仏の茂助か、鬼茂助か。沈黙を貫いた堀尾吉晴(ほりおよしはる)の数奇な逸話と真実

堀尾吉晴

戦国の世にあって、人は自らの名を後世に残すことに執念を燃やした。首級(しるし)を挙げれば声高に叫び、武功を立てれば書状に記して主君に訴える。それが侍の習いであり、一族を存続させるための道であった。

だが、そのような時代において、己の功績を一切語ろうとしなかった男がいる。豊臣秀吉の古参の家臣であり、後に松江開府の祖となった堀尾吉晴(ほりおよしはる)である。

通称を茂助(もすけ)。戦場では誰よりも激しく槍を振るいながら、平素はどこまでも穏やかな顔を絶やさなかった。周囲の者たちは彼を「仏の茂助」と呼び親しみ、敵対する者たちは「鬼茂助」と呼んで恐れた。

二つの異名を持ち、豊臣と徳川の世を駆け抜けたこの男は、何を思い、何を抱えて生きたのか。彼の生涯には、血生臭い戦場にあってなお失われなかった、人間としての不思議な魅力と数々の逸話が残されている。

稲葉山城の裏道と、猟師上がりの若き日

吉晴の生い立ちは、決して恵まれたものではなかった。尾張国丹羽郡の土豪の家に生まれたとされるが、一時期は浪人となり、猟師に身をやつして糊口をしのいでいた時期もあったという。

運命が大きく動いたのは、織田信長が美濃の斎藤氏を攻めた稲葉山城(後の岐阜城)の戦いである。難攻不落を誇る険しい山城を前に、信長軍は攻めあぐねていた。その軍勢の中にいた木下藤吉郎(豊臣秀吉)のもとへ、一人の若者がふらりと現れた。それが吉晴であった。

「あの山の裏手に、猟師だけが知る獣道がございます。私ならば、そこから城の背後へご案内できます」

吉晴は、かつてその山を駆け回った経験から、誰も知らない隠し道を知り尽くしていた。藤吉郎はこの言葉を信じ、少数の決死隊を編成した。吉晴の先導で険しい山道を登り切った藤吉郎たちは、城の背後から奇襲をかけることに成功する。

これが秀吉の出世の糸口となり、同時に吉晴が秀吉の直臣として歴史の表舞台へと引き上げられた瞬間であった。猟師として山野を巡った泥臭い経験が、天下の行方を左右する大きな功績へと繋がったのである。

「仏」と「鬼」の二つの顔

吉晴が「仏の茂助」と呼ばれたのは、決して作り物の温厚さではなかった。彼は他人の過ちを寛大に許し、決して感情的に怒鳴り散らすようなことがなかったという。

戦国武将といえば、少しでも気に障ることがあれば手討ちにするような血の気の多い者も珍しくなかった。しかし、吉晴の陣幕の中はいつも穏やかな空気が流れていた。同僚たちと衝突することも少なく、秀吉も彼の人柄を深く信頼していた。後年、豊臣政権下で「三中老」という調停役に任命されたのも、彼の偏りのない公平な眼差しと温厚な性格が見込まれたからに他ならない。

だが、戦太鼓が鳴り響き、一度戦場に足を踏み入れると、その目は獲物を狙う猟師のそれに変わった。「鬼茂助」の異名が示す通り、吉晴の槍の冴えは凄まじかった。

賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の大垣城主・氏家直昌を説得して味方に引き入れるという交渉の才を発揮しただけでなく、本戦においても最前線で敵陣に突入し、血みどろになって槍を振るった。

普段は仏のように笑っている男が、いざとなれば鬼神のごとく敵を突き崩す。その落差こそが、配下の者たちを心服させ、敵に底知れぬ恐怖を与えたのである。

池鯉鮒の宴、十七箇所の傷を負った死闘

温厚な吉晴の生涯の中で、最も凄惨な事件が起きたのは、関ヶ原の戦いを目前に控えた慶長五年(一六〇〇年)七月のことである。

徳川家康の命を受け、上杉討伐のために東へ向かっていた吉晴は、三河国の池鯉鮒(ちりゅう)(現在の愛知県知立市)で、刈谷城主の水野忠重、加賀井城主の加賀井重望らと酒宴を開いていた。

和やかな酒の席になるはずだった。しかし、突如として悲劇は起きた。石田三成に内通していたとされる加賀井重望が、突如として刀を抜き、水野忠重を斬り殺したのである。

凄まじい血しぶきが舞い、宴の席は一瞬にして修羅場と化した。血に飢えた狂った刃は、すぐさま吉晴にも襲いかかった。吉晴は無防備な状態であったが、すぐさま脇差を抜いて応戦した。

狭い座敷の中での死闘。加賀井は必死に吉晴の命を狙い、吉晴もまた刃を振るった。やがて吉晴の一撃が加賀井を討ち取ったものの、駆けつけた水野家の家臣たちは、凄惨な現場を見て「吉晴と加賀井が共謀して主君を殺したのだ」と思い込んでしまった。

殺気立つ水野の家臣たちが、一斉に吉晴に襲いかかる。吉晴は弁明する間もなく、彼らを相手に血路を開かなければならなかった。

この時、吉晴は頭から足の先まで、全身に十七箇所もの深い刀傷を負った。左の頬からあごにかけても肉がそがれるほどの重傷であった。それでも吉晴は倒れることなく、血だるまになりながらその場を脱出したのである。

「仏」と呼ばれた男の、凄まじい執念と生命力であった。この重傷により、吉晴は直後に起こった関ヶ原の戦い本戦には出陣することができなかった。もし彼が万全の状態で戦場に立っていたならば、その後の運命はまた少し変わっていたかもしれない。

語られぬ武功、沈黙の美学

吉晴には、息子の忠氏がいた。関ヶ原の戦いでは、父に代わって出陣した忠氏が東軍として見事な武功を挙げ、その恩賞として出雲・隠岐二十四万石の大封を得ることになる。

立派に成長した息子に対し、普通の武将であれば「わしも昔はこれほどの手柄を立てたものだ」と自慢話の一つも聞かせたくなるだろう。しかし、吉晴は自らの戦歴について、忠氏に一切語ることはなかった。

ある日、忠氏が家臣たちに向かって、吉晴の昔の戦いぶりを知りたいと尋ねたことがあった。家臣たちは口々に吉晴の勇猛さを語ったが、それを聞いた吉晴は静かに首を振って言ったという。

「戦場で命を懸けて戦うのは、武士として当然の務めである。それを手柄顔で語るのは、恥知らずのすることだ」

自分の功績は、口で語るものではなく、ただ主君が正当に評価してくれればそれでいい。そして自分自身の胸の内にだけ留めておけばよい。吉晴の心には、猟師として名もなき日々を生きていた頃の、静かで謙虚な信念がずっと根付いていたのかもしれない。

華々しい英雄の物語がもてはやされる中で、ただ黙々と働き、自らの血と汗の結晶をひけらかさない。それこそが、堀尾吉晴という男の究極の美学であった。

松江城の人柱伝説と、残された悲哀

晩年、吉晴は出雲の地で新たな城作りと国作りに情熱を注いだ。それが現在も国宝としてその美しい姿を残す松江城である。

しかし、その築城の過程は困難を極めた。特に天守の石垣は何度積んでも崩れ落ち、工事は遅々として進まなかった。その時、盆踊りの輪の中から最も美しく踊りの上手い娘をさらい、人柱として埋めたという悲しい伝説が残されている。

温厚な「仏の茂助」が、果たして生きた娘を人柱にしたのだろうか。真実は歴史の闇の中である。だが、この伝説は単なる作り話というよりも、城という巨大な建造物を作り上げるために流された無数の民衆の血と涙、そして吉晴自身の背負わねばならなかった「統治者としての業(ごう)」を象徴しているように思えてならない。

皮肉なことに、吉晴が完成を待たずにこの世を去った後、堀尾家は跡継ぎに恵まれず、わずか三代で断絶してしまう。人々はそれを「人柱にされた娘のたたりだ」と噂した。

自らの功績を一切語らず、ただひたすらに主君のために尽くし、傷だらけになりながらも国を築き上げた男。その血脈が早々に絶えてしまったことは、戦国の世の無常さを強く感じさせる。

しかし、堀尾吉晴という男が残した松江城は、四百年以上の時を経た今も、宍道湖(しんじこ)のほとりに悠然とそびえ立っている。その黒く美しい天守閣を仰ぎ見る時、私たちはそこに、静かなる鬼であり、温かな仏であった一人の武将の、無言の魂を感じ取ることができるのである。

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