨界点に達していた。徳川家康は、会津の上杉景勝が軍備を増強していることを謀反の企てとし、諸大名を率いて討伐のための東上を開始する。五十七歳となっていた吉晴もまた、十二万石の大名としてこの軍に従軍したが、出陣の途上で持病の悪化と老齢を理由に関ヶ原本戦への参加を見送り、越前国への帰国と療養を余儀なくされる。しかしその帰還の途上、三河国池鯉鮒(ちりふ=現在の愛知県知立市)で、彼の運命、いや堀尾家全体の運命を決定づける極めて凄惨な事変が勃発する。
同年七月。池鯉鮒の宿陣での宴席には、吉晴のほかに、三河刈谷城主の水野忠重(みずの ただしげ)、美濃加賀野井城主の加賀井重望(かがのい しげもち)らが同席していた。酒が入り、天下の情勢についての激しい議論が交わされる中、些細な口論から突如として座敷の空気が凍りつき、狂気が爆発した。加賀井重望が突如として白刃を引き抜き、無防備であった水野忠重を唐突に刺殺したのである。
「水野殿が討たれた!」
生暖かい血の匂いが充満する座敷で、重望の狂刃は次に、同じく無防備であった吉晴へと襲いかかった。宴席の場であり、吉晴は丸腰に近い状態であった。乱闘の中、吉晴は重望の放つ槍によって次々と肉を抉(えぐ)られた。その数、実に十七箇所。老齢の肉体に十七もの刃を浴びれば、常人であれば一突きか二突きで絶命していてもおかしくない致命傷である。しかし、ここで長年「仏」の仮面の下に眠っていた「老鬼」が覚醒する。全身からおびただしい血を流し、薄れゆく意識の中で、吉晴は執念で脇差あるいは太刀を抜き放ち、狂乱する重望を真っ向から斬り伏せたのである。凄まじい気迫による返り討ちであった。
騒ぎを聞きつけ、遅れて駆けつけた水野忠重の家臣たちは、血の海と化した座敷の惨状を目の当たりにする。そこには、絶命した主君・忠重の屍と、血塗れの太刀を握りしめて荒い息を吐く堀尾吉晴の姿があった。極限の緊張状態の中、水野の家臣たちは一瞬、血に染まった吉晴こそが主君を殺害した主犯であると誤認し、彼に一斉に刃を向けようとしたという。一触即発の事態である。もしここで両者が逆上して斬り合っていれば、堀尾家はその時点で「家康の叔父である水野忠重を暗殺した謀反人」としての濡れ衣を着せられ、一族もろとも滅亡していたに違いない。吉晴は薄れゆく意識の中で気力を振り絞り、家臣たちに事実関係を伝達し、辛くも誤解を解くことに成功した。
この時の凄絶な死闘の痕跡は、四百年を経た現代にも静かに語り継がれている。京都市右京区の春光院に安置されている吉晴の木像(春龍玄済の賛が記されたもの)の左頬には、深くえぐられたような痛々しい傷跡が意図的に彫刻されている。これこそが、池鯉鮒の事変で重望から受けた刀傷の証拠であると推測されているのだ。
この流血の事件は、歴史の皮肉というべき奇跡を堀尾家にもたらした。全身十七箇所に及ぶ槍傷を負い、生死の境を彷徨った吉晴は、同年九月に勃発する関ヶ原の戦い本戦への参加が物理的に不可能となり、越前国での深い療養を余儀なくされる。もし吉晴が無傷であったなら、彼は家康への義理と三成への恩義、さらには豊臣家への忠誠の狭間で引き裂かれ、自身の率いる主力軍(堀尾本軍)を東西どちらかの最前線に投入し、一族の多大な血を流さねばならなかっただろう。
しかし、吉晴が重傷を負って本国に留まったことで、結果として堀尾家の本軍は完全に温存された。一方で、すでに家督を譲られていた次男の堀尾忠氏(ほりお ただうじ)は、東軍(家康方)の主力として関ヶ原本戦や前哨戦に合流し、輝かしい戦功を挙げることとなる。影響力を持つ父が負傷により「中立」の立場を強いられながらも領国を動かさず、若い息子が次代の権力者である家康の元で直接手柄を立てる。結果としてこの構図は、一族の軍事力の損耗を防ぎつつ、勝者の側へと明確に帰属するという、極めて高度な「家門存立の危機管理」として機能したのである。老骨に受けた十七の創傷は、堀尾という家門を新たな時代へと繋ぐ、痛ましいまでの生け贄の印であった。
出雲に散る老樹――孫への託付と松江城への執念
関ヶ原の戦いにおける次男・忠氏の目覚ましい戦功により、堀尾家は遠江浜松十二万石から、山陰地方の要である出雲・隠岐両国二十四万石への大幅な加増移封という巨大な恩賞を手にした。堀尾家は、かつて山陰の覇者・尼子氏の難攻不落の居城であった月山富田城(がっさんとだじょう)に入城する。
しかし、飛躍的な栄華の絶頂は長くは続かなかった。慶長九年(1604年)、松江藩の初代藩主として眉目秀麗であり才気煥発であった忠氏が、齢二十七にして不慮の死を遂げてしまうのである。公式な記録には単なる急逝としか記されていないが、その突然すぎる死の真相は深い闇に包まれており、巷間では毒虫に刺されたためとも噂された。死因すらも明確に書き残すことができない当時の武家社会の冷酷な隠蔽体質は、大名という存在がいかに薄氷の上を歩くような脆弱な基盤の上に立っていたかを物語っている。
後を継いだのは、忠氏の長男であり、吉晴にとっては孫にあたる幼い堀尾忠晴(ほりお ただはる)であった。六十一歳を迎え、すでに隠居の身として悠々自適の余生を送るはずであった吉晴であったが、当主の急死による一族と家臣団の動揺を鎮めるため、再び苛酷な表舞台へと引き摺り出されることとなる。幼き当主の後見役として藩政を主導することになった老将の肩には、二十四万石という広大な新領土の統治と、外様大名に対する幕府の冷徹な監視の目という、途方もない重圧がのしかかった。
折しも忠氏の死と同年である慶長九年(1604年)、隣国である伯耆国米子を治める中村家において、大規模な御家騒動(横田騒動、または米子騒動)が勃発する。若き藩主・中村一忠(なかむら かずただ)と、藩政を実質的に取り仕切っていた筆頭家老・横田村詮(よこた むらあき)の間に深刻な対立が生じ、一忠が独断で村詮を暗殺。これに激しく反発した横田一族と家臣たちが、米子城や周辺の砦に立て籠もるという内乱状態に発展したのである。中村一忠からの急を要する応援要請を受けた吉晴は、江戸の幕府からの正式な討伐令の発出を待つことなく、即座に大軍を出兵させてこの反乱を徹底的に鎮圧した。この果断かつ迅速な武力行使は、山陰地方における堀尾家の圧倒的な軍事力を周囲に示すものであり、地域の安定化に寄与することで幕府に対する忠誠と、老いてなお健在な「鬼」の統治能力を証明するものであった1。
領外の動乱を力でねじ伏せ、領内の治安を安定させた吉晴が、残りの生涯のすべてを懸けて着手したのが、亡き息子・忠氏が夢見た「新城の建設」と「新たな都市の開府」である。吉晴らが拠り所としていた月山富田城は、山間部に位置し軍事的な防衛力には極めて優れていたものの、舟運を用いた物資の輸送や城下町の経済発展には全く不向きな地形であった。天下泰平の世が近づく中、吉晴は軍事拠点としての山城を捨て、宍道湖と中海を結ぶ水運の要衝である亀田山を新たな本拠地に選定し、旧来の城からの完全移転という巨大な決断を下す。
| 年月 | 松江城築城および藩政の推移 |
|---|---|
| 1600年末 | 関ヶ原の戦功により、次男・忠氏が出雲国富田24万石へ移封。月山富田城に入城。 |
| 1604年 | 忠氏が早世。孫の忠晴が家督を継承し、吉晴が後見役として藩政を主導。 |
| 1604年 | 隣国の伯耆国米子で横田騒動が発生。吉晴が出兵し、迅速に鎮圧。 |
| 1607年 | 亀田山を新本拠地と定め、松江城の築城および城下町の建設を開始。 |
| 1611年6月 | 吉晴、松江城の完成を目前にして死去。享年68。 |
| 1611年末 | 松江城および城下町の整備が概ね完成を見る。 |
慶長十二年(1607年)、ついに松江城の大規模な築城と、それを囲む町割りを伴う城下町の建設工事が開始された。しかし、亀田山周辺は広大な湿地帯であり、地盤は軟弱を極めた。大橋川の流れを改修し、底なしの泥田を埋め立て、他国から運び込んだ巨大な石垣を組み上げる大普請は、想像を絶する困難の連続であった。
この国家規模の大事業において、老いた吉晴を公私ともに支え続けたのが、長年連れ添った妻である大方殿(おおかたどの)であった。大方殿は内助の功で知られ、足場の悪い難工事において重い石垣を運搬する人夫たちを労うため、自身の私財を投じて「石一つを運ぶごとに、握り飯一つを与える」という支援を自ら行ったという、血の通った温かな逸話が残されている。泥と汗にまみれた築城現場で、吉晴と大方殿は夫婦二人三脚となり、領民や家臣団とともに未来の都市基盤の構築に自らの命を削っていったのである。
しかし、天命はあまりにも残酷であった。慶長十六年(1611年)六月。城郭と城下町の完成をその年の暮れに控えながら、長年の戦傷と過労、そして老衰により、吉晴は静かにこの世を去った。享年六十九。眼下に広がる宍道湖の眩い輝きを前に、足場に囲まれた未完成の天守を見上げながら、彼は最期に何を思ったのだろうか。豊臣家への尽力も、家康への屈伏も、池鯉鮒での死闘も、すべてはこの国を豊かにし、一族の安泰を確固たるものにするための布石であった。息子が描き、自身が形を成した「未完の夢」の完成を幼き孫・忠晴に託し、戦国交渉人・堀尾吉晴の波乱に満ちた生涯は幕を閉じた。
無嗣断絶の果てに遺ったもの
歴史の奔流は時に、個人の血の滲むような努力や祈りを、冷酷なまでに裏切り、押し流していく。吉晴の死後、祖父と父の重い遺志を継いで松江藩の統治を牽引した堀尾忠晴であったが、寛永十年(1633年)、嗣子(跡継ぎの男子)を持たないまま三十五歳の若さで病死してしまう。主君を失った家臣団による必死の家名存続運動も、大名の統制を強化しつつあった幕閣の冷徹な法理の前には通じず、出雲・隠岐二十四万石の威容を誇った堀尾家は、開府からわずか三代にして無嗣断絶、所領没収という改易の憂き目に遭うのであった。
ならば、堀尾吉晴の生涯はすべて徒労であったのか。否である。 血族としての堀尾の名は、歴史の表舞台から完全に消え去った。しかし、彼が妻の大方殿とともに泥にまみれ、民と汗を流して築き上げた松江の広大な城郭と、緻密に計算された都市基盤は、確固たる物理的遺産として大地に残り続けた1。その後、京極氏、松平氏と統治者が変わっても、吉晴が定めた町割りと、大橋川から広がる水運の網は松江の繁栄を根底から支え続け、四百年の風雪に耐え抜いた漆黒の天守は、今も国宝としてその威容を天下に誇っている。
戦場においては血濡れの鬼となり、政争の場においては身を削る仏となった漢。その心の奥底にあったのは、己の栄達への野心などではなく、戦乱という無慈悲な世の習いを終わらせ、次代を生きる者たちへと確かな「礎」を遺したいという、祈りに似た執念であったのかもしれない。
宍道湖に黄金色の夕陽が沈む頃、松江城の天守はその黒々としたシルエットを静かな湖面に落とす。そこには、乱世から泰平への架け橋として己の生命を完全に使い切り、ただ美しい城と大地のみを遺して去っていった一人の武将の、巨大で静謐な魂が確かに宿っているのである。