慶長五年(1600年)九月十五日の朝、美濃国関ヶ原は深い霧に覆われていた。やがて霧が晴れるとともに東西の軍勢がぶつかり合い、天下の帰趨(きすう)を決する合戦の火蓋が切られる。しかし、その戦場からやや南に位置する南宮山の上には、一万を超える兵を擁しながら微動だにしない一軍があった。毛利勢である。そしてその先鋒に陣を構え、あえて山を下りなかった男こそ、吉川広家(きっかわひろいえ)であった。
広家がその日、刀を抜かなかったのは臆病だからではない。武を捨てたのでもない。彼はただ一つの目的のために、あらゆる武功と名誉を投げ捨てたのである。毛利という家を、滅ぼさぬために。
「鬼吉川」の血を継ぐ三男坊
吉川広家は永禄四年(1561年)、安芸国吉田郡山城に産声を上げた。父は吉川元春(きっかわもとはる)。中国地方の覇者・毛利元就が描いた「両川体制」の一翼を担い、「鬼吉川」の異名で敵を震え上がらせた猛将である。母は熊谷信直の娘・新庄局。同母の兄に吉川元長(きっかわもとなが)がおり、広家はその下の三男として育った。
幼名を才寿丸という。元就の薫陶のもとで育った兄たちとは異なり、広家はやや変わり者であった。後に残る逸話には「うつけ」と評されたものが少なくない。杯を受ける際の作法を知らず、父・元春からは「礼節がなっておらぬ」と厳しく叱責されたという。さらには、父に無断で石見小笠原家の娘と縁組を進めようとしたともいわれ、元春を嘆かせたと伝わる。
だが、この型破りな三男坊は、戦場に立てば別人であった。わずか九歳にして初陣を飾り、以後も父や兄に従って各地を転戦する。天正十年(1582年)の備中高松城をめぐる羽柴秀吉との対峙、天正十三年(1585年)の四国征伐にも参じ、武功を重ねた。元春が持つ猛々しき武の気質は、確かにこの末子にも流れていた。
しかし、広家の生涯を決定づけたのは、武勇ではなく、むしろ政治的な洞察力と、一族への深い忠誠心であった。
両川崩壊と託された遺志
天正十四年(1586年)、父・吉川元春が九州征伐の陣中で病没する。享年五十七。翌年には兄・元長も病に倒れ、広家は若干二十七歳にして吉川家の当主となった。「鬼吉川」の後継者として家中の期待と重圧を一身に背負うこととなる。
だが、毛利家にとって真の危機はここから始まる。天正十五年(1587年)以降、豊臣秀吉の天下統一が進むなかで、毛利家は秀吉の傘下に入り、その政権運営に組み込まれていった。中国地方の大大名でありながら、毛利輝元は秀吉の五大老の一人に据えられ、否応なく中央政治の渦中に身を置くことになる。
そして慶長二年(1597年)、毛利家にとって決定的な転機が訪れた。もう一人の「両川」、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の死である。
隆景は元就の三男であり、知略と外交に長けた名将であった。碧蹄館の戦いでは朝鮮出兵において見事な用兵を見せ、秀吉からも「西国の守護神」と称えられた。その隆景が、死の間際に毛利輝元へ残した遺言は痛烈であった。
「輝元殿は天下を保つ器量にあらず。天下の政道には決して関わってはなりませぬ」
そしてもう一つ、隆景は警告した。
「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の甘言には決して乗ってはなりませぬ。あの者の口車に従えば、毛利の家は滅びましょう」
安国寺恵瓊は、毛利家の外交僧として秀吉に重用された人物である。しかしその野心は大きく、石田三成らと結びついて毛利家を豊臣方の中心に据えようと画策していた。隆景はその危険を見抜いていたのだ。
隆景の死後、毛利家を支える柱は広家ただ一人となった。広家は父・元春と同じく、徳川家康との良好な関係を重視する現実主義者であった。秀吉亡き後の天下が家康に傾くことを見抜いていた広家は、恵瓊と激しく対立する。しかし、輝元は恵瓊の巧みな弁舌に引き込まれていく。広家の忠告は、届かなかった。
南宮山の静寂
慶長五年(1600年)、ついに天下を二分する戦いが始まる。石田三成が挙兵し、安国寺恵瓊の画策によって毛利輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられた。隆景の遺言は、最悪の形で無視されたのである。
広家は絶望した。このまま西軍として戦えば、毛利家は東軍に勝っても負けても危うい。勝てば家康という稀代の政治家を敵に回し続けることになり、負ければ一族郎党の根絶やしが待っている。いずれにせよ、中国地方八か国百二十万石の大版図が灰燼(かいじん)に帰す未来しか見えなかった。
広家は決断する。表向きは西軍に従いながら、裏では徳川家康と密約を結ぶという、途方もなく危険な賭けに出たのである。
仲介を頼んだのは、旧知の黒田長政であった。長政は東軍の中核を成す武将であり、広家とは朝鮮出兵以来の交誼があった。広家は長政を通じて家康に書状を送り、こう訴えた。
「輝元に逆意はございませぬ。すべては安国寺恵瓊の奸計(かんけい)によるもの。毛利勢は関ヶ原にて一切戦わぬことをお約束いたします。どうか戦後、毛利の所領をお安堵くださいますよう」
家康は承諾した。毛利勢が動かなければ、南宮山に布陣する一万余の兵力が無力化される。東軍にとっても大きな利点であった。
九月十五日の朝、広家は南宮山の前衛に陣を敷いた。毛利軍の先頭に位置し、あえてそこから動かない。この配置こそが、広家の計略の要であった。広家が進まなければ、その背後の毛利秀元(もうりひでもと)率いる毛利本隊も山を下ることができない。先陣が道を塞いでいるのだから、物理的に不可能なのである。
戦場では西軍の諸将から毛利勢への出陣催促が相次いだ。秀元は焦った。総大将の名代として関ヶ原に来ながら、一矢も報いずに終わるのか。秀元は山を下りようとしたが、広家の陣がびくとも動かない。催促の使者が来るたび、秀元は苦しまぎれに答えるしかなかった。
「兵たちが弁当を食しておる最中にて、いましばらくお待ちいただきたい」
これが世に名高い「宰相殿の空弁当」である。秀元の官位が参議であり、その唐名が「宰相」であったことからこの名がついた。実際には兵は食事などしていない。食べてもいない弁当を食べていると偽った──空弁当とは、そういう意味である。
しかし、この滑稽な逸話の裏には、広家のぎりぎりの覚悟があった。もし密約が露見すれば、広家は毛利家中から裏切り者として誅殺されるだろう。秀元が強引に山を下り始めれば、計画は破綻する。広家は一瞬一瞬を綱渡りのように過ごしていたのである。
やがて東軍の勝利が決した。小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、石田三成は敗走した。南宮山の毛利勢は、一発の銃声も発することなく、戦場を後にした。
裏切り者か、それとも忠義者か
戦後、広家は毛利家存続の約束を果たすため、家康のもとに急いだ。だが、そこで待っていたのは残酷な現実であった。
家康は約束を反故にしようとしていた。輝元が大坂城に入って西軍の総大将を務めた事実は重く、毛利家の改易──すなわち一族の完全な取り潰しが検討されたのである。
広家は取り乱した。否、取り乱しながらも、決して引かなかった。家康に対して何度も嘆願を繰り返し、ある書状ではこうまで記している。
「もし毛利が反逆するようなことがあれば、それがしが自ら輝元の首を取りましょう。どうか本家の存続だけはお認めいただきたい」
自らの主君の首を差し出すとまで言い切る。それは武士として最も恥ずべき言葉であると同時に、毛利家への忠誠がそれほどまでに深かったことの証でもあった。広家にとって、自分の名誉や矜持(きょうじ)は二の次であった。大切なのはただ一つ、祖父・元就が築き、父・元春が守り、隆景が託した毛利の家名を、この世につなぎとめることだけであった。
家康はついに折れた。毛利家の完全な改易は撤回され、代わりに周防・長門の二か国への大幅な減封が決まった。中国地方八か国百二十万石から、わずか三十六万石余りへ。領地は四分の一以下に縮小されたが、毛利の家名は残った。
だが、さらに皮肉な結末が待っていた。家康は広家自身に対して、周防・岩国三万石を与えようとした。これは広家個人への恩賞であった。毛利本家を裏切って東軍に協力した功績に対する褒美である。
広家はこれを辞退した。自分が恩賞を受け取れば、毛利家中での立場が「裏切り者」として確定してしまう。広家はその恩賞を毛利本家に譲り、自らは毛利輝元の家臣として岩国に入ることを選んだのである。
結果として、吉川家は大名ではなく、毛利家の「陪臣」という極めて変則的な立場に置かれることになった。幕府からは大名格として扱われることもあったが、毛利本家からは正式な支藩とは認められない。この微妙な立場は、江戸時代を通じて吉川家を苦しめ続けることになる。
岩国三万石に刻んだ誇り
慶長六年(1601年)、広家は周防国岩国に入った。かつて出雲国富田十四万石を治めた男が、わずか三万石の小領に移るのである。しかし広家に悲壮感はなかった。少なくとも、表面上は。
岩国は安芸国との国境に位置する要衝であった。東からの攻撃に備える毛利領の盾となる場所に、自ら進んで身を置いたのだ。広家は城を築き、領内の開発に心血を注いだ。後に錦帯橋で知られることになる岩国の地の礎は、この時代に広家が据えたものである。
しかし、広家の内面は穏やかではなかっただろう。関ヶ原での自分の行動を、毛利家中の誰もが知っていた。輝元との関係は修復されることなく、広家は本家から冷遇され続けた。毛利家の臣下たちの中には、広家を「毛利を裏切った男」として嫌悪する者も少なくなかった。
広家はそれを甘んじて受けた。自らの行動が正しかったのか、それとも取り返しのつかない過ちだったのか。その答えは、歴史の中に漂い続ける問いである。
だが一つだけ確かなことがある。もし広家が南宮山で兵を動かしていたら、毛利家は取り潰されていた。百二十万石の大大名が消滅し、数万の家臣とその家族が路頭に迷っていた。広家の「動かない」という決断が、毛利家二百七十年の命脈を支えたのだ。
寛永二年(1625年)九月二十一日、吉川広家は岩国の地で静かに世を去った。享年六十五。その死に際して、彼が何を思っていたかを語る史料は残されていない。
ただ、広家が岩国で過ごした二十五年という歳月そのものが、一つの答えであったように思える。華々しい武功も、天下への野望も持たず、ただ一族のために汚名を背負い、小さな領地に根を張って生きた。祖父・元就が説いた「三矢の教え」を、広家は言葉ではなく、己の生き方で体現したのだ。
関ヶ原の合戦を語るとき、人々は勝者の栄光や敗者の無念を語りたがる。しかし、あの霧深い朝に南宮山の上で一人、刀を抜かずに座り続けた男の覚悟を思うとき、戦国の世の「忠義」とは何かという問いが、四百年の時を超えてなお胸に迫ってくるのである。